古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑧

 38年戦争の幕引きと戦いの現地化
                               堀込 純一

      Ⅵ 38年の長期にわたる東北大動乱

  (5)いよいよ開始された桓武朝の征夷

(ⅳ)エミシ側の敗北とアテルイの処刑 

 桓武朝による第三次征夷の準備は、796(延暦15)年正月にすでに始まっている。この時、坂上田村麻呂が按察使(あぜち)・陸奥守に任命される。さらに同年10月には、田村麻呂は鎮守将軍も兼任することとなる。
 朝廷は、796年11月に、坂東・北陸の人民9000人を陸奥国の伊治城に移した、とされる。またもや、大量の「和人」の植民である。
 田村麻呂は、797(延暦16)年11月には、征夷大将軍にも抜擢されている。
 東北地方の最高官に任命された田村麻呂は、「はじめ陸奥国の官制の整備に着手し、官人の定員をきめ、最高官を按察使とした(延暦十七年六月)。さらに十八年には郡の統廃合も実施している。一方、懸案の伊治城周辺の条件整備にも着手し、伊治城と玉造塞の中間に、機急に備えて駅を置いた。」(伊藤博幸著「東北の動乱」―『古代を考える 多賀城と古代東北』吉川弘文館 P.283)と言われる。
 征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀が授けられたのは、801(延暦20)年2月14日である。この時に動員された日本軍は、四万人で、第二次征夷の時の半分以下である。
 節刀は同年10月28日に返還されているので、戦いは2月から10月の間に、決着づけられていることが分かる。しかし、正史の逸文(すべて失われた文章、あるいは一部分のみ残った文章)では、この時の戦いの様子はわからない。ただ、リーダーのアテルイなどの降伏で、日本側が勝利したことだけは明らかである。
 『類聚国史』延暦21年4月庚子(15日)条によると、「造陸奥国胆沢城使・陸奥出羽按察使・三位坂上大宿禰田村麻呂ら言(もう)す、『夷(い)大墓(たも)公(きみ)阿弖流為(あてるい)、盤具(ばんぐ)公(きみ)母礼(もれ)ら、種類五百人を率いて降る』と。」される。アテルイ、モレは、仲間500人とともに降伏したのである。
 日本軍の繰り返される大規模攻撃と大々的な植民政策など執拗な「陣地戦」により、陸奥のエミシの主要勢力は降伏したようである。もちろん、さらに青森方面に後退し、いまなお日本に抵抗するエミシも存在したであろう。
 だが、この間の13年間にわたる桓武朝の攻撃によく戦い、時には日本軍を完膚なく打破ったこともあるエミシ勢力は、ついに降伏したのであった。
 802(延暦21)年4月に降伏したアテルイやモレは、田村麻呂に引き立てられて7月に入京する。『日本紀略』延暦21年8月丁酉(13日)条は、次のよう述べている。

 夷大墓公阿弖利〔流〕為・盤具公母礼らを斬る。この二虜は、並びに奥地の賊首なり。二虜を斬る時、将軍ら申して云(いわ)く、『この度(たび)は願いに任せて返し入れ、その賊類を招かむ』と。しかるに公卿執論して云く、『野性の獸心は、反覆定まることなし。たまたま朝威に縁(よ)りてこの梟帥(たける *野蛮人の長)を獲(え)たり。もし申請に依りて、奥地に放還すれば、所謂(いはゆる)虎を養ひて患を遺(のこ)すなり』と。即ち両虜を捉えて河内国杜山(*植山や椙山の異説あり)で斬る。
 俘囚の有力者には朝廷から姓(かばね)が与えられる場合がある。この場合、一般的には、名前は地名+姓+名となる。アテルイの場合は、大墓(たも)が地名であり、これは北上川東岸の奥州市水沢区刎田町の田茂山に由来すると言われる。そして、大墓公(たものきみ)が個別の姓となる(「公」などだけを姓という場合もある)。阿弖流為(アテルイ)が名である。
 律令国家に敵対するエミシの長が姓をもつのは、不可解である。しかし、これはアテルイらが降伏した後に、田村麻呂が与えたと言われている(実際は、後の撰者たちが命名したかもしれない)。
 ところで、田村麻呂が、「二人の願いに任せて故郷に帰し、蝦夷の残党を招き寄せ、帰順させたい」と申請するが、公卿たちは、それを許さず斬刑に処したのである。律令国家の長年にわたる版図拡大政策を「妨害」した首謀者を、公卿たちは決して許さなかった。だが、田村麻呂はさらなる版図拡大にアテルイらを利用しようとしたのである。田村麻呂の方が公卿たちよりも、さらに狡猾なのであった。
 
(ⅴ)胆沢城が前線拠点

 田村麻呂は、第三次征夷のあと、802(延暦21)年1月に陸奥に向かい、胆沢城を造営する。
 その1月11日には、朝廷は、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野の10ヵ国に対して、浮浪人(戸籍登録から離脱した者)4000人を陸奥国胆沢城に移している。いうまでもなく、新たな植民であり、新たな屯田兵である。
 胆沢城(北上川と胆沢川が合流する付近の右岸に立地)の造営中に、アテルイたちの降伏があったのだが、その処刑の7ヵ月後の803(延暦22)年3月、田村麻呂は、再び陸奥に赴任し、「造志波城使」として志波城(胆沢城の北方55キロ)の造営を始めた。
 第三次征夷で、北上川中流域を支配下に置いた律令国家は、808(大同3)年までに鎮守府を多賀城から胆沢城に移す。そして、胆沢城や志波城には鎮兵が配属された。
 胆沢城・志波城の造営と同じ頃、出羽国の北部でも、東北最大規模の城柵が造られている。それは地名をとって払田柵(ほったのさく)跡(秋田県大仙市)と呼ばれているが、近年では第二次雄勝城の遺跡とみる見解が有力となっていると言われる。(志波城が一辺約840メートルに対して、第二次雄勝城は東西1370メートル、南北780メートル)
 桓武天皇は、版図拡大のための征夷をさらに続行するために、804(延暦23)年正月19日、坂東の6ヵ国(武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野)と陸奥国に命じて、糒(ほしいい)1万4315石・米9685石を陸奥国小田郡中山柵(この遺跡は不明)に運ばせた。第四次征夷の準備である。
 次いで804(延暦23)年正月28日には、再び坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、百済王教雲・佐伯社屋・道嶋御楯を副将軍とした。
 しかし、その後、第四次征夷のための準備は、ほとんど、その動きを止めた。そして、各地に行幸や狩に出かけていた桓武天皇が、804(延暦23)の末頃から病で臥せるようになる。年初の朝賀は、天皇の病のために、805(延暦24)年、806(延暦25)年と連続してとりやめとなる。

   (6)「祟り」に悩む中で、征夷戦争の中止

 桓武天皇は、かねてより早良親王(桓武の弟で、かつ皇太子)の「祟り」に悩まされてきた。 
 早良親王は、後に詳しく述べるが、785(延暦4)年9月の藤原種継暗殺事件に関係したとして、罪を得て淡路に配流される途中、断食をして憤死している。
 生母と2人の后を相い次いで失い、その上、皇太子・安殿親王が原因不明の病に倒れる事態に至り、792(延暦11)年6月に、桓武は陰陽師(おんみょうし)に卜占(ぼくせん)させてみると、早良親王の「祟り」と「判明」した。桓武天皇は早良親王の霊に謝罪し、800(延暦19)年7月23日には、詔して、「朕に思うところがあり、故皇太子早良(さわら)を崇道(すどう)天皇と称し、故廃后(はいごう)井上内親王(*早良親王の母)を皇后に戻し、二人の墓を共に山稜と改称せよ」と命じている。
 だが、それでも「祟り」はなくならず、崇道(すどう)天皇の怨霊を鎮めるために、桓武は手を尽くしたが、最晩年に至るまで「祟り」なるものに悩み続けたのであった。
 そうした懊悩の最中の805(延暦24)年12月7日、勅により、参議・右衛士督(うえじのかみ)・従四位下・藤原朝臣緒嗣(おつぐ)と参議・左大弁(さだいべん)正四位下・菅野朝臣真道(まみち)とに、「天下の人民に恩徳を施す政治について議論させた。緒嗣は『現在天下の人民が苦しんでいるのは軍事(*蝦夷征討)と造作(*平安京造営)ですので、両者を停止すれば、百姓を安楽にすることができるでしょう』という案を述べたが、真道は異論を立てて譲らず、緒嗣の提案に同意しなかった。天皇は緒嗣の提案を善(よ)しとし、軍事と造作を停廃することにした。」(『日本後紀』)と言われる。
 これにより、いわゆる征夷の停止が決定される。桓武天皇は、それから間もなくして、806(延暦25)年3月に死没する。齢、70歳であった。
 しかし、征夷の停止が決定された理由は、桓武が「祟り」に悩まされたことだけではない。征夷決定の10ケ月前の805(延暦24)年2月5日、相模国から次のような言上があった。

 年来、鎮兵三百五十人を派遣して陸奥・出羽両国で防御の任につかせていますが、相模国では雑徭(ぞうよう *道路・堤防・池溝・橋などの新設・修理の力役。年間60日)に徴発できる徭丁が少なく、帯勲者が多数となっていますので、伏して、鎮兵を二分して半分を帯勲者(*雑徭が課されない特典を持つ)より採り、他の半分を白丁(はくちょう *勲章を持たない者)より徴発することを要望します。(これは許可された)
 いまや、エミシとの戦争を継続する基盤である坂東の相模国のように、兵士徴発や財政負担が極めて困難になってきており、侵略戦争の客観的基盤が破綻しかけているのである。

   (7)東国総がかりの征夷 
     中止から陸奥中心へ

 征夷が中止となって、「……まず行われたことは、東国を東北政策に関わるあらゆる負担から解放することであった。東国、特に坂東諸国は、征夷軍士・鎮兵の派遣、柵戸の移配、征夷のための物資の調達など、東北政策に関わる膨大な人的・物的負担を課されていた。八世紀の百年間における東北政策の負担が、東国社会を疲弊させ、このことが征夷の続行を不可能にした大きな要因であることは疑いない……。徳政相論(*先述の緒嗣と真道の議論のこと)以後は、東国に負担を求めることは基本的になくなり、東北政策に必要な人と物は、一部を除いて陸奥・出羽両国でまかなわれるようになる」(鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』P.223)のであった。 
 そして、808(大同3)年、征夷と造都の停止を主張した藤原緒嗣が、陸奥出羽按察使となり、胆沢城に赴任する。だが、緒嗣は、北上川中流域以北の岩手県北部や青森県に、積極的に軍を進めることはなかった、と言われる。
 しかし、嵯峨朝の弘仁年間(810~823年)になると、朝廷はふたたび東北への関心を強め、文屋綿麻呂(ふんやのわたまろ)を起用する。
 810(弘仁元)年9月初めに、「薬子の乱」(藤原薬子と兄・仲成らが、前年に譲位した平城天皇の重祚を狙った政変)が起こるが、乱鎮圧後の9月16日に、綿麻呂を陸奥出羽按察使に任命する。811(弘仁2)年1月11日には、陸奥国に和我(わが)・稗縫(ひえぬい)・斯波(しは)三郡を置いている。
 同年2月、按察使・文室綿麻呂、陸奥守・佐伯清岑(きよみね)、陸奥介・坂上鷹養(たかかい *田村麻呂の弟)、鎮守将軍・佐伯耳麻呂(みみまろ)、鎮守副将軍・物部匝瑳(そうさ)らは、来る6月上旬を期して、陸奥出羽両国の兵2万6000人を発して爾薩体(にさつたい)・幣伊(へい)の二村を征することを申請した。また、この中では、軍粮・兵器もすでに貯備してあると述べている。
 しかし、綿麻呂らは、申請から1ヶ月後の3月9日に、予定の兵2万6000人のうち、1万人を減らすことを嵯峨天皇に申請した。陸奥・出羽の民が疲弊しているため、その負担をできるだけ抑えようとしたためである。嵯峨天皇はこれを却下し、予定通りの兵数を動員するように命じている。(しかし、綿麻呂らは5月までに1万9500余人を徴兵している。これは天皇の指示の数よりやや少ないが、精いっぱいの数と思われる)
 だが、この征夷計画に朝廷の命令が下る前に、現地ではすでに戦いが始まっている。2月か3月頃に、出羽守・大伴今人が勇敢な俘囚300人ばかりを雪中に率いて、爾薩体村を急襲し、エミシ60人ほどを殺戮している。
 811(弘仁2)年4月17日、綿麻呂が征夷将軍、大伴今人・佐伯耳麻呂・坂上鷹養が副将軍に任じられた。
 4月19日、嵯峨天皇は、征夷将軍らに次のような勅を下している。

 夷狄(いてき)紀(のり *土台)を干(おか)し、日を為(な)すこと已(すで)に久し。征伐を加(くわ)ふと雖(いえど)も、未だ誅鋤(ちゅうじょ *根絶すること)を尽くさず。今、来請(*申請が来ること)に依りて、将(まさ)に兵を出さんとす。その軍監(ぐんげん *いくさ目付)・軍曹(ぐんそう *鎮守府に属した佐官)等は、且(か)つは簡用し、且つは奏上せよ。但し軍法を犯さば、身を禁じて裁を請へ。隊長已下(*以下)は、法に依りて決断せよ。国の安危、この一挙に在り。将軍これを勉めよ。
 この勅を従来の征夷命令と比べた場合、その特徴は、①「来請に依りて、将に兵を出さんとす」とあるように、天皇の命令ではなく、現地からの申請に基づいて命令を出していること。②「軍監・軍曹等……」は、地方豪族を軍律の下におくための肩書を与えたため、従来になくその数が多くなった。そこで、精選し、報告せよと命じたこと、③「国の安危、この一挙にあり」と、これは788(延暦7)年の勅が、「坂東の安危、この一挙に在り」と比較すると、「坂東」から「陸奥国」に変化していることである。征夷の課題が、国家的課題から陸奥と言う地方国家の課題に位置づけ直されているのである。
 だがその後、現地から、2月には準備が整ったといいながら5月には準備中―と矛盾した報告があり、嵯峨天皇はこれを叱責し、結局は征夷は来年(812)年6月に実施するように命じた。
 ところが、10月5日、突如として、綿麻呂から戦勝報告が天皇の下に入る。史料の関係から、今回の戦闘経過の中身も、不明である。戦勝報告から2か月後の811(弘仁2)年12月13日、征夷将軍・文室綿麻呂と各副将軍に新たな位階を授けて、慰労した。
 その1か月後の閏12月11日、綿麻呂は、「今官軍一挙して、寇賊遺(のこ)るもの無し」と勝ち誇り、陸奥国の鎮兵3800人を段階的に1000人にまで減らし、軍団兵士も4団4000人から2団2000人に削減するという大幅な軍備縮小を実施すると申請した。そして、「宝亀五年(*774)年より当年に至るまで、惣じて三十八歳、辺寇?(しばしば)動き、警□絶へることなし」と述べて、38年間に及んだエミシとの全面戦争の時代の幕引きを図ったのである。 (つづく)