古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑥
城柵網ズタズタにした呰麻呂の乱

                                      堀込 純一

    Ⅵ  38年の長期にわたる東北大動乱


    (4) 俘囚の子孫・伊治公呰麻呂の乱

 (ⅰ)前進拠点中枢での反乱

 780(宝亀11)年1月、エミシが陸奥国北部の長岡の地(宮城県大崎市付近)の「和人」百姓家を焼いたことから、2月から新たな城柵(覚?城)を造ることとなる。2月2日には、陸奥国から次のような言上がある。
 船路をとって、残存の賊を討ち払おうと思っておりますが、近年は非常に寒くて、その河はすでに凍って船を通すことができません。けれども今も賊の来襲は止(や)みません。それで、まずその侵寇の道を塞(ふさ)ぐべきだと思います。その上で軍士三千人を徴発し、三、四月の雪が消え、雨水が溢(あふ)れる時に、直ちに賊の地に進軍し、覚鱉(かくべつ)城を固め造ろうと思います。
 同年3月22日、按察使(あぜち)紀広純は、道嶋(みちしま)大楯(おおだて)、伊治公呰麻呂などを引き連れて、伊治(これはる)城に出向いた。造営中の覚鱉(かくべつ)城の状況を視察するためであった。この時、呰麻呂は紀広純と道嶋大楯を殺し、ただ陸奥介・大伴真綱(まつな)だけは逃がし、多賀城に送った。呰麻呂(あざまろ)の乱の勃発である。
 『続日本紀』によると、「伊治(これはる)公(きみ)呰麻呂(あざまろ)は俘囚の子孫である。初めは事情があって広純を嫌うことがあったが、呰麻呂(あざまろ)は恨みを隠し、広純に媚び仕えるふりをしていた。広純はたいそう彼を信用して特に気を許した。また牡鹿郡の大領の道嶋大楯は同じ蝦夷出身でありながら常に呰麻呂をみさげあなどり、蝦夷としてあつかった。呰麻呂はこれを深く根に含み持っていた。」という。呰麻呂は、大楯に差別され侮(あなど)られていたため、これを殺したと思われるが、たいそう彼を信用していた広純までも殺害するには、律令国家に対するエミシとしての怨念が長年あったことは疑いない。
 真綱が送り込まれた「多賀城は長年、陸奥国司の治めている所で、兵器や食糧の貯えは数えられないほどであった。城下の人民は競って城中に入り保護を求めた。ところが、陸奥介の真綱と陸奥掾(じょう)の石川浄足(きよたり)はひそかに後門より出て逃走した。結局、人民はよりどころをなくして、たちまち散り散りに去っていった。数日して賊徒が多賀城に至り、府庫のものを争って取り、重いものも残らず持ち去った。あとに残ったものは火を放って焼いた。」と言われる。
 多賀城遺跡は、何回も発掘調査が行なわれているが、進藤秋輝著「多賀城発掘」(青木和夫・岡田茂弘編『古代を考える 多賀城と古代東北』吉川弘文館 2006年 に所収)によると、多賀城政庁は第Ⅰ期(724年頃完成)、第Ⅱ期(762~780年)、第Ⅲ期(780~869年)、第Ⅳ期(869~10世紀中頃)という変遷がある。進藤氏は、「……築地線を飾った荘重なⅡ期政庁は宝亀十一年三月二十二日に勃発した伊治公呰麻呂の乱で焼失している。なお、正殿の礎石には据え置きや焼土は見られないことから、正殿だけはかろうじて、火災から免れたかもしれない。」(P.137)と述べた。
 当時、律令国家の陸奥方面における軍事・行政をとりしきっていたのは、紀広純である。広純は、774(宝亀5)年7月に鎮守副将軍に就任(その2日後に、桃生城が陥落している)し、翌年9月には陸奥介を兼任する。そして、翌776(宝亀7)年からの志波村攻撃を主導している。翌777年には、陸奥按察使に就任し、文字どおり陸奥方面のトップとなる。さらに、780(宝亀11)年2月には、陸奥按察使兼鎮守副将軍のままで参議を兼任し、国家により権威づけられている。
 道嶋大楯は、黒川以北十郡の一つである陸奥国牡鹿郡を本拠地とする豪族である。もともとは、坂東からの移民であり、上総の伊甚(いじみ)地方が故地であると推定される。一族には、中央政界で活躍し、陸奥国大国造となった道嶋嶋足、陸奥国国造・鎮守軍監(ぐんげん)・陸奥員外介を経験した道嶋三山がいる。
 伊治公呰麻呂は、伊治城が造営された現宮城県北部の蝦夷の族長であり、778年6月に、それまで夷第二等であったのに外従五位下を与えられている。現岩手県の胆沢・志波方面でのエミシとの戦いに戦功があったためである。
 その呰麻呂(あざまろ)が、律令国家の陸奥方面での支配拠点を担う中枢で、一気に反乱したのである。朝廷が驚き、あわてふためくのは、推測に難くない。

 (ⅱ)現地将軍を叱責する光仁天皇

 光仁天皇は、3月28日に、中納言・従三位の藤原朝臣継縄(つぐただ)を征東大使に、正五位上の大伴宿禰益立(ますたて)・従五位上の紀朝臣古佐美(こさみ)を征東副使に任じた。翌日には、従五位下の大伴宿禰真綱を陸奥鎮守副将軍に、従五位上の安倍朝臣家麻呂(やかまろ)を出羽鎮狄(ちんてき)将軍に任じた。
 朝廷は、5月8日に、「平城京の庫(くら)と諸国にある甲(よろい)六〇〇領を、すぐに出羽の鎮狄将軍のもとに送ること」とした。6月8日には、従五位上の百済王俊哲を陸奥国鎮守副将軍に、従五位下の多治比真人(まひと)宇佐美を陸奥介に任じた。
 そして、6月28日、光仁天皇は、いらだちを隠しもしないで、陸奥持節将軍・大伴益立らに次の勅をくだした。
 将軍らは去る五月八日に書を奏上して「兵粮(ひょうろう)の準備しながら賊の様子をうかがい、まさに今月下旬を以て陸奥国府に進み入り、その後に機会をみて乱れに乗じ、つつしんで天誅を行なおうと思います」と言上してきた。ところが、すでに二ヵ月が経(た)っている。日数を数え道程を考えて、捕虜を連行し献上するのを待ち兼ねている。ところが未だに現れない。いったい軍を出し賊を討つということは国の大事である。軍の進退や動静を引き続き奏聞(そうもん *天皇・上皇に申し上げること)すべきである。どうして何十日も経ても、絶えて消息がないのか。今後は委細を報告するようにせよ。若(も)し書面では意を尽くせないというのなら、軍監以下で状況を説明できる者を一人差し向け、早馬で報告させよ。
 7月21日、「征東使が甲(よろい)1千領を請求してき」たので、朝廷は「尾張・参河(みかわ)など五ヵ国に命じて、軍営に運ばせた」という。7月22日にも、「征東使が綿入れの上着四千領を請求してきた」ので、朝廷は「東海道・東山道の諸国に命じて、すぐに作り送らせた」という。
 だが、前線では小競り合いはあったとしても、基本的には大規模な合戦には至っていない。光仁天皇は、またまた現地を批判している。10月29日に、征東使(藤原朝臣小黒麻呂)に次のように勅(みことのり)した。
 朕は、今月二十二日の奏状をみて、征東使らが遅延し、すでに征東の時機を失っていることを知った。将軍が出発してから久しく月日がたち、集まった歩兵・騎兵は数万余人にのぼっている。それだけではなく征東使は、賊の地に攻め入る期日を度々上奏してきていた。本来なら、経略はすでに巡らされ、今は攻め入って狂暴な賊を平らげ滅ぼしているはずである。それなのに今頃になって、「今年は征討できません」と上奏してきた。夏には草が茂っていると称し、冬には被(ふすま *防寒の上着)が足りないと言い、様々に巧みに言い逃れをして、ついに駐留したままである。……まだ十一月になっていないのであるから、十分兵を向けることができる筈(はず)である。それなのに勅旨に背(そむ)いて、なお一向(いっこう)に攻め入ろうとしない。……
 エミシは弓矢に長じていただけでなく、原生で広大な地の利を活かして巧妙なゲリラ戦術を展開していたのであろう。数万もの大軍を擁した天皇軍は、これに抗するべくもなく、ただ徒(いたずら)に軍糧を浪費するだけであった。エミシ側の大勝利である。
 その後、現地軍は戦果も挙げることも出来ずに、中央の許可もないままに、軍隊を解散してしまったようである。
 翌781(宝亀12)年4月3日、光仁天皇は、詔をして、体調も悪く、高齢になっていることを理由に譲位し、山部親王(桓武天皇となる)に譲ることを明らかにした。しかし、譲位を決意するにあたっては、陸奥・出羽方面の版図拡大策がエミシ勢力によって、挫折させられたことが大きく作用したことは否めない。呰麻呂の乱を契機に、エミシ側の反撃が従来になく組織だって展開したことは明らかである。律令国家の版図拡大に反撃するエミシの抵抗運動は、日本に服属した俘囚たちも巻き込んだ新たな段階に突き進んだのである。

 (ⅲ)呰麻呂の乱の影響が拡大

 呰麻呂の乱は、伊治城・多賀城周辺のみならず、陸奥・出羽両国の広範囲にわたって深刻な影響を与えた。そもそも古代天皇制国家の版図拡大政策の根幹は、城柵の設置と「和人」の植民である。呰麻呂の乱は、前述したように陸奥国城柵網の機能をズタズタに破壊した。
 城柵網の破壊は、陸奥国だけではなかった。出羽国にも波及した。呰麻呂の乱が起こった780(宝亀11)年の8月23日、出羽国鎮狄将軍の安倍朝臣家麻呂から、次のような言上があった。
 夷狄の志良須(しらす)や俘囚の宇奈古(うなこ)らが「私どもは朝廷の権威を頼みとして久しく城下に住んでおりますが、今この秋田城(*秋田市高清水の丘陵にあった)はついに永久に放棄されるのでしょうか、それとも、旧来通り兵士を交替配備して、再び守られるのでしょうか」と尋ねてきました。
 これに対して、朝廷は、秋田城は久しく敵を防御し民を保護してきたものであるから、放棄するのは得策でないとし、多少の軍士を派遣してその守衛に充て、夷狄や俘囚らの帰服の情を失わないように、と命じている。また、百理柵(ゆりのき *秋田県由利本荘市)も敵の要害の地にあって、秋田への道が通じているから、そこにも兵を派遣して、互いに助け合って防御するように命じている。
 出羽国は、もともと少ない兵力で秋田城と雄勝城を守っていた。ところが、「雄勝・平鹿に呰麻呂の乱が波及したために、雄勝城に多く兵力を割かなければならなくなった。その結果、秋田城の兵力が皆無となって、その守衛を一時停止せざるを得なくなっていた」(鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』 P.129~130)のである。
 考古学の見地から、阿部義平氏は、城柵網について次のように述べている。「前進城柵造営中の七八〇年に、この二つ(*伊治城と覚?城のこと)の施設は在地の夷俘出身の伊治君呰麻呂(あざまろ)の反乱で陥落し、一挙に南端に位置する基地である多賀城まで落城し、焼却された。桃生城の記事と同様に、伊治城と多賀城の間に展開した城柵網の安否は記されていないが、全て否定されたと考えるべきであろう。実際にこの後の城柵の移転例も認められる。日本海側でも秋田城はこの後一時期放棄され、城輪柵(きのわのさく)跡付近に後退し、雄勝城も動揺し、東北の城柵網は総ナメとなった(*本シリーズ③の図2を参照)。第Ⅲ地帯で先に攻撃したのは律令国家側だが、それが全面的に否定されて第Ⅱ地帯の城柵全体が機能を失った。」(同著「考古資料から見た律令国家」)と。
 呰麻呂の乱は、城柵網の破壊だけでなく、植民した「和人」をも四散させ、朝廷の目論見に大きく立ちはだかった。。
 乱の翌年の正月1日、光仁天皇は詔したが、その中で、「……もし伊治呰麻呂らによって欺(あざむ)かれ煽動されて、賊軍に加わった民衆の中で、よく賊を捨てて抜け出てきた者には、租税免除三年を賜われ。」と命じている。
 呰麻呂の乱では、エミシ勢力の側に身を投じた「和人」が、どの程度かは不明ではあるが、かなり存在したということである。版図拡大策の根本を揺さぶる事態である。
 呰麻呂の乱から二年後の782(延暦元)5月12日、「陸奥国ではこの頃兵乱があって、奥郡の民はそれぞれの村落にまだ集まって来ていない。それで天皇は勅してまた租税三年間の免除を与えた。」と言われる。
 かつて植民した「和人」たちも戦争から逃れたままで、未だ村々に戻って来ていないというのである。そこで、「三年間の租税免除」というアメで、必死に百姓たちの復帰を図っているのである。
 呰麻呂の乱から3年あまり経た783(延暦2)年6月1日には、出羽国からも言上があり、次のような申請があった。
 宝亀十一年(*780)年に雄勝・平鹿(ひらか)二郡の人民は、賊(*エミシを指す)に侵略されて、各自の本業を失い、甚だしく疲れ衰えています。……どうか租税を免除していただき、疲れきった民を休息させるようお願い致します。
 ここ出羽国でも、租税免除が申請されている。天皇は、三年間の免除を許可した。
 東北の大動乱は、俘囚の呰麻呂らの初めての大規模反乱により、新たな段階に入ったのである。 (つづく)