古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑦

アテルイ率いるエミシ側の勝利
                                 堀込 純一

   Ⅵ 38年の長期にわたる東北大動乱

   (5)開始された桓武朝の征夷

 781(天応元)年9月22日、桓武天皇は、紀古佐美、百済王俊哲、内蔵(くら)忌寸(いみき)全成(またなり)、多犬養(たのいぬかい)、多治比海(うみ)、紀木津魚(こつお)、日下部雄道(おみち)、百済王英孫(えいそん)、阿倍墨縄、入間広成に、「それぞれ蝦夷征伐の苦労を称(たた)え」て、位階を上げて叙位した。しかし、同月26日、征東副使の大伴益立に対しては、「軍中にあって、しばしば征討の時期を誤り、駐留して進軍せず、空しく軍糧を費やして月日を引き延ばした」として、「先に授けた従四位下の位を剥奪」している。
 桓武天皇は、784(延暦3)年2月、従三位の大伴家持(やかもち)を持節将軍に任じ、従五位上の文室(ふんや)与企(よき)を副将軍に任じ、外(げ)従五位下の入間(いるま)広成、外従五位下の安倍墨縄(すみただ)をそれぞれ軍監に任じた。エミシ征討の新たな人事である。
 しかし、この年は長岡遷都があり、翌年の8月に大伴家持の死去、同年9月の藤原種継(造長岡宮使)暗殺事件などが起こり、桓武朝の征夷計画は自然消滅となる。

 (ⅰ)桓武朝の第一次征夷は完敗

 桓武朝における第一次征夷の準備は、786(延暦5)年から始まる。
 同年8月、朝廷は東海道と東山道の諸国に使者を派遣し、エミシを征するために、兵士の選抜・検査と、武器の点検を行なった。
 787(延暦6)年2月25日には、従五位上の多治比浜成を常陸介に、従五位下の佐伯葛城(かずらぎ)を下野守に、従五位下の藤原葛野麻呂(かどのまろ)を陸奥介に、従五位下の池田真枚(まひら)を鎮守副将軍に任じた。
 788(延暦7)年2月28日には、陸奥按察使・陸奥守・五位下の多治比宇美(うみ)に鎮守将軍を兼任させ、外従五位下の安倍猿島臣(さしまおみ)墨縄を鎮守副将軍に任じた。同年3月2日、「兵糧三万五千余石(こく)を陸奥国に命じて、多賀城に運び収(おさ)めさせた。また糒(ほしいい)二万三千余石と塩を東海道・東山道・北陸道などの諸国に命じて、七月までに陸奥国に運ばせた。いずれも来年、蝦夷を征討するためである。」といわれる。そして翌3月3日、桓武天皇は勅を下して、「東海道・東山道・坂東の諸国の歩兵と騎兵五万二千八百余人を徴発して、来年三月までに陸奥国多賀城に集結させよ。……」と命じた。
 3月21日には、多治比浜成・紀葛城(きのかずらぎ)・入間広成をそれぞれ征東副使に任命し、7月6日には、参議・左大弁・正四位下で春宮(とうぐう *皇太子の住む御殿)大夫(*春宮の長官)・中衛中将兼任の紀朝臣古佐美を征東大使に任命した。
 そして、788年12月7日、征東将軍の紀古佐美が出発の挨拶のため天皇に謁した。桓武天皇は、節刀を与えるとともに次のような勅書を下した。

 そもそも日を選んで将軍を任命するのはまことに天皇のみことのり(詔)によるもので
あるが、一旦(いったん)将軍に推挙され征討の途にのぼれば、一切を将軍に任せる。聞くところによると、これまで、別将(副将軍)らは軍令を守らずして逡巡(しゅんじゅん)して留まったりまちがいをする者が多かった。が、その理由を尋ねてみると、まさに法を軽減したことに原因があった。もし副将軍が死罪にあたる罪を犯すようなことがあれば、拘禁して朕に奏上するように。軍監以下の者が法を犯した場合は、法によって斬罪を執行せよ。坂東が安泰か否かはまさにこの一挙にかかっている。将軍はこの遠征を成功させるように。
 「一旦将軍に推挙され征討の途にのぼれば、一切を将軍に任せる」というのは、中国では古来、常識のことである。中国では、戦いの間は、皇帝と雖も将軍の方針を曲げることはできないのである。どうしても必要があれば、将軍を罷免するほかに方法はないのである。
 ところで、この勅書で有名なのは、「坂東の安危、この一挙に在り。将軍宜しく之を勉むべし」の下りである。まさに、征夷が東国総がかりであり、戦いの帰すうは「坂東の安危」を」左右するというのである。それほど征夷は、国家の命運をかけたものであった。桓武天皇は、そのようにみているのである。

 (ⅱ)アテルイの作戦でエミシ側の完全勝利

 789(延暦8)年3月、征夷軍5万余は多賀城に集結し、3月末には衣川(岩手県平泉附近)まで軍を進めた。衣川は、北上川の支流で、平泉丘陵の北を東に流れ北上川に合流する。だが、日本軍はそこから先に攻め入ることもできないで、日にちが経過するばかりであった。
 桓武天皇は、軍に動きがないのにいらだち、5月12日に、征東将軍あてに督戦を行なう。去る4月6日付けの現地からの報告では、3月28日に河を渡って陣を布(し)いたと言うが、「それからもう三〇余日も経ている。」と非難し、「ただ汝らは長い間、一ヵ所に留まって日を積み重ね、兵糧を費やしている。」と不審の念を述べ、ただ留まっているだけの理由を報告せよ、と命じている。桓武天皇も、780(宝亀11)年の呰麻呂の乱後の征夷軍の戦い方に介入する、光仁天皇の誤りを繰り返している。
 天皇の督戦をうけた日本軍は、征東将軍紀古佐美の報告によると、副将軍入間広成、別将池田真枚・安倍墨縄らが協議し、前軍・中軍・後軍の三軍が共同し、北上川を渡ってエミシを討つこととした。「それで、〔*6月3日〕中軍と後軍からそれぞれ二千人を選び出し、一団となって河(*北上川)を渡りました。賊の首領の阿弖流為(アテルイ)の居所に近づいた時、賊徒が三百人ばかりいて、官軍を迎え討ち、合戦になりましたが、官軍の勢いが強くて、賊徒は退却しました。官軍は戦ながら村々を焼き払いつつ、巣伏(すぶせ)村に至り、別の道から進撃していた前軍の軍勢と合流しようとしました。ところが、前軍は賊徒に阻(はば)まれていて、河を進み渡ることができません。そこへ、賊徒が八百人ばかり次々とやって来て官軍をさえぎり戦いました。その力は大変強く、官軍が少し後退しますと、賊徒は直ちに追い討ちをかけてきました。さらに、賊が四百人ばかり河の東の山から現れて、官軍の背後の道を断ってしまいました。官軍は前後を挟(はさ)みうちにされ、一方、賊徒はいよいよ奮い立って攻撃をかけてきました。」という。
 この戦いで、総計すると、エミシ側は14カ村、家屋800戸ばかりが焼かれたが、日本側は、「戦死した者二十五人、矢に中(あた)った者二百四十五人、河に飛び込んで溺死した者千三十六人、裸で泳ぎ着いた者(*ヨロイを着けたままでは溺死する)千二百五十七人」の結果であった。エミシ側の完全な勝利である。
 しかも、明らかに作戦敗けである。日本軍の報告では、「胆沢(*岩手県水沢市)にいる賊はすべて河の東に集まっていますので、まずこの地を征討し、その後で深く攻め入ろうと策を練っています」となっているが、すでにこのことからエミシ側の誘導作戦にとりこまれ、エミシの有利な場所で、エミシの設定した土俵での戦いに引きづり込まれ、敗北したのである。
 征東将軍は、この戦いの後、6月9日の奏上で、遠隔地まで軍糧を運べない事を理由に志波(盛岡市西南部)や和我(岩手県和賀郡)に進軍できないと言い、そうかといって、持久戦にも利がないと述べて、「私たちは話し合って、征討軍を解散脱出させ、食糧を残して非常の時の支えとすることを最良の策としました」と報告した。
 報告を受けた桓武天皇はカンカンであり、現地首脳部を無能と批判した。同年(789年)9月8日、紀古佐美は帰京し、節刀を返上したが、9月19日、敗戦の責任について、取り調べが行なわれ、紀古佐美、入間広成、池田真枚、安倍墨縄らが責任を承服し「処罰」を受けた。

 (ⅲ)空前の規模で進められた第二次征夷

 桓武朝の第二次征夷は、早くも790(延暦9)年に準備が開始される。
 同年閏3月4日、「天皇は勅して、蝦夷を征討するために、諸国に命じて革(かわ)の甲(よろい)二千領を作らせた。東海道では駿河国より東の国々、東山道では信濃国より東の国々で、国ごとに数の割当てがあり、三年以内にそれぞれの国に作り終わらせることにした」という。すでに780(宝亀11)年818日に、諸国で製作する年料の甲冑(かっちゅう)を鉄製から革製に変えることが指示されているが、その理由は鉄製に比べ、丈夫で錆(さ)びず、身につけると軽く、矢に当たっても貫通し難いことである。
 790年閏3月28日には、蝦夷征討のために、「天皇は勅して、東海道は相模以東の諸国に、東山道は上野以東の諸国に、兵糧の糒(ほしいい)十四万石を乾かして準備させた」といわれる。
 翌791(延暦10)年1月18日、蝦夷征討のために、「正五位上の百済王俊哲、従五位下の坂上(さかのえ)大宿禰(おおすくね)田村麻呂(たむらまろ)を東海道に、従五位下の藤原朝臣真鷲(まわし)を東山道に遣わし、兵士を選んで検閲させ、さらに武具を検査させた」という。
 同年2月21日には、「陸奥介・従五位下の文室(ふんや)真人大原に鎮守副将軍を兼任させた」といわれる。
 同年7月13日には、「従四位下の大伴宿禰弟麻呂(おとまろ)を征夷大使(正確には793年2月に、「征東大使」を「征夷大使」に改称)に任じ、正五位上の百済王俊哲、従五位上の多治比浜成、従五位下の坂上大宿禰田村麻呂、従五位下の巨勢(こせ)朝臣野足(のたり)を、それぞれ征夷副使に任じた」のである。
 弟麻呂は、当時61歳であるが、持節将軍は後方で全体を統括するので、必ずしも前線に立って実戦指揮する必要はない。4人の征夷副使の内、田村麻呂以外は鎮守府官人あるいは征東の経験がある者である。田村麻呂は、桓武天皇の側近くで仕える武人である。
 10月25日、朝廷は「東海道・東山道の諸国に命じて、征矢(そや *戦陣で用いる矢)三万四千五百余具を作らせた」のであった。11月3日には、「さらに坂東の諸国に命じて、兵糧の糒十二万余石をあらかじめよく調べ準備させた」といわれる。前年閏3月29日の糒14万石と合わせると、26万石となる。第一次征夷の際の糒が2万3000石であるから、その11・3倍である。大規模軍隊の生命線である軍糧を、今回は十分に用意したのである。
 794(延暦13)年正月1日に、征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀(せっとう *将軍の印として与えられる刀)が与えられる。第二次征夷は、10万の大軍が動員された。動員数も、前回の倍近くである。まさに空前の規模での第二次征夷である。
 桓武朝の第二次征夷は、正史の『日本後紀』が完全に伝わっていないため、その詳細は明らかでない。ただ、6月13日条に、「副将軍坂上大宿禰田村麻呂已下(いか)、蝦夷を征す」と記されているだけである。
 桓武朝の第二次征夷について、鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』(吉川弘文館 2008年)は、次のように述べている。「『日本紀略』には記載がないが、阿弖流為(あてるい)も胆沢の蝦夷を率い、その武力を総結集して奮戦したのであろう。ただし前回の勝利をもたらした北上川東岸の地形を利用した陽動作戦は、もはや国家側に手の内を知られてしまっているので、今回は用いることができない。彼らが国家の圧倒的な軍事力にどのように対抗したのかはわからないが、北方の蝦夷集団が国家側に就いたこともあり、前回より厳しい戦いとなったことは間違いない。」(P.200)と。
 確かに、律令国家は、787(延暦6)年1月21日付の太政官符「まさに陸奥按察使は王臣・百姓が夷俘と交関を禁断すべき事」(『類聚三代格』19)で、「蝦夷との交易禁止」を行なっている。また、789(延暦8)年6月9日、征東将軍紀古佐美が征東軍を解散した理由の一つに、蝦夷がこのままでも滅亡するからと述べている。すなわち、「それに、虫のようにうごめいている小さな敵が、ひとまずは天の下す誅罰を逃れたといいましても、水田や陸田はもはや耕し種を蒔(ま)くこともできず、すでに農耕の時期を失っています」と。(ただ、古佐美は俘囚の農耕を過大評価している。非常時に際して、エミシ本来の狩猟・漁撈や採集で生き延びる余地はあったと思われる)
 交易が禁止され、さらに戦乱で農地を荒らされた蝦夷やかつての「俘囚」が、生活のためにやむなく日本側に「帰順」したこともあり得るであろう。桓武朝の第二次征夷で、エミシ側が不利となった最大の原因は、エミシ勢力総体の団結が必ずしも十分でなかったことにあると、推定される。
 『日本紀略』の794(延暦13)年10月28日条によると、日本側の戦果は、「斬首四五七級、捕虜一五〇人、獲馬八五匹、焼落七五処」と言われている。確かにエミシ側の被害は決して少ないものとは言えない。しかし、だからと言って、日本側がエミシ側に対して決定的に勝利したとも言い切れない。  (つづく)