古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑮

  エミシ生活地を内国化へ
                             堀込 純一


Ⅹ 律令体制の崩壊を促進させた桓武朝
 
 光仁―桓武―平城―嵯峨の四代にわたる38年戦争は、結局、財政危機によって幕引きを図らざるを得なかった。                        
 では、律令制国家・社会を経済的に支える中心的制度としての班田制や財政制度は、当時、どのような状態であったのだろうか。

  (1)班田制の変質・崩壊の要因

 班田制は、浄御原令(きよみはらりょう *690年施行)から8世紀初期(大宝令の完成は701年)にかけて成立した、といわれる。
 班田制とは、国家による田地の給付を基軸としたシステムである。それには二つの給田の系列がある。一つは、百姓(ひゃくせい)を対象とした給田で、口分田(くぶんでん)を定期的に分配・回収する制度である。具体的には、満6歳以上の良民の男子に2段(約21アール)、同女子にその三分の二、賤民の奴・婢には良民の男女のそれぞれ三分の一を国家が授(さず)け(「班(わか)ち給(たま)ふ」)、本人が死ねば逆に収公(国家に収めること)する。
 もう一つは、貴族・官人を対象とする給田で、位階・官職・勲功に応じて支給される。
位田は位階(従五位以上)に応じて支給され、職田(職分田〔しきぶんでん〕)は官職に応じて支給され、功田は勲功(天皇=国家に尽くした功績)に応じて支給された。職田は、中央では、太政大臣・左右大臣・大納言に、地方では、(A)大宰府の太宰帥から史生まで、各国司の守から史生まで、(B)各郡司の大領から主帳まで―職務に対する給分として与えられた。
 土地の国家的所有を基本としていた当時は、土地は山川藪沢(これは公私の共利)を除き公田・私田に大別された。私田は、口分田や職田などである。公田は、宮内省管轄の官田(皇室費にあてる)、神田、寺田、太政官管轄の乘田などである。乗田は、口分田や職田などを班給した結果、生じた剰余田である。これは、太政官の雑用料や口分田の予備田となった。
 三谷芳幸著「古代の土地制度」(岩波講座『日本歴史』第4巻 古代4 2015年)によると、律令制的土地制度の歴史的展開は、①7世紀半ばから8世紀前葉にかけてが成立期、②8世紀半ば(天平年間)から9世紀初頭(延暦年間)までが完成期、③9世紀初頭から10世紀半ばまでが変質・解体期―とみられている。
 班田制は、編戸制と密接な関係がある。編戸制とは、課税課役や兵士徴発などのため、人民を一定戸数ごとの戸という単位に人為的に組織する制度である。そのために、戸籍が作られた。
 班田もまた、造籍(戸籍作り)し、その後、校田(水田の調査)をして、はじめて田(基本的に水田)を支給することになる。
 これによると、690~779年にかけては、造籍してから1~2年で校田があり、さらにそのご1年で班田がなされている。これがほぼ6年ごと(天平年間は7年)に繰り返されてきた。造籍から班田の間は、742(天平14)年までの間は2年、752~779年の間は3年、以降は4~6年と間延びになる。
 この間には、班田制にもいくつかの曲がり角がある。大きなものをあげると、
①723(養老)年4月に、墾田開発をすすめ、自力で新たに開墾した田地は、三世代のあいだ収公しないという「三世一身法」が成立する。その前年には、朝廷により「百万町歩開墾計画」が提唱されている。
②723(養老7)年11月には、早くも奴婢への班田支給が無くなり、良民への支給年齢が12歳に引き上げられた。人口増大に対して班田の支給地が少なく、アンバランスが拡大したためである。
③聖武天皇の時代の743(天平15)年には墾田永年私財法が成立する。「三世一身法」は期限がくると開墾地が収公されるため、勤労意欲がわかず再び荒れてしまうので、墾田永年私財法では永久に収公しないというものである。しかし、その土地の面積は、一品と一位が500町、二品と二位が400町、三品・四品と三位が300町、四位が200町、五位が100町、六位~八位が50町、初位(そい)~庶人が10町(ただし郡司の大領・少領が30町、主政〔すじょう〕・主帳が10町)までと、限度が定められた。(品〔ほん〕は、親王・内親王に叙せられた位)
④諸寺の墾田地の限度が定められた。大安寺・薬師寺・興福寺・大倭国の法華寺・もろもろの国分金光明寺(国分寺のこと)―1000町、大倭国の国分金光明寺(東大寺のこと)―4000町、弘福寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・新薬師寺・建興寺・下野の薬師寺・筑紫の観世音寺―500町、諸国の法華寺(国分尼寺のこと)―400町、その他の定額寺(寺の運営に関わる人数、経費などが朝廷によって定められている寺)―100町。
⑤その後、称徳・道鏡政権時代の765(天平神護元)年3月に、一時的な揺り戻しがあり、寺院と百姓(1~2町内は許容)を除き、墾田開発は禁止された。
⑥だが、光仁天皇の772(宝亀3)年には、「自今以後、任(ほしいまま)に開墾せしむ」と再び、墾田開発が許された。この頃より墾田地面積の制限規定がなくなり、特権的な皇族・貴族や大寺社などの土地私有が累積する―とみられている(吉田孝著『律令国家と古代社会』岩波書店 1983年 P.263,266)。
 桓武朝期は、班田制の完成期であるとともに、変質期である。桓武朝末期の801(延暦20)年6月には、畿内の班田(はんでん *口分田を支給すること)を6年に一度から12年に一度に延引される。808(大同3)年7月に、ふたたび6年に一度に戻されるが、その後畿内では、828(天長5)年から881(元慶5)年の54年間、全く班田が行なわれなくなる。半世紀ぶりにようやく実施されたこの元慶期の班田を最後にして、班田制は完全になくなる。畿外も、畿内よりはやや遅れるが、902~903(延喜2~3)年以降、全く班田はなくなる。
 班田制崩壊の原因については様々な要因があるが、宮本救著「律令制的土地制度」(体系日本史叢書6 竹内理三編『土地制度』Ⅰ 山川出版社 に所収 1973年)は、次のような原因をあげている。
 第一は、受田者=人口と授田耕地=口分田(班田収授法により親王以下の良民男女に支給された田)とのバランスの破綻、すなわち口分田の不足であった。第二は、班田手続きの煩雑化である。班田の施行には、太政官の命令を受けて、まず受口(班田対象者)帳と校田(土地調査)帳を造り、それを太政官に上申し、その査定の後、着手の指令を受け、はじめて開始される。第三は、偽籍(戸籍の作成の際、虚偽の申告を行なう)の進行と浮浪人の増大である。第四は、地方官すなわち国司郡司の不正と怠慢である。第五は、貴族・寺社・富豪層などの大土地所有の展開と公民=農民層の分化である。
 桓武朝期の二大事業である都の造作と38年戦争の推進は、人民を疲弊させたのみならず、律令体制そのものの変質・崩壊を速めたのであった。

  (2)調庸の形骸化と公出挙制の比重増大

 律令制の下では、税は租庸調と雑徭である(兵士や防人などの賦を除く)。租は、田令によると、田1段につき稲2束2把であるが、706(慶雲3)年に1束5把に改定された。税としては低率で、上田でいうと、収穫物のほぼ3%にあたる。庸は、賦役令(ぶやくりょう)によると、正丁(せいてい *21~60歳までの健康な男子)を1年間歳役として徴発する代わりに、布2丈6尺を納めることになっている。ただし、畿内は免除された。また、706年に半減された。集められた庸は、都・寺院などの造営のための雇役の財源となった。調は、賦役令によると、絹・?(あしぎぬ *太く粗〔あら〕い絲で織ったきぬ)・糸・綿・布などの繊維製品からなる正調を中心に、正調に代わる鉄・鍬(くわ)・塩・鮑(あわび)などの調雑物(ぞうもつ)、染料・鉱物資源・調味料などの調副物(そわつもの)など多種多様な品目が貢納された。調は物納租税の中心であり、官人の給与などに充てられ、律令中央財政の大きな財源となった。雑徭は、賦役令によると、1年60日以内と規定され、その労役は道路・堤防・水田開発に必要な地溝・橋の修理などである。雑徭は、地方行政を支える重要な力役であった。
 中央財政・地方財政の観点からみると、調庸は原則として、すべて京へ輸納された。租は一部が、年料舂米として京へ納められたが、多くは国衙(国司が政務をとる役所)に収納され、地方財源となった。(舂米〔しょうまい〕は脱穀した米のことであり、頴稲〔えいとう *穂首刈りした状態のイネ〕1束から穀1斗を得、そこから舂米5升を得た)
 田租として徴収した官稲は、大別して、正税(大税ともいう)・籾穀(もみこく)・郡稲の三種になる。正税(しょうぜい)は、その一部を舂米(しょうまい *杵〔きね〕でついて脱穀した米)として京進(京へ上納)する他は、出挙(すいこ *高利子の貸し付け)して利息を得、それを国衙(国司が政務をとる役所)の臨時費にあてた。籾穀は、非常時に備えて永年貯蓄用として、不動倉(*正倉の内、満倉になった後に、国司・郡司の検封を経て、その消費が原則として禁止されたもの。その鍵は中央に進上され、開封には太政官符の許可が必要)に収納した。郡稲は、正税の一部を別置したもので、毎年、出挙してその利息を国衙の経常費にあてたり、交易進上物(特定物品を交易で手に入れ、朝廷に納める物)の代価にあてた。
 だが、やがて調庸制は公民の偽籍や浮浪などにより、大きく変質する。阿部猛氏によると、「正税の二大収入源である田租入と正税出挙利入を比較してみると……、天平四(732)年間での正税帳では、利入は田租入の二〇%ていど、多くみても五〇%までとみられる。これに郡稲出挙利入を加えても二〇~三〇%増とみられるから、出挙利入は田租入には及ばないものと考えられる。ところが、天平六年の尾張国正税帳では九九%、同十年の駿河国正税帳では一〇〇・五%と、利入は田租入に匹敵する数字を示している。」(同著『律令国家解体過程の研究』P.74)という。
 吉田孝氏も、「天平年間(*729~748年)に出挙制が制度的に拡大され、賦役のなかで大きな比重を占めるようになるのも、編戸制や班田制の転換と同じ性質のものであった。編戸制・班田制と並ぶ律令制の重要な特質は『課役』制にあり、公民の丁男(成年男子)に対して課役(調庸および雑徭)を賦課する制度であった。」(同著『律令国家と古代の社会』P.420)からである、という。
 出挙の起源は古いが、「七世紀後半から八世紀初頭にかけて制度的に整備された。雑令の規定によれば、出挙には公出挙(くすいこ)と私出挙(しすいこ)があり、利息は複利計算を認めず、一〇割を限度とし、債務者には弁済能力がない場合には、『役身折酬(えきしんせっしゅう)』とあるように、債務者を役(えき *強制的に使役すること)して負債を弁済する」(佐藤和彦編『租税』東京堂出版 1997年 P.10)とある。
 公出挙は、稲穀を毎年、春夏の二回、頴稲で貸し出し、秋の収穫後に利息とともに回収される。利息は5割が原則であるが、3割に軽減された時代もあった。私出挙は民間の高利貸しであるが、公出挙よりも高利であっても、他に手段がない限り、困窮する農民たちは借りざるをえず、没落の道をころげおちて行くものであった。
 天平期の初期の正税帳には、先述した官稲のほかに雑官稲(ぞうかんとう)として、公用稲(くようとう)・官奴婢食料稲・駅起稲(えききとう *街道の要所に公私の旅行者のため馬や船を常備した所が駅。出挙稲はこの駅家の設備費などにあてたと推測される)がみえるが、734(天平6)年正月、朝廷はほとんどの雑官稲を正税に一本化する。そして、一本化から除外された駅起稲なども739年には、正税に混合された。
 ついで朝廷は、737(天平9)年に、王臣による百姓への私出挙を禁止する。
 官稲混合の数年後、正税はさらに大きな制度改変を受ける。744(天平16)年に、正税から国ごとに4万束が割き取られ、国分寺と国分尼寺にそれぞれ2万束が施入され、出挙した利息は造寺用に充てられた。
 公出挙は、745(天平17)年にさらに大きな改変がなされている。一つは同年10月に、論定稲が定められたことである。論定稲とは、毎年、各国が出挙にまわすべき正税の量を示すものである。これまでは、正税の出挙額は国によって大きな差があった。
 もう一つは、同年11月に公廨稲(くがとう、くがいとう)が設置されたことである。『続日本紀』の天平17年11月27日条によると、次のような法が制定された。すなわち、「諸国における公廨稲(*出挙)にあてるべき稲の限度を、大国は四十万束、上国は三十万束、中国は二十万束、〔その内〕大隅・薩摩の両国は各四万束、下国は十万束、その中でも飛騨・隠岐・淡路の三国は各三万束、志摩国と壱岐嶋は各一万束と定める。もし正税(*稲)の数量が少ない場合や民衆が出挙に応じない時には、必ずしも限度額を満たさなくてもよい。官物(*諸国の正倉の稲)の不足分がまだ収納されてない場合は、公廨稲出挙の利息をもって埋めあわせ、これ以後は未納による不足を太政官に申告することを許さない。……」と。
 公廨稲は、官物(かんもつ *租庸調が租税として国庫に納入されたものの総称)の「欠負(かんぷ)・未納」(*欠負も未納の意)を補てんし、次に国儲(こくちょ *朝集使などの在京費用および調庸を運ぶ向京担夫の食糧費の財源)に割き、残余を国司に配分した。守六分、介四分、掾三分、目二分、史生(*書記)一分、国博士・医師一分などである。
 745年の改変により、正税出挙は、農民への強制的な貸し付けであることが確定となる。本来は農民の再生産を保障するものであった公出挙制度は、完全に農民収奪の手段となった。
 奈良時代の後半から、中央の官人の給与に充てていた調庸の収入は次第に減少し、朝廷は、平安時代に入って年料別納租穀や年料租舂米といった名目で諸国の稲穀を割き取り、あるいは征夷戦争や都造営の負担が増大したり、さらに地方財政の膨張なども重なり、10世紀に入った頃には、非常用の備蓄米まで消費してしまうようになる。こうした財政危機のもとで、公出挙の利息収入の比重はますます高まり、国家財政の主柱となる。まさに、「高利貸し国家」の情況を呈する有り様であった。  

  (3)偽籍と浮浪で抵抗する人民

 先述した班田制崩壊の諸原因のうち、重視されるべきは第三の偽籍と浮浪である。これは人民の二つの主要な闘争形態であり、支配階級の過酷な抑圧と収奪が繰り返されたから生じたのである。なお、浮浪人が増大しない限り、第五の土地私有の拡大は発展しない。土地を所有しても、そこで働く労働者がいない限り、新たな富を生み出せないからである。 
 偽籍と浮浪は、天皇一族・それを支える諸勢力と、土地私有の拡大で私腹を肥やす大貴族・大寺社との階級矛盾を高めていく。この対立と矛盾に食い込み、自らの利益を拡大させるのが地方豪族たちである。

 (ⅰ)戸籍の偽造で課役なしの口分田を獲得
 偽籍とは、口分田(くぶんでん)が、課役(かえき *租税と夫役と)の負担(17~65歳の男子)の有無にかかわらず、6歳以上の人々すべてに班給されるという規定から、それを受ける側は初めは過酷な収奪から逃れるために、出来るだけ負担が少なくて済む形に申告し、班田の台帳である戸籍を偽ったものにすることである。たとえば、年齢を偽り早く受田できるようにしたり、性別で女性を多くして課口(課役の義務を有する人)を少なくしたり、死亡を隠して受田を続けたりする。
 偽籍は、統計数字からも裏付けられる。「七〇二年戸籍にくらべ、七二一年戸籍には、すでに虚偽の申告がはいっているらしいという推定は、おのおの年齢・性別の統計をとれば証明できる。たとえば男女比だけをくらべてみても、御野(美濃)では一〇〇対一〇九、北九州では一〇〇対一一二で、女性がやや多いのはごく自然であるが、下総では一〇〇対一三二となる。女性がいても調・庸・雑徭などはふえないが、口分田のふえることはいうまでもない。」(青木和夫著『日本の歴史』3 奈良の都 中公文庫 P.271)のである。
 偽籍は、以下にみれるように、桓武朝期にはなおいっそう甚だしくなっている。
①延暦4(785)年6月24日付の太政官符―「……授田の日、虚(いつ)わって不課(*課役の義務のないこと)と注して、多く膏?(こうゆ *土地が肥えていること)の土地を請(こ)い、差科の時、課役を規避(きひ *はかりごとを以て避けること)して、常に死逃(*死亡と逃亡)の欺妄(ぎもう *でたらめ)を称す。庸調減損し、国用(こくよう *国家財政)闕乏(けつぼう *乏しくなること)す。……」(『類聚三代格』12)
②延暦11(792)年閏11月11日の勅―「今聞くところによると、畿内の百姓は、邪(よこしま)で詐(いつわ)りが多く、或いは競って戸口を増やし、或いは浪(みだり)に年齢を加え〔*口分田の受田を増やそうとし〕ている。宜しく真偽を勘(くら)べ〔*調査して決める〕、乃(すなわ)ち口分田を給すべし。若(も)し〔官人が〕疏略(そりゃく)に致さば、処するに重科を以てせよ。」(『日本後紀』)
③延暦19(800)年11月26日の勅―「……今聞くところによると、外民(*畿外諸国の民)が?(姦)を挟み〔*悪だくみをして〕、競って京畿に貫き〔*競って、税負担の少ない京や畿内の戸籍に附くことを求め〕、検察を受けて自首したり、摘発されているという。こうなると、口分田が詐取されるだけでなく、偽って蔭(おん)の資格を持つ者が出てくることとなる。……今より以後、一切禁断〔*すべて取締を厳しくし〕、班田に預かることなきにせよ。」(同前)
 偽籍が横行することは、律令体制の基礎である班田制を蝕むことであり、体制の変質、ひいては崩壊への道へ歩みだすことを意味する。

 (ⅱ)浮浪と逃亡で体制を脅かす
 浮浪人とは、本籍地を離れていても他国などで課役を履行する者であり、課役を全く行なわない逃亡者とは区別された。浮浪・逃亡は、偽籍よりもはるかに積極的な抵抗闘争であり、律令制の根本をおびやかすものである。
 浮浪人対策は、桓武朝以前から行なわれてきたが、律令国家の浮浪・逃亡対策は、大まかにいうと、①本貫還付、②当処編附、③浮浪人帳によって把握する―のいずれかの方式を採用した。
 本貫還附方式とは、本籍地に連れ戻すというものである。当処編附方式とは、逃亡した先に留住させ、そこで籍帳に編入し、口分田を班給し課役を負担させる方式である。浮浪人帳方式は、浮浪人を戸籍に編附しないで、浮浪人として浮浪人帳に登録し、課役を負担させる方式である。
 佐藤和彦氏によると、これらの方式の変遷は、以下のような足取りをとった。「和銅八年(霊亀元、七一五)には逗留三カ月以上の浮浪人について国郡姓名を録し、調庸を徴するという政策がとられた。養老五年(七二一)には本貫還附か当処編附か希望を浮浪人に問い、籍帳によって把握する方式がとられ、天平八年(七三六)には浮浪人帳方式、宝亀一一年(七八〇)には希望者について当処編附を行い、浮浪人帳方式を停止している。延暦元年(七八二)にも当処編附が命じられたが、延暦四年(785)年には当処編附は口分田班給に伴う弊害が大きいとして浮浪人帳方式が打ち出されている。」(同編『租税』 P.15)のであった。
 延暦4(785)年6月24日付の太政官符は、「……所部の百姓が国中を浮宕(ふとう *浮浪)するを?括(けんかつ *捜し出し取り締まること)し、厳しく捉搦(そくじゃく *罪人を捕縛すること)を加え、妄死(*ウソの死亡)迯(逃)走の除帳の輩を勘注(かんちゅう *調べ記録すること)」させた。(『類聚三代格』12)
 それとともに、同太政官符は、「……自今以後、編附の格(*宝亀11年の格を指す)を停(とど)め、天平八年二月廿五日の格に依る。但し、先に田を給し迯亡(逃亡)の人の分は公に還す。」(同前)と、当処編附方式を停止する。
 代わりに、聖武天皇の736(天平8)年2月25日の勅にのっとって措置するように命じている。すなわち、「……又(また)云(い)う。自余(*この外)、貫(にんべつ *名前を列記した帳面)無く当処に編附する者は、宜しく編附を停(や)め直に名簿を録し、全(すべ)て調庸を輸(おく)り、当処の苦使(くし *使役)をすべし。」(同前)と。 
 当地の戸籍に附けないで独自の浮浪人の名簿を作り、それにより調庸その他の賦税を課すというものである。
 延暦16(797)年8月3日にも、桓武天皇の勅を受けて、太政官符は次のような命を発している。

右〔*親王及び王臣に寄住する〕浮宕(*浮蕩)の徒〔*原籍地を離れて浮浪する者〕、その主の勢を假(借)りて、全(すべ)て調庸を免(まぬが)れる。郡国、寛縦(かんじゅう *寛大で放任)にして曾(かつ)て催徴無し〔*催促もしない〕。黎元(れいげん *民)、積習(*くせになること)して常に規避(*上納しない決まり)有り。宜(よろ)しく国宰郡司をして、見口(げんこう *現在の人口)を勘計(かんけい *調べ計ること)し、年ごとに浮浪帳を附け、全ての調庸を徴す(*収納する)べし。その庄長等、国の?校(けんぎょう *調べただすこと)を聴(う)け、若(も)し庄長の拒捍(きょかん *こばむこと)有りて、脱漏一口におよばば〔*もれが一人あっても〕、禁身を言上し、違勅の罪を科せ。国郡(*国司・郡司)の阿容(*追従)も亦(また)與に(*共に)同罪とす。……(『類聚三代格』8)

 ここでもまた、「浮浪帳」をつけ、調庸の徴収を図っている。律令国家は、浮浪・逃亡対策に苦慮し、さまざまな形で対処したが、最終的には浮浪人帳方式にたどり着いたわけである。だが戸籍によらない浮浪人帳方式の採用は、律令制本来の籍帳主義に基づく公民制を大きく突き崩していくものであった。
 人民の浮浪・逃亡は、また桓武朝の二大事業である征夷や都の造作と深い関係がある。征夷が繰り返され人民生活は困窮するが、浮浪人たちは、そもそも困窮の一つの原因である征夷の現場である東北辺へ植民させられたり、兵士あるいは城柵造作の役夫として動員されたりするのであった。その事例をいくつかあげると、以下に示される。
①天平宝字2(758)年4月25日付の太政官符(恵美押勝が勅を受けた命令)―「陸奥国の浮浪人を徴発して、桃生城を造営させた。徴発された者たちには調庸を免じてあるので、そのまま当地に定住させよ。また浮浪の徒は戸籍につけて柵戸(きのへ)とせよ。」
 [*陸奥国の浮浪人が桃生城造営に動員されたが、そのまま定住させられ柵戸とされた。]
②天平宝字3(759)年9月27日条(『続日本紀』)―「坂東の八国と越前・能登・越後の四国(*越中国が脱落)の浮浪人二千人を雄勝の柵戸とした。……」
 [*坂東と北陸の12か国から浮浪人が召集され、雄勝城の柵戸とされた。]
③神護景雲2(768)年9月22日条(『続日本紀』)での陸奥国の言上―「兵士を準備しておくのは、緊急の事態に対応するためであります。……ところがこの頃、諸国から徴発されて陸奥国に入る鎮兵は、途中で逃亡してしまいます。」 
 [*諸国から鎮兵として動員された者たちが、途中で逃亡している。]
④神護景雲3(769)年1月30日条(『続日本紀』)での陸奥国の言上―「……また
天平宝字三年の太政官符をうけて、浮浪者一千人を派遣し、桃生城の柵戸にわりあてました。しかしもともと彼らの心は、たくみに負担をのがれようとするところがあり、浮草のようにふらふらし、蓬(よもぎ)のように風にただよい、城下に至るかに見えてまた逃亡します。」と危惧する。これに対して、太政官は審議する中で、「郷土を思い他所へ遷(うつ)ることに気が進まないのは、世の中の人の普通の感情です。今、罪もない人民を流刑のように郷土から遷し、辺境の城柵の守備に充(あ)てることは、物事のあり方として、穏やかでなく、逃亡もやむを得ないでしょう。……」と、逃亡に「理解」を示す。
⑤宝亀11(780)年3月の伊治公呰麻呂(あざまろ)の乱の翌年正月の光仁天皇の詔―「……また、もし伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)らによって欺(あざむ)かれ煽動されて、賊軍(*エミシ軍を指す)に加わった民衆の中で、よく賊を捨てて抜け出て来た者には、租税免除三年を賜われ。……」(『続日本紀』)
 [*呰麻呂の乱は広範な影響を及ぼし、「和人」のかなりの者たちが日本側から逃亡し、エミシ側に逃げ込んだようである。]
⑥延暦21(802)年1月11日条(『日本紀略』)―桓武天皇は勅を発して、「……宜しく駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野等の国の浪人四千人をして陸奥国肝沢(いざわ)城に配することを発すべし。」
 [*エミシの主力アテルイらを降伏させた後、坂上田村麻呂らに胆沢の地を開拓し支配させるべく、坂東などの諸国から新たに浮浪人四千人を送り込む。新たな植民であり、新たな屯田兵である。]
 他方、平安京の造作にかかわった浮浪問題については、正史の記録は少ない。しかし、先述したように、延暦16(797)年3月には、農作業の忙しい時期にも拘らず、遠江・駿河・信濃・出雲などから雇夫2万余人が動員されている。翌々年の延暦18年12月にも、伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・但馬・播磨・備前・紀伊などから、役夫が大量に動員されている。その間に、「造宮の作業にしたがっていた飛騨工(ひだのたくみ)の逃亡があいつぎ、政府は諸国に命をくだして逮捕せねばならぬという事態になった。796年の暮れのことである。」(北山茂著『日本の歴史』4 平安京 中公文庫 P.96)と言われる。
 桓武の二大事業といわれる征夷と都の造営は、ただでさえ増加する浮浪人問題を激化させ、人民の生活をさらに困窮させるのであった。
 なお、浮浪や逃亡は、厳しい収奪に抵抗するためだけでなく、経営の拡大を目指した積極的・計画的に行われた移住のケースもあったと言われる。「浮浪人は初期荘園などに労働力として投入されたほか、平安時代には活発な経済活動を行い、富豪浪人と呼ばれる富裕な浮浪人も現れている。」(佐藤和彦編前掲書 P.15)のであった。     

  (4)公地公民制を形骸化させる大貴族・大寺社の私有地拡大

 浮浪人が増加する中で、彼等は支配拠点の王臣の「庄」に入りこんで調庸を免れ(脱税)、他方、王臣家の方もまた、配下の庄長を使って、その浮浪人を労働力として、私田を経営する。まさに、浮浪人と、王臣―庄長が利害を共にして、律令体制を掘り崩すこととなるのである。
 戸籍を離れ浮浪人化した者に対し、「浮浪人帳」を作って対処したことは、前回で述べた。だが、その時に、朝廷は荘園化が現実には進行している情況をすでに理解していた。であるが故に、延暦16(797)年8月3日付けの太政官符で、次のような禁令を発している。

……諸家の荘長、多くが私(ひそか)に佃(たづくり *田作り)を営む。〔*主人である権門勢家〕の威を仮り(借り)勢いに乗じ民を蠹(むしば)むこと良(よ)り深し。?猾(かんこつ *悪かしこい)の源は、絶たざるべからず。宜しく禁制を加え、更然(*改める様子)を得るべし。(『類聚三代格』15)

 初期の荘園は、8世紀の後半から進行し、桓武天皇の時にはすさまじい勢いで増加しつつあったのである。
 王臣などの権勢家が、私益をはかって百姓を一方的にいじめている例がある。『日本後紀』の799(延暦18)年11月14日条によると、備前国の言上として、「児島郡の百姓ら、塩を焼き業となし、因って調庸に備(そな)ふ。而(しかる)に今、格(きゃく *『類聚三代格』巻16―延暦17年12月8日太政官符)に依って、山・野・浜・嶋は公私これを共にす〔*誰も独り占めできない〕。〔だが、〕勢家・豪民、競って妨奪(*妨害)し、強勢の家(いえ)弥(ますます)栄え、貧弱の民(たみ)日(ひにひに)弊(やぶ)る(*苦しむ)。伏して望む、任として取り返し〔*勢家・豪民の独占状態から〕民に給するを。」との要望があった。これに対して、天皇は山・野・浜・嶋について、「公私、利を共にす」るように禁制を加えることを命じている。
 山川藪沢(そうたく)の利用に関しては、「公私、利を共にす」ることになっているのに、王臣・寺社などが利益を独り占めし、これに対して、桓武天皇がしばしば禁制の詔を発している。たとえば、『日本後紀』延暦3(784)年12月13日条では、「山川藪沢の利、公私これを共にすること、具(つぶさ)に令分(りょうぶん *雑令9)に有り。如聞(きくな)らく、『比来(このころ)、或(ある)は王臣家と諸司・寺家と、山林を包(か)ね并(あは)せて独(ひと)りその利を専(もっぱ)らにす』ときく。是(ここ)にして禁ぜずは、百姓(はくせい)何(なに)ぞ済(すく)はれむ。禁断を加へて、公私これを共(とも)にすべし。如(も)し違犯する者(ひと)有らば、違勅(ゐちょく)の罪に科せ。所司の阿縦(あしょう *おもねり従がうこと)するも亦(また)与(ともに)同罪(どうざい)。その諸氏の冢墓(ちょうぼ *墓地)は、一(もは)ら旧界に依りて、斫(き)り損(そこな)ふこと得(え)ざれ〔*樹木を切り損じてはならない〕。」と、命じている。 
 皇族・貴族・諸官庁・寺院などが山川藪沢を独り占めにし、私益を図ることを禁止する命令は、その後もしばしば発せられる。桓武朝期においては、『日本後紀』の791(延暦10)年6月25日条、800(延暦19)年4月9日条にもみることができる。
 律令制を内部から掘り崩す役割を果たす大貴族と類似した立場に立つのが、大寺社である。
 桓武天皇は、天皇制の根源ともいうべき記紀神話を肯定し、全国各地の神社に対しても、その官位をしばしば格上げし優遇した。また仏教に対しても、晩年の806(大同元)年1月26日の勅で、「災害を除去し福をもたらすには、仏教が最も勝(すぐ)れている。人を善に導き生物を利益するには、仏教より勝れたものはない。」(『日本後紀』)と評価するほどである。ただ、桓武はあくまでも仏教も神社と同様に、国家の統制の下にあるようにと、「鎮護国家の仏教」へとさまざまな統制を加えている。それだけでなく、仏教の経済的伸長に対しても、極めて強い警戒心をもって制約を加えた。
 たとえば、『続日本紀』の783(延暦2)年12月6日条では、かつての天平勝宝3(751)年9月付けの太政官符を次のように再録している。

豊かで富んだ百姓(はくせい)は、銭や財を出挙(*利子つきの貸し付け)し、貧乏な民は〔それを借りるのに〕宅地を質に入れている。迫徴(*返済を迫られ徴収される)に至り、自らその質で償ふ。既にして本業を失い、他国へ迸散(*ほとばしり散る)す。自今以後、皆(みな)悉(ことごと)く禁止せよ。若(も)し約契(契約)有りて、償期(*償還期限)に至ると雖(いえど)も、猶(なお)住居に任(まか)せ〔*望むままに居住させ〕、漸(ようや)く(*徐々に)酬償(*償還)せしめよ。
 
 桓武天皇はこれを受けて、さらに次のように命令している。

先に禁断有りて、曾(かつ)て未だに懲(こ)りずに革(あらた)めず。而(しこう)して(*そして)今(いま)京内の諸寺は利潤を貪(むさぼ)り求め、宅を以て質に取り、利を廻して本と為(な)す〔*利子を元本に繰り入れる〕。只に綱維(こうい *国の法度)を超越〔*法規を踏み越えている〕するに非(あら)ずして、抑々(そもそも)亦(また)官司(かんし)阿容(*へつらい容認すること)す。何すれど、吏を為すの道〔*官吏の道〕輙(たやす *輒の俗字)く王憲に違(たが)い、出塵(しゅつじん *けがれた俗世間からでること。出家)の輩(やから)更に俗網(*俗世間の人間関係)を結ぶか。宜しく其の(*出挙の利子)多歳を経ると雖も〔元本の〕一倍を過(すご)すこと勿(なか)れ。如(も)し犯す者(もの)有らば、違勅の罪を科し、官人はその見任(*現職)を解き、財貨は官に没せよ。 
  
 この頃の京内の寺々は、法外な高利貸しをして、宅(地)を質に「利潤を貪」っている、と批判する。これは、単に法規に違反するだけでなく、また、この事態に対して、官司が諸寺にへつらい見逃しているのであり、大変問題である。したがって、出挙の利子は、借金が多年にわたっていようとも元本の倍にならないように取り締まれ。また寺々の高利貸しを見逃すような役人は解職にせよ―と命令している。
 だが、有力寺院の高利貸し活動は、無くならず、隠然として続けられている。『日本後紀』の795(延暦14)年11月22日条は、公卿の次のような奏上を載せている。

諸国で出挙(すいこ)されている七大寺(*東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺のこと)の稲は、施入(せにゅう *物品を寄進すること)されて以来、年月を経ており、年ごとの出挙による収益は莫大なものとなっている。誠に、時の盛衰に随い改革する必要があるにもかかわらず、革(あらた)めることなく、往時の出挙数を維持したまま、今日の疲弊した民に貸し付けています。このため、国司は公出挙行政が円滑にいかず、百姓(ひゃくせい)は返済できない状態となり、家業を失い、家を滅ぼす者が続出しています。政治において民はひとしなみに大事な子どもと同様な存在であり、恩愛を先とすることが必要です。現在実施されている出挙のあり方では、どうして父母としての態度で臨んでいると言えましょうか。伏して望むらくは、七大寺に現に居住する僧侶が必要とする経費を調べ、出挙する稲の数を削減して百姓の苦しみを救い、後日、民が豊かになった段階で、減省する以前の出挙数に戻すことを要請します。(奏上は許可された。)

 ここでは、七大寺の私出挙(高利貸し)が莫大なものとなり、人民の家業を潰(つぶ)すだけでなく、国司の公出挙活動にも障害となるほどである。これは、政治の根本理念と背反するものである。したがって、七大寺の私出挙を制限するように、奏上している。
 しかし、大寺院の経済活動は高利貸しだけではなく、それで得た元手で私有地を拡大して、私的経営による利益拡大をも図っているのである。
 『日本後紀』の792(延暦11)年4月2日条は、次のように述べている。「摂津国島上(しまのかみ)郡に所在する菅原寺の野(や)五町と梶原僧寺(かじはらそうじ)の野六町、〔同〕尼寺の野二町は、寺がみずから買得(かいどく *購入)したり債務のかたに償わせたものなので、いずれも法の定めにより元(もと)の持ち主に返還させることにした。……」と。
 摂津島上郡の寺々が所有する「野」が、或いは自ら買い込んだものであったり、或いは債務のカタとして入手したりしたものなので、元の所有者に返還させた、というのである。 
 高利貸しで得た元手で寺の私有地を得ることは、公地主義に真向から対立するものであり、これを放置することは律令体制を掘り崩し、やがては体制そのものを崩壊させることにつながるのであった。したがって、朝廷も放任することが出来ないのである。
 しかし、寺々の私有地拡大が停止することは、なかったようである。795(延暦14)年4月23日、桓武天皇は次の勅を発している。

田宅・園地の寺への施入と売買・交換による譲渡は、久しい以前から禁止されている。しかし、いま聞くところによると、往々にして、寺が他人の名義を借りて、実は自分のものにすることが行われているという。このような事態を糺(ただ)さなければ、どうして国法ありなどと言えよう。そこで、すでに寺へ施入されている土地について調査して報告せよ。今後は寺が得た土地は官が没収することにし、このようなことがないようにせよ。(『日本後紀』)

 久しい以前から禁止されているにもかかわらず、寺が他人の名義まで使って、私有地を拡大している、というのである。今後は「寺が得た土地は官が没収する」としたが、それでも寺の私有地拡大の動きはとまらなかった。官の禁圧に対して、もっと巧妙な手口をもって続けられている様子が、『日本後紀』の805(延暦24)年1月3日条にえがかれている。

定額(じょうがく)諸寺の壇越(だんおつ *布施を行う人)の名前は寺の現況を記した流記(るき)に記載されており、改替すべきでないが、愚かな者は争って氏寺を権門に預けてそれを壇越であると詐称している。また、寺の田地を勝手に売買し、濫(みだ)りがわしいことが多いので、禁断を加えよ。

 官の禁圧を潜り抜けようと、寺々は自らを大貴族(権門)などに預けて、その保護下で私有地など財産を維持しようとしているのである。

  (5)初期荘園の維持継続の困難性

 8世紀の後半から9世紀にかけて、大貴族や大寺社などの私的な土地所有が急激に累積していく。しかし、「九世紀から十世紀にかけて、律令国家の動揺―衰退に伴い、その初期荘園の多くがともに没落していった。」(宮本救著「律令制的土地制度」―竹内理三編『土地制度史』Ⅰ P.120)と言われる。
 たとえば、当時、最大の規模をもった東大寺の初期荘園は、畿内21、東海道12、東山道14、北陸道31、山陰道4、山陽道8、南海道3の、23か国92カ所に広がっていた。それが10世紀の末には、「畿外のほとんどの荘園が荒廃田化している」(宮本前掲論文 P.129)と言われる。
 宮本氏によると、初期荘園の没落は以下の事情によるものとされる。すなわち、「かくみてくると、荘園の発展の如何(いかん)は、いかに在地豪族と結び、その協力を確保し得たか、いかにうまく周辺の公民および浪人を寄作人として招集し得たか、しかもそのためにさらに国衙勢力―国司・郡司との関係をいかにうまく調整(対抗・依存・協力)しえたか、その成否いかんにあった。東大寺の高庭庄(*因幡国)に対する経営は、正にそれらすべてが失敗に終わったものであり、九世紀から十世紀にかけて荒廃化していった……畿外荘園もまた同様であったといってよい。」(同前 P.131)と。  

  (6)律令制を変質させる地方豪族の台頭
 
 天皇制を支える勢力内部の対立(個々の天皇支持勢力と、対立する大貴族・大寺社との矛盾)は律令制を変質させ、やがては律令制そのものを崩壊に導くのであるが、それにからんでもう一つの矛盾要因をなすのが地方豪族である。
 律令体制が変質しはじめる桓武朝期においても、国司や郡司への批判や統制の試みは頻繁(ひんぱん)に見られる。天皇と大貴族層が協力して国家運営をしている性格上、天皇一族と貴族層との矛盾・対立をあからさまにすることが、はばかれたためかもしれない。
 しかし、この点を割り引いても、『続日本紀』や『日本後紀』の桓武朝期においては、国司・郡司に対する批判や禁制にかかわる勅や詔、あるいは太政官符が実に多い。
 その内容は、一つには国司らの不正蓄財にかかわる問題が多い。その事例をいくつか挙げると、以下のようなものである。
①延暦2(783)年4月15日の勅―「聞くところによると、近年、坂東八国では籾米(もみごめ)を陸奥の鎮所に運んでいるが、鎮所の指揮官や役人らは稲を以て籾米と交換し、さらにその籾米を絹布などの軽物に換えて京の自宅に送っているという。一時的に利益を得て恥じることがない。またむやみに鎮兵を使役して多くの私田を営んでいる。そのため鎮兵は疲れきっていくさ(戦)に堪えることができない。……今後は、二度とこのようなことがないようにせよ。もし違反する者があれば、軍法によって罪し逮捕して、公利を侵(おか)し、私利を貪(むさぼ)る徒に悪事をほしいままにさせることがないようにせよ。」(『続日本紀』)
 [*鎮所の指揮官や役人が、軍需物資の横領や、鎮兵を勝手に使役した私田経営で私腹を肥やしている。]
②延暦3(784)年11月3日の詔―「此の頃、諸国の国司たちはその政治に不正が多い。……林野を広く占有して人民の生活手段を奪ったり、多くの田畑を経営して人民の生業を妨げたりしている。……今後、国司らは公廨田(くがいでん *国司らの俸給を産出する田)の外に水田を営んではならない。また私(ひそか)に欲深く開墾して人民の農業や養蚕の地を侵してはならない。もし違反する者があれば、収穫物と開墾した田はすべて官が没収し、ただちに現職を解任して違勅の罪を科す。国司の同僚と郡司らがそれを知って罪をかばい隠したならば、ともに同罪とする。もし糾弾して告発する人があれば、その罪を犯した者の田の苗を糾弾告発した人に与えることにする。」(『続日本紀』)
 [*国司らはやはり勝手に私田を経営し、また林野を開墾して人民の生業を妨げている。]
③延暦4(785)年7月24日付の勅―「そもそも正税とは国家の資本であり、水害や旱魃(かんばつ)への備えである。しかし、近年、国司の中には一時のがれに利潤を貪(むさぼ)って、正税を消費し用いる者が多い。官物が減少して米蔵が充(み)たない主な原因である。今後は厳しく禁止せよ。国司の中で、もし一人でも正税を犯し用いるものがあれば、その他の国司も同様の罪に問い、共に現職を解任して永く任用してはならない。罪を犯して不正に得た物品もともに返納させよ。死罪を赦免したり、恩赦を受ける範囲に入れてはならない。国司たちは相互に検察し、違反を起こしてはならない。また郡司が国司に同調して許すのも、国司と同罪とする。」(『続日本紀』)
 [*正税は天災など非常時に備えて備蓄しているものである。だが、これに手を付け、消費する国司がいるというものである。だが、これは国司の横領問題だけでなく、国司の給与制度が不完全という問題でもある。]
④『続日本紀』の延暦4(785)年7月28日条―「土佐国から貢納された調はその時期が誤っており、物品も粗悪であった。そこで〔桓武〕天皇は勅して国司の目(さかん *守―介―掾に次ぐ官職)以上をすべて解任した」。翌延暦5年4月11日の詔でも、諸国が貢納する調庸などがいつも未納となっており、国家財政が不足している、と批判する。
 [*調が未納なのは、国司らがそれを民間に横流しし私腹を肥やしているためである。調が粗悪なのは、良品を粗悪品と交換し、その差額を私的なもうけとするためである。]
⑤『日本後紀』の延暦17(798)年10月20日条では、役人の立場を利用した不正が種々批判されているが、その内の一つ、「また、租税や調銭の出納(*収入と支出)には枠(*限り)があり、雑徭(*労役)は種々の用途に充てられているのであるが、悪質な官人は現実の出納分と帳簿上のそれとの差額を横領し、法規を無視して欲得にまかせ競って私物化を行っている。田租を増徴したり、調銭・職写田の直(*賃租料)・徭銭(*雑徭の実役の代わりに納入する銭)などの類の横領に至ってはさまざまな手法が行われていて、改悛(かいしゅん)しようという動きはない。処罰のための法条を立てなければ、どうして懲粛できようか。そこで、来年正月以降、横領を犯す者は規定により科罪し、軽度の犯罪であっても現職を解任して、永く任用しないようにせよ。」
 [*国衙の役人の立場を利用して、帳簿上と実際上の収入の差額を横領している。]
 だが、国司らの不正蓄財の問題とともに多いのが、公廨稲など国司の給与にかかわる問題である。以下に、主なものを挙げる。(公廨稲については、本シリーズ⑮を参照)
(ⅰ)『続日本紀』の延暦5(786)年6月1日条―「これより先、去る宝亀三年に次のように制定されていた。『諸国の公廨(くがい)の分配方法において、前任の国司が出挙(すいこ)して後任の国司が収納する場合、どちらも働きがあるのに共に取り分がないということがあってはならない。前任の国司と後任の国司は、それぞれその年の公廨を均等に分けるように』と。/この度(たび)、〔桓武〕天皇は次のように勅した。/出挙と収納では、その労は同等ではない。そこで先の条例を改めて、もっぱら天平宝字元年十月十一日の式(しき *律令の施行細目)にしたがい、出挙稲を収納の前に交替した場合は、その公廨は後任の国司のものとし、収納の後の場合は前任の国司のものとせよ。……」
 [*桓武はここで、公廨の分配法について、父・光仁の時の改定を再び改定し、天平宝字元年の式に戻した。]
(ⅱ)『続日本紀』の延暦9(790)年11月3日条の勅―「公廨稲を設けたのは、正税の不足と未納分を補填(ほてん)するためであって(*天平宝字元年十月十一日の条)、その数量は国の大小にしたがい、すでに決められた式(しき)が立てられている。ところが今聞くと、諸国の国司らは正税に不足があっても補填には充(あ)てず、なお公廨稲の一部を給与として得ているという。道理からすれば法によって罰を科し、受け取ったものは没収して官物(かんもつ)とすべきであるが、ただ国司らは長らく役人となって仕えた功績があり、任地から帰郷するのにも費用が支給されないので、今そのために新たな制度を作ることにする。/今後は、旧年度の未納や不足があれば、大国は三万束、上国は二万束、中国は一万束、下国は五千束以上を毎年徴収し補填して、その事情を正税帳に記入して申上せよ。もしこの制度に従わずに未納のままであれば、正税帳を返却し、事情に応じて国司らに罰を科せよ。ただし、その年度の未納分は、もっぱら天平十七年の〔旧来の〕式によって補填せよ。」
 [*公廨稲は、第一に正税の補填、第二に国儲の財源、残余を国司が分配となっているが、国司らは自らの俸給のために、正税に不足があっても補てんしない。これは罰すべきことだが、国司らの生活問題にもかかわることなので、今後は国ごとに補てん額を定めるとした。]
(ⅲ)『日本後紀』の延暦14(795)年閏7月1日条の勅―「……現在、諸国では正税(しょうぜい)を出挙して五割の利息を収めているが、貧しい百姓は返済ができず、多くの者が家産を失い、自存できなくなっている。ここにいま、深く憐れむしだいである。……取り敢(あ)えず公廨稲(くげとう)や雑色稲(ぞうしきとう *様々な経費をまかなうために出挙する稲)などの出挙の利息を改定し、今年から軽減しようと思う。そこで、十束につき利息を三束収めるようにせよ。願わくは、豊かな財物が役に立つように使われ、人民を衰弊から救い、家も人も満ち足り、世が太平となることを。この詔りを遠方にまで布告し、朕の意を知らせよ。」
 [*これまで、出挙の利息を5割としてきたが、貧しい百姓が返済できないので、3割に軽減した。]
(ⅳ)『日本後紀』の延暦16(797)年6月6日条の勅―「古(いにしえ)にあっては〔*中国古代のこと〕、税は収穫の十分の一が収取率であった。……そこで、大宝令を制定するに際し、田一町の租を二十二束とした。その後、勅(*慶雲3年9月20日勅―『類聚三代格』)による指示で田租の収取率を段別十五束に減らした〔*これは度量制の変更に伴うもので実量にはほとんど相異がない〕が、現状を古と比べてみると軽重に相異があり、今のほうが重税となっている。/ところで、いま民部省が行っている田租の収納勘査のあり方をみると、一国内の耕作田を通計して七分以上を収穫のあった得田として税を課し、残りの三分以下については官は収納せず、国司が自由に処分してよいとしている。現在、諸国司はこの方式を援用して、豊年で七分以上が得田となると、得田すべてに課税しながら納官するのは七分でしかなく、差額は着服しているのが実状である。農民はこれにより不利な扱いを受け、貪欲な国司が利益をもっぱらにしており、善政に反している。今後は、収租に当たっては、人別の経営単位ごとに計算して、経営する田の八分を得田として課税し、二分は非課税とせよ。もしその八分のうち四分が損田となったり、一族の耕地すべてが被害を受け経営が全滅してしまったような場合は、具体的に被害状況を記した上で言上せよ。このようにすれば、田租納入方法が明確になり、余計な徴税をされず、国司らも私利を謀ることがなくなり、不正を制止することができよう。全国に告示して、朕の意とするところを知らせよ。」
 [*今、民部省が行っている方法(一国内の耕作田を通計して、七分以上を得田とし税を課し、残りの三分の田の収穫物の処分は国司の自由とする)は、いわゆる「不三得七法」と言われるものである。これは、国司の特権を示すものであるが、桓武はこの勅で「免二収八法」に改めた。これが「不三得七法」と異なる点は、「……人別に営田町段を計る点にある。すなわち、人別営田について、十のうち二は無条件に免除し、残り八分のうち四分〔すなわち残り全体の五〇%〕を損した場合、また『合門被害(*一族すべてが被害)』『産業全亡(*経営全滅)』の場合には政府に申上して裁をまつ」(阿部猛著『律令国家解体過程の研究』P.20)というのである。]
 「免二収八法」は、部分的に手直しされ、延暦19(800)年5月に全国的に施行された。しかし、延暦21(802)年7月15日付の太政官符により、また修正を加えられ、戸別に率を立てる「免二収八法」を復活させた。
(ⅴ)『日本後紀』の延暦17(798)年1月23日条―「(略)欠負・未納の租税分の充当や国儲(こくちょ *国衙の様々な経費)ないし国司俸料などの財源とするため出挙される公廨稲を停止して、正税稲に混合し、それを出挙して得られる利稲で国儲や国司俸料を賄(まかな)うことにした。……」
 [*公廨稲は停止され、正税稲に混合された。理由は、正税の不足が是正されないことにある。]
(ⅵ)『日本後紀』の延暦17(798)年6月7日の勅―「先般国司に官稲を借貸(しゃくたい *無利子で貸し付け)することを禁止し、違反者は処罰することにしたが、聞くところによると、国司へ職田(しきでん)支給〔*公廨稲のこと?〕をとり止めて以来、借貸がないと食料にも事欠く状態だという。そこで以前定めた借貸稲数(*『続日本紀』の天平六年正月丁丑条)の三分の一を職階による差をつけて借貸し、生活の資の補充とせよ。
 [*公廨稲の停止いらい、国司らの不満が広範な生じたのであろう。この不満を解消しようと、以前の国司借貸制の復活を行なった。借貸は、もともと非常時の百姓を救済するために、官稲を無利子で貸し付けるものである。だが、国司借貸制は、国司らが国内の官稲を独占し、高利で貸し付け、自らの私腹を肥やすものへ歪曲された。桓武は、これを復活したのである。しかし、問題解決にならなかったのであろう。桓武は、延暦19(800)年8月21日に、「以前のあり方に戻し、国司の公廨田(くげでん)を復活」(『日本後紀』)した。また、同年9月2日には、「諸国の正税稲に混入された公廨稲を分置して、以前のように出挙することにした。」(同前)のであった。公廨稲の停止は、延暦17~19年の間の一時的なものに終わった。桓武は、聖武天皇の時と同じことを繰り返している。]
(ⅶ)『日本後紀』の大同元(806)年1月29日条―「以前諸国が雑稲(ざっとう)を出挙するときは、五割の利息をとることが不易(ふえき)の規定として定められていたが、
延暦14年に、十束につき三束の利を収めることに改めた。これは民の財が豊かになり、世の中が盛んになることを期してのことであったが、『富裕な者は利息が少ないので競って多くの稲を借り、貧者は稲を借りることができずに苦しんでいる。役人の中には愚かで清廉・公平の原則に背(そむ)く者がおり、百姓は欠乏し、国庫は減るばかりである』と耳にしている。弊害を改めることが切実となっている。さらに出挙した官稲を収納するときに、借りた者が死去していても免除しないことになっている。遺族のことを思うと深い憐れみの気持ちが起てくる。今後は公稲である公廨と雑色稲の出挙の利息は五割とし、死者の負っている借稲は、以前のあり方に倣(なら)い免除せよ。」
 [*出挙の利息をかつて5割から3割に減らし、それを今また5割に戻した。その理由は、(ⅲ)と(ⅶ)をみれば明らかのように、ともに「百姓の欠乏を救う」ためである。だが、へ理屈もいい所である。自らの無能さを披瀝しているだけである。]

 国司や郡司の統制が一筋縄では進まない状況下で、郡司の選抜方法についても改正が行われる。延暦17(798)年3月16日付けの天皇の詔は、次のように言っている。

昔、難波朝廷(なにわのみかど *孝徳朝)のとき、はじめて郡(*評〔こおり〕のこと)を置き、功労のあった人物を郡の役人である郡領(*評督・助督のこと。のちに大領・少領)に任命し、その子孫が相次いで永く郡領となってきている。(略)今後は郡領を出している譜第(ふだい)の家柄からの任用を停止し、才覚があり郡を治める能力のある者を任用せよ。(略)国造兵衛(国造を兼任している兵衛)も停止せよ。ただし采女(うねめ *天皇の日常的雑事に奉仕した女官)は従来どおりの譜第を重視する方式で貢進せよ。

 郡司(郡の役人)は、これまで国造などを努めてきた伝統的地方豪族の家柄の子孫から選抜していたが、今回、彼等を優遇する措置を停止するというのである。
 そして、翌延暦18(799)年5月27日付けの天皇の勅は、次のように命令した。

人を慈しみ教化を行う任務は、郡司にある。今般、代々郡司となっている家柄からの郡司任用を停止し、才用により選任することになったが、宮中で宿衛(しゅくえい *宿直して天皇を守ること)についたり番上官(ばんじょうかん *地方から交代で都に上って宿衛する官)として長期にわたり勤務して才覚を示している者については、出身国を経由することなく式部省で試験を行い、郡司に任用せよ。(『日本後紀』)

 ここでも、郡司などの地方官の選抜を能力・才覚を基準として試験で行なうという画期的な方法は維持しつつも、地方豪族層からの不満を考慮したのか、番上経験者については「出身国」の推薦は必要なし、とした。
 しかし、日本の律令制にとっては画期的な試験という方法は、結局破棄され、811(弘仁2)年に、「譜第優先」という、国造以来の伝統的な地方豪族を優先するという形で落着することとなる。
 日本の律令制は、唐令など中国からの影響が強いが、「唐の官品令は『官の品』つまり官の等級を示すだけで、官人の身分は職事官、散官、勲官などの官名で示されるが、日本の官位令は『官と位』で、官人の身分を示すのは官と別の位階であり、その位階に官職を対応させたものであり(官位相当制)、両者の意図は異なっている。天皇がまず官人に位階を与えて序列化することが重要であった。」(新体系日本史2『法社会史』山川出版社 2001年 P.37〔大津透氏執筆〕)のである。
 日本の蔭位制(貴族官人の父祖の位階に応じて、子・孫に位階を与える制度)は、一位官人の嫡子は従五位下、従五位の嫡子は従八位上に自動的に叙せられ、五位以上官人の特権性が明確である。日本の蔭位制は唐制を継受したものであるが、叙せられる位階は唐以上に高く引き上げられており、特権性が際立っている。
 また、中国では、大学出身者とともに各地から推薦された者に国家試験を課して官吏に採用する科挙が盛んに行なわれたが、日本では大学や国学への入学は一般庶民は排除されており、科挙に当たる制度もなかった。
 諸階級を超えた官吏採用が行われなかったこと、そのための国家イデオロギー(国定教学)や私塾が発展しなかったことなどが、中国や朝鮮と異なり、日本で官僚制が発展しなかった主な原因である。このことは、また古代専制国家・社会が崩壊し、封建制へと進む日本独自の進路をとらせたのである。 


Ⅺ エミシ支配の基本と移配地での抵抗

 桓武天皇の最晩年の805(延暦24)年12月、征夷の停止が決定され、811(弘仁2)年閏12月には、宝亀5(774)年からの38年戦争が幕引きされる。
 たしかに、38年戦争が終結したことにより、これまでのような全面戦争はなくなった。しかし、エミシたちは、①一部は東北最北部に後退し、日本軍の攻撃を避けて自らの生活と文化を守り、②服属した者の一部は東北の「和人」との混住地で生活を確保し、時には反乱に決起し、③服属した者の一部は移配地での厳しい生活に耐え、時には抵抗闘争に立ち上るなど、さまざまな形での生活と闘いを続けるのであった。以下では、律令国家のエミシ支配の基本システムを簡単に整理しつつ、38年戦争後のエミシの闘争を追ってみることとする。 

   (1)日本王権のエミシ支配の基本システム

 日本王権は武力を背景にエミシなど「化外」の民を服属させ、服属のしるしとして、その土地の産物を献上させ、その代わりに宴をはって饗応し、諸物を与えた。この貢納制は、日本王権の都でも行なわれるが、出羽や陸奥の国衙や城柵でも行なわれている。 
 875(貞観17)年5月15日の太政官符では、出羽国で毎年国司が蝦夷に饗応を行ない、禄として狭布(さぬの *調庸として貢納された布)を支給し、その額が年間で1万端(たん)以上に及んでいる―という。
 また、服属したエミシの有力者に対しては、大和(日本)王権は彼らが権威をもつ地域・集団の長を示す称号を与えている。
 『日本書紀』の658(斉明4)年4月条では、安倍比羅夫は、帰順した齶田(あぎた *秋田)の蝦夷・恩荷(おが)に淳代・津軽二郡の「郡領」(当時はまだ、「郡」は設置されていない)とした、と記述されている。これが史実に合致しているかは疑問であるが、ゆるやかな「間接支配」の体裁を表現するものとして、称号を与えたたことはあり得るであろう。
 また、律令国家にとって功績を果たしたエミシに対しては、位階勲等の形で栄典を与えている。
 たとえば、737(天平9)年4月14日には、陸奥国に派遣された持節大使で従三位の藤原麻呂の報告の中で、「……農耕に従事している蝦夷で、遠田郡の郡領・外(げ)従七位上の遠田君雄人(おひと)を海沿いの道に遣わし、……」(同前)と記されている。
 北上川下流域の有力者と思われる雄人は、「郡領」(郡の長官)であり、「外従七位上」という位階を授けられている。律令制下の位階には、正一位から少初位(しょうそい)下まで30階ある。この体系に対する傍系として、下位(げい)がある。これは、外正五位上から外少初位下の20階である。外位は、地方豪族や有力農民などが採用される官職に就いた際に授けられるのだが、また隼人・エミシの有力者も対象となった。
 769(神護景雲3)年11月25日条に登場する大伴部(おおともべ)押人(おしひと)の肩書は、「陸奥国牡鹿郡の俘囚、少初位上・勲七等」である。押人の場合は、位階だけでなく勲等も授けられている。
 さらに、位階勲等の授与とともに、賜姓(しせい)がある。「遠田君雄人」の場合は、遠田君[遠田(地名)+君)]が姓である。文献史料にもっとも多く表れるエミシの姓は、吉弥侯部(きみこべ)である。
 姓は、位階と並んで官人の身分秩序として重んじられた。7世紀後半の天武朝の頃を中心に、その制度が整えられたが、8世紀に入ると、蝦夷に対しても適用し、律令国家は姓の身分秩序に取り込んでいるのである。

         〈矮小化される中華思想〉 
 38年戦争が終わり、版図拡大・蝦夷支配の諸政策の担い手が、中央政府から出羽・陸奥国、あるいは地方の専門部局である「夷俘専当国司」に移行すると、日本型中華思想を可視化する朝賀もまた矮小化される。
 たしかに、大宝律令が制定して以降の60余年間で、エミシの使者が、律令国家の元旦の朝賀に参加したと正史に記録されているのは、710(和銅3)年、715(和銅8)年、769(神護景雲3)年、772(宝亀3)年、773(宝亀4)年のわずか5回で、774(宝亀5)年は朝賀が挙行されなかったが、蝦夷の使者は京に入っている。これを加えると6回である。
 朝賀は、そもそも毎年開催されておらず、天皇の体調、天皇近親者の死亡、災害、政変、経済的理由などでしばしば行なわれていない。時には、雨が降っただけで中止している場合がある(屋外で行なわれたため)。
 しかし、朝賀(諸臣などが朝廷に参集して天皇にお慶〔よろこ〕びを申し上げる儀式)は、日本型華夷思想を目に見える形で行なう極めて重要な儀式である。『続日本紀』によると、772(宝亀3)年の場合は、次の通りである。「春正月一日 天皇は大極殿に出御して、朝賀を受けた。文武の百官、渤海国の蕃客、陸奥・出羽の蝦夷は、それぞれ儀礼に従って拝賀した。……」、「正月十六日……陸奥・出羽の蝦夷が郷里に帰るため、地位に応じて位階と物とを賜った。」と。
 なお、隼人は朝賀の時だけでなく、他の機会にもしばしば朝貢している。その数は、とてもエミシの及ばないところである。
 天皇は、自らの臣下だけでなく、化外(*未だ王化の届かぬ地)の蕃客(新羅・渤海)と夷狄(隼人・南嶋・蝦夷)の拝賀を受け、見返りに位階や物を賜(たま)わるのである。  
 しかし、エミシ問題が「国家的事業」から離れるようになると、朝賀の儀式に体現される日本型中華思想も9世紀初頭ごろから矮小化する。「隼人の場合、延暦十九年(八〇〇)に南九州の隼人が公民化されると、翌年に隼人の朝貢の停止が決定される。これ以後、隼人は畿内周辺だけに残り、隼人司の下で、隼人の歌舞や吠声(ばいせい *犬が吠えるようにして、邪気を払うこと)を南九州と無縁の形で継承していった。一方、蝦夷の上京朝貢は、本格的な征夷(*38年戦争のこと)が始まる宝亀五年(七七四)に停止されていたが、征夷の終結が宣言された翌年の弘仁三年(八一二)から、播磨など近国に移配された蝦夷が入京して節会(せちゑ *天皇即位や元日などに行なわれた儀式と宴会)に参加するようになる(『日本後紀』弘仁三年正月乙酉条など)。」(鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』P.272~273)とされる。まさに、矮小化された儀式にすぎない。

  (2) 全国各地へ分断・移配されるエミシ

 エミシの服属と内国民化(同化)は、一つは、分断したエミシ集団を日本の諸国へ移配することと、もう一つは、現地(陸奥・出羽両国)での組織化である。 
 エミシの日本諸国への移配は、8世紀前半から行なわれている。今、文献史料に残されたその事例を見ると、次の通りである。
①725(神亀2)年閏1月4日(日付は不正確)―「陸奥(みちのく)国の蝦夷の捕虜百四十四人を伊予国に、五百七十八人を筑紫(つくし *九州)に、十五人を和泉監にそ
れぞれ配置した。」(『続日本紀』)
②738(天平10)年―「陸奥国より摂津職へ送る俘囚一一五人」(「駿河国正税帳」)、「浮 〔俘〕囚六二人、食稲人別二把」(「築後国正税帳」)
③776(宝亀7)年9月13日―「陸奥国の俘囚三百九十五人を大宰府管轄内(*西海
道)の諸国に分配した。」(『続日本紀』)
④776(宝亀7)年11月29日―「出羽国の俘囚三百五十八人を、大宰府の管轄内や
讃岐国に分配した。七十八人は諸官吏や参議以上の貴族に分け与えて賤民とした。」(同前)
⑤795(延暦14)年5月10日―「俘囚である大伴部阿弖良(あてら)らの妻子・親
族六十六人を日向(ひゅうが)国へ配流した。俘囚である外従五位下吉弥侯部(きみこべ)真麻呂(ままろ)父子二人を殺害したことによる。」(『日本後紀』)
⑥799(延暦18)年12月16日―「陸奥国が、俘囚吉弥侯部黒田(くろだ)とその妻吉弥侯部田刈女(たかりめ)、吉弥侯部都保呂(つほろ)とその妻吉弥侯部留志女(るしめ)らは野蛮な心を改めず、蝦夷の居住地へ往来していると言上してきたので、身柄を拘束して太政官へ送らせ、土佐国へ配流することにした。」(同前)
⑦800(延暦19)年3月1日―出雲の介・石川清主の言上の中に、「新来(しんらい)
の俘囚六十余人は、寒い時期に遠方からやって来た者たちですので優遇する必要があり、
……」(同前)とある。
⑧805(延暦24)年10月23日―「播磨国の俘囚吉弥侯部兼麻呂(かねまろ)・吉弥
侯部色雄(しこお)ら十人を多?島(たねとう *種子島)へ配流した。野蛮な心性を改めず、?々(しばしば)国法に違反したことによる。」(同前)
⑨806(大同元)年10月3日―平城天皇の勅に、「……そこで、近江国にいる俘囚六百
四十人を大宰府管内へ移して、防人(さきもり)とせよ。……」(同前)
⑩820(弘仁11)年6月11日―「因幡国の俘囚吉弥侯部欠奈閉(かけなべ)ら六人
を土佐国へ移配した。百姓の牛馬を盗んだためである。」(同前)
⑪829(天長6)年6月28日―「俘囚勲十一等吉弥侯部長子(ながこ)は父母と共に
朝廷に帰順して、尾張国に移配された。野蛮な心性があるとの評判がなく、たいへん孝
行なので、特に位三階を叙(じょ)して、仲間を勧奨することにした。」(同前)
⑫831(天長8)年2月9日―「甲斐国の俘囚吉弥侯部三気麻呂(みけまろ)・同姓草手
子(くさてこ)の二戸を駿河国に付貫(ふかん)した。魚塩を獲得するのに好都合なことによる。」(同前)
⑬832(天長9)年12月20日―「伊予国の俘囚吉弥侯部於等利(おとり)ら男女を阿波国へ移配した。希望を容(い)れてのことである。」(同前)
 律令国家の対蝦夷政策は、805(延暦24)年12月、いわゆる徳政相論により征夷停止が決定される頃を境に、大きく転換される。したがって、エミシ(帰降あるいは捕虜)の移配方式もまた、この政策転換との関連で考察する必要がある。
 先に並べた移配事例をみると、まず一見して明らかなのは、⑤以降では、移配された俘囚の員数規模が大きく減少していることである(⑨を除く)。逆に、それ以前では比較的に員数規模が多いことである。
 次に見て取れることは、①②③④の事例のように、北辺から西海道へと遠方への移配が目立つことである。これは遠方への隔離というだけではなく、後の⑨の事例のように、西海道の軍事力補充を狙っていたのではないかと推定される。当時は、唐の安史の乱(775~763年)で、東アジアの国際情勢はかなり緊迫していたからである。

        <降伏したエミシは奥羽現地での支配へ>
 だが、先の事例では判らないが、当時の律令国家は、帰降したエミシに対しては、基本的には次のような方策をとっていた。(758〔天平宝字2〕年6月11日条)
陸奥国が言上した。去年八月以来、帰降した夷俘の男女は、千六百九十余人であります。彼らは、或いは故郷を遠く離れて、天皇の教化に浴することを慕い、或いは身を戦場に渉り、賊(*投降しないエミシを指す)と怨みを結ぶ者であります。これらはすべて新来の者で、未だ安定していません。また、蝦夷の性質は狼のような心で、なおまだ疑心が多いものです。そこで望み請いますのは、天平十年閏七月十四日の勅を準用して、種籾を給付し、水田を耕作できるようにさせて、永く王民となし、辺境の軍にも充てようと思います。 天皇は、これを許した。(『続日本紀』)

 当時は、「夷を以て夷を制す」の考え方から、俘囚を農耕民へと変えさせ、また屯田兵的な農民兵として、日本の軍事力を補充させようというものである(永為王民、以充辺軍)。
 だが、811(弘仁2)年10月13日付けの、征夷将軍文室綿麻呂らに対する勅(嵯峨天皇)では、次のように変わっている。

今月五日の奏状を見ると、殺害したり捕獲した蝦夷はかなりの員数となり、降服した者も少なくない。将軍の軍略や、士卒の戦功のほども、これにより知ることができた。蝦夷らは申し出により、中国(*日本内の畿内とその周辺)へ移配させるのがよい。ただし、すでに帰順している俘囚は都合を考慮して、当土(*陸奥・出羽の地)に置こうと思う。よくよく教喩(きょうゆ *教えさとすこと)して、騒擾を起こすことのないようにせよ。/また、新たに捕らえた蝦夷は、将軍らの奏に従い、速かに朝廷へ進上せよ。ただし、人数がはなはだ多数となっているので、路次国(*一行が通過する諸国)が十分な供給をするのは困難である。そこで、強壮の者は歩行させ、弱体の者のみ馬を提供せよ。(『日本後紀』)

 これは、文室綿麻呂が38年戦争の終結を宣言するようになる、811(弘仁2)年の戦いで勝利した後に出た勅である。ここでは、(イ)帰順した俘囚は、当土に置き、(ロ)新たに捕らえたエミシは、日本内の諸国に移配するためと思われるが、「速やかに朝廷へ進上せよ」と、命じている。
 明らかに律令国家の対蝦夷政策は、征夷停止(805年)の頃を前後して、大きく転換する。それ以前は、専ら軍事利用が主眼であったが、それ以後は、内国民化するための同化政策に転換しているのである。 (つづく)