古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑩
 郊祀祭天で「新王朝」を固める
                                     堀込 純一

      Ⅶ 38年戦争を継続させた桓武天皇の「新王朝」意識


(2)長岡京遷都の事情

 天皇位について四年目の延暦3(784)年6月10日、桓武天皇は、中納言藤原朝臣(あそん)種継(たねつぐ)、左大弁佐伯宿禰(すくね)今毛人(いまえみし)、参議紀朝臣船守ら10人を、造長岡宮使に任命する。そして、長岡で都城の建設工事が、本格的に始められる。
 かつて聖武天皇(在位724~749年)もまた、約25年という長い治世の間に、恭仁(くに)京―難波京―紫香楽(しがらき)宮―再び平城(へいぜい)京への回帰と、4回も首都を移転している。さらに聖武は全国に国分寺・国分尼寺を建立し、奈良東大寺の大仏を鋳造した。連年に渡る大工事によって、人民は疲弊し、国家財政も大きく傾き、その影響は後世にまで残り続ける。
 そのような状況にもかかわらず、「新王朝」(称徳天皇から光仁天皇への代替わりで、皇統は天武系から天智系に移る)を強調する桓武天皇は、軍事(蝦夷征討)とともに造作(長岡京・平安京の造営)を敢行する。
 長岡京の遷都の理由については、個々のさまざまな説があるが、やはり最も有力なものは、政治環境を変えて、「新王朝」に相応しい施政を行なうことにあると思われる。
 その上で個々の事情を考えてみると、第一は、旧都平城京を離れることにより、新政治に対する旧勢力の妨害を排除することである。
 実際、長岡京遷都に対する妨害は後述するように極めて激しいものがある。その頂点が遷都を最も熱心に推進していた藤原種継暗殺事件として、現出する。
 第二は、平城京にしっかりと根付いた仏教勢力との間に距離を置き、政治への介入を切断させることである。
 783(延暦2)年6月10日に、太政官符「京職畿内諸国に私(ひそか)に伽藍(がらん)を作ることを禁断する事」(『類聚三代格』19)が出され、①「私に道場(*仏道を修行する場)を立てる」こと、②「田宅・園地」の寺への寄進・売買をすること―が禁止された。これは、京(平城京)・職(摂津職)・畿内(大和・山背・河内・和泉)・諸国を対象とし、全国すべてで禁止された。
 さらに、長岡京遷都が行われた翌年の785(延暦4)年5月25日には、太政官符「僧尼の里舎への出入を禁断する事」(『類聚三代格』3)が出され、僧尼が仏道にそむいて、①「私に檀越(だんおつ *パトロン)を定めて閭巷(りょこう *市街)に出入りする」こと、②「仏験(ぶつげん *仏の霊験)と欺き称え、愚民をあやまたせる」こと―が禁止され、そのような場合は、外国(畿外より外側の国々)に排出するとした。
 桓武は仏教一般を否定したわけではないが、僧尼が国家統制に従がうことを厳しく求めたのである。
 第三は、渡来系氏族の重用である。長岡京遷都の推進者である次のような藤原氏は、それぞれ渡来系氏族との深い関係がみられる。まず藤原継縄の妻は、百済王明信であり、しばしば桓武が交野(河内国)に行幸した際の宿泊地が、この夫妻の別業(別荘)であった。交野は百済王氏の本拠地である。
 藤原小黒麻呂(733~794年)の妻は、秦下島麻呂の娘で、二人の間には葛野麻呂が生まれている。葛野麻呂の名は、母の生家との関係を示し、山背国葛野郡は秦氏本宗の本拠地である。
 桓武の寵臣である藤原種継(737~785年)の母は、秦忌寸(はたのいみき)朝元の娘である。
 長岡京遷都は、784(延暦3)年11月であるが、『続日本紀』によると、その直後の12月18日条には、「山背国葛野郡の人・外正八位下秦忌寸足長(たりなが)、宮城を築き従五位上を授けられる」とあり、足長は一気に11階も特別昇進している。
 翌785(延暦4)年8月23日条には、「従七位上大秦(おおはた)公忌寸宅守(やかもり)に従五位下を授く。太政官の院垣を築くを以てなり。」とある。
 さらに、同年12月10日条には、「近江国の人・従七位勝首(かちのおびと)益麻呂(ましまろ)、去る二月より十月に迄(いた)るまで、進る所の役夫(えきふ)惣(すべ)て三万六千余人。私粮を以てこれに給す。労を以て外従五位下を授けらる。」と記されている。勝首は、秦氏の同族である。
 桓武は、長岡京造営に際し、秦氏の財力と組織力に大いに依存したのである。桓武が渡来系氏族の出身者を重用するのは、長岡京遷都の際に限らないが、詳しくは後述とする。

(3)桓武の寵臣・藤原種継が暗殺さる

 『続日本紀』によると、784(延暦3)年6月23日、「天皇の勅(*天皇の命令)があって、新京(長岡京)の宅を造営するために、諸国の正税六十八万束を、右大臣(*藤原是公)以下参議以上の官人や、内親王・夫人・尚侍(ないしのかみ)らに地位に応じて賜った。」という。新都造営・遷都への不満を抑えようと、高官や女性皇族などにそれぞれ地位に応じて「正税六十八万束」を分配したのである。
 同じく、6月28日には、「人民の私宅で新京の宮内に入っているものが五十七町ある。そこで、当国(*山背〔やましろ〕国)の正税四万三千束余をその持ち主に賜った。」という。長岡京の宮殿に当たる地・57町の持ち主にも立退料と思われるが、「山背国の正税四万三千束余」を与えている。
 しかし、それでも反桓武派勢力は、さまざまな手段をもって長岡京遷都に反対する。長岡京への遷都は、784(延暦3)年11月に行なわれるのであるが、その直前の10月30日の勅で次のように命じている。

聞くところによると、この頃、平城京(*奈良)中では盗賊がしだいに多くなって、街路で物を奪い取ったり、家に放火したりしているという。担当の役所が厳しく取り締まることができないために、かの暴徒が盗賊となってこのような被害をおこしているのである。今後はもっぱら令(りょう)の規定にあるように、隣組(となりぐみ)を作り、まちがったことを検察するようにせよ。職につかず暮らしている者や、博奕(ばくち)打ちの輩(やから)は、蔭(おん)や贖(しょく)〔*高官の子や孫の特典〕から外(はず)し、杖百叩(ひゃくたた)きの罰とせよ。放火や略奪・脅喝のたぐいは必ずしも法律に拘(かかわ)らず、死刑に罰をもって懲らしめよ。つとめて賊を捕え、悪者を根絶せよ。
 長岡京造作は、難波京の建物なども利用するなど、突貫工事で進められた。だが、反対派の行動は執拗であった。785(延暦4)年9月23日、陣頭指揮にあたっていた藤原種継が暗殺される事件が勃発したのである。種継は藤原宇合(うまかい *藤原式家)の孫で、百川や蔵下麻呂の甥にあたる。779(宝亀10)年7月に百川が死去した後、桓武がもっとも信頼した人物で、長岡京遷都の中心人物でもある。
 種継の死は、桓武にとって大きな痛手であり、犯人たちへの処分は苛烈をきわめた。『日本紀略』によると、翌9月24日、大伴継人(つぐひと)や同竹良(つくら)たちが捕らえられ、尋問の結果、中納言大伴家持(やかもち *事件の直前に死亡)が大伴氏と佐伯氏に相談し、皇太子の早良親王をも巻き込んで事件に及んだ、と証言した。事件に関与したとされた人々は、斬首や流刑となり、鎮守将軍の経験もある大伴家持も官位を剥奪された。なかには、種継の柩(ひつぎ)の前で罪状を告げられ、斬刑に処せられた者もいた。
 処罰は、皇太子の早良親王(桓武の同母弟)にも及ぶ。親王は9月28日に京内の乙訓(おとくに)寺に幽閉され、皇太子の地位を追われた。早良親王は、全力で抗議し、水食を断った。そして、親王は淡路国へ護送される途中に亡くなる。

(4)長岡京の南郊で天神を祀る

 桓武天皇の「新王朝」創建の意気込みは、長岡京遷都にとどまらなかった。それは、中国の「郊祀祭天」を真似て、長岡京の南郊・交野で昊天上帝を祀っていることで明らかである。
 『続日本紀』は、延暦4年11月10日条で、「天神(あまつかみ)を交野の柏原(かしわばら *大阪府枚方市片鉾本町)に祀(まつ)る。宿?(しゅくとう *前々からの祈願)を賽(つくの)ひてなり。」と記している。かねがね祈願していたことが叶(かな)い、お礼参りとして交野の柏原で桓武天皇が天の神を祀ったというのである。
 翌々年の延暦6年11月5日条でも、「天神を交野に祀る」とある。
 「郊祀祭天」とは、もともと中国古来からの天地の祭である。冬至に天を都城の南郊に祭り、夏至に地を北郊に祭るのである。桓武が真似た制度は、唐の制度であり、唐制は昊天上帝を円丘に祀るとともに、唐王朝の最初の皇帝・高祖(李淵)を配して祀った。
 だが、桓武は天神とともに父・光仁天皇を祀った(神武天皇ではなく)。ここにこそ、桓武の強烈な「新王朝」意識が見てとれるのである。
 また、この「郊祀祭天」は、天皇位の正統性・正当性にかかわる重大問題でもある。
 日本の王権制は、律令制度を大幅に導入したのと同じで、それ以前から中国古代思想に大きく影響されている。
 中国の古代王権制の特徴は、『春秋左氏伝』の襄公14年(前559)年で、師曠(しこう)の次の言に集約されるであろう。すなわち、「天、民を生じて之(これ)が君を立て、之を司牧(しぼく *管理し養う)せしめ、性を失わしむること勿(な)し〔*民の天性の正しい性情を失わないようにする〕。」(中国古代の王権制については、拙稿『唯物史観の復興と発展』2006年 P.230~233を参照)である。
 日本の王権制は、このような天命思想を明確に主張している訳ではないが、個々の具体的対応策では一致している。たとえば、帝王の治世が正しく行なわれているか否かは、人
民の生活や自然現象に現われるとして、人民の様々な窮状に対しては賑給(しんごう *高齢者・身寄りのない者・困窮者・病人・被災者などに、稲穀・布・塩などを支給し、徳政を示すこと)したり、税を免除・軽減したりする。旱天(日照り)に対しては、雨乞いをして、農耕の障害を取り除く。また、積極的に帝王の徳を示すために、犯罪者に対する恩赦(大赦)を行なう―などである。
 しかし、日中の最大の相違点は、日本の天皇制が根本では記紀神話にもとづいて、天照大御神の子孫が現御神(あきつみかみ *現世に現われきた神)として、大八嶋国(おおやしまぐに *日本全国)を代々統治するという点にある。この点で、中国の易姓革命は否定される。統治者は、天照大御神の子孫に限られることがアプリオリに決められているからである。
 このことは、一例をあげると、『続日本紀』でも、「高天原(たかまのはら)に事(こと)始(はじ)めて、遠天皇祖(とほすめろき)の御世、中・今に至る〔*中頃及び現在に至る〕までに、天皇が御子(みこ)のあれ坐(ま)さむいや継々に〔*次ぎ次ぎにお生まれになり〕、大八嶋国知らさむ(*お治めになる)次と(つぎてト *順序として)、天(あま)つ神(かみ)の御子(みこ)ながらも〔*御子なるがままに〕、天に坐(ま)す神の依し(よさシ *委任する)奉(まつ)りし随(まにま)に、この天津日嗣高御座〔*天照大御神の系統を継承する天皇の位〕の業(わざ *天皇位にある者の任務)と、現御神(あきつみかみ)と大八嶋国知らしめす倭根子天皇(やまとねこすめらみこと *持統天皇のこと)」(文武天皇元年8月条)の大命として、文武が天皇位についた、とその正当性・正統性を述べていることで明らかである。
 しかし、奈良時代、日本王権制の原理は必ずしも確固としたものではなかった。たとえば、文武天皇の後を継いだ元明天皇(在位707~715年)は、707(慶雲4)年7月17日、天皇即位のさいの詔で次のように言っている。「……また皇室のはるかな先祖の時代から始まって、代々の天皇の時代に、天皇が天つ日嗣として高御座(*天皇位)につかれ、国家天下を撫で慈しまれてきたのは、格別なことではなく、人の親が自分の児を養育するように、お治めになり慈しまれてきたことであると、〔*元明天皇は〕神として思う。」(『続日本紀』)という。
 だが、その同じ元明天皇の708(和銅元年)2月15日の詔では、「朕は天帝の命を承って、天下に君主として臨んでおり、徳が薄いにも拘らず、天皇という尊い位にいる。……」
(『続日本紀』)と言っている。この表現は、極めて天命思想に近い表現であり、天皇制の正統性・正統性を表現する「天つ日嗣の高御座」とは、基本的に異なるものである。
 こうしたあいまいでルーズな正当付けの現状において、桓武天皇は「郊祀祭天」の儀式を行なうことにより、中国的な「専制君主」としての務めを果たし、「新王朝」の姿勢を天下に改めて示したのである。 (つづく)