明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期②

農民らと結合しなかった尊攘運動
                      堀込 純一

Ⅱ 幕末・維新期の農民闘争の独自性

  (1) 農民闘争と隔絶する尊攘運動

 幕末維新期の政治過程は、尊王攘夷(尊攘)運動・討幕戦に並行して、農民一揆や都市での打ちこわしなどの「世直し」運動が激しく展開されている。しかし、結論的にいうと、この2つの運動は結局、結合しなかった。つまり、徳川幕府を打倒した明治維新は、民衆運動から遊離した権力闘争でしかなかった。この権力闘争を決着づけたのは戊辰戦争であるが、それは薩長を中心とする勤皇方の諸藩グループなどと、それに反対・抵抗する諸藩グループなどとの戦争であった。      
 以下、幕末・維新期の農民などの人民闘争と、幕府ないしは維新政府との関係を検討する。そのことによって、幕府も維新政府もともに農民闘争に敵対する姿勢・態度をとっていることが明らかになる。

    (ⅰ)幕末関東の尊攘運動

 在野の尊王攘夷派の志士は、しばしば草莽とも言われる。「草莽(そうもう)」とは、草むら・藪(やぶ)の意から転じて、仕官しないで民間にある者を指すようになった。だが、高木俊輔氏によると、「もともと草莽は、諸侯やその体制に『臣』として忠誠を誓う在野の協力者であり、体制の危機に際してはなによりも忠誠に出た行動を期待されていた。けっして権力を志向してはならず、政治的活動ののちには再び野(や)に戻るべき人とされた。」(『日本史大辞典』平凡社)のである。
 日本において、草莽と自己規定した政治的発言者が登場するようになったのは、幕藩体制のほころびが顕著となった18世紀後半からである。それは、幕府の政治に対する発言ルートが無い中で、しだいに尊王論と結びついた主張内容となる。19世紀には、危機意識の広がりによって、地方の農村に住む豪農層にも草莽意識が浸透するようになる。そして、幕末の対外関係の不安定さから尊王攘夷運動と結びつくこととなる。

        〈関東草莽のリーダーたち〉
 関東草莽の尊攘運動の中でもリーダー格として活躍したのが、大橋訥菴(庵)(とつあん)、桃井可堂、尾高藍香(らんこう)らである。
 大橋訥庵(順蔵)は、1816(文化13)年に、長沼流の兵学者・清水赤城の四男として、江戸飯田町に生まれた。20歳の時、大儒として知られた佐藤一斎の愛日楼塾に入門したが、同門には佐久間象山、山田方谷などがいた。訥庵は26歳(1841年)の時、佐藤一斎の熱心なすすめによって、当時、宇都宮に本店を持ち、江戸日本橋元浜町に佐野屋と号す呉服商を営む巨商・大橋淡雅の長女巻子と結婚し、大橋家を継ぐことになった。淡雅には実子・教中(のりなか *巻子の弟)がいたが、これには佐野屋菊池家を継がせた。
 訥庵は結婚を機に、日本橋に思誠塾を開き、そこには九州から東北にいたる各地からの門人が集まった。また、訥庵は養父淡雅が宇都宮藩の財政支援に功があった関係で、藩から熱心な招聘(しょうへい)を受け、ついに1850(嘉永3)年、同藩の江戸藩邸に月一回参上し、経書を講義することとなり、宇都宮藩の士籍に列した。この関係で、宇都宮藩の重役以下の諸役人には、訥庵の弟子が少なくなかった。
 訥庵は熱烈な尊攘主義者であり、1853(嘉永6)年ペリーの来航などによって「開国」されて以降、物価の高騰、貧民の困窮、列藩の疲弊が進行し、“幕府は10年のうちには滅亡するだろう”と予言した。そして、訥庵は水戸藩士と交流を続ける中で、幕府の悪政を糺(ただ)そうと決意を固める。
 1861(文久元)年10月、訥庵の門人で長州藩士の多賀谷勇が、武州の郷士・尾高長七郎と相談して、日光輪王寺宮を奉じて日光もしくは筑波山に拠り、義軍をつのって攘夷の先鋒になろうという計画をたてた。これには菊池教中も賛同し、当時藩の要請もあって開墾していた新田の農民を動員することを計画する。また教中は、多賀谷と尾高を訥庵のもとへ送り、援助を請わせた。訥庵は、彼らの計画が具体性を欠いていたため危ぶんだが、30人の同志を必ず集めるようにと言って、30両の旅費を与えた。日光宮擁立運動は、10月下旬から11月初旬にかけて展開されたが、結局、集まった同志は20人足らずで、訥庵は解散を命じた。水戸藩からは、ほとんど参加者はいなかった。「挙兵」を狙う訥庵側と、「斬奸」を狙う水戸側との齟齬(そご)があったためである。
 1862(文久2)年1月15日、「坂下門外の変」が起こる。だが、長州と水戸の破約盟約が崩れ、結局、襲撃は水戸浪士など6人が敢行した。暗殺参加者は全員斬殺された。そして、事件後には逮捕者7人がでたが、これはほとんどが訥庵の門人である。
 訥庵自身も別の件で幕府に捕らえられ入獄する。別の件とは、宇都宮藩士の岡田真吾と松本?太郎が、一橋慶喜を擁して日光山に拠り、激を飛ばして、攘夷の先鋒となって幕政を改革しようと計画し、これに訥庵も関係したことである。1862(文久2)年1月8日、訥庵はこの計画を、かつての門人である山本繁三郎(慶喜の近侍)に持ち込み、慶喜へ取り次ぐように依頼したのである。山本は一旦は内諾したものの、事の重大さに怖れ、老中久世大和守に自訴した。これにより、訥庵は1月12日に逮捕された。だが、病気になって釈放され、同年7月12日に没する。
 桃井儀八(可堂)は慷慨(こうがい)組の指導者であるが、彼は武蔵国榛沢(はんざわ)郡北阿賀野村(現・埼玉県深谷市)の生まれで、江戸の学者東条一堂(尊攘派志士の清川八郎らを育てた)の門下となり教えを受ける。また、水戸学の藤田東湖や、大橋訥庵などの影響を受けた。
 慷慨組には、可堂を中心とした武州榛沢郡(埼玉県深谷市など)の豪農層と、大楽源太郎・福原美禰助(以上、長州藩)、池尻嶽五郎・水田謙次・権藤真卿(以上、久留米藩)らの脱藩浪士などが参加していた。西国の藩出身者が参加したのは、次のような経緯(いきさつ)があったからである。
 宇都宮藩士の広田精一は、京阪から防長地方を遊歴するうちに関東での挙兵を思い立ち、長州や久留米の尊攘の士を説いて、共に江戸にやって来た。そして、江戸では長州藩邸を根拠地にして同志を募った。そのうちに、可堂の息子である桃井八郎兄弟に接触し、可堂と連絡がつくようになる。1863(文久3)年の春、可堂らはすでに赤城山挙兵に向けた動きを始めていた(それ以前に相楽総三と連携がとれていた)が、同年8月、長州藩や久留米藩の脱藩浪士らと結び付いた挙兵の行動を準備するようになる。
 天長組の尾高藍香(惇忠〔あつただ〕)は、武蔵国手計(てばか)村(現・埼玉県深谷市)の名主の子である。若い時から水戸学を学び、自宅で塾を開き、弟の長七郎や血洗島(ちあらいじま)村(現・深谷市)の従弟(いとこ)・渋沢栄一や渋沢喜作(栄一の従兄弟)らに影響を与えた。そして、尾高らは桃井可堂の活動に共鳴し、自ら天朝組をつくり、1863(文久3)年の夏頃から、高崎城の乗っ取り・横浜の西洋人屋敷の焼き打ちを計画する(渋沢栄一の自伝『雨夜譚』を参照)。仲間を70人近く集め、決行日を風の強い11月23日に決めた。このグループは明確に討幕思想を持ち、急進的な尊攘派である。

        〈天誅組の乱・生野の変での農民離反〉
 しかし、1863(文久3)年8月17日、公卿中山忠光を首領に土佐・肥後・久留米などの脱藩浪士によって結成された天誅組の決起が、大和(奈良県)五条で決行される(同月27日に壊滅)。だが、翌日18日には、孝明天皇の承認のもとに中川宮や会津藩・薩摩藩らの公武合体派による「8・18クーデター」が朝廷内で行なわれ、長州藩士など急進的尊攘派は京都から追放される。反幕派の三条実美ら7卿は、長州へ逃げ落ちる(「七卿落ち」)。
 同年10月12日には、沢宣嘉(のぶよし)を首領にして、福岡藩士・平野国臣らが農民2000人を率いて、但馬国(兵庫県の一部)生野で討幕を目的として挙兵する。しかし、これは幕藩側の弾圧と農民自身の離反で失敗し、早くも14日には壊滅する。
 天誅組の乱も、生野の変も、農民を利用しようとするが、それはともに失敗している。小西四郎著『日本の歴史』19開国と攘夷(中公文庫 1974年)は、この二つの乱を倒幕の先駆戦として、その敗北の総括をいろいろしているが、農民との関係については次のように総括している。「またともに農民層によびかけ、年貢をへらすことを宣言し、初めはその支持を得たかのようであったが、すぐさま農民層が離れてしまったこと、同様であった(*2つの乱が似ていることを指す)。もし本当に農民層が協力したならば、その勢力は侮(あなど)りがたいものがあったろう。事実生野では、農兵たちは一揆を起こし、近辺の庄屋・豪農・酒造業者等を襲撃して、相当な威力を示している。だがこれらの農民は、尊攘派がかれらの要求の真の代表者でないことを知ると、支持するどころかかえって攻撃したのである。これでは成功するはずがない。」(P.315)というのである。 

        〈11・12一斉蜂起の挫折〉
 慷慨組の豪農たちは佐幕攘夷的思想であり、自分たちの挙兵が幕府を佐(たす)けるものとさえ思っていた。これに対して、天朝組は急進的であり、とくに尾高長七郎などは強硬な尊攘派である。その長七郎は当局の弾圧を遁(のが)れ京阪方面にいた頃、天誅組や生野の変など一連の尊攘派の敗北を見聞きした。そして、1863(文久3)年10月下旬には関東に戻り、この時期の蜂起を自重するように仲間に説得する。初めは決行を強く主張していた兄の尾高藍香や渋沢栄一なども、徹夜の論争の末についに長七郎の説得を受け入れ、挙兵を中止する。
 慷慨組の豪農らは、かつて自分たちの挙兵の大義名分に不十分性を感じていたものと思われるが、それを克服するために、上州において伝統的な勤王の「権威」をもっていた新田義貞の末裔である岩松俊純(別名は新田満次郎)を盟主に戴こうと文久3年4月いらい工作を行なった。しかし、この思惑は完全にはずれた。岩松が最後まで逡巡し話に乗らなかったからである。
 こうして慷慨組は1863年11月12日の挙兵がとん挫したあとも、岩松を説得したがそれでも岩松は時期尚早を唱えて逃げ回った。そのうちに、かつての同志である湯本多門之助が上州から江戸に出て自首する。湯本は新田家とは深い関係のある人物である。つづいて、岩松自身も江戸に出て自訴している。これにより、慷慨組の赤城山挙兵は失敗し、桃井可堂は追捕されるよりも、被害を最小におさえようと川越藩に自訴し、江戸に送られる。可堂はすべてが自分の責任と主張し、やがて自ら絶食して死ぬ。時に、1864(元治元)年7月22日、62歳であった。

        〈唯一、蜂起した真忠組〉
 1863(文久3)年の8・18クーデター後、水戸藩の有志の間では、天狗党結成の動きがあり、西の長州藩と連携を取りながら、東からの尊王攘夷運動を盛り上げようと、関東勤皇派の横の連携を強めつつあった。
 そして、「……文久三年(*1863年)の後半期になると、利根川流域を軸として、関東尊王攘夷派志士の幅広い志士的なつながりがあり、十一月十二日を期して、慷慨組・天朝組・真忠組が同時的挙兵を計画していた」(高木俊輔著『幕末の志士』中公新書 P.112)と言われる(ただ、月日については渋沢栄一の証言とズレがある)。それは、赤城山・高崎・横浜・九十九里において一斉蜂起する計画である。しかし、もっとも急進的であった天朝組の内部が先述したように崩れ、11月12日の一斉蜂起は未遂に終わる。
 だが、その後唯一、敢行したのが九十九里浜の真忠組である。真忠組の指導者は、楠音次郎と三浦帯刀である。楠は尾張藩出身の浪人で、のち下野国那須郡向田村の豪農・樋山家の婿養子となる。だが妻子を捨てて上総国井之内村(千葉県山武郡成東町井之内)で私塾を開く。三浦は二千石の旗本・津田英次郎の用人で、津田の陽明学に感化された。安政の大獄で罪をこうむり、佐原に謹慎する。
 真忠組の構成員は138名で、農民54名、無宿者16名、浪人8名、医師5名、商人5名、漁夫4名、職人4名、相撲取り3名、身分不明38名、女性1名である。
 真忠組の思想は、「書き付けをもって申し触れ候」(文久3〔1863〕年12月)によると、ほとんど攘夷の強調である。「その攘夷もわが国は開国して交易をはじめたが、そのため人民の生活が苦しくなり、貧民は堪えがたいほど窮している。だから、かれらを救助すべきである。救助するためいちばん必要なことは、横浜の異人を追い払い、また、貿易で暴利をむさぼっている悪い商人どもをやっつけることだ」(『江戸時代 人づくり風土記』⑫千葉 農山漁村文化協会 1990年 P.79)と言われる。
 1863(文久3)年12月、真忠組は小関新開(山武郡九十九里町小関)の大村旅館を占拠し本館とし、12月26日には北方の下総国八日市場の福禅寺に八日市場支館を、翌元治元(1864)年1月13日には南方の上総国茂原の藻原寺に茂原支館を設けた。そして、九十九里地帯の豪農・豪商から「借用」という名目で、資金・米・武器を提供させ、これを村々の貧民に配給した。この活動は文久3年12月18日ごろから始められ、金1387両、米121俵、武器は刀剣132、鉄砲9、鎗20程であったと言われる。
 幕府は、これをみて秩序を乱すものとして、1864(文久4)年1月17日、板倉藩に命じ、また佐倉藩・一宮藩・久松藩にも出動を要請し、弾圧した。楠は自死し、三浦など多数が逮捕された。そのうち、獄門などの死罪が15名、遠島5名、追放8名、手鎖80名と、処せられた。
 真忠組は、関東一斉蜂起の諸グループの中で、唯一、実際行動を起こしたものである。それとともに、ほとんどの草莽隊が武士的な身分意識が強い中で、真忠組は相対的に最も農民など民衆に結びついたグループという稀有(けう)な特徴をもっている。 (つづく)