明治維新の再検討―民衆の眼からみた幕末・維新期①

天皇制権力による西洋文明圏転入
                          堀込 純一
    はじめに

 安倍政権は、明治維新150年を記念した式典を10月23日に、憲政記念館で開く。三権の長や国会議員らが、出席の予定である。さすがに、国民的な規模での式典はできないようである。
 明治維新を題材とする大河ドラマは、戦国時代のそれに次ぐ人気があるようである。しかし、これまでの皇国史観・薩長史観では、歪曲や史実の隠ぺいが多々見られる。とりわけ、攘夷派にも開国派にも多々みられた侵略思想については、大河ドラマでも触れられていない。
 歴史学の発展にとって、 確固とした歴史観に立脚することと史実の科学的実証的裏付けは、あたかも車の両輪のごとく、重要な事柄である。
 筆者にとって、歴史観は、特定の観念を基準としたものではなく、実在の事物を出発点として、「直接的な生命の生産と再生産」(エンゲルス著『家族・私有財産・国家の起源』の初版序文)を基準とする歴史観、すなわち、唯物史観を基準とする。それは、観念的な歴史法則なるものを人類が実際に築いた歴史に単に当てはめるという、転倒したものとは全く異なるものである。
 史実の裏付けとは、端的に言って、為政者などの都合によって、歴史的事実を歪曲することを打破し、あくまでも歴史事実に立脚することである。それは、神話に基づいた歴史や、時の権力者の都合にあわせて偽造された歴史とは、まったく異なるものである。

  Ⅰ 労農派・講座派論争の地平を越えて

(1)労農派・講座派の戦後的特徴

 明治維新の歴史的性格をめぐる左翼の間での論争は、長い歴史をもっているが、未だ大方が賛成するような通説はない。
 戦前の労農派と講座派の論争でもっとも激しく論争されたのは、1930年代である。 この時期、論争は革命戦略と密接にからんで展開された。すなわち、ブルジョア民主主義革命の任務を包摂した社会主義革命が課題だとする労農派の明治維新=ブルジョア革命説と、社会主義革命へ転化するブルジョア民主主義革命こそが日本社会変革の当面の課題だとする講座派の明治維新=絶対主義成立説とが鋭く対立した。
 しかし、戦後になると、様相は大きく変わる。ソ連史学界が明治維新=ブルジョア革命説に転換し、明治維新を「未完成のブルジョア革命」と規定するようになる。
 さらに、高度成長を背景に、1960年代には、農村社会を中心に「封建遺制」が消滅したとの認識が広まり、日本資本主義の起点として明治維新=ブルジョア革命説が経済史学界を中心に広まった。
 他方、講座派の系譜を引く歴史学者の中には、1980年代、明治維新を絶対主義かブルジョア革命か、の二者択一として捉える見方を総括する意見が台頭するようになる。
 たとえば、柴田三千雄氏は、 その著『近代世界と民衆運動』(岩波書店 1983年)で、ヨーロッパの1848年革命を総括し、「それまでは、経済発展に応えうる集権国家はただ自由主義方式でのみ達成されるものと考えられ、したがってフランス革命方式を追求するブルジョア自由派とこれに抵抗する保守派とが対抗した。しかし、いまや自由派の挫折を通じて、別の方式による集権国家の出現が可能となった。ここにブルジョアジーと民衆運動との結合をパターンとするフランス革命以来の『ブルジョア革命』の局面は、終焉するのである。」(P.357)と分析している。(下線は、断わりがない限り筆者)
 また、柴田氏はフランス革命200年を記念したシンポジウム「近代革命とアジア」で、1848年革命以降、プロイセンの保守官僚グループが民衆運動を利用し、ブルジョアを牽制し、フランス革命とは異なった方法で「国民国家」を作り、国家主導の産業化を推進していくことを例にして、「これは、ブルジョア革命であるかいなか、という議論がしばしばなされるわけでありますが、或いは上からの革命とかいわれるわけでありますが、革命ではない。いわばブルジョア革命の代替物である。ブルジョア革命はやってもやらなくても、資本主義に移行する」(河野健二編『近代革命とアジア』名古屋大学出版会 1987年 P.223)と報告している。

(2) 労農派・講座派それぞれの問題点

  (ⅰ)明治維新はそもそも革命か
 明治維新が大きな変革をもたらしたということから、その諸現象に眼を奪われて、よく「革命」という言葉が使われるが、果たして、明治維新は科学的学問的に見た場合、労農派が言うように革命と言えるのであろうか?
 レーニンは、「革命という概念の厳密に科学的な意味においても、その実践的=政治的な意味においても、国家権力が一つの階級の手から他の階級の手にうつることが、革命の第一の、主要な、基本的な標識である。」(レーニン著「戦術に関する手紙」―『レーニン全集』二十四巻 P.25 *ゴチックと下線の部分はレーニンの強調)と規定する。この場合、政治革命を指していると思われるが、明治維新は果してこの基準に合致するのであろうか。答えは否である。
 明治維新が下級武士を中心に遂行されたことは、衆目の一致するところである。この下級武士は、言うまでもなく幕藩体制での支配階級の一員であり、したがって、明治維新がこれまでの支配階級から今まで支配・収奪されてきた被抑圧階級に国家権力を移行させたとは、とても言えないからである。これが第一である。
 第二は、プロレタリア革命は言うまでもなく、ブルジョア革命においても、人民大衆の広範な、主体的な参加によって遂行された。明治維新は、はたしてどうか?
 マルクスは、「市民社会のいずれの階級といえども熱狂という一つの契機を己れがうちと大衆のうちに喚起することなしには、この役割をはたすことはできない。」(「ヘーゲル法哲学批判」―『マルクス・エンゲルス8巻選集』第1巻 大月書店 P.19)と述べている。 
 ここでいう「この役割」とは、ある特定の「階級の要求と権利が真に社会そのものの権利と要求である」ようにすることである。そのためにこそ、民衆の自発的参加が重要なのであった(ブルジョア革命)。まさに、ブルジョア革命においてさえ、大衆の参加なき革命などというのは、まさに背理である。
 明治維新での「国家権力の移行」は、最終的には戊辰戦争で遂行された。この戊辰戦争は、藩の武器・藩の兵士・藩の資金によって行なわれたのである。そこでは極く一握りの勤皇家を除いて、広汎な農民や町人、あるいは雑業層が参加しているわけではない。
 第三に、「革命の主体がどうあろうとも、ブルジョア革命によって封建的諸制約がとりのぞかれ、資本主義が自律的発展をはじめれば、政治権力はブルジョア的にならざるをえない」(楫西光速・加藤俊彦・大島清・大内力共著『日本資本主義の成立』Ⅰ 東大出版会 1954年 P.208)という主張である。これは、ブルジョアジー抜きの「ブルジョア革命」論であり、世界史の史実に合致しない謬論である。
 柴田氏は前述のように、資本主義的な世界体制が支配・従属、収奪・被収奪の関係にある「中心」・「半周辺」・「周辺」から成り立つとする世界システム論を前提に、その「中心」での1848年革命の挫折から、ヨーロッパでの「ブルジョア革命」の時代の終焉と、「半周辺」でのブルジョア革命ぬきの近代化・資本主義化を分析した(『近代世界と民衆運動』)。
 これとの関連で言うと、明治維新前の日本は、中国・オランダ・朝鮮などと交易を行っていたが、未だこの世界システムに属しておらず、「周辺外」である。日本が世界システムに属し、「半周辺」に位置するようになるのは明治維新を画期として急速に西洋近代の諸政策を導入し、日清戦争に勝利した後の頃からである。

  (ⅱ)「絶対主義」・「専制主義」―両概念の混同
 他方、講座派は明治維新=絶対主義の成立という立場であるが、その主流は絶対主義天皇制という政治的上部構造に照応させて、経済的土台の「半封建制」を強調するだけでなく、ついには「軍事的半農奴制的資本主義」(山田盛太郎)なる観念的な日本資本主義論を作り上げている。そこでは、資本制的生産様式と半封建的な地主制の対立と協調の関係が正しく分析されず、半封建的な地主制が(軍需産業を中心とする)資本制的生産様式の不可欠の土台として結合し、この固定的な「型制」をもったものとしての「軍事的半農奴制的資本主義」と規定され、発展の論理をもたない奇妙な「資本主義」となっているのである。
 そして、なによりも明治維新=絶対主義の成立という規定自身が、史実と合致していないのである。
 マルクスが言うように、絶対主義国家は確かに、近代ブルジョア国家への準備をなすものである。だが、中央集権制を目指す絶対主義国家の特質は、官僚制と常備軍に示されるが、その官僚制は近代ブルジョア国家と比較すると、未だはるかに貧弱であり(フランス絶対主義の最盛期であるルイ14世の時代の国王役人は4600人)、官職自身が私的な性格・家産的性格から脱皮していない(文官も武官も、官職の売買=売官制)のである。そして何よりも、この社会は依然として、地域ごとの、団体ごとの特権の体系(階層的序列制をもつ)をもっており、国家もこのような「中間団体」に依存している。そこでは、近代ブルジョア国家に見られるような、等質的な共通の法、共通の経済制度、国民としての政治的平等性などの諸点で、組織された国民国家にまでは至っていない(詳しくは、二宮宏之著「フランス絶対王政の統治構造」―『近代国家形成の諸問題』〔木鐸社〕を参照)のである。従来のマルクス主義は、必ずしも絶対主義と専制主義を明確に区別していないのである。
 しかし、明治維新は絶対主義国家ではなく、近代的な専制国家を作ったのである。その最も重要な指標である封建的領有制の解体は、1869(明治2)年の版籍奉還、1871(明治4)年の廃藩置県、1873(明治6)年からの秩禄処分などで進められる。
 中央官制においても、天皇の権威と権力を源泉として、それを上級から下級へ順次に移していく天皇制官僚の厳格な中央集権体制が創られていく。
 常備軍は、1872(明治5)年11月に、「全国募兵ノ詔」が発せられ、徴兵制が始まる。翌年1月には、将兵合せて3万1000余を平時の常備兵とした。
 明治維新によって樹立された国家は、フランスやイギリスの近代国家とは大きな違いをもっているが、専制主義天皇制を中核とした一種の近代国家である。
 
(3) 両派の共通項はスターリン式の単系的な発展段階説

 労農派と講座派は互いに激しく論争し、互いに相容れないかのように関係であったが、しかし、他面では共通の歴史観をもち、そこから生ずる深刻な問題点を共に抱いている。
 それは、両派ともにスターリン式の単系的な発展段階説を前提にしているからである。スターリンは1938年9月に、「弁証法的唯物論と史的唯物論」を書き、ここで歴史発展の法則性について、次のように定式化した。すなわち、「歴史上の社会の生産力の変化と発展に応じて、人間の生産関係、彼らの経済関係も変化し発展した。/歴史上には、生産関係の五つの基本的な型、すなわち、原始共同体的、奴隷制的、封建的、資本主義的、社会主義的な形がしられている」と。これにより、単系的な歴史発展段階説が固定化された。
 だが、マルクスは「アジア的、古代的、封建的および近代ブルジョア的生産様式」というように、もともと多系的な発展段階説である。

  (ⅰ)「世界史の基本法則」の破綻が意味するもの
 ロシア革命の「権威」によって広まったこのような歴史観は、各国史がこれらの諸段階を必ず経過するかのような固定的観念的な思考を押しつけた。
 たとえば、日本史においても、封建制社会から近代資本制への転換をになった明治維新は、フランスなど西洋史にならって「ブルジョア革命」、あるいは「一八六八年の(明治)革命」と規定づけられた
 だが、コミンテルンの指導で日本革命が二段階革命戦略をとるとされて以降、講座派は明治維新を絶対主義の成立とした。これによって、労農派のブルジョア革命説とは異なり、時代が遡った絶対主義時代を明治維新がもたらした―というのである。だから、スターリン式の発展段階説の大枠は、両派ともに変わっていないのである。
 戦後日本の歴史学界は皇国史観から解放され、マルクス主義者が主導権を握ったが、その考え方はスターリンの歴史観の影響をつよく受けた「ソ連マルクス主義」の単系的な発展段階説に基づくものであった。すなわち、1949年5月、歴史学研究会の総会ならびに大会が開催され、スターリン式の発展段階説に基づいて、「世界史の基本法則」が打ちだされたのである。
 しかし、「世界史の基本法則」なるものは、すぐに破綻が明らかとなる。日本の中国史研究者から中国の古代社会は奴隷制が支配的な生産様式に基づいたものでないことが明らかにされたからである。ということは、中国の影響を強くうけた日本の律令制時代を特殊な奴隷制社会としてきた、従来の考え方が誤りであったことを意味する(朝鮮やベトナムも同様である)。世界史を単系的な発展段階説とするスターリン式歴史観の破綻である。
 また、中国を中心とする前近代の東アジア文明圏を西洋の歴史発展段階説に当てはめるスターリン式の歴史観は、何事も西洋を基準とする西洋中心主義の弊害を生み出した。
 それは、戦後和訳された青木書店版のソ同盟科学アカデミヤ編『世界史教程』に端的に現われた。そこでは、世界史の記述対象がほとんどが西洋であり、非西洋地域はわずか約8・5%に過ぎず1割にも満たないものである。まさに、西洋中心史観そのものである。

  (ⅱ)一国主義的な歴史分析の寄せ集めの克服
 スターリン式の単系的な発展段階説のもう一つの大きな問題点は、一国主義な歴史分析である。
 この点について、小谷汪之氏は、「……最大の問題点は、歴史における発展を、個々バラバラに切り離された一国史を単位として認識しようとする、その方法的態度のなかにあるといわねばならない。いかなる社会、民族、国家の歴史にしろ、けっして孤立してもっぱら内在的に発展してきたわけではなく、他の社会、民族、国家とのあいだにさまざまな関係をとり結び、それによってさまざまな作用を受けながら発展してきたものであろう。この社会、民族、国家間の相互作用を、外的要因として捨象し、それぞれの社会、民族、国家に内在するものとしてのみ発展の法則性を構想するところに、『五段階発展説』(*スターリン方式のこと)的な捉え方の問題性がある。その点においては、多系的な発展段階論の構想についても、本質的な違いはない。」(同著『歴史の方法について』東大出版会 1985年 P.63~64)と批判する。
 こうした反省は、他の歴史学者にも同じく感じられていたと思われるが、1980年代の頃から、「アジアにおける日本史」とか、「世界史における明治維新」とかの視点から日本史をとらえ直す傾向が強まってきた。今はこのような考え方が、すっかり定着している。
 この観点からすると、19世紀後半の日本において、ブルジョア革命が起こらなかった理由は、ローロッパのイタリアやロシアなど「半周辺」と比較することだけに求めるのは、(一定の意義は認めるとしても)中途半端なものに陥ってしまうであろう。
 というのは、16~17世紀には、スペインやオランダなどはすでに南アジア・東アジアでの交易を行っているが、そこはオランダ・イギリス・フランスを中心とする資本主義的な世界システムとは、異質な世界体制である。そして、産業革命を進めるイギリスは
18世紀後半からインドを浸食し、19世紀になると資本主義的な世界システムと東アジアの中国を中心とする華夷秩序・朝貢システムとが全面的な衝突となる。
 それまでの中国や日本などは、まさに世界システム論でいうと、「周辺外」なのであって、その「周辺外」の日本で未だブルジョアジーの階級形成も出来ていないのは当然であり、そのブルジョアジーがいない日本でブルジョア革命ができないのは当然のことである。
 「開国」・通商の圧力を受けた武士階級の下層部分は、当初は排他的な「尊王攘夷」を振りかざしたが、「開国」・通商が客観的に受け入れざる事を覚り、路線転換する。そして、ひたすら西洋文明の導入による「富国強兵」路線を推進し、欧米に対峙するために近隣諸国を併合し植民地化する道をひた走るのが明治維新なのである。

(4)日本史における明治維新の意味

 明治維新は、下級武士を中心にした天皇制権力が植民地化の危機に直面し、欧米列強に対峙するために西洋文明圏への転入をはかったもので、それにともない政治・経済・社会など諸分野での全面転換がなされた。それは、千数百年以上、中華文明の影響を受け、取り入れてきた日本にとっては大変革であり、中華文明圏から西洋文明圏への転入であり、西洋近代の導入であった。
 その主体的狙いは、天皇制権力による日本人民の新たな支配を確立することもさることながら、「万国と対峙」できる富国強兵路線を遂行することであった。この富国強兵路線は決して明治維新で新たに定められたものでなく、すでに幕末の幕府中枢の路線でもあった。ただ両者の違いは、天皇を押し立てた薩長などの天皇制権力による近代化か、それとも同じく天皇制を前提とした徳川家のヘゲモニーの下での近代化かの違いである。
 この激烈な戦いの下で、日本の民衆はいかなる態度をとり、どのような行動をとったかを追求し、ひいては日本の近代化の性格を見極め、今後の実践活動に役立てることが、本シリーズの目的である。  (つづく)