古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史⑤
38年戦争突入で桃生城焼打ち

                      堀込 純一


   Ⅵ  38年の長期にわたる東北大動乱

 藤原麻呂の報告書(前号参照)ののち、数年を経ずして敢行されるはずであった雄勝村への侵攻は、事実上無期限の延期となったようである。「実は天平九(*737)年から天平宝字元(*757)年までの二〇年間、雄勝城の造営に限らず、新たな城柵の設置や征夷など、版図拡大に結び付く政策はまったく行われていない。これは天然痘の流行による社会の疲弊によって徴兵が困難となり、さらに災害復興の精神的支柱として大仏と国分寺の造立に国力を傾注したことによって、版図拡大を行い得なかったと推定される。」(鈴木拓也著『蝦夷と東北戦争』 P.81)という。
 この20年間は、エミシたちにとっては束(つか)の間ではあるが、「平穏」の時期であった。だが、藤原南家の仲麻呂(南家の祖・武智麻呂の男)が、中央政府で権勢を伸ばすとともに、対蝦夷政策はふたたび活発となり、東北における律令国家の版図拡大策が再開される。藤原仲麻呂(恵美押勝)が専権を確立したのは、757(天平宝字元)年である。

 (1)恵美押勝政権の下でエミシ攻撃の活発化

 この年の4月4日、孝謙天皇(聖武天皇の女)は、勅を下し、統治における「孝」の重要性を強調し、不孝・不恭(*人をないがしろにする)・不友(*長上を敬しない)・不順(*道理に従わない)の者があれば、それらを陸奥国の桃生(ものう)・出羽の小勝(*雄勝)に配属し、風俗を矯正し、かねて辺境を防衛させるべきである。」と命じている。
 城柵の造営もまた、強められる。翌758(天平宝字2)年10月25日、淳仁天皇(同年8月に孝謙の後を継ぐ。この時、藤原仲麻呂は大保〔たいほ *右大臣〕に任命され、恵美押勝の名を賜う)は、勅を下して、「陸奥国の浮浪人を徴発して、桃生城を造営させた。徴発された者たちには調庸を免じてあるので、そのまま当地に定住させよ。また浮浪の徒は戸籍につけて柵戸(きのへ)とせよ。」と命じている。
 不孝者や浮浪人(戸籍を離脱した者。多くが過酷な課税逃れ)を徴発して、再び東北への植民や城柵の造営を強めるということである。
 この間の758年6月11日には、陸奥国から言上があり、「去年八月以来、帰順した夷俘の男女は、千六百九十余人であります。彼らは故郷を遠く離れて、天皇の教化に浴するすることをのぞみ、あるものは戦場を渉(わた)り歩いて、賊(*エミシ側)に怨(うらみ)を生じた者たちであります。……」と言って、彼等に種籾を給付して水田耕作ができるようして欲しい、との要望があった。かなりの数のエミシが投降している。?
 758年12月8日には、「坂東の騎兵・鎮兵・役夫と帰順した蝦夷らを徴発して、桃生城・小勝柵(*雄勝城)を造営した。この造営には五道の諸国がみな参加して、ともに築城の工事を行なった。」と記録されている。
 翌759(天平宝字3)年9月26日には、「陸奥国の桃生城・出羽国の雄勝城を造らせているが、工事に従っている郡司・軍毅(ぐんき)・鎮守府の兵士・馬子ら合わせて八千百八十八人は、今年の春から秋に至るまで、すでに故郷を離れて生業(なりわい)にかかわっていない。朕はこれを思うごとに心中深く哀れんでいる。彼らが今年負担する出挙(すいこ)の税を免除するように」と勅している。(出挙とは高利の貸し付け)
 同年(759年)9月27日には、「坂東の八国と越前・能登・越後の四国(*越中が脱落)の浮浪人二千人を雄勝の柵戸とした。また相模・上総・下総・常陸・上野・武蔵・下野の七ヵ国から送られてきた兵士の武器を一部保留して、雄勝・桃生の二城に貯えた。」のであった。またも、植民と軍備の増強である。
 760(天平宝字4)年正月、恒例の位階授与で、高官たちの位をあげたが、中でも大保・従二位の恵美押勝は従一位に昇進した。その後、淳仁天皇は、口頭で勅を下し、「……今の陸奥国の按察使兼鎮守将軍・正五位下の藤原恵美朝臣朝?(あさかり *恵美押勝の男)らは、荒夷(あらえみし)を教え導いて、皇化に馴(な)れ従わせ、一戦も交えることなく、雄勝城を完成させた。また陸奥国牡鹿(おじか)郡では、大河(*北上川)をまたぎ、高くけわしい峰を越えて、桃生柵をつくり、賊の急所である地点を奪った。かえりみてその功績を思うと、褒美として位階を上げるのは当然である。朝?を抜擢して特に従四位下を授けよ。」と、述べている。
 朝廷は、760年3月10日、「謀叛などの罪で朝廷の賤民二百三十三人の奴と、二百七十七人の婢を雄勝柵に移して、奴婢の身分から解放し、いずれも良民とした。」のである。同年12月22日には、「薬師寺の僧である華達(けたつ)は、俗名を山村臣(おみ)伎婆都(きばつ)という。同じ寺の僧の範曜(はんよう)と博奕(ばくち)を行なって争いとなり、遂に範曜を殺した。そこで華達を還俗(げんぞく)させて、陸奥国桃生の柵戸に配属した。」と言われる。762(天平宝字6)年12月13日には、「乞索児(ほがいびと  
 *寿〔ほがい〕の言葉を唱えて門に立ち、物を乞う人々)百人を陸奥国に配属し、すぐに土地を与えて定着させた。」という。
 律令国家はあらゆる手段を駆使して、植民政策をゴリ押ししているのである。

 (2)称徳・道鏡政権下でも版図拡大策は続行

 天平宝字6(762)年から神護景雲2(768)年頃にかけて、全国各地で、疫病が流行り、飢饉が広がった。その最中の764(天平宝字8)年9月には、政変が起こる。恵美押勝が謀反を起こし、近江に敗死する。淳仁天皇は廃帝となり、称徳天皇が重祚(ちょうそ *譲位した孝謙が再び天皇となった)した。
 だが、陸奥・出羽はもとより坂東諸国など全国が飢饉に苦しめられているのにもかかわらず、称徳・道鏡政権は、版図拡大を継続し、767(神護景雲元)年10月頃に陸奥国に伊治城(これはるのき)を造営し、11月には栗原郡(伊治城の支配地域)を設置している。
 また他方、767(神護景雲元)年11月8日には、「出羽国の雄勝城下の俘囚四百人あまりが申し出て城に服属することを願った」事態も起こっている。
 しかし、飢饉がつづく最中での版図拡大策は、当然にも、無理の積み重ねで諸矛盾を拡大させざるを得ない。768(神護景雲2)年9月22日、陸奥国から次のような言上がなされた。
 兵士を準備しておくのは、緊急の事態に対応するためであります。即ち兵士は敵と相対して困難に臨んでも生命を惜しまず戦い、また戦術を習い、勇気を奮って必ず先駆を争うべきものです。ところがこの頃、諸国から徴発されて陸奥国に入る鎮兵は、途中で逃亡してしまいます。また当国では一年間の食料として、稲三十六万束あまりを米に舂(つ)いて、前線の営所に運んでいますが、輸送費にいたずらに官物を消費し、ますます人民を困らせることになっています。……旧例に従って当国の兵士四千人を徴発して鎮兵に加え、他国の鎮兵二千五百人を停止することを願います。……
 769(神護景雲3)年1月30日、陸奥国からの言上でも、次のように言っている。
 ……また天平宝字三年の太政官符をうけて、浮浪者一千人を派遣し、桃生城(ものうのき)の柵戸(きのへ)にわりあてました。しかしもともと彼らの心は、たくみに負担をのがれようとするところがあり、浮草のようにふらふらし、蓬(よもぎ)のように風にただよい、城下に至るかに見えてまた逃亡します。……
 飢饉・凶作の続く中で、諸国から徴発される鎮兵の逃亡が続出していると言うのである。また、食料輸送で経費がかかりすぎ人民が困っており、植民のために送り込まれた浮浪者などの逃亡も起こっているというのである。エミシは勿論の事であるが、それに敵対する律令国家の人民もまた苦境に陥っているのである。
 しかし、それだからこそと言うべきか、朝廷は、免税措置の甘言を以て、桃生・伊治両柵への植民を呼びかけ続ける(768年12月16日、769年2月17日)。769年6月11日には、「浮浪の人民二千五百人あまりを、陸奥国の伊治(これはる)村に置いた」と言われる。

 (3)38年戦争(774~811年)へ突入

 こんな折り、事件は突然起こった。770(宝亀元)年8月10日、「蝦夷の宇漢迷(うかめ)公(きみ)宇屈波宇(うくはう)らが、突然徒党を率いて賊地(*律令国家に支配されていないエミシの生活領域)に逃げ還(かえ)った。使者を遣わして呼び戻したが、どうしても帰ろうとせず、『一、二の同族を率いて、必ず城柵を侵さん』と揚言した。……」という。 
 774(宝亀5)年も、全国各地で飢饉が起こっている。その最中の7月20日、「陸奥国行方(なめかた)郡の役所で火災があり、籾(もみ)米と頴稲(*稲の穂首)二万五千四百石余りを焼く」事件が発生している。
 光仁天皇は、7月23日、河内守・従五位上の紀(き)朝臣(あそん)広純(ひろすみ)に、鎮守副将軍を兼任させた。そして、同日、陸奥国按察使・兼陸奥守鎮守将軍・正四位下の大伴宿禰(すくね)駿河麻呂(するがまろ)に対して、次のような勅を下した。
 先日、将軍らは蝦夷征討についての適当な処置を奏上して、ある者は討つべからずといい、ある者は討つべしといった。朕は征討が民を疲労させるゆえに、しばらくすべてを包む広い徳を重んじて、討つことを自重していた。いま将軍らの奏上をうけてみると、愚かなあの〔*日本海側の〕蝦夷は、野蛮な心を改めようとせず、しばしば辺境を侵略し、あえて王命を拒んでいるという。事態はもはややむを得ない。すべては送ってきた奏上により、宜しく早く事を発して時に応じて討滅すべし。
 この勅が、後世まで語られる古代天皇制国家の「征夷の決断」と言われるもので、律令国家とエミシとの全面戦争への転換点となるものである。いわゆる「38年戦争」への突入である。

        (ⅰ)774年の桃生城焼き打ち
 しかし、その二日後、陸奥国司から緊急の報告が入る。
 〔*太平洋側の辺りの〕蝦夷が突然衆を発して、橋を焼き道を塞(ふさ)いで往来を遮断し、桃生城に侵攻して、その西郭を破りました。城を守る兵はそのなりゆきに、これを防ぐことができませんでした。それで、国司は判断し、軍を興(おこ)してこれを討ちました。ただし、その合戦で殺傷された人数はまだ分かりません。
 だが、『続日本記』の記述は、かなり問題がある。阿部義平氏によると、「この城(*桃生城)は比高七〇メートルほどの丘陵にとりついていて、土築の城壁と柵木列からなる防衛ラインを複郭式にまわし、中心の政庁の建物配置も確認されている〔*発掘調査で〕。複郭式の西方の郭のラインが破られたものと〔*従来〕納得されてきた。ところが再発掘でこの政庁が焼き払われて再建されなかったこと……がわかった。正史は蝦夷が城を攻めて、西郭に突破口を開いたとしか記さないが、発掘結果からはこの城は潰滅(かいめつ)して政庁は焼亡し、再建されなかったのだ。桃生城は……北上川を越えた蝦夷の勢力圏に城を造るという画期的意味を与えられていた。正史は真実の大部分を隠したことになる。この後、政府は山道の伊治城を拠点に覚?(かくべつ)城の造営をもくろんだ。」(同著「考古資料から見た律令国家」―『考古資料と歴史学』P.108)というのである。
 桃生城をめぐる戦いは、律令国家の側の大敗である。
 774年夏から秋(4~9月)にかけてのエミシの逆襲で、陸奥国の耕地は荒廃状況に陥り、775(宝亀6)年3月23日、光仁天皇は、「この年の課役・田租を免除」した。 
 774年のエミシの戦いは、出羽国側にも大きな影響を与えたと思われる。775(宝亀6)年10月13日、出羽国は、「蝦夷との戦いの残り火はまだ消えつきていません。それで三年の間、鎮兵九百九十六人を請求し、また要害の地を押えつつ、国府を移したいと思います。」と言上している。これに対し、天皇は相模・武蔵・上野・下野の兵士を差し向けた。兵力の増強が図られるとともに、国府の移転問題が初めて提起されている。
 776(宝亀7)年2月6日、陸奥国は、「来る四月上旬を期して兵士二万人を発動させて、山海二道(*陸奥と出羽)の賊を討つべき」と言上した。これを受けて、光仁天皇は「出羽国に勅(みことのり)して兵士四千人を動員させ、雄勝の道から出て陸奥の西辺の賊を討たせた」という。
 だが、エミシたちは断固として反撃した。同年5月2日、「出羽国志波(しわ)村(*現・盛岡市近郊)の賊が反逆して出羽国と戦った。官軍は不利であった。下総・下野・常陸などの国の騎兵を発動してこれを討たせた」と言われる。正史『続日本紀』が「官軍は不利であった」と言うくらいであるからには、出羽国軍はエミシに相当ひどく打ちのめされ、前年に引き続き坂東諸国の応援を仰がざるを得なかったのである。
 だが、志波村の戦いの後も状況は不穏であったのであろう。同年7月14日、「安房・上総・下総・常陸の四国に船五十隻を造らせ、陸奥国に配置して不慮の事態に備えた」のであった。
 776(宝亀7)年11月26日、律令国家は「陸奥国の軍三千を発動して、胆沢(岩手県水沢市)の賊を討伐させた」と言われる。これは、正史において、「胆沢」の名が出た初めてものである。
 この頃、律令国家のエミシや俘囚に対する取り扱いは、一段と厳しくなっている。776年9月13日、「陸奥国の俘囚(ふしゅう)三百九十五人を大宰府内(西海道)の諸国に分配」している。同年11月29日、「出羽国の俘囚三百五十八人を、大宰府の管轄内や讃岐に分配した。七十八人は諸官吏や参議以上の貴族に分け与えて賤民とした。」のである。
 陸奥・出羽両国の政情不安が続き、いったん日本に帰順したエミシが、依然として抵抗を続けるエミシと共同歩調をとることを恐れて、彼等を遠い西海道にまで移し、エミシ勢力全体から隔離したのである。また、一部は賤民にして、中央官衙や高級貴族で使用している。
 777年(宝亀8)年3月、「陸奥の蝦夷で投降する者が相次いだ」と言われる。エミシたちにとって厳しい局面であったのだろうか。
 だが、同年12月14日、陸奥国の鎮守将軍・紀広純から報告があり、「志波村(*出羽国)の賊が蟻のように結集して、やりたい放題にわるいことをしました。出羽軍が戦いましたが、敗れて退却しました。」と述べている。
 そこで朝廷は、近江介・従五位上の佐伯宿禰久良麻呂(くらまろ)を鎮守権副将軍に任じて、出羽のエミシ討伐に向かわせた。だが、同年12月26日、「出羽国の蝦夷の賊が叛逆した。官軍に不利で武器の損失があった。」と記録されているので、鎮圧には成功していないようである。 (つづく)