明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期③

 慶応2年は江戸期最大の民衆闘争
                          堀込 純一


Ⅱ幕末・維新期の農民闘争の独自性


 (1)農民闘争と隔絶する尊王攘夷運動

     (ⅱ)物価高騰に凶作重なり民衆の大規模決起

 1865(慶応元)年5月12日、幕府は「第二次長州征伐」を決定した。再征の理由は、「長州藩において、容易ならざる企てがある」という極めて漠然としたものである。将軍家茂は5月16日に江戸を出発し、閏5月に入京して参内した。この時は、やや具体的となり、「長州藩が一度服罪したのに、その後激徒が再発に及んで、それのみならず外国へ渡って、大砲・小銃などを仕入れ、そのうえ密貿易の疑いもある」と述べている。しかし、天下の大軍を動かすにたる大義名分とはなっていない。
 閏5月25日、将軍は大坂城に入り、ここを大本営とした。幕府中枢は、第一次幕朝戦争では将軍が進発しないでも長州が屈服したので、今回も、将軍が大坂まで出馬すれば容易に降伏するだろうと、甘い観測しかもっていなかった。だが、長州藩は屈する気配もみせず時間が経過するばかりであった。そこで、将軍は9月に入って再び入京した。勅許を得るためである。勅許を得ることにより、一つは長州藩の降伏を促し、もう一つは、味方内部に広がる「長州再征反対」の声を封じることを狙ったのである。
 実際、反対の声は、尾張・越前・紀州・備前・因州・芸州・阿波・肥後・筑前などの雄藩においては、いずれも「再征」に賛成ではなかったのである。それは、「再征」の大義名分が極めて弱いこと、兵を動かすことはたくさんの経費がかかり大迷惑だったからである。1866(慶応2)年1月には、いわゆる「薩長同盟」も成立するようになる。しかし、幕中枢はすでに情勢を的確につかみ、事態を認識することができなくなっていた。
 1866(慶応2)年という年は、第二次幕長戦争や開港後の物不足で諸物価が高騰し、それに凶作が重なり、百姓一揆や打ちこわしが全国で激しく展開された。その件数は、青木虹二著『百姓一揆総合年表』によると、一揆106件、打ちこわし(都市騒擾)35件、村方騒動44件の計185件にのぼる。それは、江戸期を通じて最高の件数である。以下は、その代表的事例を示したものである。

大坂―米の安売り要求から打ちこわし
 諸大名が迷惑する戦争準備は、庶民にとってはそれ以上の大迷惑である。幕府軍は、次々と大坂に終結し、一年間にわたって大坂市中は、多くの軍勢の世話と人足負担を強制されのである。幕府や諸藩は、戦争に備えて大量の米を買い付け、さらにこれを商機とみて米商人が大量の買占めをおこなったため、大坂はもちろんのこと江戸でも米不足が深刻となり、米価は急騰した。
 大坂で米1石あたり、1863(文久3)年末169匁(100.0)が、1864(元治元)年末229匁(135.5)、1865(慶応元)年6月412匁(243.8)、1866(慶応2)年4月700匁(414.2)、同年6月末には1貫目(591.7)を突破している。
 米価急騰に対して、職人たちの手間賃引上げの動きが強まる。だが、職人・日雇い・奉公人らの賃金増も米価高騰に追い付かず、実質賃金は低下し、彼等の生活はますます困窮したのであった。しかも、幕府は大坂の豪商に252万5000両という莫大な御用金を献納させたため、豪商たちはすべての普請を中止した。このため、大工・佐官・畳職人・家具職人などや日雇いたちは、失業状態に落とされた。仕事がなくなり、収入がなくなり、人々は「物貰い」に頼らざるを得なくなって行く。
 1866(慶応2)年5月1日夜、摂津国武庫(むこ)郡に下宮町(西宮市)の貧家の女性14~15人が米屋に米の安売りを頼んで廻った。それが3日には、男女2000人ほどにふくれ上がり、米屋に押しかけた時に、数人が武士に斬られた。それでも米の安売り要求の動きは神戸などにも波及し、8日夜には兵庫津(神戸市)で打ちこわしが始まる。10日には、摂津国豊島(てしま)郡池田村(池田市)でも打ちこわしとなる。打ちこわしの波は大坂にも迫り、13日には市中全域で安売りを拒否した米屋や高利貸しが軒並み破壊された。
 大坂では市中巡りの諸藩の軍勢がいたが、打ちこわしに参加する人々の規模が余りにも大きいので、迅速に鎮圧することもできなかった。高遠藩(信州)が、廻り場所としていた難波辺へ鎮圧兵をくりだしたところ、打ちこわし勢は竹槍で抵抗した。そして、召捕られた者たちは、打ちこわしの張本人はほかでもない「御城の内に御出(おいで)これあり」と叫んだという。張本人は将軍家茂だ―という有名なエピソードである。
 大坂市中で被害を受けた米屋は366町(町数の6割弱)で885軒にのぼった。打ちこわし参加者は、搗米屋(つきこめや)・酒屋・絞油屋などで働く日雇い労働者が中心であった―といわれる。

江戸―2度にわたる打ちこわし
 5月下旬になると、打ちこわしは江戸にも波及する。5月28日夜、品川で約100人の者が、質屋・米屋・酒屋・旅籠(はたご)など40軒あまりを襲撃した。翌29日には、芝一帯の商家80軒あまりが打ちこわされる。以後、6月6日ころまで、赤坂・牛込・神田・本所などを中心に江戸全域で打ちこわしが広がった。
 打ちこわしを行なったのは、生活に困った裏店借(うらだなかり)の人々で、米屋などだけでなく、貿易商人も狙われた。
 それでも5~6月の米価が100文に付き1合5勺であったのが、9月になると再び高騰し1合1勺となっている。
 幕府は、100文に付き2合5勺という市価の半値で、町会所の囲米(備荒米)の安売りを9月8日より実施しようとした。その際、幕府は困窮人37万余人を「上中下」に区分し、7・8万人の「下」を除く29万余人の「上」「中」の困窮人を安売りの対象からはずした。幕府は困窮者でも、鍋釜や建具を少しでも持っていれば、安売りの対象からはずしたのである。幕府は、現実の窮迫を「解決」する能力をすでに失っていたのである。
 人々は、町単位で結集し、炊き出しをするなど、みずから生活防衛に立ち上るとともに、町奉行へ施金と米の安売りを嘆願し、それは「群蚊(うんか)」のごとき有様であったと言われる。
 第二次「長州征伐」は、将軍家茂が7月20日に大坂城で死に中止となった。9月5日から23日にかけて、家茂の法要が営まれたが、その最中の12日頃から21日にかけて、この年、2度目の打ちこわしが行なわれた。人々は9月18日には、第二次幕長戦争の主戦派である勘定奉行・小栗上野介(こうずけのすけ)への打ちこわしを呼びかけ、また、物価高騰の張本人として米国公使に対して(郊外見物の帰り)、人々は上野付近で激しく投石している。
 事態はもはや国内問題に止まらず、外交問題にまで発展した。英国公使パークスは、民衆の排外感情がイギリスに向けられることを恐れ、幕府に対して外米の輸入を勧告した。「幕府は、十月十三日、外国人より外米の買入れ・売捌(うりさば)きの自由の触れを出し、横浜へ五〇万ピクル(五〇万俵)、長崎へ三三万五千ピクル、凾館へ三万五千ピクルの外米を輸入した。米不足の問題は、国内市場だけでは解決できなかった」(落合延孝著「世直し」―『一揆』2 東大出版会 1981年 P.292)のである。
 第二次幕長戦争は、幕府側の完敗であり、将軍家茂が7月20日に死去することで終わり、8月21日に長州征討停止の勅命となる。幕府中枢は、体制自身をゆるがす事態をもたらした「第二次長州征伐」なるものが雄藩の反対意見をも抑えて強行した。そこには幕府崩壊をもたらす政治判断をもできない、無能力性が露呈している。


武州世直し一揆は数万以上の規模
 農村でも、一揆・打ちこわしが広がる。中でも1866(慶応2)年6月の北関東の一揆のうち、「武州世直し一揆」は武蔵国秩父郡名栗(なぐり)・吾野(あがの)〔ともに埼玉県入間郡〕などの農民が蜂起し、武蔵14郡・上野2郡に拡大し、豪商・豪農450軒を打ちこわした。その規模は、数万とも10万以上とも言われる。
 6月13日未明、名栗村の子の権現に集った農民は、手に手に鉈(なた)や鎌を持って、「平等世直し将軍」「日本窮民為救」と書いた旗をかかげて行進し、夕方には飯能付近の名栗川原に行き、翌14日、飯能(はんのう)宿の穀屋、質屋などの豪商を皮切りに打ちこわしていく。
 『図説 日本の百姓一揆』(民衆社 1999年)によると、一揆勢は、同時多発的に、3つの指向性をもったといわれる。第一は、「西から東への動き」で、飯能宿を打ちこわした後、同日(14日)中に扇町屋(入間市)・所沢方向に進む。所沢では、田無・引又(志木市)・川越方面に分岐する。引又方面に向かった一隊は与野(浦和市)方面へ進撃し、中仙道を占拠し、一揆を拡大しようとしたが、17日に幕府・諸藩の兵によって阻止される。
 第二は、「西から南への動き」で、成木谷(青梅市)からの一揆勢は、15日に青梅宿を打ちこわしたのち分岐し、拝島から八王子方面に向かう。この部隊は16日に、多摩川沿岸で阻止されるが、横浜方面を目指した。
 第三は、「西から北への動き」で、関東山麓の養蚕地帯を北上した。14日、吾野谷から坂戸方面へ向かい分岐し、毛呂本郷(もろほんごう)・生越(おごせ)・玉川・小川・寄居方面を打ちこわした。寄居からは分岐し、本荘・八幡山・藤岡方面から岩鼻代官所(高崎市岩鼻町。関東郡代下)の襲撃に向かうが18日に阻止される。寄居で分岐した一隊は、本野上(秩父郡長瀞〔ながとろ〕)・秩父大宮・下吉田・小鹿野(おがの)方面を攻撃するが、19日に阻止され壊滅する。
 一揆勢の要求は、①米価の値下げ、②施米・施金の要求、③質物・質地の返還要求、④横浜貿易の停止要求などであり、これに応じない豪商・豪農などが打ち壊された。一揆の標的となった者は、高利貸し・外国貿易商・穀物買占め人、高利質屋などである。
 しかし、「一揆勢は『打毀(うちこわ)しいたし候ても、食物の外(ほか)金銀銭は勿論(もちろん)その外の品(しな)等決して奪取るまじく、もし相背(あいそむ)き候ものは仲間内にて斬首いたすべく』といった厳しい統制の下に行動したので、待ちうける婦女子からは『打毀し様にて悪徒にあらず』と歓迎された」(『日本騒動辞典』叢文社 1989年 P.216 佐野操氏執筆)と言われる。
 一揆の拡大は、目覚ましいものがあった。だが、幕藩権力により、つぎつぎと鎮圧されていく。「……多摩郡田無方面に向かった一団は、幕府の代官江川太郎左衛門の指揮する農兵隊1)に鎮圧され、他の一手は引又で高崎藩大和田陣屋の手勢に攻撃されている。/青梅から箱根ヶ崎、福生、拝嶋を経由して八王子、日野に向かった一手は、八王子・日野各農兵隊に鎮圧されている。/一方吾野谷から蜂起した農民は坂戸で二手に分かれ、一手は熊谷、川嶋領を目指して鎮圧され、毛呂山・小川を経て寄居で三手に分かれた一手も胄山で根岸家の手勢と衝突、鎮圧されている。/利根川べりで岩鼻代官所に鎮圧された一団もある。他には秩父盆地を四日間にわたって席巻し、大宮(おおみや)郷の忍(おし)藩秩父陣屋を襲撃した一団は、大宮郷農民の自衛勢力によって取りおさえられた。一揆はこのようにして、勃発から一週間の後、幕府の大砲、鉄砲を駆使しての洋式砲術や自衛勢力の長脇差、槍術の前に鎮圧されていった。」「慶応三年(一八六七)八月、幕府は、秩父郡名栗村の百姓紋次郎、豊五郎の両名を一揆発端人として処刑し、十一月には、評定所において、多摩地方の参加者の相当数を処分して事件を終結させた。」(同前 P.216~17)のであった。(つづく)

注1)兵農分離制は、日本独特のもので、近世封建制の固有の制度である。江戸時代、武士を都市に集住させ、大名の参勤交代制を組織化した。しかし、幕末になると、支配秩序のゆるみから、農民を農兵として組織化し、幕藩領主の武装力を補うようになった。農兵隊は、当初、異国船の日本近辺での航行が増加した関係で、主に海防を任務とすることが構想された。しかし、後には治安維持が主要な任務となった。幕府領で設置されたのは、1863(文久3)年10月であり、関東においてであった。農兵は、次第に村役人・地主・豪農の子弟の壮健者のみによって構成され、小前(零細農)は排除されるようになった。その後、諸藩でもつくられるようになる。