古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史

日本内外でエミシの抵抗が続く
                            堀込 純一

Ⅻ 日本諸国と植民地でのエミシの反乱

 (1)移配エミシの訴え叶わず遂に反乱へ

 移配されたエミシたちの屈辱・不満、さらには反発は、当然のことであるが、簡単には解消するものではなかった。エミシたちの訴えはかなえられず、ついには反乱に決起するような事態となる。
 以下は、「正史」に記されたいくつかの事例である。
*814(弘仁5)年、出雲国で、大規模な反乱が勃発する。『類聚国史』巻190に、次のような記述がある。「〇二月戌子(*10日)。夷(エミシ)第一等遠膽澤公母志に、外従五位下を授く。出雲の叛俘を討つの功を以てす。……〇癸巳(*15日)。出雲国俘囚吉弥侯部高来(きみこべのたかき)・俘囚吉弥侯部年子(としね)に、各(おのおの)稲三百束を賜う。荒橿(あらかし)の乱に遇(あ)い、妻孥(さいど *妻子)害されるを以てなり。〇五月甲子(*18日)。出雲国意宇(おう)・出雲・神門(かんど)三郡の未納稲十六万束を免除す。俘囚の乱が有るに縁(よ)ってなり」。
 この年の2月以前に俘囚の反乱があり、その鎮圧に参加した遠膽澤公母志が外従五位下を授けられる。この時かあるいは別の叛かは不明であるが、荒橿の乱で妻子が殺された俘囚も、稲300束を授けられている。乱は2月で終わらず、5月にはさらに拡大している。出雲3郡の全倉(*貯稲穀に欠損がない倉)の倉が焼き打ちになっている。
*823(弘仁14)年5月5日―「甲斐国の賊の首領である吉弥侯部井出麻呂(いでまろ)ら子どもを含め十三人をすべて伊豆国へ配流(はいる)した」(『日本後紀』)と言われる。何故に、どのような事件が起こったのか。これらは一切不明である。しかし、流刑地としては、一般的には、甲斐国よりも伊豆国の方が恵まれている。この流刑地変更の理由も不明である。
*848(承和15)年2月10日に、上総国で、俘囚丸子廻毛(まるこのつむじ)らが反乱した。事件の報告が朝廷に入り、直ちに相模(さがみ)・上総(かずさ)・下総(しもふさ)など5か国に勅符を下して制圧に向かわせた。しかし、そのわずか2日後に、上総国から反乱を起こした俘囚57人を斬獲(*斬り捨てと逮捕)したとの報告が入る(『類聚国史』巻190)。この反乱も、いかなる事情から起こったかは不明である。しかし、57人のエミシが殺されたり、逮捕されたところを見ると、かなりの規模であることがうかがわれる。
*866(貞観8)年4月11日、近江国からの報告で、「播磨国賀古(かこ)・美嚢(みのう)二郡の俘囚長宇賀古秋野・尺漢公手纏等五人、妄りに出でて境を越え、来たりて此(こ)の国(*近江国)に在る。」ことがわかる。ここでも何故に、エミシたちが播磨国を脱出したのか、その理由は明らかではない。ただ次のような太政官符が、播磨国に下された。「凡(すべ)て夷俘の性、野心(*野性)にして悔い無し。放縦(ほうじゅう)かくの如くして、往来(おうらい)意(い)に任(まか)して、出入り自由。是(これ)則(すなはち)国司の防禁(ぼうきん)疎略(そりゃく)にして、存恤(そんじゅつ *問い恵む)の心無きが致す所なり。須(すべか)らく守(かみ)三原朝臣永道、その事に専当し、暁(あかつき)に法教を以てし、兼ねて優恤(*手厚い恵み)を加え、其(そ)の愁苦を慰め、其の罪過を懲(こ)らしむべし。自今(じこん)以後、堺を出るを得ず。」(『三代実録』)と、説教と恵みを与えながら、その罪をとがめよ、と専当国司・三原永道に命じている。エミシたちが、なんらかの生活上の強い不満があったことは、疑い得ない。
*875(貞観17)年に、下総国と下野国で、俘囚が反乱する。5月10日に下総国から、反乱が起こり、官寺を焼き、公民を殺略したとの報告が入る。朝廷は直ちに下総国に官兵を発して制圧するようにと、武蔵・上総・常陸(ひたち)・下野の国々にそれぞれ300人の兵を出すように命じた。ところが6月19日、今度は下野国から「反虜」89人を殺獲したとの報告が入る。7月5日にも、同国??から「賊徒」27人を討ち殺し、帰降した俘囚4人も殺害したとの報告が入る(『日本三代実録』)。この反乱も、理由が定かでない。 
 38年戦争の下で、帰服した夷俘が総べて日本の諸国(陸奥・出羽両国を除く)へ移配されたわけではない。中には、陸奥・出羽のもともとの居住地で暮らすエミシも存在した。
 このことは、今までの事例の中でも、しばしば触れられているが、他の事例で見ると、たとえば、780(延暦11)年11月3日、陸奥の帰服した夷俘(いふ)である尓散南公阿波蘇と宇漢米公(うかめのきみ)隠賀(おんが)および俘囚吉弥侯部(きみこべ)荒嶋(あらしま)らは、朝堂院で饗応され爵位が上った。
 この時、桓武天皇が詔を下すが、その中で、これら夷俘が「いま、自分たちの国へ帰り奉仕したい」ということを聞いたので、「位を上げ、天皇がみずから物を手渡し賜わる」とし、また「今後も誠実で勤勉に仕えれば、ますます物を賜わることになる」と述べている。この夷俘たちは、明らかに陸奥に戻ったのである。
 また、811(弘仁2)年9月末ころ、征夷将軍文室綿麻呂が率いた戦いでは、いわゆる「俘軍」(現地の帰順したエミシで構成された部隊)が「活躍」していることでも明らかである。
 しかし、矛盾を抱える陸奥・出羽国でも、多くのエミシたちが唯々諾々と従がっていたわけではない。以下のように、次々と反乱が生じているのである。
*813(弘仁4)年に、吉弥侯部(きみこべ)止彼須可牟多知(とひすかむたち *二人分の人名とみられるが、どこで区切るかは不明)らが反乱する。
*817(弘仁8)年9月には、かつて綿麻呂の征夷で俘軍を率いた吉弥侯部(きみこべ)於夜志閇(おやしへ)ら61人の反乱が続出する。(『類聚国史』巻190)

  (2)陸奥の俘囚と「和人」の対立騒乱状態へ

 837~840(承和4~7)年にかけて、陸奥国は騒乱状態となる。日頃から抑圧されてきた俘囚たちは、生活の困難な中で、なんとかして希望を見出そうとする。そんな折り、837年4月、玉造塞温泉石神で火山活動が起こり、雷鳴が轟き、昼夜鳴りやまず、温泉が河に流れ、山が焼け谷が塞(ふさ)がり、岩が崩れ木々がへし折られるという天変地異となる。この火山活動が前年春からの社会不安を増幅させ、百姓の逃亡と、俘囚の離反を招く。
 『続日本後紀』承和4年4月21日条によると、「栗原賀美両郡の百姓逃げ出す者多し。抑留するを得ず」とある。植民した「和人」たちが俘囚とトラブルとなり、大挙して逃亡し、これを止めることが出来ない、とのことである。だが他方、「栗原桃生以北の俘囚、控弦〔*弓を引く兵士〕巨多にして、皇化に従うと似せて、反復定まらず」とあるように、多くの俘囚が武装して、天皇・朝廷に服従するとみせかけながら、実際はそれとは異なる行動をしている、とのことである。
 このため、陸奥出羽按察使は、ただちに1000人の援兵を差発(兵士を徴発し、派遣すること)するとともに、この事後承諾を朝廷に求めた。
 839(承和6)年4月には、災星を見たり、地震の頻発で、大勢の百姓が畏(おそ)れて恐怖感から逃亡する。また「胆沢多賀両城の間、異類(*俘囚のこと)延蔓し、控弦数千」という騒乱となる。胆沢城(鎮守府)と多賀城(国府)の間は、数千の武装した俘囚で席巻された、というのである。朝廷は、陸奥守良岑木連と鎮守将軍匝瑳(そうさ)末森に対する勅符で、援兵1000人の差発を事後承諾している。
 翌840年には、再び良岑木連と匝瑳末森に対する勅符で、今度は2000人の援兵の差発を事後承認している。これは、「奥邑の民、庚申と称して、潰れ出しの徒(*破産者)抑制能(あた)わず」という騒乱状態を鎮めるためである。(『続日本後紀』)
 「庚申を称」すというのは、840年の60年前の780(宝亀11)年に呰麻呂の乱があり、さらにその前の720(養老4)年にも陸奥エミシの反乱があったことから、840年にも反乱が起こるという噂がしきりに流れたことを指す。社会不安は、このうえなく高まったのである。
 この度は、837年や839年の場合の倍に当たる、2000人の差発である。事態は、さらに深刻化したのである。
 似たような騒乱は、854~855(斉衡元~2)年にも起こっている。
 『日本文徳天皇実録』の斉衡元年4月28日条は、「陸奥国、奏して曰く、『去年登(みの)らず。百姓困窮し、兵士逃亡し、すでに屯戍(とんじゅ *たむろして守ること)乏(とぼ)し。今(いま)虎狼の類(*俘囚などを指す)、争いて強盗に走り、逆乱の萌(きざ)し、近くは目前に在(あ)り。請う、援兵二千人を発するを。以て不虞(ふぐ *不測の災難)に備(そな)う。勅して一千人の発(*徴発)を許す。」と述べている。 
 凶作のために百姓は困窮し、兵士も逃亡し、屯衛もまた手薄となっている。そこに俘囚などが競い合いあって「強盗」し、反乱が迫っている―というのである。従って、2000人の徴発を請求したのである。朝廷は、半分の1000人の範囲で許可した。
 5月15日の勅では、「穀(こく)一万石を以て、俘夷に賑給(しんごう)す。」としている。9月29日には、「陸奥国百姓、一年復(のぞ)く。」とあるように、「和人」にも一年間の徭役免除としている。
 しかし、翌855年1月15日、陸奥国の奏によると、「奥地俘囚ら、彼此(かれこれ)刃(やいば)を接し、同種を殺傷す。」という事件が引き起こされている。このため、援兵2000人の差発が要請され、これが許されている。何が原因なのかは不明であるが、奥地俘囚の間での争いが起こり、2000人の兵士が徴発されたのである。
 だが、さらに1月27日、陸奥国は駅馬の至急便で、2000人の追加要請がなされる。これに対し、勅は農事も大事であり、兵もただ多ければよいというものでもないとし、「近城兵一千人を簡抜」することに止(とど)め、賑給の料籾(*給与のモミ)一万斛(*石)を支給した。
 この年(855年)は、大雨や地震など天災が続き、とくに地震は1年間で11回も記録され、大仏の頭も落下するほどであった。10月19日には、「出羽国百姓の困窮者万九千余口(*19000余人)を復(のぞ)く〔*徭役を免除する〕。」としている。
 「正史」では、その後20年ほどは、エミシの反乱は載せられていない。だが、この間の貞観11(865)年には、有名な貞観地震・津波が起こっている。『日本三代実録』を参考にして、地震・津波の被害と復興過程を柳澤和明氏は、次のようにまとめている。「貞観地震・津波は、貞観一一年五月二十六日……の夜に発生した。人的被害は溺死者約一〇〇〇人、圧死者(不明)、地割れに落ち込んだ死者(不明)で、物的被害は家屋の倒壊、多賀城の城郭・倉庫・門・櫓・築地塀の倒壊、原野・道路の広範な浸水、田畠・作物の被害、土地被害は地割れ、広大な津波浸水被害であった。他の関連史料からは、陸奥国(福島・宮城・岩手県域)でもっとも被害が甚大であったこと、隣接する沿岸国の常陸国(茨城県)などにも被害があったことがうかがえる。」(同著「九世紀の地震・津波・火山被害」―『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』吉川弘文館 2016年 に所収 P.163~164)としている。
 そして、都に被害の第一報が届いたのが、40日余後の7月7日であり、その遅れは被害の甚大さを示している。朝廷は、地震・津波発生から98日後の9月7日に、ようやく「検陸奥国地震使」を派遣している。具体的な復興策は、「①貞観十一年十月十三日、清和天皇は詔で災異思想にもとづく復興理念と具体的な復興施策(使者の派遣、被害者への賑恤〈しんじゅつ *食料などの供給〉、死者の埋葬、被災者の税〈租・調〉免除、鰥・寡・孤・独〈身寄りがなく自立できない者〉の手厚い救済)を表明した。②~⑥(略 *神仏への祈願)。……⑦陸奥国の復興人事として、翌年正月二十五日には、蝦夷の反乱に備え、軍事官僚・小野春枝を陸奥介(直後に権守〈ごんのかみ〉)に補任した。⑧新羅の侵攻の可能性もあったことから、弟の小野春風を対馬守に同日補任した。⑨二月十五日には、神功皇后の韓半島遠征伝承と縁の深い諸社(八幡大菩薩〈宇佐八幡宮〉、香椎廟、宗像大神、甘南備神)と神功皇后陵、祖父の仁明天皇陵、父の文徳天皇陵、諸山陵へ奉幣した。⑩九月十五日には、新羅海賊被疑者一〇人を陸奥国に移配した。(*内、3人は造瓦技術の指導者)……⑪貞観18年(八七六)十一月二十九日には、清和天皇が二七歳の若さで譲位した。……」(同前 P.164~165)のであった。清和天皇の譲位は、相次いだ災異を自らの身を引くことによって鎮静化させようとしたものである。
 その後、『三代実録』875(貞観17)年11月16日条によると、出羽国の報告として、「渡島荒狄、反叛し、水軍八十艘で、秋田・飽海(あくみ)両郡の百姓二十一人を殺略す。」という事件が起こっている。 (つづく)