古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑨
  天武系を一掃する桓武勢力
                          堀込 純一


Ⅶ 38年戦争継続させた「新王朝」意識
 
 38年戦争は、774(宝亀5)年から811(弘仁2)年にわたって継続された。それは、光仁(在位770~781年)―桓武(在位781~806年)―平城(在位806~809年)―嵯峨(在位809~823年)の四代の天皇の治世にあたる。だが、その期間は、光仁が10年半、平城と嵯峨が3年であり、桓武がもっとも長く25年間にわたる。
 征夷と造都がセットとなった桓武の治世は、財政危機を一層深め、律令制国家・社会の基礎を極めて不安定にさせる根本要因であった。では、一体何故、桓武はこのような無謀な危うい政治にのめり込み、律令国家の変質・崩壊を促進させたのであろうか。それは、一言でいえば、桓武天皇の「新王朝」創建の狙いと意気込みにあったと言えるであろう。

   (1)朝廷中枢での激烈な権力闘争

 奈良時代は、「青丹(あおに)よし 寧楽(なら *奈良)の京師(みやこ *都)は 咲く花の 匂(にお)ふがごとく 今さかりなり」と栄華を誇ったが、その内実は天皇・高級貴族の激しい権力闘争の時代でもあった。
 749年7月、聖武天皇(724~749年)が譲位し、皇太子であった安倍皇女(孝謙天皇)が即位する。756年5月、聖武上皇が没するさいに、その遺言で皇太子には天武の孫である道祖(ふなど)王がついた。しかし、道祖王は聖武の死去にともなう諒闇(りょうあん *喪に服する期間)中にもかかわらず、「淫欲」をほしいままにするなどして、757年3月に廃太子となる。代わりに同年4月、大炊王(父は舎人親王、祖父は天武天皇。後の淳仁天皇)が皇太子となる。政権は、光明皇太后・孝謙天皇のバックアップを得た藤原仲麻呂(後の恵美押勝)が牛耳ることになっていく。この頃から、皇位も含めて朝廷中枢での権力闘争が激烈となる。
 757(天平勝宝9)年7月、橘奈良麻呂が中心となり、黄文王・道祖王・大伴古麻呂・多治比犢養(たじひのこうしかい)・小野東人などが参加した藤原仲麻呂打倒・孝謙天皇排斥の陰謀が発覚する。この事件の関係者は広がり、連座する者を含めると443人にのぼった、と後に太政官符は言う(『続日本紀』宝亀元〔770〕年7月23日条)。
 孝謙天皇は、758(天平宝字2)年8月に譲位し、淳仁天皇が即位する。だが、760年に光明皇太后が死去し、762年6月、道鏡を寵愛する孝謙上皇は詔を発して、恵美押勝が擁する淳仁天皇を非難する(この当時は、上皇は天皇と同等の権力をもっていた)。そして、「……朕は出家して仏弟子となった。ただし政事のうち恒例の祭祀など小さなことは今の帝(*淳仁天皇)が行なわれるように。国家の大事と賞罰の二つの大本(おおもと)は朕が行なうこととする。……」(『続日本紀』6月3日条)と宣言する。
 しかし、仲麻呂(恵美押勝)の権勢は止まらず、764年9月に、押勝は都督四畿内・三関(伊勢の鈴鹿・美濃の不破・越前の愛発〔あらち〕)・近江・丹波・播磨等国兵事使(へいじし)に任命される。都督使の任務は、以上の10か国の兵士を国ごとに20人ずつ都督衙(押勝邸)に集め、教練することである。押勝は太政官大外記の高丘比良麻呂に1国当たり600人の動員令を書かせ、その野望が発覚する。押勝一行は近江に逃れるが、9月19日、琵琶湖で斬殺・処刑される。
 この年(764年)10月、淳仁天皇は淡路に配流され、孝謙上皇が称徳天皇として重祚(一度退位した天子が再び位につくこと)する。

     (ⅰ)光仁天皇即位時の権力闘争
 だが、770(宝亀元)年8月、称徳天皇が没すると、従来の天武系ではなく天智系の白壁王(後の光仁天皇)が皇太子につく。『続日本紀』によると、左大臣藤原永手、右大臣吉備真備、参議・兵部卿藤原宿奈麻呂(後に良継)、参議・民部卿藤原縄麻呂(ただまろ)、参議・式部卿石上宅嗣(やかつぐ)、近衛大将藤原蔵下麻呂(くらじまろ *良継の弟)らが、「禁中で策を練り、諱(いみな *実名を出すことをはばかること。白壁王を指す)を立てて皇太子とした」(8月4日条)とある。その理由は、「白壁王は諸王の中で年齢も高く、また先帝(*天智天皇を指す)の功績もある」(同前)から、というものである。
 だが、実際は、藤原永手(北家)や良継ら藤原式家の勢力が、天武の孫の文室浄三(ふんやのきよみ)やその弟・文室大市を推す吉備真備らの勢力を打破って、光仁天皇は即位したのである。
 しかし、候補にあがった白壁王が当時62歳、文室浄三が78歳、弟の大市が67歳といずれも高齢者であった。しかも、文室兄弟は当時、臣籍に降下していた。打続く権力闘争により互いにつぶし合いとなり、天武系には天皇になりうる好条件をもった人物が枯渇しているのであった。図(青木和夫著『日本歴史』3 奈良の都 中公文庫 1973年 P.426~427)を見ても明らかのように、天武の孫・ひ孫の世代の大部分は、何らかの形で権力闘争にかかわり、処罰を受けているのであった。 
 この結果、天武系皇統の大部分が失脚し、光仁天皇即位で皇統は天智系に移る。しかし、だからといって皇位をめぐる権力闘争がなくなる訳ではなかった。光仁天皇自身、60歳を過ぎた高齢であり、擁立した貴族たちには当然、その次の天皇候補者が射程に入っていたのは確実である。
 白壁王(光仁天皇)は、もともと皇位をめぐる激しい闘争に、警戒を抱き保身に務めていたようである。すなわち、「天平勝宝(*749~756年)より以来、皇位を継ぐ人がきまらなかったので、人々はあれかこれかと疑って、罪し廃される者が多かった。天皇(*光仁天皇のこと)はこうしたことから思いがけない災難にあうことを用心して、或いは酒をほしいままに飲んでは行方をくらまし、それによってたびたび害を免れた。」(『続日本紀』光仁天皇即位前紀)と言われる。
 律令制度においては、蔭位制度といって、高位・高官の子孫に限って、父祖と同じ地位に昇りやすい制度がある。選叙令(せんじょりょう)の規定によると、三位以上は孫まで、四位・五位は子どもまでが、いかに能力がなかろうと、最初から高い位階を授けられるのである。
 皇親の場合、蔭叙は21歳以上からと定められているが、白壁王は737(天平9)年に従四位下に蔭叙されている。それは29歳のときであり、大分遅い年齢である。次に、従四位上に昇進するのは、746(天平18)年であり(38歳)、この間9年かかっている。その後もまた、昇進の音沙汰がない。
 だが、752~753(天平勝宝4~5)年の頃に、井上内親王と結婚すると、事態は大きく変わる。白壁王の昇進は、井上内親王との結婚後、めざましいものがある。757(天平宝字元)年に正四位下へ、758(同2)年に正四位上へ、759(同3)年に従三位へ(51歳)、と昇進する。
 井上内親王は、孝謙天皇の異母姉妹であるが、11歳になった727(神亀4)年に、伊勢入りし、以降20年間、斎王(伊勢神宮や賀茂神社に奉仕させられた未婚の皇女)として巫女(みこ)の生活を送り、746(天平18)年に戻った。その後に、白壁王と結婚するが、晩婚であった。しかし、白壁王の順調な昇進の要因に、井上内親王との結婚があったことは否定できない。 
 760年には光明皇太后(孝謙天皇の母)が崩御し、このとき白壁王は、山作司(山陵〔みささぎ〕を造る司)・前後次第司(天皇の乗り物の前後を守る官人)に従事し、762(天平宝字6)年には中納言となって廟堂に列した。764(天平宝字8)年には、正三位にまで昇進している。

     (ⅱ)皇后井上内親王と皇太子の廃立
 光仁天皇の昇進の要因となった皇后井上内親王ではあったが、光仁が天皇位について三年も経たない772(宝亀3)年3月に廃され、同年5月には、皇太子他戸親王(父は光仁天皇、母は井上内親王)も廃される。
 井上内親王の失脚には、「巫蠱(ふこ)事件」がある。『続日本紀』によると、「皇后の井上内親王は呪詛の罪(じゅそ *光仁天皇の姉・難波内親王を呪い殺したとされる)に連座して、皇后の地位を廃された」(宝亀3年3月2日条)というのである。
 この事件に関連して、次期天皇になりうる最大の候補者である皇太子他戸(おさべ)親王も、同年5月に廃され、庶人に落とされている。そして、翌年1月には、山部親王(後の桓武天皇)が皇太子に即(つ)いている。このとき、山部親王は37歳である。
 だが、この事件も不可解なものである。密告してきた者が罪を軽減されることはあり得るだろうが、光仁天皇の詔によると、それどころでなく大いに褒(ほ)められたうえに、官位を上げるまでの措置を受けているのである(同前)。
 光仁天皇の即位には、藤原氏の式家の者たちが大きな力を発揮したのは前述したが、そのなかでも裏面で重要な活動をしたのが、藤原百川であるといわれる。井上満朗著『桓武天皇』(ミネルヴァ書房 2006年)によると、今回もまた百川がキーパーソンの役割を果している(P.56)、といわれる。
 たしかに、『公卿補任』(宝亀2年条)は、次のように述べている。

 大臣(*百川のこと)素(もと)より心を桓武天皇に属(つ)け、龍潜(*天子が未だ即位していない時を言う)の日に共に交情を結ぶ。宝亀天皇践祚(せんそ)の日に及び、私に計らいて皇太子と為す。時に庶人他部(他戸)、儲弐(ちょじ *皇太子)の位に在り。公(*百川のこと)しばしば奇計を出し、遂に他部(他戸)を廃し、桓武天皇を太子(*皇太子)と為す。
 いずれにしても、「巫蠱事件」により、他戸親王が失脚しないかぎり、山部親王(後の桓武天皇)が皇太子、ひいては天皇の位につけなかったのは確かである。
 山部親王の母は、和新笠(やまとのにいがさ *後の高野新笠)といい、その父・和乙継(やまとのおとつぐ)と母・土師真妹の間に生まれた。和氏は百済国の都慕(とぼ)王(伝説上の王)の18世の孫と称した武寧(ぶねい)王より出たとされる渡来系氏族である。和(やまと)という名からして、和氏は大和国城下郡大和郷(現天理市)を拠点として活動していたと推測される。
 白壁王と和新笠との間には、能登内親王、山部親王、早良親王の3人の子がもうけられた。白壁王と和新笠が何時頃結婚したかは、不明である。しかし、能登内親王の誕生が733(天平5)年、山部親王の誕生が737(天平9)年であるから、733年以前であることが知られる。
 山部親王は、他戸親王よりもはるかに年長ではあるが、当時の習慣では、母の身分が井上内親王の方が和新笠より比較にならない程高く、しかも和氏は渡来系氏族であるため、他戸親王が皇太子となったのである。このことは、山部親王(後の桓武天皇)にとっては、他戸親王が存在する限り、天皇位にはつけないことを意味していた。

     (ⅲ)桓武即位と氷上川継事件
 その後、高齢の父・光仁天皇が781(天応元)年4月に譲位すると、直ちに息子の桓武が即位し、皇太子には実弟・早良(さわら)親王が立つ(光仁は同年12月に、73歳で没)。 
 だが、翌年の閏正月、氷上川継(ひかみのかわつぐ)と妻が伊豆に流されるという事件が起こっている。川継は塩焼王(天武の孫)と不破内親王(光仁天皇の皇后・井上内親王の妹で、二人は聖武の娘)との間に生まれ、天武系皇統である。したがって、光仁―桓武親子からは政敵とみなされていたと思われる事件は広がりをみせ、藤原浜成(藤原4家の内の京家、娘が川継の妻)が参議と侍従の職を剥奪され、他にも三方(みかた)王、山上船主、参議大伴家持、右衛士督(うえじのかみ)坂上苅田麻呂(かりたまろ *田村麻呂の父)ら40名程が嫌疑をうけ、左遷あるいは処罰を受けている(家持と苅田麻呂は、後に嫌疑がはれ、元の地位に復している)。
 その年の6月には、(氷上川継事件との関連は不明であるが)当時の太政官の首席を占める左大臣兼太宰帥(だざいのそち)藤原魚名(藤原北家)は左大臣を罷免され大宰府へ左遷され、三人の息子も左遷の憂き目にあっている。
 氷上川継事件は天武系の巻き返しの一環なのか、それとも桓武など天智系のフレームアップなのか、真相は不明である。しかし、川継の排斥により、天武系の男性皇親が一人もなくなったのは確かなことである。「事件」の鎮圧に依り皇統は天武系から天智系への移動がより確実になり、再び天武系に戻ることはなかった。   (つづく)