古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑳

隔離・分散と同化政策に不満と反乱
                        堀込 純一

Ⅺ 蝦夷支配の基本と移配蝦夷の抵抗

  (3) 故郷から隔離・移配されたエミシの闘い

    (ⅰ)全国の7割へ移され隔離

 798(延暦17)年6月21日、桓武天皇は次のように勅した。

相模・武蔵・常陸・上野・下野・出雲などの国に居住する帰順した夷俘(いふ)は、朝廷の恩沢のお蔭で生活している。特に慈しみを加え、郷里に戻りたいという気持ちを起こさせないようにすべきである。そこで時服・禄物を毎年支給せよ。食料がなくなったときは、恵みを与えよ。季節ごとの饗宴の類は国司に命じて行わせるとともに報告させよ。他の供給については、上申ののち、実施せよ。

 この勅では、夷俘の移配先は、坂東が中心となっている。しかし、移配の範囲は、日本全国の各地にみられる。「蝦夷が移配された国々は、『延喜式』主税式で俘囚料(または夷俘料)が計上されている三五ヵ国と、俘囚料の計上はないが、他の史料で俘囚の存在を確認できる一〇ヵ国との、計四五ヵ国が知られている(表)。陸奥・出羽両国を除いた全六四ヵ国の七割にあたる。俘囚料の設置国は、大国・上国・中国・下国という国の四等級のうち、財政規模の大きい大国・上国に多いという傾向はあるが、地域的な片寄りは認められない。また『和名類聚抄』によれば、上野国碓氷(うすい)郡・多胡(たご)郡・緑野(みどの)郡および周防国吉敷(よしき)郡に俘囚郷、播磨国賀茂郡・美嚢(みなき)郡に夷俘郷が存在していた。移配蝦夷の総数は不明であるが、近江国のように一国で一〇〇〇人を越えることが判明する場合もあり、総数では少なくとも何千という数にのぼった」(鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』P.250~251)と推定されている。(「延喜式」とは、律令の施行細則を定めたもので、927〔延長5〕年に完成している。)

   (ⅱ)エミシの抵抗力を解体

 エミシを諸国へ強制的に移配・分散させる政策は、エミシの勢力を分断・隔離し、日本に対する抵抗力をなくさせる目的を持つものである。抵抗力の解体とは、38年戦争時などにおいては、もちろん軍事的抵抗力の解体である(A)。だが、最終的には、エミシの生産・生活から習俗にわたる全ての面における「和人化」であり、同化である(B)。この変化は、桓武朝の第二次征夷から第三次征夷にかけての間に、顕著である。いくつかの事例をあげると、以下の通りである。
(A)
*774(宝亀5)年7月23日の光仁天皇の勅―「……朕は征討が民を疲労させるゆえに、しばらくすべてを包む広い徳を重んじて、討つことを自重していた。いま将軍らの奏上をうけてみると、愚かなあの蝦夷は、野蛮な心を改めようとせず、しばしば辺境を侵略し、あえて王命を拒んでいるという。事態はもはややむを得ない。すべては送ってきた奏上により、すみやかに軍を発して時機に応じて討ち滅ぼせ。」(『続日本紀』)
*783(延暦2)年6月6日の桓武天皇の勅―「蝦夷は平常の世を乱して王命に従わないことがまだ止まない。追えば鳥のように散り去り、捨てておけば蟻のように群がる。なすべきことは兵卒を訓練し教育して、蝦夷の侵略に備えておくべきである。……」(同前)
 ここでは、あくまでもエミシを侵略者に仕立て上げているが、これは全くの歴史偽造である。侵略者は、天皇以下の律令国家の側である。日本の版図拡大の犠牲者であるエミシたちが抵抗し、反撃することを「侵略」などと決めつけることは本末転倒である。版図拡大の邪魔者を「侵略者」に仕立て上げて、ただただ討ち滅ぼすべき相手としているのである。
(B)
*800(延暦19)年5月21日の陸奥国の言上―「帰順してきた夷俘は、各(おのおの)城塞の守りについたり陸奥の国庁へ出仕するなどで、しきりに労働に従っています。ところで、野蛮な者を手懐(てなず)ける方法は、威と徳にあります。もし優遇しなければ、朝廷の威厳を失うことになりましょう。……」(『日本後紀』)
*800(延暦19)年5月22日の甲斐国の言上―「夷俘などは、野蛮な性格を未だ改めず、粗暴で懐(なつ)きません。或いは百姓と争い、婦人をかどわかし、或いは牛馬を奪って勝手に乗りまわしています。朝廷の禁令がないと、このような暴力行為を取り締まることができません」。これに対して、桓武天皇は次のような勅を下す。「夷狄を夷地から離し、中州(*日本内)に居住させるのは、野蛮な生活を変え、風化に靡(なび)かせる〔*和風化させる〕ためである。どうして彼らの思いのままにまかせて、良民(*編戸した公民)を損なうことがあってよいであろうか。国司はよろしく懇々と教諭し、もしなお改めないないならば、法により処罰せよ。およそ夷を置く諸国は、またこれと同様にせよ。」(同前)
*811(弘仁2)年5月10日の嵯峨天皇の文室綿麻呂らへの勅―「塞(*城柵)の周辺に住む俘囚らは、その数がおびただしい。将軍らが出兵するとよからぬ気持ちが生ずる恐れがあるので、綏撫(すいぶ *安んじいたわること)を加えて騒ぎ乱れることのないようにせよ。威厳と恩恵を兼ねて施し、朝廷を称(たた)えさせよ。」(同前)
 夷俘を手懐けるには、威厳と恩恵が必要とし、夷俘に諸物を与えるが、それは結局、朝廷を崇(あが)め称えるように俘囚を思想改造するためである。しかし、事は簡単ではなく、思想改造・生活改造は容易には進まなかったようである。
 一部のエミシを除き、多くのエミシが容易に従順になるわけがない。したがって、移配されたエミシがその地に定着できずに、さらに他国へ移配される事例が現れる。
 たとえば、805(延暦24)年10月23日、「播磨国の俘囚(ふしゅう)吉弥侯部(きみこべ)兼麻呂(かねまろ)・吉弥侯部色雄(しこお)ら十人を多褹島(たねとう *種子島)へ配流した。野蛮な心性を改めず、屢々(しばしば)国法に違反したことによる。」(『日本後紀』)というのである。だが、これは「野蛮な心性を改めず」と既成観念としての差別視が前提となっている。さらに、民族の根幹である生活様式・生産様式の根本的な違いを無視している。
 エミシと「和人」との間のトラブルを緩和し、エミシの同化を促進し、治安を保つために、朝廷は812(弘仁3)年6月、夷俘の中から夷俘長を選び、俘囚を取り締まるようにさせた。「諸国の夷俘等、朝制に遵(したが)はず、多く法禁を犯す。彼の野性(やせい)化(か)しがたきと雖(いえど)も、此(これ)を抑える教諭の未だ明らかならず。宜しく其(その)同類の中から、心性事を了し〔*同化した〕、衆の推服する所の者一人を擇(えら)び、之を長と為(な)して置き、捉搦(そくじゃく *罪人を捕縛する)を加えしむ。」(『類聚国史』弘仁3(812)年6月戌子〔2日〕条)のであった。
 その翌年には、夷俘専当国司が置かれ、移配されたエミシは夷俘専当国司―夷俘長(俘囚長)というラインの下で支配されることとなる。当時、移配エミシが国司に対して盛んに訴えを起こしていたが、そのまま放置されることが多かったので、蝦夷たちは入京越訴(おっそ)や反乱を起こした。そこで朝廷は、エミシの訴えに迅速に対処するために、専当国司制を導入する。
 813(弘仁4)年11月21日の嵯峨天皇の勅は、次のように言っている。

移住した夷俘の性格は、内属の民と異なり、朝廷の教化に従うようになっても、野性の心性を忘れていないので、諸国司らにつとめて教喩(きょうゆ)を加えさせている。しかし、国司らは朝廷の指示に反して世話をすることを怠(おこた)り、いつになっても夷俘らの要請を取り上げず、夷俘らは愁(うれ)いや怨(うら)みを抱き、ついには反逆を起こす始末である。(『日本後紀』)

 そこで播磨介・備前介・備中守・筑前介・筑後守・肥前介・肥後守・豊前介を専当官として、「懇切に教喩を加え、夷俘らの要請を速やかに処分せよ。重大な内容で容易に決定しがたいときは、朝廷へ言上して判断を仰げ。もし、夷俘らの世話が妥当でなく、反逆を起こしたり、入京して越訴(おっそ *正規の手続きをふまずに、上級官庁に訴えること)に及ぶことがあれば、専当官らを、事情に応じて科罪(かざい *罪を科す)せよ。……」(同前)としている。
 その三日後の11月24日には、「諸国の介以上を夷俘専当とし、交替した場合は、再度専任せよ」と、再度勅が発せられた(同年11月癸酉条)、という。注1)    

注1)806(大同元)年10月の勅では、「……宜しく近江国に在(あ)る夷俘六百四十人を大宰府に遷(うつ)し、置きて防人(さきもり)と為(な)す。国ごとに掾(じょう)已上(いじょう)一人其の事に専当す。……」とあり、この時は掾以上を専当とした。地方官としての国司の場合、その四等官制は、守〔かみ〕―介〔すけ〕―掾〔じょう〕―目〔さかん〕のランクとなっている。

    (ⅲ)同化政策の個別具体化

 俘囚を国内諸国へ移配して、教化し皇化する同化政策を行ないつつも、エミシたちの不満や反発は解消しない。時には、反乱にも決起する。そこで、律令国家は同化政策を工夫し深化させた。以下、その事例をいくつかあげてみる。
*823(弘仁14)年3月19日、下野国芳賀郡の吉弥侯部道足女(みちたりめ)に少初位(しょうそい)上を授け、田租を終身免除する。さらに家門と村の入り口に標(ひょう)を立て、彼女のある行為を褒賞した。「道足女は同郡少領下野公豊継(とよつぐ)の妻で、夫の死後再婚せず、常に墓の側(かたわら)で哭声(こくせい)を絶やさなかった。」(『日本後紀』)というのである。
*829(天長6)年6月28日、俘囚勲十一等の吉弥侯部長子(ながこ)は、父母とともに帰順し、尾張国に移配されていたが、「たいへん孝行なので、特に位三階を叙し(た)」とされる。(同前)
*831(天長8)年11月5日、安芸国の俘囚の長(おさ)吉弥侯部佐津古(さつこ)を外従八位下に、俘囚吉弥侯部軍麻呂(いくさまろ)を外少初位下に叙(じょ)した。それは、「ともに内国の風俗になれ、仲間への教喩(きょうゆ)が道にかなっている」(同前)からである。
*833(天長10)年2月20日、筑後国の夷(えみし)第五等都和利別公(つわりのわけのきみ)阿比登(あひと)を従八位上に叙した。それは、「私稲を提供して、弊民(へいみん *貧しい民)を助けた」(同前)ためである。
 9世紀の前半ころから、同化政策は一般的なお説教や栄典・姓の授与という傾向からの変化が見える。すなわち、儒教道徳で推奨される個別具体的な行為を褒賞することを通じて、同化政策が推し進められようになるのであった。 (つづく)