古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑫
逆手をとって渡来系氏族を重用
                                堀込 純一

    Ⅷ 桓武の帝国構想の前提条件

 桓武の「新王朝」への意気込みは、征夷と平安京造作(桓武は794〔延暦13〕年に平安京に移る)に止まらずにさらに発展する。それは自らの出自をも利用した、桓武独自の新たな帝国構想である。そこにおいては、渡来系氏族との関係が不可分である。
 桓武が天皇位に就いたのは、781(天応元)年4月3日、45歳の時であった(在位781年4月~806年3月)。したがって、官人としての経験は豊富であった。
 そこから、治世25年の間、始めの一時期を除き左大臣(当時の太政官制ではトップ)を置くことなく、自ら強力に政治を指導・運営した。いわゆる、桓武の「専制君主」としての独裁的権力の行使―といわれるものである。
 一時期の左大臣というのは、藤原朝臣魚名(正二位)であり、781年6月27日に、「左大臣兼太宰帥(だざいのそつ)」に任命された。しかし、翌782(延暦元)年閏1月に、氷上川継事件がおこった。この事件との関連は不明であるが、6月14日、左大臣を罷免された(以降、825年まで左大臣席は空席であった)。
 ちなみに、右大臣は、782年6月に藤原朝臣田麻呂(大納言・正三位)が、783年7月に藤原朝臣是公(これきみ *大納言・正三位)が、790(延暦9)年2月に藤原朝臣継縄(大納言・従二位)が、798(延暦17)年8月に神王(みわおう *桓武のイトコ)が就任している。

(1)桓武と渡来系出身者との結びつき 

 当時、もちろんのことであるが、渡来系氏族は差別され、「卑賤視」されていた。だが、桓武天皇は、これを逆手にとって、渡来系氏族を重用し、かつ、新たな神話を作り、新たな帝国構想を作り上げたのである。

    (ⅰ)生母とその一族との関係

 桓武とこの渡来系氏族との関係・結びつきは、いくつかのルートを通して成り立っているが、まず第一は、桓武の生母とその氏族との関係である。
 桓武の生母は、先述したように和(やまと)氏である。父の光仁天皇が未だ白壁王と称していた頃(すなわち、天皇位に就くことなど夢想することさえ出来なかった頃)、和新笠(やまとのにいがさ)と結婚し、二人の間には山部王(後の桓武天皇)・早良王・能登女王が生まれた。
 白壁王が光仁天皇となると、宝亀年中(770~780年)に高野朝臣(たかのあそん)の姓を賜わり高野新笠(たかののにいがさ)となった。そして、宝亀9(778)年1月29日には、「従四位下の高野朝臣(*新笠のこと)に従三位が授け」(『続日本紀』同日条)られた。このことは、その身分が嬪(ひん)から夫人(ぶにん)に格上げされたことを意味する。
 令制には、皇后一員、妃二員、夫人三員、嬪四員とあって、10人の定員と定められている。これらの女性は、いわゆる待寝職と言われ、皇嗣を生むことを目的とする要員であった。当時の序列は、皇后―妃―夫人―嬪となっており、夫人は三位以上、嬪は4~5位である。
 桓武天皇が即位した天応元(781)年4月には、中国の「孝子」思想に基づいて、母親の高野夫人(*高野朝臣新笠)を皇太夫人と称し、位階をお上げするように取り計らうとし、この結果、新笠は正三位に昇叙した。
 新笠は、延暦8(789)年12月28日に亡くなった。『続日本紀』によると、延暦9(790)年1月「壬子(みずのえね *15日)、大枝山陵(おおえのみささぎ *現・京都市西京区大枝沓掛町に比定)に葬(はぶ)る。皇太后(*この頃、新笠の尊号として追称された)、姓は和(やまと)氏、諱(いみな *貴人の本名を言うのをはばかること)は新笠(にいかさ)。贈正一位乙継(おとつぐ)の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝(おおえ)朝臣(あそん)真妹(まいも)なり。……」(延暦9年1月15日条)と言われる(新日本古典文学大系16『続日本紀』岩波書店 1998年)。 
 新笠の父母は、和乙継と大枝真妹というのである。しかし、和氏は勢力が弱かったのか、新笠が先述のように宝亀年中に「高野朝臣」の姓を与えられたにもかかわらず、その姓(かばね)は正一位を送られた父・乙継ぐらいしか使われていない。他の一族は、相変わらず和氏である。
 桓武の外戚(外戚とは正確には母方の親戚を指す)で、新笠の父母以外でもっとも出世したのは和朝臣家麻呂(やまとのあそんいえまろ)であるが、彼の薨伝(こうでん)を伝える『日本後紀』は、次のように述べている。

 中納言従三位和朝臣家麻呂が死去した。従二位大納言を贈った。家麻呂は贈正一位高野朝臣弟嗣(おとつぐ *新笠の父)の孫(*桓武のイトコになる)で、先祖は百済国の人である。性格は朴訥(ぼくとつ)で才学を欠いていたが、天皇の外戚であることにより、擢(ぬき)んでて昇進した。渡来系で公卿(くぎょう *「公」は大臣、「卿」は大・中納言、三位以上および参議の四位をいう)になったのは家麻呂が最初である。人臣として過分の出世をしたが、天から授かった才質は不十分であったというべき人物である。顕職(けんしょく)に就いても旧知の人に会うと、身分の低い者であっても嫌わず、握手して語った。この光景を見た者は感じ入ったことであった。行年七十一。
 死後、従二位大納言を贈られた和朝臣家麻呂は、渡来系では初めて公卿となった。家麻呂の昇進は、高野新笠の外戚であったためである。しかし、その後、和氏からは高官は輩出されなかったようである。

    (ⅱ)后妃に多い渡来系

 第二は、桓武の后妃にも、渡来系氏族の出身者が少なからず存在することである。桓武の后妃は、知られているだけでも27人いる(皇太子になる以前の妻妾が不明)が、その内、渡来系は7人もいる(図を参照)。
 もちろん、最も多いのは藤原氏で10人である。当時、権力を実際上、藤原氏が掌握していた関係から、このことは当然である。皇后は藤原良継の娘の藤原乙牟漏である(後の平城天皇・嵯峨天皇などの母)。大納言、藤原小黒麻呂の娘・上子もその一人である。桓武を早くから天皇位に画策した藤原永手(藤原北家)・同良継(藤原式家)・同百川(藤原式家)の内、良継と百川の娘が入内している。桓武が、百川亡き後最も信頼し、長岡京建設の陣頭指揮にあたっていた中で暗殺された藤原種継(百川の甥)の娘も入内している。
 それにしても、それまで父・光仁の場合を除いて、渡来系出身者を皇妃に迎えた例はなく、桓武が7人も迎えたのは極めて特異なことである。7人の内訳は、百済王氏が3人、坂上氏が2人、百済宿祢(すくね *祢は禰の略字)氏が1人、河上氏が1人である。
 坂上氏の2人は、坂上又子が坂上苅田麻呂の娘(田村麻呂の姉)、坂上春子が坂上田村麻呂の娘である。苅田麻呂も田村麻呂も、武人として有名で、歴代朝廷の軍事部門を支えた。特に田村麻呂は、征夷において重要な役割を果たした。
 百済王(くだらのこにきし)氏は、百済王教法(父は峻哲)・百済王教仁(父は武鏡)・百済王貞香(父は教徳)の3人である。峻哲は征夷において現地に赴いている。
 百済宿祢永継は、北家(後に藤原氏主流となる)藤原房前の孫である内麻呂の妻であり、真夏(774~830年)・冬嗣(775~826年)の生母である。桓武は内麻呂とどのような密約を交わしたのかは分からないが、延暦3(784)年以前に、人妻であった百済永継を入内(じゅだい)させている。そして、延暦4年に桓武と永継の間に、良岑(よしみね)安世が生まれている(安世は延暦21〔802〕年に、良岑朝臣の姓を賜わって、臣籍に降下している)。内麻呂は、延暦13(794)年10月に参議となり、延暦17年に中納言となり、平城・嵯峨天皇の時代に右大臣となっている(806~812年)。
 人妻といえば、桓武ははるか以前の16~7歳の頃と思われるが、藤原継縄(藤原南家)と結婚していた百済王明信(2人の間には乙叡〔たかとし〕が761〔天平宝字5〕年頃に生まれている)を寵愛するようになる。明信も渡来系出身者である。桓武と明信との関係はその後も続き、桓武が天皇に即位した後、明信は尚侍(しょうし *内侍司の女官の称)に任ぜられて、常に側近として仕え、後に従二位まで昇った。明信の孫(乙叡の子)・藤原平子も桓武の皇妃となっている。
 なお、藤原継縄は、前述したように790(延暦9)年に右大臣へ昇進し、その子・乙叡も、中納言に出世している。
 
   (ⅲ)渡来系集団や個人の積極的登用

 第三は、渡来系氏族の財力・技術力や勢力の利用である。朝鮮半島からの人々の渡来は、①前2世紀~後3世紀、②4世紀末~5世紀初頭、③5世紀後半~6世紀、④7世紀後半―が画期と言われる。
 秦氏は、前述したように長岡京建設に協力したが、新羅系渡来人と言われ、山背国が本拠地である。桓武の寵臣・藤原種継の妻もまた。秦氏の出身である。
 また、桓武は、有能な渡来系氏族出身者を重用し、政権運営の中枢を担わさせた。その代表は、桓武天皇晩年では、武人系では坂上田村麻呂であり、文人系では菅野真道である。
 田村麻呂は、延暦16(797)年に征夷大将軍に任じられ、延暦21(802)年にアテルイらを降伏させた。そして、延暦24(805)年6月に参議に就任し、嵯峨朝の弘仁2(811)年5月に正三位大納言で没した。
 ちなみに、坂上氏は、東漢(やまとのあや)氏の一氏族である。東漢氏は百済系の渡来集団である。東漢(倭漢)氏は、新羅系の秦氏にならぶほどの雄族である。しかし、彼らが後漢の霊帝の後裔だというのは、作為された伝説である。
 他方、菅野朝臣真道は、天平13(741)年に、津史(つのふびと)山守の子として生まれた。真道の官歴は、光仁天皇の宝亀9(778)年に、少内記としてスタートした。内記は中務省に属し、詔勅・宣命を作り、位記(叙位の旨を書き記して、その人に交付する文書)を書く職で、儒者で文章の上手な者が選任された。内記には、大中少がある。
 その後延暦年間に入ると、左右兵衛(閤門を守り、天皇の行幸のときに供奉する役目)に勤め、延暦4(785)年11月には、東宮学士(皇太子に儒学を進講)となる。延暦7(788)年6月からは図書助(中務省に属し、書籍のことを掌〔つかさど〕る図書寮の次官)に勤め、翌年2月からは図書頭(づしょのかみ *図書寮の頭領)となる。
 延暦10(791)年1月には、伊予守となり、初めて国守となる。以後、伊勢守(延暦16年)、相模守(延暦20年)、但馬守(延暦23年)を歴任する。省においても、治部大輔(延暦11年2月)、民部大輔(延暦11年6月)、左兵衛佐(延暦13年)、造宮亮(延暦14年)、左兵衛督・左大弁〔さだいべん〕(ともに延暦16年3月)、勘解由次官(延暦16年9月)などを歴任する。[*介・助・輔・亮・佐は、すべて「すけ」と読む。左大弁は、太政官左弁局の職員。兵部・刑部・大蔵・宮内の4省を支配監督する。勘解由使(かげゆし)は、国司や諸役人が交替する時の人事監督官。真道も諸官の兼任が多い。]
 真道は、延暦24(805)年1月に、参議となる。渡来系出身者で、国政審議官である参議に上り詰めたのは、真道が二人目である。(真道の詳しい官歴については、前田晴人著『桓武天皇の帝国構想』同成社 2016年 を参照)