古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑪

 「祟り」の判明で再び新都造営

Ⅶ 38年戦争を継続させた桓武天皇の「新王朝」意識

  (5)長岡京を放棄し平安京へ

 桓武は、792(延暦11)年のいずれかの時点で、長岡京からの新たな遷都を決めたようである。この年の6月には、二つの事件が起こっている。「……大雨による南門の倒壊と皇太子(*安殿親王)の病気である。しかも、この月のはじめには、東北と九州を除き軍団(諸国に置いた兵団)を廃止し、代わって健児(こんでい *郡司などの子弟を兵士とする制度)を置くという大軍縮を実施している。軍役から解放された労働力は、中部以西は造都に、東国は征夷に振り向けるためであったと考えられる。あるいはこの時、桓武の念頭にはすでに遷都があったのかもしれない。洪水と怨霊、そして潜在的な長岡京の構造的欠陥が相まって、桓武は遷都に踏み切ったのではなかろうか。」(川尻秋生著『平安京遷都』岩波新書 2011年 P.22)と言われる。
 785(延暦4)年9月、長岡京造作の陣頭指揮にあたっていた藤原種継が暗殺され、都は流血の場と化した。しかも、苛烈な犯人追求の結果、早良親王が抗議の憤死をする。 
 それから3年もたたない788(延暦7)年5月4日、桓武天皇の夫人・藤原朝臣旅子(たびこ)が死去する。旅子は藤原百川の長女であり、大伴親王(後に淳和天皇となる)の母である。まだ30歳という年齢であった。
 翌789(延暦8)年12月28日、桓武の生母である皇太后高野新笠が亡くなる。その翌790(延暦9)年閏3月10日には、桓武の皇后藤原乙牟漏(おとむろ)が死去する。乙牟漏は式家藤原良継の娘で、後の平城天皇・嵯峨天皇の母である。乙牟漏もまだ31歳という若さであった。
 さらに、同年9月以降は、皇太子安殿(あて)親王が原因不明の病気に長く悩まされ続けることとなる。
 相次ぐ近親者の死没と皇太子の病疾に悩みぬいた桓武天皇は、ついに792(延暦11)年6月10日、凶事の原因追求を占いに求め、原因が早良親王の「祟(たた)り」であると「判明」した。『日本後紀』によると、「皇太子の病が長期にわたっている。卜(うらな)ってみると、祟道(すどう)天皇(*早良親王のこと)の祟りであることが判ったので、諸陵頭調使王(しょりょうのかみつきのつかいおう)らを淡路国へ派遣して、その霊に謝罪した。」(延暦11年6月10日条)という。
 そして、桓武天皇は同月17日、次のような勅を発した。「去る延暦九年に淡路国に命じて、某親王(*早良親王)の塚に守冢(しゅうちょう *墓守)一戸をあて、かねて近隣の郡司に墓守りのことをもっぱらの任務とさせることにしたが、墓の守衛につかず祟りが起きてしまった。今後は、塚の周囲に隍(ほり)を築き、濫(みだ)れ穢(けが)れたりすることのないようにせよ。」(『日本後紀』)と。
桓武は、近親者の相次ぐ凶事が早良親王の「祟り」であることが卜(うらない)で「判明」してからわずか半年後に、新たな遷都のために視察を派遣している。これは前述した。
 しかし、これは正史『日本後紀』に載せられたものであり、公式的なものである。実際は、これ以前から、長岡京を捨てて新都に遷る構想が進んだことは確かである。その一つの証拠に、桓武帝は前年の延暦11年には、15回以上にわたって狩りや行幸に出かけている。たしかに、桓武はもともと狩りが好きで、他の年もしばしば山背国方面に出かけている。しかし、早良親王の「祟り」が「判明」したことと、頻繁な狩りや行幸は、結び付けて考えるべき重要な事柄であろう。しかも、長岡京建設は、藤原種継暗殺事件(延暦4年9月23日)いこう、その進捗はきわめてスローなものにダウンしていたのである。
 長岡京の造作も、巨額の費用と人民の労働が費やされている。だが、その総体は不明である。しかし、その一端は、次のようにうかがわれる。
 785(延暦4)年7月20日、桓武は勅の中で、「長岡宮の造営はやむを得ない務めであるから、使役する人夫にはその労賃を支給すべきである。/そこで、諸国の人民三十一万四千人を話し合いで雇用した。」(『続日本紀』延暦四年七月二十日条)と述べている。同年12月10日には、「近江の国の人で従七位下の勝首(かちのおびと)益麻呂(ましまろ)は、去る二月から十月までの間に、役夫合計三万六千余人を進上し、自分の費用で食糧をこれに支給した。この功労によって益麻呂は外従五位下を授けられたが、父の真公(まきみ)に譲った。勅があってこれを許した。」(同前、同年十二月十日条)というのである。
 いずれも、大規模な人民の動員である。しかし、その長岡京を桓武は惜しげもなく捨てて、新都建設に走った。それは、長岡京とはあまり離れていない地であった。(図〔川尻前掲書 P.10〕を参照)

 (6)素早い平安遷都の行動

 小黒麻呂や古佐美の視察から7日後には、早くも「天皇が内裏(だいり *天皇が通常住む御殿)の東方に位置する東院へ遷御(せんぎょ)した。内裏の宮を解体することになったためである。」(同前 延暦12年1月21日条)と言われる。素早い行動である。
 翌2月2日には、葛野郡の地主神である賀茂神社に遷都を告げる。3月1日には、「天皇が葛野に行幸(みゆき *外出)して、新京(*平安京)を巡覧した」(同前 3月1日条)。 同月10日には、伊勢大神宮へ参議の志濃王らを遣わして、遷都を奉告させた。同月25日には、天智天皇・光仁天皇・施基(しき)皇子(光仁の父、桓武の祖父)の山稜に、遷都のことを報告した。
 また、3月7日には、新京の宮城の敷地の中に入ることになる百姓(ひゃくせい)の土地44町の代価として、賃租(耕地の賃貸借)に出して得られる収益の3年分の額を支給した。3月12日には、「五位以上の者と諸司の主典(さかん *四等官〔カミ―スケ―ジョウ―サカン〕の第四位)以上の者に役夫(えきふ)を提供させ、新京の宮城を造る工事に充(あ)てた。」(同前 延暦12年3月12日条)のである。
 延暦12(793)年6月23日には、諸国に命じて、早くも新宮の諸門(*宮城門)を造らせている。9月2日には、貴族らの新京における宅地を班給した。
 翌延暦13(794)年には、工事もかなり進展したようである。6月には、諸国の人夫5000人を動員して新宮を掃除し、7月には、東西の市を新京に移し、且(か)つは店舗を造り、且つは市人を移住させた。10月22日には、桓武も新京に移った。
 この時期、平安京の造作に並行して、征夷大将軍・大伴弟麻呂(おとまろ)や同副将軍・坂上田村麻呂らによる「桓武朝の第二次征夷」が進められていた。9月28日には、「諸国の名神に帛(はく *絹)を奉幣(ほうへい *神に幣〔ぬさ=贈り物〕を奉る)して、以て新都への遷都と、蝦夷を征すること欲して祈願した。」(『日本後紀』延暦13年9月28日条)のである。
 そして、11月8日には、桓武天皇は次のような詔を発した。

(略)山背国の地勢はかねて聞いていたとおりである。(略)この国は山と川が襟(えり)と帯のように配置し、自然の要害である城の様相を呈(てい)している。このすばらしい地勢に因(ちな)み、新しい国号を制定すべきである。そこで山背国を改めて山城国とせよ。また、天皇を慕(した)い、その徳を称(たた)える人々は、異口同辞して平安京と呼んでいる。また、近江国滋賀(しが)郡の古津(ふるつ)は天智(てんじ)天皇が都を置いたところで、いま平安京の近接地となっている。往時の地名を追って〔元の〕大津と改称せよ。
 山背国の「背」は、かつての都・平城京からみて背後という意である。したがって、平安京への遷都にともなって、改称するのは理の当然である。古津は、667年3月に天智天皇が都を近江の大津に遷した後、改称されたもので、これを元に戻したものである。桓武の「新王朝」意識の現われの一つである。
 延暦14(795)年の正月には、「踏歌節会(とうかのせちえ)には、/新京楽(しんきょうらく)、平安楽土、万年春(まんねんしゅん)/という音楽が奏せられた。暗い思いが澱(おり)のように積み重なった長岡を後にして、平穏な生活を送りたいとの思いが、『平安京』という名にはよくあらわされている。」(川尻秋生著『平安京遷都』岩波新書 2011年 P.25)のである。
 しかし、平安京もまた大規模なものであり、その建設は一朝一夕にして出来上がるものではなかった。「延暦一四(七九五)年正月には、まだ大極殿は完成しておらず、内裏前殿で宴が行われている。桓武は、八月に朝堂院の建設現場を視察し、延暦一五年正月には、ようやく完成した大極殿で朝賀の儀を行った。それでも、儀式を行う上で欠かせない豊楽院は、延暦一八年(*799)正月時点でも完成しておらず、大極殿の前に仮殿を造って、来日した渤海使(ぼっかいし)に饗宴を催した。大同三(808)年一一月の記事には『豊楽院』がみえるから、それまでには完成したのだろう。このように、遷都以後も造営工事は継続しており、儀式は必ずしも固定した場所で行われたわけではなく、利用できる建物を柔軟に使用したと考えられる。」(同前 P.26~28)と言われる。
 その全貌は明らかではないが、平安京の造作にも莫大な経費と人民の動員がかかりつづけた。その一部は、正史『日本後紀』に以下のように記されている。
 延暦16(797)年3月17日条には、「遠江・駿河・信濃・出雲をして雇夫(こふ)二万三十人を提供させ、以て造宮役に供した。」という。
 同年6月28日条では、桓武が次のように詔している。

(略)平安京建設のため国中すべての民がたいへんな苦労をした。そこで、今年も畿外諸国の田租を免除せよ。また、畿内は平安京に近接し役夫(えきふ)の徴発を受けることがあるので、田租の半分を免除せよ(*畿内は畿外に比べ庸を免除されているので、負担は軽い。そのため田租半分となっている)。ただ、大和国平群(へぐり)郡と河内国高安郡については、昨年長雨で山崩れが起こり、被害が大きいので、特に田租全免とせよ。平安京造営に徴発をかけられていない国は、田租を免除する必要はない。
 「国中すべての民がたいへんな苦労をした」と桓武天皇がいうほど、人民総体が平安京造営のために動員されたのである。
 延暦18(799)年12月8日条には、「伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・但馬・播磨・備前・紀伊などの国の役夫を発し、以て造宮に充(あ)てる。」と記されている。
 延暦24(805)年12月7日条では、公卿が太政官奏を行っている。

 伏して、綸旨(りんし *天皇の命を受けて蔵人が出す文書)を奉りますに、「平安京造営事業は完了せず、人民に疲弊をもたらしている。彼らの勤労を思うと、憐れみ恵まねばならない。それだけでなく、時には災害や疫病により、農業が損なわれている。今年の穀物の収穫は良好であったが、百姓の産業は十分に回復していない。そこで、事情を調査して手厚く恵み与え、生活が成り立つようにせよ」とあります。私たちは検討いたしまして、伏して、徴発されている仕丁(しちょう *諸国から上京して官署でさまざまな労働に従事させられた者)千二百八十一人をすべて停止することを要望します。…
 …(*他にも多くの税や雑徭の軽減が訴えられている)
 これらの太政官奏は許可された。そしてこの日に、かの「徳政相論」が交わされ、「〔桓武〕天皇は〔藤原〕緒嗣の提案を善(よ)しとし、軍事(*征夷戦争)と造作を停廃する」(『日本後紀』)ことにしたのであった。  (つづく)