古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史㉔

 征夷の現地専任後も負担は重く
                           堀込 純一


    Ⅷ 日本律令制下での辺要国の役割

  (3) 政策転換後も財政負担は過重
 
 811年(弘仁2)年12月、征夷将軍・文屋綿麻呂は、「今官軍一挙して、寇賊遺(のこ)るもの無し」と豪語し、38年戦争の幕引きを図った。
 しかし、これは朝廷側の一方的な願望でしかなく、エミシとの戦争は継続し、その抵抗を懐柔・鎮圧するための活動からは脱却できず、律令財政は極度の危機状態に陥っていく。

(ⅰ)陸奥・出羽の調庸京進を停止
 律令財政の収入源泉は、基本的に租・庸・調・雑徭(ぞうよう)である。租は田租で、706(慶雲3)年に、田一段あたり一束五把に改定され、以降、その税率(上田でほぼ3%)は変わらなかった。庸はもともと労役であったが、その代わりに、布二丈六尺を納めることになった。調は、絹・?(あしぎぬ)・糸・綿・布などの繊維製品を中心に、調雑物(ぞうもつ)として鉄・鍬・塩など郷土の特産物であった。雑徭は、道路工事や水田開発など、地方行政を支える力役である。
 調庸は、朝廷に納められ、多くの官人の給与と造都・造寺の財源になった。租はその一部が京進されたが、残りは地方官衙(役所)の財源となった。その大部分を諸国の官倉(正倉ともいう)に収納し備荒(凶作あるいは変災)に備え、残りを国衙の経費とした。
 しかし、辺要国である陸奥・出羽の調庸京進は、8世紀初頭からしばしば免除されている。そして、768(神護景雲2)年、陸奥国の調庸は、10年に一度、京進すればよいこととなった。
 同年9月22日、陸奥国の報告は、諸国からの鎮兵が鎮守府へ到着する途中で逃亡していることや、鎮兵の食糧費で民が困窮しているなどの現状を踏まえて、旧例にしたがい陸奥国の兵士4000人を徴発して鎮兵に加え、他国の鎮兵2500人を停止するように陳情した。そのとき、「人民の出した調庸は国司のもとに収(おさ)め置き、十年に一度の割りで、都の倉庫に進納することを請い願います。」と言上された。
 これにより、以降、陸奥国からの調庸京進は行なわれなくなる。何故ならば、709(和銅2)年いらい、エミシの蜂起は断続的に続けられ、また774~811(宝亀5~弘仁2)年には38年戦争に忙殺され、とても調庸の京進を行なう財政的余裕はないからである。
 では、京進されなくなった調庸は、どのような使途に向かったのであろうか。それは言うまでもなく、エミシ懐柔・帰服のための饗給である。エミシ征服戦争の恒常化は、戦費とともにエミシ懐柔のための財源が少しでも必要であったからである。
 それは、『類聚国史』巻一九〇の792(延暦11)年正月丙寅条で、「斯波村夷(えびす)」の使者に物を与えたという陸奥国の報告に対して、朝廷は「常賜をな加えそ」と譴責していることで明らかである。「常賜」というのは恒常的に物を給していたことを意味する。
 また、800(延暦19)年5月戊午条では、「帰降の夷俘、各(おのおの)城塞に集(つど)い、朝参(*ここでは国衙や郡衙に参ること)相続き、出入(でいり)寔(まこと *実)に繁き」ゆえに、「夷俘食料 充用に足らず」の事態に陥っていることを記述している。エミシに対する饗給がひんぱんに行なわれていたのである。
 陸奥での饗給が増大するとともに、国司による蝦夷に対する叙位も行なわれるようになる。従来は、国司・按察使・鎮守府将軍は随意に叙位ができなかったが、9世紀にはいると、国司による蝦夷への叙位を規制する法令が繰り返し出されるようになる。
 『類聚国史』巻一九〇の大同2(807)年3月丁酉条は、「制す。夷俘の位は、必ず有功(*功績のある者)に加えよ。而(しかるに)陸奥国司、蝦夷を遷出(せんしゅつ *選び出し)し、或(あるい)いは位階を授(さず)け、或いは村長に補(ほ)す。寔に繁く徒有(あ)り。其(その)費(ついえ)極まり無し。自今(じこん)以後、輙(たやすく)授くを得ず。」とし、今後は按察使が行なうように命じている。
 その後も、蝦夷への叙位・賜禄は規制され、905(延喜5)年6月28日付の太政官符では、ついに陸奥出羽国司による俘囚への叙位を「一切禁断」するに至る。
 征夷の幕引き後も、エミシ懐柔のための夷禄(エミシへの位階に応じた給与)を増大させ、陸奥出羽の財政を圧迫させるのであった。

(ⅱ)陸奥の財政危機と他国からの支援
 陸奥の官制は、前号で述べたように、通常の国府の官人のほかに鎮守府(軍政機関)の官人と按察使(あぜち *陸奥と出羽を管轄した)が存在したことに最大の特徴がある。鎮守府が全国で唯一置かれたのは、エミシとの緊張関係からであり、軍事組織が肥大化したのである。
 諸国の軍団兵士制は、朝鮮との緊張が激化した7世紀半ばにはつくられたと思われるが、大宝律令制定によって8世紀初頭には、一段と整備された。しかし、全国の軍団兵士制は713(養老3)年には縮小され、739(天平11)年5月には、三関(伊勢の鈴鹿・美濃の不破・越前の愛発〔あらち〕)・陸奥・出羽・越後・長門・太宰府管内諸国を除き、停止された。
 8世紀前半のこのような全国傾向にもかかわらず、陸奥では逆の方向に向かう。すなわち、728(神亀5)年以前にあった安積(あさか)・行方(なめかた)・名取・丹取(にとり)の4団4000人であったのが、以降、丹取が玉造に代わり、新たに白河が増設され5団となった。さらに、747(天平18)年には鎮兵が全廃され、その代わりに6団6000人(小田団が追加された)となる。
 全廃された鎮兵は、約10年後の757(天平宝字元)年4月には再び史料上に現われ、翌年8月の淳仁天皇即位の際には、田租免除の対象となっている(『続日本紀』8月1日条)。 
 増員された鎮兵は、坂東や土地の兵士などとともに、758~759年に桃生城・雄勝城を、767(神護景雲元)年に伊治城を造営している。しかし、造営が終わると鎮兵は、768年9月~769年9月にかけて、3000余人から500余人へと減員される。768(神護景雲2)年は、前述したように、陸奥の調庸京進が10年に1度に減らされた年である。鎮兵が大幅に減員された代わりに、軍団兵士は増員され、6団1万人にふくれ上がっている。
 朝廷は、縮小された鎮兵をさらに全廃しようとしたが、ついに38年戦争(774~811〔宝亀5~弘仁2〕年)に突入して逆に肥大化した。38年戦争の終期の810(弘仁元)年には、鎮兵は3800人にまで増大している。
 この間の783(延暦2)年、『続日本紀』によると、「比年(*近年)坂東八国(*相模・安房・上総・下総・常陸・下野・上野・武蔵)穀(*籾殻。長期保存が可能)を鎮所に運ぶ。而して将吏等(とう)〔*現地の〕稲を以て〔*その〕穀と相換え、其(その)穀は京に送る軽物(*絹布)に代える。いささか〔*利を〕得て恥じることなく、又(また)濫(みだ)りに鎮兵を役(えき *使役)し、多く私田を営む。茲(ここ)に因(よっ)て、鎮兵疲弊し、干戈(かんか)に任(まか)せず〔*戦争に耐ええない〕。」(4月15日条)という酷いありさまである。
 『日本後紀』によると、805(延暦24)年2月5日、相模国から「頃年(*近年)鎮兵三百五十人を差し(*派遣し)、陸奥・出羽両国を戍(まも)る。而して今(いま)徭丁(*雑徭に徴発できる年齢の者)乏少(ぼうしょう)し、勲位(*帯勲者)数多し。伏して請う。鎮兵を中分し〔*二分する〕、一分は勲位を差し、一分は白丁(*無位無官の者)を差す。〔之(これ)を許す〕」と、鎮兵に派遣し、地元に働き手が少なくなっている状況を訴えている。
 38年戦争の幕引きで、ようやく軍団兵士も鎮兵も、大きく削減できるようになる。812(弘仁3)年3月には、軍団兵士は4団4000人から2団2000人へ、鎮兵は3800人から1000人へと削減した。鎮兵は、815(弘仁6)年8月に、ついに全廃となる。だがその代わり、軍団兵士は6団6000人に増員され、健士(地方有力者の子弟から選抜した兵士)2000人が新たに配置されるようになる。
 奈良時代、凶作・飢饉による収入の減、飢饉・天然痘の流行などでの賑給による支出増大に加え、聖武天皇時代の東大寺や全国の国分(尼)寺の造寺や難波京・恭仁京の造都・平城京の修理などで、支出が飛躍的に拡大した。それがさらに、8世紀後半の征夷戦争の恒常化・長期化で、律令財政は根底的に危機に陥る。とくに陸奥国では、膨大な軍事費で陸奥の正税(しょうぜい)は使い果たされ、公廨(くがい)は陸奥の官人への給与にも不足していた。
 そこで、東山道観察使正四位下兼出羽按察使・藤原朝臣(あそん)緒嗣(おつぐ)は、次のように上奏する。

国 民を以て本(もと)と為(な)す、民 食を以て命と為す。而(しこう)して鎮兵三千八百人、一年粮料五十余万束。此(これ)に因(よっ)て百姓麋弊(びへい)、倉廩(そうりん *米蔵)空虚。蓄積無きが如く、非常を防ぐに何とす。加わるに以て往年征伐有るごとに、必ず軍粮は坂東国に仰ぐ。伏して請う 坂東官稲を以て陸奥の公廨を充つ。陸奥の公廨を以て官庫を留収す。然らば則(すなはち)公私所(ところ)を得(う)。実に便宜に?(こころよし)。 並(なら)びて之(これ)を許す。〔『類聚国史』巻八四の810(大同5・弘仁元)年5月辛亥(12日)条〕

 各国の「予算」は、大部分が正税と公廨とで成り立っている(『弘仁式』主税式では、正税と公廨が半々の国が多い。《補論 律令財政の構造と地方負担》を参照)。緒嗣は、陸奥の「百姓麋弊」「倉廩空虚」の現状をみて、坂東の官稲によって陸奥の公廨を補填し、陸奥の従来の公廨によって官倉(正税によって満たす不動穀)を満たす―このような処置で事態に対処したい、と願い出た。これは許可された。
 さらに『類聚国史』巻八三の813(弘仁4)年9月17日条では、次のような勅を載せている。

勅。辺要の地。外寇是防。不虞(ふぐ *不測の災い)の儲(たくはへ)。粮を以て重きと為す。今大軍 頻出(ひんしゅつ *しきりに表れだす)す。儲粮 悉(ことごと)く?(つく)。遺寇(*残りのあだ)猶(なお)在(あ)り。非常 測(はか)り難し。若(も)し貯蓄なくば。機急(*緊急時に)如何とす。宜しく、陸奥出羽両国の公廨 正税に混合し、毎年相換(あいかえ)て、信濃越後に於いて給すべし。但し、年穀登(みの)らず。混税の物なく。?(あわせて)公廨を得るべからざるの人有(あ)り。状に随って移送に合わせ、実に依って相換ふ。停止の事。宜しく、後勅を待つべし。

 陸奥と出羽の「予算」規模は、『弘仁式』1)主税では、次のように異なっている。
「陸奥国―正税六十万三千束。公廨六十万八千二百束(国司料五十一万一千二百束。鎮官料九万 
      七千束)。祭塩竈神料一万束。国分寺料六万束。学生料四千束。 
 …………    
 出羽国―正税十四万束。公廨廿万束。国分寺料四万束。健児粮料二万六百五十六束。」
 合計で、陸奥国128・52万束、出羽国40・0656万束であり、その規模は大きく違う。従って信濃(「予算」計68万束)越後(同じく66・845万束)の両国が、毎年交代で支給すべきというのである。

 『延喜式』主税上によると、日本諸国68か国は、大国13、上国35、中国11、下国9(嶋2)と4等にグループ分けされている。この内、陸奥国は大国に、出羽国は上国に属している。そして、陸奥出羽両国の「予算」規模は、陸奥の正税を除き、両国の公廨と出羽の正税は、以下のように格段と増加している。出羽の公廨に至っては、『弘仁式』よりも2・2倍である。
陸奥国―正税60・3万束+公廨80・3715万束(国司料64・12万束。鎮官料16・2
     515万束)+寺社料など5・6万束+救急料12万束=計158・2715万束。
出羽国―正税25万束+公廨44万束+寺社料1・298万束+健児料5・8412万束
    +修理官舎料10万束+池溝料3万束+救急料8万束+国学生食料0・2万束=計97・3392万束
 しかし、この『延喜式』主税上の相模国の箇所をみると、「相模国。正税・公廨各三十万束。国分寺料四万束。大安寺料二万六千九百束。文殊華会料二千束。薬分料一万束。鎮守府公廨五万四千三十七束。修理池溝料三万束。救急料七万一千束。俘囚料二万八千六百束。官牧馬牛直五千五百八十三束。」と、陸奥の鎮守府へ公廨5・4037束も支給されているのである。38年戦争から100年も経過しているにもかかわらず、未だ以て鎮守府への支援が5・4万余束の規模で行なわれているのである。 
 確かにかつてのような「東国総がかり」での征夷ではないが、坂東の一つ相模国からの鎮守府支援が大規模に継続されている。このことは、エミシへの軍事的警戒と治安警備が依然として続けられていることを示すのであった。
*  *  *  *
 律令体制化の農民たちは、8、9世紀、過酷な収奪に逃散をもって抵抗する。このため、農民に土地を分配し税を徴収する口分田(くぶんでん)制が形骸化し、820年前後頃から大土地経営が容認されようになる。税収の基本が個別人身から土地へ転換したのである。これは律令制の大修正であり、荘園制をさらに発展させた。
 藤原道長に代表される摂関期(10世紀前半から11世紀後半)は、繁栄の「王朝国家」体制を作り上げたかのように見えるが、その基底部では受領層(主に中級貴族)の地方での恣意的な地方政治・農民収奪によって支えられたものである。律令制はますます変質し、12世紀中頃から「武者の世」が次第に拡大するのであった。  (未完)

注1)「弘仁式」は、820(弘仁11)年に、「弘仁格」とともに編纂を終え、諸官庁での検討を経て、830(天長7)年に完成した。格(きゃく)とは、古代日本の基本法である律令(りつりょう)の不備を補うために詔勅や太政官符の形で公布された法規であり、式(しき)とは、律令の施行細目である。

《補論 律令財政の構造と地方負担》
 早くから領域国家の発達した古代中国では、当然にも財政も発達し、堅固な設計思想がうたわれた。すなわち、「国に九年の蓄え無きを不足と曰(い)ひ、六年の蓄え無きを急と曰ひ、三年の蓄え無きを、国其(そ)の国に非(あら)ずと曰ふなり。三年耕して必ず一年の食有り。九年耕して必ず三年の食有り。三十年の通を以てするときは、凶旱(きょうかん)・水溢(すいいつ)有りと雖(いえど)も、民(たみ)菜色(さいしょく *穀物が足らず野菜を食って顔色が悪いこと)無し。……」(『礼記』)というのである。30年の収穫を通算して1年の経費を定めれば、たとえ凶作・旱害・洪水があっても、人民を飢えさせない―というのである。(拙稿『漢代専制国家の支配秩序と官僚制の構造』2012年 を参照)
 また、儒教国家のイデオロギーにも影響され、賑給(しんごう *貧民に対する施し)・
が重視された。このためにも、備蓄は極めて重視された。
 律令制下の地方財政の主な財源は田租と出挙であるが、租は収納されると税(大税、のち正税)となる。人民から収取した官稲を日本でも蓄積するようになるが、その蓄積は遅くとも8世紀初頭からと思われる。渡辺晃宏氏によると、「大宝令施行に伴って大税が成立した」と言われる(同著「律令国家の稲穀蓄積の成立と展開」―『日本律令制論集』下巻 吉川弘文館 1993年)。
 村尾次郎氏によると、「律令国郡制の成立から天平六年(*734年)までの間における諸国官稲は、国、郡、および駅から成る行政組織に応じて、大税(正税)、郡稲、公用稲など数種に分れ、それぞれ別に管理運営された。郡稲以下は雑色官稲(雑官稲、雑稲)と称して大税と区別する。」(同著『律令財政史の研究』1961年 吉川弘文館 P.292~293)と言われる。
 708(和銅元)年には、郡司支配を強化するために、不動穀制がはじまる。不動穀とは、不動倉(官倉には、動用と不動の区別があるが、後者は非常時に備え長年かけて貯えるための倉)に蓄積された穀(稲穀)のことである。不動倉は満杯になると鍵がかけられ、その鍵は朝廷が管理する。「養老(*717~724)から天平に至り、稲穀(*籾殻がついたままの米)は田租を中心に田租三〇年分ほど、すなわち一年分の収穫総量に等しいほどの蓄積を得た。」(渡辺前掲論文)のである。
 この実績を背景に、735(天平6))年には、駅起稲を除く雑色官稲はすべて正税に統合される官稲混合が行なわれる。そして、駅起稲も739(天平11)年に統合される。これは、郡司の稲に対する影響力を吸い上げ、正税確立の総仕上げとなった。
 官稲の一本化により、公出挙(くすいこ)1)もまた大規模に運用され、出挙制は天平年間(729~749)に急速に広がるようになる。「その後、天平一七年(*745年)には公出挙制は国ごとの論定稲(ろんていとう)や公廨稲(くがいとう)の設置をみるなど、一層整備されるとともに、完全に税制(*資金融通の建前を捨て)として位置づけられるようになった。」(佐藤和彦編『租税』東京堂出版 1997年 P.10〔相曽貴志氏執筆〕)のである。
 論定稲は、『続日本紀』が「諸国出挙の正税を論定し、国ごとに〔*国のランクにより〕数有り。但し、多?(*種子島)対馬両嶋は限り(*規定)に入らず。」(天平17年10月5日条)というもので、出挙に出す正税の量を国のランクで論じ定めることである。
 同年11月27日には、出挙に当てる稲の限度を、大国40万束、上国30万束、中国20万束(大隅・薩摩は各4万束)、下国10万束(飛騨・隠岐・淡路は各3万束、志摩・壱岐は各1万束)とした。そして、「官物(諸国の正倉の稲)の不足分がまだ収納されていない場合は、公廨稲出挙の利息をもって埋め合わせ、これ以後は未納による不足を太政官に申告することを許さない。」とした。
 757(天平宝治元)年10月11日、太政官は、近頃、国司が交代する際、公廨稲をめぐって争論が起こり、上下の秩序が失われているので、次のように新しい式(法令)を設けるとした。それは、「凡そ、国司が公廨稲を処分する法は、今年度にあがる公廨稲を集計し、先ず官物の欠損や未納の分を埋め合わせ、次に国内に蓄えておくべき分をわけとり、最後に実際に残った分を、等級によって配分せよ。その配分は守(かみ)に六分、介(すけ)に四分、掾(じょう)に三分、目(さかん)に二分、史生(ししょう *書記)に一分とする。国博士と国医師は史生の分と同じとする。員外官は各担当官に准ずるものとする。」(『続日本紀』)というものである。
 薗田香融氏の研究によると、一分は約2000束〔米約40石に相当〕であり、守はその6倍(240石)が、毎年、規定外の俸給として、手に入れることができるのであった。
 しかし、律令財政の変質は、宝亀年間(770~781)頃から目立ち始め、調庸の粗悪化・未進が次第に増大する。その原因は、本文で示したとおりである。38年戦争は、この変質をさらに推し進める。このため、中央官人の給与は次第に地方に直接依存するようになり、ついには、879(元慶3)年、畿内に4000町の官田を設け、そこから支給するようになる。その背景には、正税が不足し、ついには不動穀を使い尽すほどになったことがある。 

注1)出挙は律令制以前からあるが、雑令によると、出挙には公出挙と私出挙があり、利息は複利計算を認めず、10割を限度とし、債務者が弁済できない場合は、役務をして返済するとある。公出挙は稲を毎年、春夏の二度、頴稲で貸し出し、秋の収穫後に利息(5割が原則だが3割になった時もある)とともに回収される。公出挙はもともと勧農的・救貧的な目的をもっていたが、天平期には強制的な貸付けとなり、完全に税制となっている。