古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史㉓
  奥羽出羽の任務―饗給・征討・斥候
                                 堀込 純一

       Ⅷ日本律令制下での辺要国の役割 
  
   (1) 辺要国とその特殊な任務

 (ⅰ)華夷思想の下での辺要国

 律令制国家は、中国の華夷思想にならって、天皇の支配権のおよぶ範囲を、「化内(けない)」とし、その外側を「化外(けげ)」とした。「化外」とは、一方的に、“王化のとどかない、未開の地”と決めつけられた存在なのである。「化内」「化外」の区分は、近代国家のような厳格な国境線をもたないものであり、その境はあいまいであった。
 しかし、「化外」といっても当時の現実にそぐわないため、「化外」は、隣国=唐、外蕃=高句麗・百済・新羅、夷狄=隼人・蝦夷と3種に区分された。夷狄は、天皇の王化にしたがわず、国家も形成していない未開の地なのである。
 養老令(757〔天平勝宝9〕年に施行)は、夷狄の居住する国を「辺遠国」と規定している。
 賦役令―辺遠国条によると、「凡そ辺遠(へんをん)の国の、夷人(いにん)の雑類(ぞうるい)有らむ所にして、調役(ちょうやく)1)輸(いだ)すべくは、事に随(したが)ひて斟量(しんりょう *程よくきりもりすること)せよ。必ずしも華夏(*日本内諸国)に同じくせず。」としている。
 天平期の律令注釈書である「古記」によると、「夷人雑類」とは、「毛人、肥人、阿麻彌(あまみ)人」など、あるいは「隼人(はやと)・毛人(*蝦夷人)」であり、「雑類」とは、「華夏(*化内の百姓を指す)と雑居」している夷人であるという。すなわち、「辺遠国」とは、夷人と百姓が雑居している所で、調役の特別規定をもっている国なのである。
 また、仮寧令(けにょうりょう)―官人遠任条では、「凡そ官人、遠任(をんにん *遠隔地の国司など)及び公使(*官使)して、父母の喪に解官(げかん *官職をやめること)すべからむ〔*しなければならない〕、人の告すること無くは〔*役所に報告する便宜ある使者がいなければ〕、家人(けにん *家族)所在の官司(*役所)に経(ふ)れて、陳牒(ちんちょう *文書にして報告)して告追(ごうつい)すること聴(ゆる)せ。若(も)し勅を奉(うけたまは)りて使(つかいひ)に出(い)でむ、および任(にん)辺要に居(あ)らば、官に申して処分せよ。」として、「辺遠国」を「辺要(国)」と表記している。それは、「遠任」と「辺要」が呼応していることで明らかである。「辺要国」とは、辺境の軍要地のことである。

 (ⅱ)辺要国の変遷

 ところで、古代日本の地方区分は、五畿七道と称せられる。ここでは、畿内(うちつくに)と畿外に大きく分けられている。そのうち五畿とは、畿内を構成する五カ国で、山城(794年に山背から改称)・大和・河内・和泉・摂津である。律令制が成立した当初は、四畿(しき)であったが、757年に河内から和泉が分かれ、五畿となった。
 畿外を七道に分けたのは、天武朝のころで、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七つである。七道は、もともとは畿内から各方面にのびる幹線交通路の名称で、諸国はそれぞれの国府がこの交通路で結ばれる形でいずれかの道に属した。その結果として、七道がそれぞれ属する諸国を、畿内を基準に近国・中国・遠国に区分する形となった(ただし、西海道に属する諸国はすべて遠国で、畿内と結びついていない)。
 畿内は、大和王権が在地首長を介することなく直接支配していた直轄地であるとともに、他方、律令官人の供給地・本拠地でもある。畿外は、かつての国造制の形態を色濃く残し、実際には郡司など在地首長の権威と勢力に依存する形で、大和王権の支配が行なわれた。(「畿」とは、古代中国で帝都を中心にした五百里四方の天子直属の土地) 
 七道の諸国は、律令の職員令によると、道ごとに「近国」「中国」「遠国」にグループ分けられ、かつ大国・上国・中国・下国の4ランクに分けられた。
 一例としてあげると、東山道は、【近国】近江国(大国)・美濃国(上国)、【中国】飛騨国(下国)・信濃国(上国)、【遠国】上野国(大国)・下野国(上国)・陸奥国(大国)・出羽国(上国)に分けられる。東山道では、大国が3、上国が4、中国がゼロ、下国が1―である。
 職員令―大国条では、大国の規程として、次のように述べている。

守一人。祠社、戸口、簿帳、百姓を字養し、農桑を勧課し、所部を糾察し、貢挙、孝義、田宅、良賤、訴訟、租調、倉廩、徭役、兵士、器杖、?皷(鼓)吹、郵駅、傳(伝)馬、烽候、城牧、過所(*通行手形)、公私の馬牛、闌(欄)遺の雑物、および寺・僧尼名籍の事を掌(つかさど)る。餘(よ)の守(かみ)〔*上国・中国・下国の守〕此(これ)に准ぜよ。其(その)陸奥・出羽・越後等の国は、兼(かね)て饗給(A)、征討、斥候(B)を知(つかさど)る。壹(壱)岐・對(対)馬・日向・薩摩・大隅等の国は、惣(す)べて鎮捍(C)、防守、および蕃客・帰化を知(つかさど)る。三關(関)国は、又(また)關?(D)および關契の事を掌(つかさど)る。介一人。守に同じく掌ること。餘の介此に准ぜよ。大掾一人。……少掾一人。……大目一人……少目一人。……史生三人。

 諸国には、中央から国府に役人が派遣され、政務をとった。派遣された役人を国司といい、守(かみ)―介(すけ)―掾(じょう)―目(さかん)の4ランクがあった。守の仕事にはまさに、先にあげたように実に諸々のものがある。
 それに加えて、「其(その)陸奥出羽越後等の国は、兼て饗給(A)、征討、斥候(B)を知る」ことが、付加されている。
 『令義解(りょうぎげ)』2)では、この「饗給」の割注として(A)が述べられている。すなわち、「謂ふこころは、食を饗(もてな)し、?(なら)びに禄(ふち *俸給)を給(たま)ふ也。」である。結局、饗給は、エミシを戸貫(民間の戸籍)に付かせる意図をもって、食でもてなし、禄を与えることである。
 「征討」は、文字通り、武力で打ち尽くし、征服することである。
 「斥候」の割注(B)には、「謂ふこころは、斥は逐(お)ふなり。非常に於いて候(うかが)ひ逐ふを言(い)ふ也。」とある。非常事態に際して、敵情をうかがい、おいはらうこと―である。
 このように、陸奥・出羽・越前の国々は、通常一般の任務以外に、エミシを政治的に懐柔したり、あるいは軍事的に征服したりして、エミシを服属させる(これにより、同時に版図を拡大させる)重要な任務があったのである。
 これに対して、職員令―大国条は、「壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅等の国は、惣べて鎮捍(C)、防守、および蕃客・帰化を知(つかさど)る」としている。
 鎮捍(ちんかん)の割注である(C)は、「謂ふこころは、捍は衛なり。寇賊を鎮衛するを言ふ也。」と述べている。寇賊とは、外部から侵入し、殺戮する悪者を指し、これを鎮め、国や民を衛(まもる)ことである。防守も似た意味をもつが、もっと広く外敵一般から守る意である。「蕃客」は、外国使節の送迎を含めた接待を指す。帰化は、「化外」の人を日本籍に属させることである。
 壱岐・対馬などの特別な任務は、陸奥・出羽のそれと比較し、軍事面のみならず、広く政治面外交面も含めた視野で「化外」の人に対処する傾向が強い。これに比し、陸奥・出羽では、より以上に軍事的な意味合いが濃厚である。この違いは、対象の違いに基づくと思われる。壱岐・対馬などでは、相手が自分らよりも文化が進んでいること、古くからの侵略戦争や「防衛戦争」の経験が累積していることなどから、軍事のみならず政治・外交など総合的な対処の姿勢をもっており、露骨に征服しようという姿勢は顕していない。
 しかも、長い歴史的な経験から、七道の中では、唯一、諸国の直接の上級機関としての大宰府をもっている。吉備大宰など他の地方の大宰(たいさい)は、国へと発展的に廃止されたが、この大宰府だけは大宝令で整備され、その後も残った。 
 大宰府は西海道諸国(9国3島)を管轄し、その官人規模は、中央から派遣される者だけでも50名ほどとなり、大国の国府の9名ほどと比べてもその大きさがうかがわれる。大宰府は、まさに中央政府の縮小版であり、「遠の朝廷(とほのみかど)」ともいわれた。
 賦役令―辺遠国条で言われた「辺遠国」は、仮寧令―官人遠任条では「辺要」と表記されていた。「古記」は、具体的には「伊伎・対馬・陸奥・出羽」をあげている。この「辺要国」は、前述の職員令―大国条では、具体的に、「其(その)陸奥・出羽・越前等の国……。壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅等の国……」として、区別された形で特徴づけられていた。
 以上から、辺要国は、養老令(757年施行)では、東辺が陸奥、北辺が越後・出羽、西辺・南辺が壱岐・対馬・日向・薩摩・大隅と、観念されたと思われる。
 それが、『延喜式』(927〔延長5〕年に完成)の民部省式―国郡条では、全国の国郡名を列挙したあとの最後に、「陸奥国、出羽国、佐渡国、隠岐国、壱岐嶋、対馬嶋。/右四国二嶋は辺要を為す」と、規定している。
 両者を比較すると、越後、日向、薩摩、大隅が辺要国からはずされ、代わって、佐渡国と隠岐国が辺要国に組み入れられた。
 しかし、陸奥・出羽以外の国や嶋は、他国との関係が海によって隔てられ、しかも相手はすでに国家を形成しているのである。だが、陸奥・出羽は南部を常陸や越後と接し、陸奥の東は太平洋で・出羽の西は日本海で隔てられているが、北方方面は国家形成をなしていないエミシと接するだけで「国境」が存在していないのである。版図拡大の余地が十分にあったのである。
 これに関連することは、国名にもある。陸奥国は7世紀半ば頃に建国されたと言われるが、もともとの名は「道奥国(みちのおくのくに)」(この約称が「みちのくのくに」)である。「道奥国」の表記法は、676(天武5)年までには「陸奥国(むつのくに)」に変わった。この「道奥国」は、他の国名と違い、東海道・東山道の奥、すなわち最末端に位置する国という意であった。従って、はじめから「道奥国」の北方の国境は画定していなかったのである。

    (2) 辺要国陸奥の官制

(ⅰ)大国陸奥の国府

 道奥国の国府は、720年のエミシ蜂起で体制の建て直しを迫られ、その一環として多賀城(724年頃に完成)に移され定着した。それ以前の国府は、仙台市郡山遺跡にあったと考えられている。
 国府を担う国司の任務は、養老令・職員令―大国条で前述したように、他国の国司と同じで、戸籍作り、農桑の勧課、軍備の維持などじつに広範囲にわたっている。
 越後国では、8世紀はじめに越中国の頸城(くびき)・古志(こし)・魚沼・蒲原(かんばら)の4郡を、さらに新設の出羽郡を管轄下に置くようになる。712(和銅5)年には、この出羽郡と、陸奥国の最上(もがみ)郡・置賜(おきたま)郡を併せて、出羽国が建国される。そして、出羽国は、721(養老5)年には、陸奥按察使(後述)の管轄下に置かれる。

(ⅱ)陸奥のみに設置された鎮守府


 鎮守府は、奈良時代前半(729〔天平元〕年に、鎮守府将軍の名が初めてみえる)に、陸奥国のみに設置された軍政機関である。軍政とは、占領地で軍が行なう行政のことである。鎮守府の主な機能は、通常の守備と城柵の造営・維持などである。
 軍防令(ぐんぼうりょう)―縁辺諸郡人居条によると、「凡そ東辺北辺西辺に縁(よ)れる諸(もろもろ)の郡の人居(ひとゐ *人家)は、皆(みな)城堡(じょうほう *土を高く盛って堡塁〔砦〕にしたもの)の内に安置せよ。其(そ)れ営田の所には、唯し庄舎(しょうじゃ)置け。農の時に至りて、営作に堪(た)へたらば、出でて庄田に就(つ)けよ。収斂(しゅうれむ *収穫)し訖(おわ)りなば、勒(ろく)して還(かえ)せ〔*取締って城堡に戻せ〕。其れ城堡崩(くず)れ頽(お)ちたらば、当処の居戸(ここ)を役(えき)せよ。閑(いとま)に随ひて修理せよ。」と、されている。
 通常は、人々は城堡内で生活し、農事の忙しい時期には、庄田に小舎を作りおき、そこで寝泊まりし働く。収穫が終わったならば、また城堡に戻せ。城堡が崩れたならば、そこに住む者たちに課役して修理させよ―というのである。
 城柵の造営と維持は、東国などから徴発された鎮兵と共にあたった。
 鎮守府は、はじめ多賀城に置かれたが、759(天平宝字3)年には、鎮守府将軍以下の俸料と付人(つきびと)の給付が陸奥国司と同じ額と決められた。このころより、鎮守府将軍は4年ごとに任命されるようになった。
 802(延暦21)年、坂上田村麻呂らによって胆沢城(現・岩手県水沢市)が造られると、鎮守府は808(大同3)年までに多賀城から胆沢城へ移された。その後の鎮守府は、多賀城にある陸奥国府と併存した形で、いわば「第二国府」のような役割を担い、前線である胆沢地方(現・岩手県南部)を治めた。

(ⅲ)陸奥出羽を統括する按察使

 中国の古代専制国家をまねて作られた律令制国家は、711(景雲2)年、唐の睿宗(えいそう)が州の上位の道に、道別一人の按察使(あんさつし)を置いたことを真似て、按察使(あぜち *「あんさつし」の約)を設置した。「国司が郡司を監督し、郡司が郷長以下の百姓を監督するという従来からのシステムにまかせていず、国司のうえにこれを監督する按察使という官を任命したのは七一九(養老三)年である。畿内と大宰府をのぞく諸国を、数ヵ国ずつのグループに分け、その一国の長官に他国の長官を監督させたのである。大宰府に置かれなかったのは、すでに大宰帥(だざいのそつ)という実質上の按察使がいたためであり、畿内にはまもなく摂官(せっかん *按察使と同類)というのが置かれることになった。」(日本の歴史3 青木和夫著『奈良の都』中公文庫 1973年 P.122~123)からである。
 陸奥・出羽を統括したのが、陸奥出羽按察使である。按察使は他国ではその後廃止されていくが、陸奥出羽では遅くまで無くならなかった。それは、エミシ制圧のための行動がしばしば陸奥・出羽両国の共同行動あるいは相互支援の下で行なわれてきたためである。

 (ⅳ)臨時に設けられた征夷将軍

 大和朝廷の征服にエミシが広範に決起し反乱した場合には、中央政府は臨時に大規模な軍を組織し、陸奥出羽に派遣し弾圧した。それらは、具体的には本シリーズの⑤~⑧で述べた。
 軍防令―大将出征条は、「凡そ将帥(しょうそち)征に出でむ、兵一万人以上に満ちなば、将軍一人、副将軍二人、軍監二人、軍曹四人、録事(ろくじ)四人。五千人以上ならば、副将軍・軍監各(おのおの)一人、録事二人減せよ。三千人以上ならば、軍曹二人減せよ。各一軍と為よ。三軍惣べむ(*統括する)毎(ごと)に、大将軍一人。」と定める。一軍は、1万人以上・5000人以上、3000人以上の3種の規模がある。これらが三軍になると、大将軍を設けた。
 エミシ征討のために派遣された兵の統括者は、持節鎮狄将軍、出羽鎮狄将軍、征越後蝦夷将軍、陸奥鎮東将軍、持節征東将軍、持節征夷大将軍、征夷大将軍など、さまざまな名称を付けられた。「凡そ大将(だいしょう)征(しょう)に出(い)でば、皆(みな)節刀(*天皇から征討などの使いに際し賜る刀)授(たま)ヘ。」(軍防令―節刀条)といわれる。持節とは、天皇が賊徒征伐の節〔しるし〕として、将軍に刀などを賜ることであり、節を天皇と思い、独断専行せよ! と命じられた。このような権限を与えられた人を、持節大使・持節将軍といった。
 なお、征東大使は、793年2月に、征夷大使に改称された。征東大使とは、征東将軍のことである。

 古代陸奥国には、令制としての国司のほかに、令下の官(大宝令で定められた以外の官)として陸奥出羽按察使と鎮守府があった。按察使は陸奥国の守を兼任していたが、さらに鎮守府の将軍をも兼務することが、737~808(天平9~大同2)年の間には、しばしば存在した。たとえば坂上田村麻呂は、796~808(延暦15~大同元)年の間、按察使と陸奥国守を兼任し、796~800年の間にはさらに鎮守府の将軍も兼務した。しかし、808年の官制改革によって、それ以降、陸奥国の官人兼任はなくなる。(つづく)

注1)調役(ちょうえき)の調は、絹・綿・糸など繊維製品を中心に、海産物や鉄など各地の特産物を納める物納税の主なもの。役とは、労力を納める税。
 2)『令義解』は、834(承和元)年12月に施行された。それは、大宝律令(701年に完成)、養老律令が施行されて以来、まちまちになっていた解釈を統一させるために、当時の法律学者・実務家が集まり、さまざまな解釈なうち最も妥当と思われるものを採り上げ、それに従うべきとした。