12・28~1・4第49回釜ヶ崎越冬闘争闘い抜かれる
  働いて飯の食える「仕組み」を

 大阪では、昨年12月28日の三角公園での突入集会から、本年1月4日の大阪府・市に対する「お礼まいり」まで、第49回釜ヶ崎越冬闘争が闘いぬかれた。
 昨年10月末には、釜ヶ崎日雇労働組合をはじめ日頃釜ヶ崎で労働者に責任をもって活動している多くの団体・個人によって、実行委員会が結成され、同志的な議論を積み重ねながら準備を進めてきた。
 12月28日の突入集会では、このかん必ず駆け付けてくれている反原発を闘う「若狭の家」の仲間、「辺野古に基地をつくらせない大阪行動」の仲間、「日本軍『慰安婦』問題・関西ネットワーク」の仲間がアピール、そしてパフォーマンスをしてくれた。また、新たに『人民新聞』の仲間も駆け付けてくれた。
 この突入集会と並行して、医療センター前での集団野営の準備が進められた。集団野営は1月4日朝まで続けられた。
 また、この日から三角公園での炊き出し、そして医療パトロールも開始された(1月3日まで)。
 29日は、「臨泊」の入所日だ。今年も行政による年齢制限を打ち破り、344名の仲間が入所できた。
 この正午までの臨泊申し込みで行政の窓口は完全に閉じられ、以降は仲間の団結がたよりの自力自闘の闘いに突入する。
 30日からは三角公園で「えっとうまつり」が始まり、初日のサプライズとして三上寛さんが出演してくれ、アンコールではあの「夢は夜開く」を披露してくれた。越冬祭りは1月3日まで連日行なわれ、楽しむことができた。
 また、「人民パトロール」もこの日から始まり、連日、梅田・灘波・天王寺などへ出撃し、殺された野宿の仲間への追悼を各地で行なうと同時に、野宿している仲間を激励し、さらには野宿者に対する襲撃・虐殺事件を風化させず、越冬闘争の意義を市民に訴えた。
 1月4日、いよいよ「お礼まいり」の日だ。国、大阪府・市がまともな就労対策を行なわない結果、今年も344名の仲間がケタオチな「臨泊」を利用せざるを得ず、また地域内では120名前後の仲間が路上で年を越さざるを得なかった。
 こうした怒りを行政にぶつけ、「安心して働き生活できる釜ヶ崎」を目指し、「働いてメシの食える新たな『しくみ』」を創り出していかなければならない。
 越冬闘争を勝利のうちに闘い抜いた仲間70名で、大阪府庁・市役所に押しかけ、要望書を提出し、2月中の回答を約束させた。
 こうして、「仲間内の団結で一人の餓死・凍死者も出さない!」を合言葉に闘い抜かれた第49回釜ヶ崎越冬闘争は終了したが、冬の寒さはこれからが本番だ。実行委に参加した団体・個人は、以降も連合・協力しながら、炊き出し・パトロールなど「仲間の生命を守り抜く」取り組みを継続する。
 こうした闘いの一方で、日頃「釜ヶ崎労働者の味方」を標榜している「文化人」の中には、まったく釜ヶ崎に顔を出さないか、人が集まるのを目当てにビラまきに来るか、それとも、野宿を強いられている労働者には見向きもせず、馴染みの店で熱く語り合うだけという傾向もある。仲間がもっとも苦しい時に共に闘わないで、「安心して背中をあずけられる」団結を作り出すことなどはできないだろう。それでは、釜ヶ崎労働者の支持と共感を得ることなどできはしない。
 2019年、釜ヶ崎にとっても「決戦の年」、越冬闘争を闘い抜いた成果を打ち固めて前進しよう。
 さて、越冬闘争の報告と併せて、悲しい報告をしなければならない。
 1月22日早朝、釜日労の山田将夫さんが亡くなった。享年69歳、脳梗塞であった。
 山田さんは自衛隊出身で、2000年ごろ釜にたどり着き、以降釜日労のメンバーとして、「学生運動あがり」「土方あがり」とは違うキャラで活動してきた。バス『勝利号』を出せない闘争にも、すすんで「代表派遣」として参加し、三里塚、沖縄、反原発と全国を走り回っていた。近年は、キューバなど外国にも出かけていた。
 12月に体調をくずして入院し、正月明け一旦は快方に向かい、面会もできて、「三里塚の旗開きには無理でも、連帯する会の旗開きには出たい」と語っていたようだが、急変し、22日早朝に旅立った。山田さん追悼、そして忘れない。(釜ヶ崎S)

  釜講座「新春・釜歩きツアー」

 市民と釜ヶ崎を結ぶ大衆団体「釜ヶ崎講座」は、今越冬闘争の時期に合わせた諸企画を行なった。
 年末30日には、「講座連帯行動デー」として野営体制、人民パトロール開始の中にあって、これら越冬闘争実行委員会の諸行動に合流した。
 新春2019年1月3日には、恒例となった「釜歩きツアー」。集まった20名は、水野阿修羅氏の先導・案内で、「労働センター仮移転」の動きの中で「街の変化」を読み取る。「星野リゾートホテル建設予定地」や「旧馬淵生活館跡地」を巡り歩く中、外国人旅行客・長期滞在者向けの宿泊施設あるいは就労案内窓口も具備された施設ができているのを見て取る。そういった中で多文化共生の街へと変わっていく可能性を、水野氏は語った。
 ツアー後の感想会では参加者の質問に応対する形で、水野氏はこうも述べた。「外国から来る人々、また行き場を求めてたどり着く多種多様なしがらみを抱える人々、釜ヶ崎の街と労働者がこうした人々を排除せず、共生していくことが、本来の街の活性化を生み出し、孤立と絶望を寄せ付けない道になるのではないか」と。
 「就労を軸として労働者・住民が安心して暮せる町づくり」、そうした意味合いが次第しだいに腑に落ちて感ずる今ツアーであった。(講座会員I)


寄せ場を結び社会運動の前進を
1・14山谷集会

  日雇全協先頭に

 1月14日、東京・山谷の玉姫公園で、「佐藤さん・山岡さん虐殺弾劾・追悼!寄せ場を結び社会運動の前進を闘う山谷集会」が午前10時から開催され、労働者・市民約150名が結集した。
 集会基調が、司会の山谷争議団の仲間から、次のように提起された。佐藤さん、山岡さんは何ゆえに虐殺されたのか。1980年代に日本の帝国主義・独占資本が戦争できる国づくりを開始し、それに対し日雇全協が結成されて、寄せ場を反戦と階級闘争の最前線へと再建する闘いが対峙した。その闘いへの攻撃として、天皇制右翼による虐殺が凶行されたのである。今日まで、日雇全協は最前線で闘ってきた。今日の闘いも、その新たな出発点であると。
 続いて各団体の挨拶では、たんぽぽ舎、外国人労働者支援労組、被曝労働を考える連絡会議、争議団連絡会議、反天皇制運動連絡会、沖縄一坪反戦地主会関東ブロック、差別排外主義に反対する連絡会議、渋谷越冬実行委などなどが各々の闘いをアピールした。
 最後に、日雇全協各支部の決意表明に移り、釜日労・越冬実、名古屋越冬実、寿日労、山谷争議団が発言した。釜日労代表発言では、大阪府による西成再開発という名の釜ヶ崎解体攻撃に対して、寄せ場を拠点として社会的戦線の要となり、また階級的労働運動の出撃拠点として先頭で闘うことが表明された。
 集会後、恒例のワッショイ・デモンストレーション。山谷通りから清川と一巡して、新年の闘いの気勢が上げられた。(東京Y通信員)


三里塚、関西で三里塚闘争「旗開き」
  空港機能拡大に戦略対峙

 1月13日、三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人・柳川秀夫)が、千葉県芝山町の横堀農業研修センターで「2019年反対同盟旗開き」を行ない、40名が参加した。
 司会の山崎宏さん(横堀現闘)が現地情勢を説明した後、柳川秀夫さんが次のように訴えた。「去年は、共有地の法人化ということで『一般社団法人三里塚大地共有運動の会』を立ち上げた。1966年から一坪共有地運動が始まり、空港建設を阻む実力闘争の一環として取り組んできた。空港の巨大化は、地球温暖化と深く関わっている。最近の天候の変化が激しい。かなり毎年、危機的状況を繰り返している。発展というのが物を消費し、増やしていくという考え方だ。格安飛行機が飛び、外国から人々がたくさん来るというのが本当の発展なのか。金儲けのことしか考えていない。三里塚闘争を通して、次の新しい世界を創り出していこう」。
 石井紀子さん(川上地区)は、「安倍首相がテレビに出てくるたびに消したくなる。ほんとにあの人の暴走を止めないとダメだ。今日は食べることについて話したい。何を食べるかということは、自分がどのように生きていくのかの選択だ。生命と活動を維持するために食べる。野菜たちのたくましい生命力を見るたびに、この命をもらっていかなければ、と思う。ワンパック野菜が去年から、子ども食堂のお手伝いをするようになった。孤食が話題となり、子どもへと拡がっている。しかし子どもたちが育ち、礎となる。野菜が皆さんの力になるように日々働いている。真剣にいいものを食べてください。今年も頑張りましょう」と述べた。
 平野靖識さん(らっきょう工場・東峰地区)は、昨年の東峰での火災について報告した
後、「去年はいいこともあった。三里塚物産の代表を退き、大森武徳君が新しい代表になった。これまでの闘いを引き継いでくれる人だ。大量生産・大量消費を見直していこうという地球的課題の実験村を取り組んでおり、木の根ペンションも使っている。一坪共有地の法人化によって態勢が強化され、長く闘っていくための戦略的対峙の状況にある。今年もよろしくお願いします」と挨拶した。
 加瀬勉さん(元三里塚大地共有委員会代表)は、「三里塚の弾圧手法を今、沖縄で使っている。三里塚闘争と沖縄基地反対闘争は、運命共同体だ。革命的警戒心と緊張感を持って闘っていこう」と決意を表明した。
 その後、清井礼司弁護士、高見圭司さん(スペース21)、日米安保終了を通告する会、渡邊充春さん(関西三里塚闘争に連帯する会、関西三里塚相談会)、一般社団法人三里塚大地共有運動の会、田んぼくらぶ、等から発言があった。最後に「団結ガンバロー」で、本年の闘いの団結を打ち固めた。
 旗開き終了後、「三里塚空港に反対する連絡会」の呼びかけで、旧東峰共同出荷場に移動し、開拓道路に向けてのデモが行われた。成田空港滑走路に向けて、「飛行制限時間緩和を許さない!『第3滑走路』計画を撤回せよ!」とシュプレヒコールを行なった。
 また、関西地方では1月26日、尼崎市にて「社団法人結成報告集会」と旗開きが、関西三里塚闘争に連帯する会・三里塚相談会によって行なわれ、30名が参加した。
 政府・国土交通省、成田国際空港会社は、2030年度までの「第3滑走路」の建設と、東京五輪を口実とした飛行時間の延長など、空港公害と環境破壊を拡大する空港機能拡大計画を明らかにしている。また昨年8月30日には、B滑走路を北側に延長するための、地盤調査ボーリング工事を着工した。これらを許さず、本年度も闘いを強化していこう。(S)