古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑬

  系譜の改作で身分上昇を謀る

                       堀込 純一

Ⅶ 桓武の帝国構想の前提条件

  (2)系譜・系図の加工・改作

 日本古代において、朝廷が、中央貴族や地方豪族に対し、その政治的地位や社会の身分に応じて、氏(うじ)の名と姓(かばね)を与え、その特権的地位を世襲化したのが氏姓制度である。
 これは、原始社会の氏族や部族が社会の単位となった氏族制度とは異なったものである。もちろん、氏姓制度の基盤も血縁集団としての同族が中核にあったが、それを国家の政治制度として再編成し、大王(天皇)の支配秩序の基軸とした。
 はじめに体系化されたのは、いわゆる「臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)」である。
 664(天智4)年の、いわゆる「甲子宣」では、大氏・子氏・伴造氏を定め、それぞれの氏上と、それに属する氏人の範囲を明確にしようとした。684(天武13)年には、「八色(やくさ)の姓」が制定され、真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣・連・稲置(いなぎ)の八種の姓を定めた。
 8~9世紀には、改賜姓が盛んに行なわれた。改賜姓とは、天皇が臣下に姓を与えたり、より上級の姓に換えたりして、天皇への服属を再生産し、身分秩序を強化することである。姓が上昇することは身分が上昇することであり、それに合わせて、官職のランクが上がるのである。

     (ⅰ)津連真道の上表文
 当時盛んな改賜姓の一つに、図書頭(づしょのかみ)従五位上兼東宮学士(とうぐうがくし)左兵衛佐(さひょうえのすけ)伊予守(いよのかみ)津連(つのむらじ)真道(まみち)らの請願がある。
 『続日本紀』によると、津連真道は、延暦9(790)年7月17日条にみられるように、百済王3人とともに連名で上表文を桓武天皇に奉呈している。その末尾は、「……真道ら、生れてより昌運(しょううん *盛んなめぐり合せ)に逢(あ)ひて、預(あずか)りて天恩に沐(もく)す〔*うるおう〕。伏して望(のぞ)まくは、連(むらじ)の姓を改め換えて朝臣(あそん)を蒙(かがふ)り〔*いただき〕賜(たま)はらむことを」(訳は、新日本古典文学大系16)とある。これに対して、桓武は「菅野朝臣」という姓を与えた。
 上表文は、形式的には、この改賜姓が主目的である。しかし、隠れた目的はこれではない。それは、以下のような上表文の中に潜んでいる。長いものだが、敢えて引用する。行論の関係上、A~Gの番号を付けて、区分けした。
(A)真道らが本系(もとつすじ)は百済国の貴須(くゐす)王より出(い)でたり。貴須王は百済始めて興(おこ)れるより第十六世の王なり。
(B)夫(そ)れ百済大祖(たいそ *その王朝の初代の帝王)都慕(とぼ)大王は、日神(ひのかみ)霊を降(くだ)して扶余(ふよ *中国の東北地方から朝鮮半島にかけて存在した部族)を掩(おほ *覆・蔽)ひて国を開き、天帝(*天)?(ろく *天帝が天子になるべき人に下す印)を授けて諸(もろもろ)の韓(から)を惣(あは)せて王と?(なの)れり。
(C)降りて近肖古王(きんしょうこおう)に及びて、遥(はる)かに聖化(*大和の大王の)を慕(した)ひて、始めて貴国に聘(むか)ひき〔*訪れた〕。是(こ)れ則(すなは)ち神功皇后(じんぐうこうごう)摂政(せっしょう)の年なり。
(D)その後、軽嶋豊明朝(かるしまのとよあかりのみかど)に御宇(あめのしたしらしめ)しし応神天皇、上毛野氏(かみつけののうじ)の遠祖(とほつおや)荒田別(あらたわけ)に命(おほ)せて、百済に使(つかひ)して、有識の者を捜(さが)し聘(と)はしむ〔*お招きさせた〕。国主貴須王、恭(つつし)みて使の旨(むね)を承(う)けたまはりて、宗族を択(えら)ひ採(と)りて、其の孫(うまご)辰孫王(しんそんおう)一名は智宗王。を遣(つかは)して、使に随(したが)ひて入朝せしめき。天皇(すめらみこと)、焉(これ)を嘉(よみ)したまひて、特に寵命(めぐみ)を加(くは)へて、以て皇太子の師(し)としたまひき。是(ここ)に始めて書籍伝(つたは)りて、大(おほき)に儒風を闡(ひら)けり。文教の興(おこ)れること誠に此(ここ)に在(あ)り。
(E)難波高津朝(なにはのたかつのみかど)に御宇しし仁徳天皇、辰孫王の長子(ちょうし)太阿郎王(たあらうおう)を近侍としたまひき。
(F)太阿郎王の子は亥陽君(がいやうくん)なり。亥陽君の子は午定君(ごぢゃうくん)なり。午定君、三男(みたりのをのこご)を生めり。長子は味沙(みさ)、仲子(ちゅうし *中間の子)は辰尓(しんじ)、季子(きし *すえの子)は麻呂なり。此(これ)より別れて始めて三姓と為(な)る。各(おのおの)職(つかさど)る所に因(よ)りて氏を命(おほ)す。葛井(ふじい)・船(ふね)・津連(つのむらじ)ら即ち是(これ)なり。
(G)他田朝(をさだのみかど)に御宇しし敏達天皇の御代(みよ)に逮(およ)びて、高麗国(*高句麗)、使を遣して、烏羽(からすのはね)の表を上(たてまつ)らしむ。群臣(おみたち)・諸史(ふみと)ら、これを能(よ)く読むこと莫(な)かりき。而(しか)るに辰尓(しんじ)進みてその表を取り、能(よ)く読み巧(たくみ)に写し、詳(つまびらか)に表文を奏(たてまつ)れり。天皇(すめらみこと)、その篤学(とくがく *学問に熱心なこと)を嘉(よみ)して深く賞嘆を加へたまひき。詔(みことのり)して曰(のたま)ひしく、「勤(いそ)しきかも、懿(よ)きかも。汝(いまし)若(も)し学を愛せずは、誰か能く解(と)き読まむ。今より始めて殿中に近(ちかく)侍(はべ)るべし」とのたまひき。既にして、また東西の諸史(*渡来系氏族である東漢の文直と西漢の文首を指す)に詔して曰ひしく、「汝等(いましたち)衆(おほ)しと雖(いへど)も辰尓(しんじ)に及ばず」とのたまひき。斯(こ)れ並(ならび)に国史・家牒(かちょう *各氏の家系についての記録を提出した文書)に詳(つまびらか)にその事を載せたり。……

    (ⅱ)あまりにもひどい潤色
 津連真道は、冒頭の(A)でまず、自分たちの祖先は百済の貴須王の子孫と宣言する。その貴須王は、百済の大祖(たいそ)都慕王の第十六世というが、『三国史記』(朝鮮最古の正史)では「都慕王の第六世の孫」となっている。
 (C)では、近肖古王(『三国史記』では在位346~375年。貴須王=近仇首王の父)は、倭の天子の徳化を大いに慕(した)い、使いを初めて訪問させた―という。しかし、当時は朝鮮の方がはるかに文化的に進んでおり、「遥かに聖化を慕ひて」とは余りにも潤色がひどすぎる。
 その証拠には、(D)で、応神天皇が「上毛野(かみつけの)氏の遠祖荒田別に命せて、百済に使して、有識の者を捜し聘(と)はしむ。」としている。先進文化の導入のために、応神の側が百済に使節を派遣したというのである。この方が実態にあっている。『日本書紀』の論理に合わせた上表文は、ここで早くも馬脚を現しているのである。
 また、(D)全体の伝承は、極めて類似した内容で『日本書紀』の応神紀15年8月6日条・同16年2月条に示されている。すなわち、「……百済の王(コキシ、またはコニキシともいう)、阿直伎(あちき)を遣(まだ)して、良馬二匹を貢(たてまつ)る。即ち軽の坂上の厩(うまや)に養(か)はしむ。因りて阿直岐を以て掌(つかさど)り飼(か)はしむ。……阿直岐、亦(また)能く経典を読めり。即ち太子(ひつぎのみこ)菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、師としたまふ。是(ここ)に、天皇、阿直岐に問ひて曰(のたま)はく、『如(も)し汝に勝(まさ)れる博士(ふみよみひと)、亦(また)有りや』とのたまふ。対(こた)へて曰(まう)さく、『王仁(わに)といふ者有り。是(これ)秀(すぐ)れたり』とまうす。時に上毛野君の祖(おや)、荒田別・巫別(かみなきわけ)を百済に遣して、仍(よ)りて王仁を徴(め)さしむ。其(そ)れ阿直岐は、阿直岐史(あちきのふびと)の始祖なり。/十六年の春二月に、王仁(わに)来(まうけ)り。則ち太子宇菟道稚郎子、師としたまふ。諸(もろもろ)の典籍(ふみ)を王仁に習ひたまふ。通り達(さと)らずといふこと莫(な)し。所謂(いはゆる)王仁は、是(これ)書首(ふみのおびと)等の始祖なり。」と。
 (D)と引用した応神紀を比較すると、共通点は、①応神天皇が百済に有識者を求めて、上毛野氏の祖・荒田別を派遣したこと。②これに応じて、倭に来た有識者(辰孫王か、王仁かの違い有り)が皇太子の師となったこと。③百済の有識者の教えによって学問が発展したこと―である。
 他方、(D)と応神紀の最大の違いは、倭に来た有識者の名前が全く異なることである。(D)は、貴須(近仇首王)の孫・辰孫王であるのに対して、応神紀は阿直岐・さらに王仁である。
 (E)では、辰孫王の長子・太阿郎王(たあろうおう)が登場し、仁徳天皇のそば近くで仕えたと述べている。だが、太阿郎王は『日本書紀』には見当たらない。
 (F)では、「太阿郎王―亥陽君―午定君―味沙(長子)・辰尓(仲子)・麻呂(季子)」という系譜を述べ、味沙が葛井氏の、辰尓が船氏の、麻呂が津氏の祖になった―という。
 (G)は、辰尓(しんじ)の篤学ぶりを示すエピソードであるが、敏達紀元年5月15日条とほとんど同じである。ただ、文章の位置順が異なるだけで、語句表現まで類似している。それもそのはずである。津氏と深く関係する同族の船氏の祖先として、辰尓が『日本書紀』に記述されている箇所だからである。
 上表文は、この(G)を手がかりに、遡って遂には百済の国王貴須王にまで到達させているのである。

    (ⅲ)まやかしのポイント
 では、まやかしのポイントは、何処にあるのだろうか。結論的に言うと、(D)で、王仁を辰孫王にすり替えている点である。
 王仁は百済王が派遣した者であり、『日本書紀』では、先の引用が示すように、百済王の身内だとは一言も述べていないのである。だが、(D)では、「国主貴須王、……宗族を択ひ採りて、其の孫(うまご)辰孫王を遣し」たとしている。辰孫王は、貴須王の孫となっている。
 では、王仁とは何者か。『新撰姓氏録』によると、在京諸蕃(上)で、「武生宿禰/文宿禰同祖 王仁孫阿浪古首之後也」とある。さらにその近くの箇所で、「文宿禰/出自漢高皇帝之後鸞王也」として、漢の高祖の子孫の鸞王というのである。ということは、文宿禰と武生宿禰は同祖であり、武生宿禰は王仁の子孫であるから、王仁は漢の高祖の子孫であることを意味する。
 『新撰姓氏録』は、編纂が桓武天皇の命令で始まった。だが、結局、嵯峨天皇の弘仁5(814)年6月1日に出来上がった。しかし、トラブルがあり、翌年の7月20日に再上表された(詳しくは、佐伯有清著『新撰姓氏録』吉川弘文館 を参照)。その内容は、皇別335氏、神別404氏、諸蕃443氏に分けて、祖先との系譜関係を収めたものである。したがって、桓武時代に行なわれた改賜姓に関連して、不利な叙述がなされるはずはない。
 それにもかかわらず、『新撰姓氏録』では、王仁は漢の高祖の子孫というからには、百済国王との系譜はありえないことになる。しかし、(D)では、辰孫王や辰尓は百済国王の子孫になり、完全に矛盾する。王仁は辰孫王とは同一人物ではないのである。(ちなみに、歴史辞典をみると、王仁は大和時代の有力な渡来系氏族である西文〔かわちのふみ〕氏の祖と伝えらる人物となっている)
 実は、先に引用した『日本書紀』の応神紀の叙述に極めて似た文章が、『古事記』に見い出すことが出来る。それは、以下のようなものである。

 ……また百済の国主(こにきし)照古王(しょうこおう *近肖古王)、牡馬壹(一)疋を、阿知吉師(あちきし *「きし」は尊称)に付けて貢(たてまつ)りき。この阿知吉師は阿直(あち)の史(ふひと *記録を掌る官吏)等が祖なり。また大刀と大鏡とを貢りき。また百済の国に仰せたまひて、『もし賢(さか)し人あらば貢れ』とのりたまひき。かれ命を受けて貢れる人、名は和爾(わに)吉師、すなはち論語十巻、千字文(せんじもん *周興嗣次?の千字文はまだ出来ていない)、?(あ)はせて十一巻を、この人に付けて貢りき。この和爾吉師は文の首(おびと)等が祖なり。また手人(*職人)、韓鍛(からかぬち *朝鮮の鍛冶人)は卓素(たくそ)、また呉服(くれはとり *大陸風の織物工)西素(さいそ)二人を貢りき。また秦(はた)の造(みやつこ)の祖、漢(あや)の直(あたへ)の祖、また酒(みき)を醸(か)むことを知れる人、名は仁番(にほ)、またの名は須須許理(すすこり)等、まゐ渡り来つ。……」(七 応神天皇)
 これは、応神が百済との交流の中で先進文化の導入をはかり、篤学の人やさまざまな職人が渡ってきた様子である。その中に、阿知吉師(『日本書紀』の「阿直岐」)や和爾吉師(同じく「王仁」)が存在するのである。しかも、二人とも「吉師」とあるように、古代朝鮮の首長などに対する尊称である「吉師」が付いているのであり、漢からの亡命者などとは一言も言っていないのである。
 史料の年代も考えると、前述の『古事記』の叙述が「原型」になって、該当する『日本書紀』の叙述がなされた可能性は、極めて高い。それが、(D)で王仁が辰孫王に書き換えられ、「真道らが本系は百済国の貴須王より出でたり。」という偽造に発展したものと考えられる。

    (ⅳ)上表文の狙い
 津連真道は、新たな姓を申請するに際して、「貴須王―□―辰孫王(智宗王)―太阿郎王―亥陽君―午定君―味沙・辰尓・麻呂(葛井・船・津連)」という系譜を長々と申し立てる。それは、単に先祖代々天皇に奉仕してきたことを示すだけでなく、自らの血統が百済の王族に繋がる高貴なものであることを強調するためである。
 その証拠には、上表文が百済王(くだらのこにきし)氏3名(左中弁正五位上兼木工頭〔もくのかみ〕百済王仁貞〔にんちょう〕・治部少輔〔じぶしょうしょう〕従五位下百済王元信〔げんしん〕・中衛少将〔ちゅうえしょうしょう〕従五位下百済王忠信〔ちゅうしん〕)と連名にして、あたかも保証人のごとき体裁をとっていることでも明らかである。百済王3名は、決して新たな姓を欲しているわけではない。むしろ百済王のままでいることで価値があるのである。桓武自身も同じ考えである。したがって、3名は、真道の身分の上昇を保証するためだけに、連名しているのである。
 というのは、百済王は、明確に百済最後の王・義慈王(在位640~660年)の子孫であり、真道の系譜を信用させるうえで、その百済王たちの保証以上に強力なものはないからである。(義慈王の子・豊璋は百済再興を図るが唐・新羅連合軍に敗れて失敗し、日本に留まった善光〔豊璋の弟〕一族には、後に持統天皇が「百済王」号を授けたといわれる。)
 津連真道(菅野朝臣真道)が上表文で述べた系譜は全くの作為であり、史実ではない。だがこの時代も、系譜・系図の改作や偽造は、決して珍しいことではない。(つづく)