明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期⑤

関東かく乱を農兵と藩兵が鎮圧                         
                           堀込 純一
 

      Ⅱ 幕末・維新期の農民闘争の独自性

  (ⅲ)江戸薩摩藩邸を拠点とする草莽隊のかく乱活動

 1867(慶応3)年秋は、いよいよ討幕の動きが煮詰まりだす。9月18日には、薩長芸の3藩が討幕を約し、10月13日には薩摩藩へ、14日には長州藩へ討幕の密勅が下る。他方、幕府側は土佐藩の「大政奉還」の建白を受け、徳川慶喜が10月14日、ついに「大政を奉還」する。討幕運動の口実をなくすためである。
 同じ頃、小島四郎(相楽総三)たちは、薩摩藩と結びついて尊攘運動の活路を開こうとしていた。「西郷・大久保それに岩倉具視を交えての謀議の結果、浪士を江戸に派遣し、江戸・関東を攪乱(かくらん)して討幕運動に活路を見出そうとする計画がそれである。そして、この関東攪乱の首謀者に小島四郎が最終的に選ばれた」(高木俊輔著『明治維新草莽運動史』P.180)のである。小島四郎(相楽総三)と伊牟田尚平・益満休之助が、江戸芝三田の薩摩藩邸に着いたのは、1867(慶応3)年の10月上旬である。
 薩摩藩は徳川家の存続を許さず、どうにかして武力討幕のキッカケを作り出そうとしていた。その一つが、相楽総三ら関東の草莽隊を利用した江戸・関東かく乱活動である。
 1867年10月10日、薩摩藩邸において浪士隊の決起大会が行なわれた。ここで、浪士隊の中核となる人選が行なわれ、総裁には相楽総三が、副総裁には落合直亮(なおあき *本名、源一郎)がなった。幹部十数名がそろうのは11月半ば過ぎであった。浪士隊幹部には、薩摩武士は全く顔を出さず、ほとんどが関東武士である。
 浪士隊の活動については、後年、副総裁の落合が語った「一方に野州(*栃木県)、一方に甲州(*山梨県)、又その一方に相州(*相模―神奈川県)と、各所に事を起こし、徳川幕府の力を分散させ、江戸が薄弱になるのを待ち、一挙に江戸を襲う、こういう方策でした。」(長谷川伸著『相楽総三とその同志』―『長谷川伸全集』第七巻 朝日新聞社 1868年)という談話がある。
 江戸の郊外でかく乱活動を展開することにより、幕府の江戸警備を分散させることが当面の目標だったのである(本項は、高木俊輔著『維新史の再発掘』、『明治維新草莽運動史』による)。3つの方面の隊長は、以下の者である。
 野州出流山挙兵組―隊長 竹内啓(40歳)
 甲府城攻略組―隊長 上田修理(47歳)
 相州荻野山中陣屋襲撃組―鯉渕四郎(28歳)

〈出流山挙兵組の敗北〉
 3隊の活動を具体的に言うと、まず第一の竹内隊は、野州都賀(つが)郡の出流山(いずるさん)で挙兵し、佐幕勢力が東北地方から江戸に入る道を分断する。第二の上田隊は甲府城(*舞鶴城)を攻め取って、同じく甲州街道から江戸に入る道をおさえる。第三の鯉淵隊は、相模国愛甲郡萩野陣屋(神奈川県厚木市内)を襲って東海道筋に圧力をかける―というものである。
 竹内隊は、当初、11人くらいで出流山(いずるさん *現・栃木市)を目指すが、それは薩摩藩主夫人の帰国を前にした出流山千手観音への代参を装ったものである。しかし、「野州派遣隊といいながら薩邸を出る時から彼らは、野州出流山を中心にして他に三つの挙兵を計画していた。その一つは野州芳賀郡七井村出身の岩松播磨正(栄江〔よしえ〕)と野州安蘇郡小中村出身の赤尾清三郎の二人を中心として、勝手の知れた真岡町で、一つは上州出身で相楽総三とは文久年間から共に新田満次郎擁立を画策してきた同志金井之恭が、同じく上州佐位郡木島村出身で新田義貞の家臣の末孫と称する高橋亘(わたる)らと再び上州赤城山で、もう一つは薩摩藩を脱藩して尊攘活動をしてきた志士会沢元輔と信州高遠藩を脱藩して浪士隊に加わった不破貫一郎(一説に薩摩脱藩士ともいう)らが、常陸の土浦に拠って挙兵しようと」(高木俊輔著『維新史の再発掘』P.88~89)としていたと、言われる。
 しかし、これらの計画はずさんなものであったようで、早々に崩れてしまい、それぞれが募った同志たちとともに出流山に向かう。これらの同志たちの数は、記録によってまちまちであるが、高木俊輔氏によると「十一月二十九日からおよそ十日間の間に、少なくとも百五十人、多くみれば三百人に及んだ」(同前 P.97)と言われる。
 しかし、仲間の数が増えると直ちに直面する問題は、食糧の問題である。出流山挙兵組は、水戸天狗党が筑波に挙兵した(1864年3月27日)さいの資金調達をめぐるトラブル(これが致命的原因となって民衆から恨まれた)を反面教師として、農民たちに恐怖を与えないようにと、細心の注意をはらってきた。
 そこで幹部たちは何回かの会合の末、足利藩支配の栃木陣屋に目をつけ、この陣屋から軍資金を募ることとして、高橋亘ら5人を派遣した。しかし、栃木陣屋は警戒し高橋らと面会もしないで、また近くの真岡の幕府代官に救援を要請した。そして、この地域の農兵隊もまた武装して結集しはじめる。
 出流山挙兵組の本部(在鍋山村)では、栃木陣屋での「交渉」がよくないとみて西山謙之助ら8人を応援に向かわせる。しかし、幕府・栃木陣屋の攻撃態勢はすでに整い、関八州取締役渋谷和四郎の農兵隊の銃火によって、応援の西山ら6人が戦死する。脱出できたのは、土地の利に詳しい大谷千乗坊(国定忠治の子)だけであった。次いで栃木の旅籠(はたご)押田屋にいた高橋らも攻撃され3人が戦死した。高橋と山本鼎はかろうじて脱出できた。
 出流山の草莽隊は、栃木の戦闘を聞き、出流山まで攻撃されるのはマズイとして、拠点を南方の唐沢山へと移動を開始した。しかし、すでに幕藩側は正確な情報の下に、関八州取締出役の指揮下の農兵隊800人や足利藩・館林藩・宇都宮藩・古河藩・壬生藩・伊勢崎藩など計1200人ほどが出流山を遠巻きに包囲していた。草莽隊は出流山に囮(おとり)としてわずか11人ほどの決死隊を残し、本隊は唐沢山方面に脱出をはかった。しかし、決死隊は全員玉砕し、本隊も農兵隊の待ち伏せに会い、小銃によって次々と倒された。かろうじて江戸に逃げ帰った者は、わずか20名ほどでしかなかった、といわれる。戦闘で倒されたもの以外で生け捕りになった者は、佐野の獄につながれたが、12月15日と18日にわけて、佐野川原で死刑に処せられた。戦死者と死刑者を合せると、約100人になるといわれる。
 出流山挙兵は、草莽隊の完璧な敗北であるが、挙兵には北は陸奥から南は薩摩に至るまで、全国各地の浪士が参加している。とりわけ多かったのは地元の野州や上州の草莽の士(農民も含む)であった(全体の7割強)。脱藩者でも他国から野州に住みつき、寺子屋や私塾を開いて根付きつつあった者もいた。このことが、豪農や貧農を含め地元からの参加者を増やした大きな要因となった。
 だが高木氏によると、「出流山挙兵隊はその内部に諸々の階層を含み相互に対立・矛盾関係を内包していたが、尊攘挙兵の行動様式の中には、一般農民層の世直しへの願望も投影されていたということができる。ただ出流山挙兵隊の場合は、世直し層が分離して出て叛乱を起こすという経過をたどらないうちに幕府の力によって壊滅させられてしまう」(同著『明治維新草莽運動史』P.202)のであった。

〈甲府城攻略組の失敗〉
 上田修理を隊長とする甲府城攻略組は、1867(慶応3)年12月15日に、薩摩藩邸を出発した。総勢は約10人で、うち4人が甲府勤番士かその縁故者であり、現地の様子はよく心得ていたものと思われる。また、甲州八代郡黒駒の神主武藤藤太の手引きで武神主(ぶかんぬし *武士的な神主)らの加勢をもって甲府城を乗っ取る計画であった。
 しかし、隊中に潜入していた会津のスパイからの通報が八王子千人同心1)の隊長にあり、攻略組は最初の宿である八王子で、武蔵国多摩郡駒木野村近辺の農兵に襲われる。隊長の上田修理は負傷しながらも脱出できたが、約半分のメンバーが犠牲となった。攻略組の計画は、完全に失敗した。

〈荻野山中陣屋襲撃組のヒットエンドラン〉
 同じく12月15日夜に出発した相州愛甲郡厚木に向かった鯉淵(こいぶち)四郎を隊長とする荻野山中陣屋襲撃隊は、付近の博徒も加わって総勢37~38人で、陣屋に軍資金を要求した。陣屋側がそれを断ると、予定の行動とばかりに襲撃隊はすぐに陣屋に火をつけ、武器や武具を奪い、倉庫の米などを奪い取った。米は、この地で徴発した人夫などに分け与えた。翌16日には、人夫を含めて300人近い数となり、付近の村役人・豪農に命じて軍資金を出させ、荻野陣屋の本藩にあたる小田原、さらに横浜にまで打ち出る予定を村々に触れ出している。
 そして、この間に浪士達は、「この地方の村役人に命じて、村方困窮人の名前を書き出させ、施与(せよ)活動に入っていた。いま知りうるだけでも、及川村困窮人十二人に米三俵と金三両、千頭村困窮人十二人に米二俵半と金三両三分、下荻野村困窮人計四十六人に米十二俵と金二十両三分、というように米金を村役人に渡して、困窮人に施与するように命じていた。」(高木俊輔著『幕末の志士』中公新書 1976年 P148)と言われる。
 これは、貧民救済という形で民衆反乱を引起そうという狙いであるが、その目的は徳川幕藩体制をかく乱することにある点には変わりない。
 しかし、小田原近くの酒匂(さかわ)川まで来ると小田原藩が出兵したという情報をつかみ、すぐに八王子に引き返し、18日夜明けには薩摩藩邸に戻っている。この襲撃隊の犠牲者は死者1名、重傷者2名だけですんだ。まさに、ヒットエンドランである。

〈江戸市中でのかく乱活動〉
 その後の薩摩藩邸浪士隊の活動は、辻斬り・強盗・放火などのテロを含めた「恐怖政治」であった。ただ、浪士隊にはそれなりの基準があったようである。それは、攻撃対象を、①幕府を佐(たす)ける者(幕府御用達商人)、②浪士の活動を妨げる者(浪士取締りに当たった庄内藩とその指揮下の新徴組・新整組、幕府別手組など)、③「唐物商法」(横浜貿易商人)をする者―である。
 12月20日を過ぎると、浪士による庄内藩や新徴組に対する小銃発砲事件が続発し、23日には、ついに江戸城二の丸が焼失した(薩摩藩の伊牟田尚平の放火によるものと言われる)。また、同夜には、関東八州取締出役2)の渋谷・木村の屋敷も襲撃され、家族も殺傷されている。
 ここに至り、幕府側も浪士討伐を強行し、12月25日未明、庄内藩は薩摩藩邸を焼き打ちする挙にでる。薩摩藩の当初の狙い通り、討幕の口実を引き出すための挑発は、「成功」するのであった。当日、薩摩藩邸にいた浪士たちは200名ほどであったと思われるが、討ち死・捕縛された者は10名近くであった。相楽の指令で再度の結集を期して、多くは脱出したのであった。相楽ら幹部の多くは、品川沖に停泊の薩摩藩翔鳳丸に乗って西上した。(つづく)

注1)江戸時代、武蔵国多摩郡八王子に住む千人頭を中心に、周辺の農村に土着した在郷武士の集団をいう。1590年に徳川家康が関東に入部したのを契機に、代官頭・大久保長安のもとで甲斐武田氏の遺臣の小人頭(こびとがしら)9人を中核に構成された。当初、同心は250人であったが、1600年には、1組100人ずつ10組、計1000人に拡充され、千人頭のもとに統率された。その任務は、甲斐国境の警備と治安維持であり、江戸防衛にあたった。
2) 関東は小規模の旗本領が多く、武蔵国では500石以下の旗本領が7割近くもあった。さらに、幕府領・大名領・旗本領・寺社領が複雑に入り組んでいた。農民層分解が進行し、貨幣経済が発展する下で、幕府は1805(文化2)年に関東取締出役(通称「八州廻り」)を設置する。それは、「無宿・ばくち打ち」を取締り、治安を維持する事を名目に、同意があれば領主領域を越えて、警察権を行使できるものとした。だが、1827(文化10)年、改革取締組合を設ける。それは、3~6村ほどで小組合を組織し、その小組合を10前後集めて大組合を組織し、組合村の単位とした。これは、関東取締出役の不備を補うもので、①警察支配の強化、②村内訴訟の処理、③商家・商人への経済統制、④若者教育など封建意識の再建などである。農兵隊は、この組合村を基礎につくられた。