共産主義者の団結・統合のために

  雑感・「未来社会」へ向けて
                      松平直彦
                    
 先日「共産主義年誌」編集委員会から、本年号のテーマを「未来社会の展望と共産主義者の使命」とするとして原稿依頼があった。そこで短文を投稿し、共産主義者が「未来社会」について語ることに立ち遅れている現状を指摘してみた。以下がそれである。なお、「年誌」よりも本紙での掲載の方が先になりそうである。
 共産主義者は今日も労働者民衆と共に、国家と資本の攻撃に抗して闘っている。そのさい立脚する価値観は、多くの場合ブルジョア的権利の体系だ。共産主義者はその中で、労働者階級の主導する政治革命を準備する。20世紀以来の伝統的なスタイルだ。しかしかつては、そのただ中においても、「未来社会」とその「展望」への共通の確信が組織された。今は、それが崩れてしまっているのである。
 だが他方で今日の資本主義は、産業の成熟・経済成長の終焉によってその歴史的役割を終え、社会を破壊するシステムに転化してしまっている。人々は生きていくためには、資本主義に代わる新しい社会関係の創造を必要とし、実践的課題に浮上させている。打開の道としての「未来社会」が日常的に問われているのである。
 このような新たな社会関係を創造する実践、それと結びついた未来社会の価値観の形成は、不断に既存のブルジョア社会と妥協し包摂されることを強いられる。共産主義者は、「未来社会」の体系的な共同した構想づくりと実践に積極的に参与し、ブルジョア社会の影響と闘い、労働者民衆による政治革命の一翼へと押し上げていくことが求められているのである。
 共産主義者の使命は、20世紀のそれとは自ずと異なるものである。そもそも物質的条件や人々の欲求なり価値観が変化している。かつての革命の総括も、そうした変化の上に捉え返さねばならない。現代の「何を為すべきか」が必要である。
 以下は、「未来社会」に関わるいくつかの問題についての短評である。


 資本主義というシステムの下では、民衆に対する分配が「労働賃金」という形でなされる。しかし近い将来、人間労働の自動装置への置換が進むと、労働賃金という形態で生活の糧を得ることのできない人口が多数を占めていくことになる。人は生きてゆけなくなり、社会は成り立たなくなる。そこで「ベーシック・インカム」のアイディアが再び浮上してきている。
 しかし「資本-賃労働」制度を骨格とする社会である限り、「ベーシンク・インカム」はその下支えシステムを超えられず、ブルジョア社会を延命させるための「生かさず殺さず」制度にとどまる。国際投機マネーの肥大化の対極に膨張する・国境を超えた過剰人口の圧力が、賃金水準を押し下げるだけでなく、「ベーシック・インカム」を哀れなものにしてしまうだろう。
 人類は「労働」から自己を解放する物質的条件を手に入れた。しかしその為に、「労働」と「分配」をリンクさせてきた資本主義を廃止しなければ、就労の如何に関わらず「欲求(必要)に応じて取る」ことのできるシステムを構築しなければ、社会を存続できなくなろうとしている。過渡的な方策を否定するものではないが、益々根本的解決を迫られていくということである。


「労働者管理」という言葉がある。それ自体は労働者が社会の主人公となることを表現するものだが、機械制大工業の時代の臭いを漂わせている言葉でもある。ブルジョア国家や資本に代わって、管理の仕事を一般の労働者がやれるようにという訳だったが、現実にはプロレタリア革命が勝利した諸国でも、国家や企業の管理を担う人々の専門家、固定化、特権集団化は避けられなかった。
 しかし現代は、管理労働を含めて精神労働を代替する装置が発達する時代である。それは人間の精神労働のレベルをはるかに超え出ていこうとしており、社会の人間労働を筋肉労働を含めて丸ごと代替していく。そこでは、人の管理能力の問題ではなく、管理を担う装置をどのようなものとして構築するか、それに人がどのように関与するかが主要課題となる。競争でなく助け合い、支配でなく協同、といった思想的課題こそが重要となる。


 「#MeToo」の発信を手段とした女性たちの叛乱が欧米を中心に大きな広がりを見せ、アフリカなどからの難民の大移動がEUなどにおいて深刻な社会的葛藤をひきおこす等、差別・排外主義が国際的課題として浮上している。
 人類が小規模の共同体によって採取・狩猟生活をしていた時代には、人々は大自然の圧倒的力の前で相対的に対等であった。しかし農・牧業にはじまる産業を起こすようになると、そのために支配-隷属システムを発達させ、対内的には差別の公的な導入を、対外的には周辺部族の征服と隷属関係の拡大を構造化した。それはまだ目立たぬレベルで自然の征服(破壊)をも伴っていた。日本でも天皇を頂点とする位階制の確立やエミシ征討があった。この構造は、古代社会、武士社会、ブルジョア社会と時代が変遷するとともに、それぞれの特殊性が刻印されつつも、拡大再生産されてきた。
 しかし21世紀の今日、人と人・人と自然の関係性を犠牲にして発達させてきた産業がついに成熟段階に到達した。それは、関係性を犠牲にし続ける根本の理由がなくなったということであり、社会(人々)は新たな基盤の上に立って、関係性の豊かさの実現へと向かわずにはおかないことを意味する。そうしなければ人間社会は、関係性の危機に陥って崩壊することになるだろう。
 共産主義者は、差別・排外主義との闘いを人権問題にとどめることなく、また階級的団結の形成という政治問題に切り縮めることなく、助け合い社会の創造に向かって前進していかねばならない。


 数十年ぶりに「自立・従属」論争が浮上してきているように思われる。
 背景の一つはアメリカが、日本の国家体制の内にビルトインした一定の支配・統制を、超大国の基盤の建て直しのためにあからさまな仕方で作動・強化し、負担を強要しだしたことにある。もう一つは、アメリカの指揮・統制下で、日本が地域覇権国家の道へと踏み出したことにある。前者は旧来の対米従属論を、後者は旧来の日帝自立論を再浮上させている。
 対米従属論は、米日関係を戦前の帝国主義と植民地の関係に重ね合わせることで、「反米民族解放・民主主義革命」路線に帰結させるものだった。それは今日の「主権回復」「ルールある資本主義」を目指す路線へと連なる。
 日帝自立論は、経済主義的な世界観によって、アメリカによる一定の支配・統制とこれを一掃する闘いを軽視した誤りであった。この誤りをより掘り下げて捉え返せば、第二次大戦を媒介にアメリカが築いた他の帝国主義諸国に対する一定の支配・統制と、それをテコに構築した国際反革命同盟体制が、戦後の多国籍企業と耐久消費財産業の発達、更には1970年初頭以降の国際投機マネーの膨張と情報・通信システムの発達を条件づけ、21世紀の産業の成熟と資本主義の終焉に向かう現代を引き寄せたシステムであったことを、当時の局面なりに把握できなかったということである。「資本主義の最高の発展段階」「死滅しつつある資本主義」とは今日の資本主義にこそ言えることであった。
 「自立・従属論争」を止揚して戦列を整えることは、「未来社会」を目指す革命運動にとって必要なことであるだろう。


 この間の朝鮮半島情勢の肯定的大転換をもたらした要因は、アメリカ・トランプ政権が推し進めてきた制裁ではない。トランプや安倍は自己のよこしまな政治目的のために敢えてそのように主張し、「制裁」の継続・強化に固執している訳だが、それは真逆の戦争の危機を再来させるものだ。現実に朝鮮半島と東アジアを戦争の危機から救い出したのは、南北の民族的団結の力だった。
 まずキャンドル革命を背景に誕生した南の文在寅政権が、朝鮮半島で戦争はさせないとの強い意志をアメリカに対して表明し続け、他方アメリカに戦争の発動を躊躇させる核武力を完成させた北の金正恩政権が、経済建設に集中する路線へと舵を切り、2018年の新年早々から戦争阻止・平和協定締結にむけた南北合作に踏み出した。それは時をおかず韓国・平昌オリンピックでの南北協力に結実して民族的感動と世界的共感を一気に高め、アメリカが戦争を発動できない状況を創り出した。4月27日には南北首脳会談を停戦ライン上の板門店で開催し、この流れを打ち固めるとともに、米朝首脳会談への道筋をつけた。アメリカ・トランプ政権はこれに乗らざるを得なくなり、「新しい米朝関係」を模索しだす。まさに、南北の連合した力で民族自主の力を高め、超大国アメリカに終戦宣言-平和協定を強制しだしたのである。その過程で朝鮮は、中国との関係を修復し、平和協定締結と経済発展への道を一層確かなものにしている。
 こうした東アジアの大変化に背を向け、ひとり蚊帳の外に置かれてしまったのが日本だ。安倍政権が日本を戦争のできる国にするために、意図的に朝鮮敵視を煽り、圧力一辺倒政治に固執し続けた結果に他ならない。南北が牽引する朝鮮半島と東アジアの平和の流れは、日本国内においても安倍極右政治の推進を困難にしつつある。我々は南北の団結と民族の自主を支持し、安倍政権を打倒しなければならない。そして、朝鮮に対する植民地支配の歴史を謝罪・清算し、国交正常化を実現して、東アジアの民衆連帯を発展させていかねばならない。
 沖縄・辺野古新基地建設は、アメリカの朝鮮・中国敵視政策のかなめであり、アメリカの指揮・統制とその下での日本の地域覇権国家づくりの結節環である。これに反対した鳩山政権が、米日支配層によってアッという間につぶされたほどの重要な政治的位置を占めている。これに沖縄の人々は、いささかもたじろぐことなく、敢然と粘り強く闘っている。その根底には、沖縄の「自己決定権」への欲求の高まりがあるだろう。朝鮮半島の民族・民衆が主導して形成しつつある東アジアの平和と南北統一への大きな流れの中で、沖縄もまた自己の未来を自ら切り拓いていく時代を闘いとろうとしているのである。ヤマトの民衆運動の建て直しが求められている。
「自主権」「自己決定権」の支持は、民族や国境の壁を超えて民衆連帯を発展させ、東アジア規模で関係性の豊かな「未来社会」を創造していく際に、不可欠のものである。


 西日本豪雨は、死者200人を超える甚大な被害をもたらした。これを書いている段階でも、まだ被災の全容が把握されていない。
 安倍首相は、大災害となる警告が出ている最中に「赤坂自民党亭」で宴会に興じていたという。政治的大失態だが、その結果政府の初動も遅れた。遅ればせながら発したのが「プッシュ型」支援策の指示だった。これは、国家で対処する、民衆の自発的支援は抑制・統制するという表明であり、被災者支援を二の次にする態度に他ならない。熊本大地震の際は「サプライサイド」という言葉を使用したが、同じだ。阪神淡路大震災や東日本大震災の際に起こった民衆による自発的で大規模な支援活動を苦々しく見ていたことが、こうした指示となって出たのだろうが、安倍政権が固執し続ける国家主義的態度だ。今回の場合は、安倍の政治的失態と政府の初動の遅れによって、また何よりも災害の規模が大き過ぎたことによって、安倍政権下であってもボランティアによる支援の役割が比較的大きくなっているようだが、民衆の自発的力の高まりを制動しようとする安倍政権の姿勢に変化は見られない。
 「未来社会」は、民衆の自治社会であり、その連合である。しかし今日の民衆の自己統治能力は、国家に奪われ、すっかり失われてしまっている。しかし大災害を前にして、そのようなことを言ってはおれない。社会の再建に貢献したいという人々の欲求も強い。徒手空拳で出発するということになる。民衆による民衆のための支援・復興は、経験を重ねることによって前進していくに違いない。 (7月16日記)