古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑭
 新たな神話・新たな帝国構想
                            堀込 純一


  Ⅸ 新たな帝国構想の観念性・幻想性

(1)生母の血筋を偽造し朝鮮支配を幻想

 真道と百済王3名の連名した上表文が奉呈された時より、約半年前に桓武の生母が死んだ(789〔延暦8〕年12月28日)ことは前述した(本シリーズ⑫)。
 『続日本紀』は、その際、桓武の母の出自を次のように述べている。「皇太后(*高野新笠のこと)、姓は和(やまと)氏、諱(いみな)は新笠。贈正一位和乙継(やまとのおとつぐ)の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹(まいも)なり。后(きさき *新笠のこと)の先は百済の武寧王(ぶねいおう *在位501~523年)の子純陀太子(じゅんだたいし)より出(い)づ。……その百済の遠祖(とほつおや)都慕(つも)王は、河伯(かわのかみ *河の神)の女(め)、日精(ひのかみ *日の精光)に感(め)でて生める所なり。皇太后(*高野新笠を指す)は即ちその後(のち)なり。因りて諡(おくりな *人の死後に贈る称号)を奉る。」と。(延暦9年1月15日条)
 諡(おくりな)は、「天高知日之子姫尊(あめたかしらすひのこひめのみこと)」である。「日之子姫」が、「日に感じた河伯の娘」という意を現わしている。つまり、河神の女(め)が、日の光を感じて生んだ都慕王の血筋を引いているが故に、「日之子姫」と諡されたのである。
 朝鮮最古の正史である『三国史記』高句麗本紀は、「始祖の東明聖王の姓は高氏、諱は朱蒙(鄒牟?、あるいは象解〔衆牟?〕ともいう)」(金富軾著『三国史記』明石書店 1997年 P.281)という。この朱蒙が、『続日本紀』で言う都慕王とされる。この朱蒙の生まれと育ちは、『三国史記』によると、次のようになる。
 高句麗が建国される以前、扶余王の解夫婁が死に、太子の金蛙が位を継いだ。その金蛙が、ある時、太白山(今の白頭山)附近の川(優渤水)のほとりで、一人の女に出会った。金蛙が彼女の来歴を聞くと、次のように述べた。「わたしは河伯の娘で、名前は柳花といいます。弟たちと……いっしょに外へ出て遊んでいると、一人の男がやって来て、自分は天帝の子、解慕漱(ケモス)だ」(P.282)といいながら、私(柳花)をレイプした。このため、柳花は両親によって、優渤水に流されたと。
 だが、金蛙はこの話を怪しみ、「彼女を部屋に幽閉すると、日の光が彼女を照らした。体を避けると、日の光はまたついてきて照らすのであった。それから孕み、(やがて)五升くらいの大きさの卵を一つ生んだ。王(金蛙)は(不吉だと思って)その卵を棄てて犬や豚に与えたが食べなかった。また(それを)道の中に棄てたところ、牛や馬は(踏まずに)避けて通った。その後、野原に棄てると、鳥が翼で(その卵を)覆うのであった。(そこで)王はその卵を割ってみようとしたけれども、よく割れなかった。(仕方なしに)とうとうその母に返してやった。母は物で卵を包み暖かい所に置いたところ、一人の男の子が殻を破って出て来た。子供の骨表(ひとがら。人品)が英奇(すぐれて異なること)で、七歳になると、ひときわすぐれていて並みの子とは異なっていた。自分の手で弓矢を作って射ると、百発百中であった。扶余の俗語に、矢をよく射る者を『朱蒙』といっているので、そのように名づけたという。」(P.282)のである。
 金蛙には7人の子がいたが、彼等は皆、技能が朱蒙よりも劣ったので、朱蒙を殺そうとした。これを察知した母・柳花の知らせを受けて、朱蒙は南方に逃げ、鴨緑江に注ぐ弗流水(渾江のこと)のほとり(今の桓仁)に都を作り、高句麗(コグリョ)を建国した。高句麗の建国は、紀元前37年と言われる。
 『三国史記』百済本紀にも朱蒙は登場する。それによると、「百済(ペクチェ)の始祖、?祚王(オンゾワン)はその父が鄒牟(ズム)で、あるいは朱蒙(ズモ)ともいう。(朱蒙は)北扶余(プヨ)から難を逃れて卒本扶余(渾江流域の桓仁)にやって来た。(卒本)扶余の王は男の子がなく、ただ三人の娘だけがいた。朱蒙を見ると、並みの人物でないのがわかり、次女を妻にさせた。やがて(卒本)扶余が薨(こう)じたので、朱蒙はその位を嗣(つ)いだ。(朱蒙は)二人の男の子を生んだ。長男は沸流(ビル)といい、次男は?祚といった。/朱蒙が北扶余にいた時に生んだ子(流璃)が来て、太子になると、沸流と?祚は太子に容(い)れられないかもしれないと恐れて、ついに烏干・馬黎ら十名の臣下といっしょに南に向かって行った。(その時)ついて来た百姓は多勢であった。」(P.444)という。二人は別々に都を造ったが、沸流が死ぬと彼の臣民も?祚の下に帰附した―というのである。百済の建国は、紀元前18年と言われる。
 朱蒙の誕生にまつわる神話は、北方的要素の日光感精神話と南方的要素の卵生神話が結合したものであると言われる。なお、逃避者による建国神話は、後漢時代から北方民族に多い神話と伝えられ、扶余や百済などの神話にもみられる。
 桓武が、生母の死に際して、「百済の遠祖の都慕王は、河伯(かわのかみ)の娘が太陽の精に感応して生まれた。皇太后(*桓武の生母・高野新笠のこと)はその末裔である。」と宣言したことは、血統の見地から言って、日本のみならず、朝鮮の地をも支配して当然であるという新たな神話を示したものである。それは、桓武の征服欲―東北辺のエミシ支配のみならず、朝鮮半島を支配する征服欲を露骨に現わしたものである。
 790(延暦9)年2月27日、桓武は詔を発して、大納言・従二位の藤原朝臣継縄を右大臣に任じ、中納言・正三位の藤原朝臣小黒麻呂(おぐろまろ)を大納言に任じ、従四位上の大伴宿禰潔足(きよたり)、従四位下の石川朝臣真守(まもる)・大中臣朝臣諸魚(もろな)・藤原朝臣雄友(おとも)をそれぞれ参議に任じた。
 同じ日に、桓武は「百済王らは朕(ちん *天子の自称)の外戚である。ゆえにいまその中から一、二人を選んで、位階を進め授ける。」(『続日本紀』)といい、正五位上の百済王玄鏡(げんきょう)に従四位下を、従五位上の百済王仁貞に正五位上を、正六位上の百済王鏡仁(きょうにん)に従五位下を授けた。
 外戚とは、正確には母方の親戚を言うのであり、桓武の「百済王らは朕の外戚である」という発言は誤りである。恐らく、桓武はそんなことは百も承知の上で発言していると思われる。でなければ、正史に残されるはずはないからである。では、桓武はいかなる狙いをもって、このような発言をしたのであろうか。
 それは、生母の高野新笠に、「天高知日之子姫尊」と諡し、都慕王の血を引いていると宣言した(それはまた、桓武もその血筋を引いていることである)が、それが余りにも唐突であり、一方的なものなので、リアリティーを欠いていると桓武は感じたかもしれない。だからこそ、桓武は、百済王の血筋をまぎれもなく引く百済王氏を自らの外戚と宣言したと思われる。つまり、百済王氏は、半年後(延暦9年7月17日)の津連真道の上表文の時と同じように、系譜の偽造を本物らしく見せる引き立て役として利用されたのである。

(2)夢想の産物―桓武の帝国構想

 桓武の野望は、史料には容易には見出すことは困難である。しかし、全く存在しないわけではない。
 それは、かねて『日本書紀』につづく正史の編集を命じられていた菅野真道・秋篠安人・中科巨都雄らが、延暦16(797)年2月13日、『続日本紀』の完成を報告した際の上表文の一節に見出すことが出来る。それは、以下のものである。

 ……伏して惟(おも)ふ〔*思いはかる〕に、天皇陛下(桓武)、徳は四乳(しにゅう *周の文王は生まれながらにして四つの乳をもっていた)〔のよう〕に光(かがや)き、道は八眉(はちび *堯帝の眉毛は八彩の色をみせた)〔のよう〕に契(ちぎ)る〔*陛下は天子としての「徳・道」が備わっていた〕。明鏡(*物事を明らかにする鏡)を握り、以て万機(*天下の政治)を惣(おさ)む。神珠(*不思議な珠)を懐(いだ)き、以て九域に臨む。遂には、〔桓武の〕仁をして、渤海の北に被(こうむ)らしめ、貊種(ばくしゅ)をして帰心(*服属すること)せしめ、威をして日河の東に振るわしめ、毛狄(*エミシのこと)の息(いき)を屏(ひそ)ましむ。前代に未だ化せざる〔*服従しない者〕を化し、往帝(*今までの帝)に臣ならざる(*臣従しなかった者)を臣とす。巍々(ぎぎ *高大な様)の威徳に非(あら)ざるよりは、孰(いず)れか能(よ)く此(ここ)に與(あた)はんや。……[*貊とは、中国北方の夷〔えびす〕のこと。「日河の東」の「毛狄の息を屏ましむ」とは、38戦争によるエミシ支配を指す。]
 この上表文の帝国構想について、前田晴人著『桓武天皇の帝国構想』(同成社 2016年)は、次のように解説している。すなわち、「右の文にみえる『九域』とは即位後に桓武天皇が統治した『化内』=中華の範囲を意味し、律令国家の既定の領域を指している。次に天皇の『仁』が『渤海の北』に及び『貊種』が服従したというのは、朝鮮半島の新羅・渤海が天皇の王化に服し蕃属国としての儀礼を行っていることを表現したもの、『威』が『日河の東』にまで振って『毛狄』が畏れ慎んだというのは、いうまでもなく征夷戦争の成果を指し、日高見(北上)川の奥地にまで王化が貫徹されたことを述べたものである。すなわち右の文章は桓武天皇が統治する日本帝国の領域が『渤海の北』から『日河の東』にわたる範囲に及ぶことを明言したものなのであり、『渤海の北』の貊種を挙げているのは、真道の上表文に記載のみえる扶余のことであり、唐帝国の境外隣接の地域に住む遊牧民族にも天皇の王化が波及していることを誇示するものといえる。」(P.55~56)と。
 しかし、真道らの上表文に表現された桓武の新たな帝国構想は、まったくの夢想と幻想の産物でしかない。それは、当時の東アジアの国際関係を一目するだけで明瞭である。

(3) 現実と乖離する幻想の日本型華夷思想

 朝鮮半島では、新羅・唐が、660年に百済を滅ぼし、668年に高句麗を滅ぼす。しかし、670年代に入ると、朝鮮を全面的に羈縻(きび)州(唐王朝の領域内だが、現地人が統治する間接統治)とする唐の方針に反対し、新羅と唐の関係が悪化する。674年には、唐は新羅征討軍を進撃させ、新羅の文武王の官爵を剥奪するなどと威嚇しながら攻撃した。だが、新羅は謝罪使を送ってこれをしのぎながら、他方で676年に白江河口の伎伐浦(キボルボ)で唐軍を破る。こうして、同年には、唐と新羅の軍事対立が止み、唐は熊津都護府・安東都護府を撤収する。678年には、唐は西方の吐蕃の圧迫もあって、新羅の征討を放棄することとなる。新羅は、かつての高句麗の領地の北半分を除き、朝鮮半島を684年に最終的に統一する。
 日本列島では、663年に白村江の大敗以後、防禦の軍備を大幅に強化し、国制の大改革を進める。遣唐使も、壬申の乱(672年)前後から701年まで31年も停止される。 
 そして、この間、日本と新羅との間では、活発に使節の往来がなされた。新羅は、唐と日本にはさまれ、腹背から攻撃されるのを防ぐため、日本に対して下手にでた通交をおこなっていたが、7世紀末ころから唐との関係が改善され、720年代に入ると、日本に対して対等外交を要求するようになる。
 698年に、大祚栄(テチョヨン *粟末靺鞨部の出身)らは震国(後の渤海)を建国した。唐はこれを討伐したが、大祚栄は、高句麗遺民をも結集し、唐の武力による圧迫を排除した。また大祚栄は、契丹や新羅などに使者を派遣して、国際的な支援を求めながら政権基盤を固めた。やがて唐は、大祚栄らの建国をを認めるようになり、713年には大祚栄を冊立し、渤海郡王とした。以後、国号は渤海となった。渤海の領域は、新羅の北隣から沿海州方面・中国吉林省方面にわたっていた。
 だが、渤海は周りの唐・黒水靺鞨・新羅に絶えず脅威にさらされ、727年に初めて日本へ使節を送った。これ以降、渤海は926年に契丹に滅ぼされるまで、33回も公的使節を日本に送り、日本も13回にわたり渤海に使節を送った。唐との関係が思うようにならない日本にとって、渤海は遣唐使派遣の中継地となるなど、新羅に替わって最新の文物と情報をもたらす窓口となった。
 732~733年、唐・黒水靺鞨と渤海との対立に、新羅も唐側に立って加わり、渤海は新羅を牽制し対抗するために、日本との結びつきますます強める。この外交路線は、以後も、渤海の基本的な外交戦略となった。
 日本の朝廷は、732(天平4)年8月17日に、多治比広成らを遣唐使に任命する。とともに、藤原房前(ふささき)を東海・東山二道の節度使に、多治比県守(あがたもり)を山陰道の節度使に、藤原宇合(うまかい)を西海道の節度使に任命した。節度使は、それ以前の「巡察使のように民衆の訴えを取り上げること以上に、徒党を組み時政を批評する者を捜索・逮捕し、また盗賊や妖言を流す者を取り締まることを命ぜられていた。畿内の場合は、そのために独断で兵馬を動員する権限も許されたのである。」(青木和夫著『日本の歴史』3 奈良の都 1973年 P.305~306)という。
 同年8月22日、聖武天皇は詔を発して、先の4道の兵士を令の規定に沿って徴発し揃え、兵器・兵糧を整備し、兵船を建造することなどを命令した。これら一連の措置は、東アジアの情勢が緊迫し、とりわけ渤海をめぐる軍事緊張にともなう新羅の動きに対するけん制である。
 さらに、737(天平9)年2月15日に、遣新羅使が帰朝報告を行ない、「新羅国、常の礼を失いて使(つかい)の旨(むね)を受け」(『続日本紀』)ず、と奏上した。これを巡り、聖武天皇は官人たちに対策を練らせたが、ある者は使者を派遣してその理由を問うべきと言い、ある者は兵を発して征伐すべきという意見であった。この時は、結局、新羅からの天然痘が流行し、新羅征討は沙汰やみとなる。というのは、同年4月17日に北家の房前が、7月13日に京家の麻呂が、7月25日に南家の武智麻呂が、8月5日に式家の宇合が次ぎ次ぎに死去し、藤原4家の実力者が居なくなる中で政務もままならない程となったためである。
 日本と新羅との間で、軍事緊張が高まった根本的な原因は、互いに相手を認識する土台が真っ向から衝突したからである。日本は、「神功皇后の三韓征伐」という説話(フィクション)を根拠に、令制下でも、新羅を蕃国に位置づけ、差別視してきた。新羅は、唐(玄宗時代)によって「新羅は君子之国と号し、書記(経書と史書)を頗(すこぶ)る知り、中華に類する」(『旧唐書』新羅伝)と評価され、自国の文明度を誇っている。それに比し、日本は中華文明にも属さず(「不臣の客」)、せっせと遣唐使などを派遣して、先進文明の導入に勤(いそ)しんでいる途次に過ぎないではないか―という対日認識なのである。互いの認識が、根本的に齟齬(そご)をきたしているのである。
 そこに、唐における「安史の乱」(755~763年 *節度使の安禄山と後を継いだ史思明に率いられた反乱。突厥再興を試みた。)が起こり、東アジアの国際秩序を大きく揺さぶる。758年、藤原仲麻呂(恵美押勝)は遣渤海使を通じて、「安史の乱」の情報をつかむと、新羅征討を決断する。翌年には、大宰府に命じて行軍式(軍事行動に関する規定)をつくらせた。それは、新羅遠征計画である。遠征準備は、新羅語の通訳の養成も含めて数年かかり、761年11月17日には、以下の陣容を整えるとした。息子の藤原朝?(あさかり)を東海道節度使に任じ、遠江・駿河・伊豆・相模・安房・上総・下総・常陸・上野・下野を所管させた。任務は、船152隻・兵士1万5700人・子弟(郡司の子弟と思われる)78人・水手(かこ)7520人を徴発し、検査して決定することである。百済王敬福を南海道節度使に任じ、紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防を所管させた。任務は同じく、船121隻・兵士1万2500人・子弟62人・水手4920人の徴発である。吉備真備(きびのまきび)を西海道節度使に任じ、筑前・築後・肥後・豊前・豊後・向後・大隅・薩摩を所管させた。任務は同じく、船121隻・兵士1万2500人・子弟62人・水手4920人の徴発である。合計すると、船394隻・兵士4万700人・子弟202人・水手1万7360人である。そして、「兵士らには皆三年間田租を免除し、ことごとく弓馬の訓練をし、五行の陣立てを調練して習得させる。そして残った兵士は、兵器の製造に従わせる。」(『続日本紀』天平宝字5年11月17日条)のであった。
 だが、恵美押勝と孝謙上皇の間は、翌762年6月ころから不和が露骨となり、ついに764年9月に、押勝一党の反乱が明らかとなり鎮圧され、新羅征討計画は中止となった。  
 その後、新羅の対日使節も779年が最後となり、両国間の通交は断絶となる。日本の支援を期待した渤海の使節も、8世紀中頃から、対等な関係を要求し、渤海の対日交流も実質的に貿易中心のものに変質していった。
 桓武天皇の即位は781年4月であるが、以上にみられるように、新羅・渤海との関係は蕃国と勝手に規定したがそのようなものは、実際には存在しないのである。他方、隼人はすでに内国民化し、エミシも統合されたと意識され(抵抗するエミシも東北北部には残った)、南島も9世紀に入ると、「南溟(なんめい *南方の大海)は淼々(びょうびょう *限りなく広がり)として、国なくして敵なく、損ありて益なし」(『類聚三代格』5 天長元〔824〕年9月3日太政官奏)と、関心そのものが希薄となっている。
 まさに桓武の新たな帝国構想は、観念がもたらした幻想であり、実態からは乖離した単なる願望でしかない。 (つづく)











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