古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史③
  饗給・斥候・征討による支配地拡大
                              堀込 純一


   Ⅳ 城柵を拠点に陣地戦で版図拡大

 隋による国家統一、隋崩壊と唐王朝の興起、隋唐の高句麗遠征、新羅による朝鮮統一、大和王権の支配地での階級形成・階級矛盾など、6世紀末から7世紀にかけての東アジアの激動によって、日本は8世紀初頭までに律令制国家を構築・完成した(大宝律令の完成は701年)。
 朝鮮への侵出を阻止された日本(663年白村江での大敗、668年新羅の朝鮮半島統一)は、防御のために強化された軍事力を後に北方に向け、版図の拡大を図った。

      (1)東北辺への版図拡大の諸段階

 大和王権の地方支配は、東北辺では、国造制(服属した地方豪族に一定の範囲の支配を委ねる仕組み)が布かれていた地域を基盤として、7世紀半ば頃に、道奥国・越国が成立する。
 道奥国の表記は、のちに陸奥(みちのおく)国と改められるが、「それは京から東にのびる東山道の前身の道の最末端の国、いいかえれば中央政府の支配領域の最末端の国という意味である。」(『宮城県の歴史』山川出版社 1999年 P.34~35)といわれる。
 図1は、『宮城県の歴史』(P.31)から転載したものであるが、これは大和王権と律令国家が7世紀半ばから9世紀の初めにかけて、評あるいは郡の設置をもって、版図拡大を進めたことを分かりやすくするために5つの地域に区分したものである。
 版図拡大の第一段階は、7世紀半ばで、A区に当たる。A区は、曰理(わたり)・伊具(いぐ)・信夫(しのぶ)以南の宮城県南端と福島県域である。
 第二段階は、7世紀後半で、B―1区、B―1´区である。陸奥では名取・宮城・最上以南に、越では石船(いわふね)以南に、評(こおり)が設置される。
 第三段階は、710~720年代で、B―2区に「黒川以北十郡」が一斉に設置される。この10郡とは、黒川・賀美(かみ)・色麻(しかま)・富田・玉造(たまつくり)・志太(しだ)・長岡・新田(にいた)・小田(おだ)・牡鹿(おしか)の各郡である。
 第四段階は、760年代いこう9世紀初めの頃で、C―1区にあたる。8世紀後半には桃生・栗原郡が設置される。この時代は、エミシの激しい抵抗が起こり、C区全体を巻き込んだ「38年戦争」(後述)が展開された。
 越後国では、8世紀初めに越中国の頸城(くびき)・古志・魚沼・蒲原(かんばら)の4郡、さらに新設の出羽郡を管轄下に置くようになる。712(和銅5)年には、この出羽郡と陸奥国最上(もがみ)郡・置賜(おきたま)郡を併せて出羽国が建国される。出羽国は、8世紀後半には雄勝・平鹿の建郡となる。
 第五段階は、9世紀初めであり、C―2区に当たる。この時期には、岩手県北上川中流域に胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波郡が置かれる。
 これらの版図拡大は、エミシとの厳しい戦いを通して行なわれるのであるが、必ずしも一直線に進んだわけではない。

      (2)日本型華夷秩序から内国民化へ

 古代天皇制国家の東北辺での版図拡大は、「陣地戦」が基本である。それは、一方で、城柵建設や先住民との戦争によって占領地を拡大し、他方で、饗給(きょうきゅう *酒食を以てもてなし、恵みを与えること)で先住民を懐柔し、さらに先住民の生活する場に律令国家の民を植民しながら、先住民すなわちエミシを支配する政策である。「蝦夷の場合、陸奥・越後・出羽三国の国司に特別な職掌として加えられる饗給〔きょうきゅう〕(大宝令では撫慰〔ぶい〕)・斥候・征討(職員令大国条)がその基本的方策であった。唐の都護(とご *異民族を間接支配する都護府が辺要に置かれたが、その長官)の職掌である『撫慰諸蕃』『貼候(てんこう *敵の様子をさぐること)姦譎(かんけつ *よこしまで偽ること)』『征討携離(けいり *分断)』(『大唐六典』巻三〇)に相当するが、賜宴・賜禄を通じて蝦夷に服属を促してその政治的関係を維持・拡大し(饗給)、蝦夷の動向を常に探り(斥候)、機に応じ軍事力により服属の強制を行う(征討)というもので、饗給がその基本である。」(熊田亮介著「古代国家と蝦夷・隼人」―岩波講座『日本通史』第4巻古代3 1994年 P.192)と言われる。
饗給は服属儀礼に伴って行なわれるものである。服属儀礼は特別には上京して行なわれるが、一般には東北辺に構築された城柵で行なわれた。
 古代天皇制国家は、中国の華夷思想をまねて、日本型の華夷秩序を志向した。天皇の統治権が及ぶ範囲を「化内(けない)」とし、及ばない地は「化外(けがい)」とする。化外は、「隣国」=唐国、「諸蕃」=朝鮮諸国、「夷狄」=隼人・南島人・蝦夷の三種とした。日本の四夷観念については、さまざまな議論があるが、東夷=蝦夷(陸奥の蝦夷)、北狄=蝦狄(越後・出羽の蝦夷)、西戎=隼人、南蛮=南島人とみるのが有力と思われる。
 だが、これらはあくまでも観念的なものである。当時、遣唐使の派遣などに見られるように、日本はつぎつぎと中華文明を取り入れている時代なのであり、唐を対等な「隣国」とするのは、願望の現われでしかない。
 「諸蕃」は、具体的には新羅と渤海をさす。渤海(698~926)は、ツングース系の靺鞨(まっかつ)人と高句麗の遺民とによって創られた国である。日本はこれら「諸蕃」に対し、常に自らよりも下位のランクに置こうとする態度が強く、特に朝鮮に対する差別視は後世まで長く続いている。特に有名なのは、751年、玄宗皇帝が臨席する朝賀の式で、遣唐使が新羅の使節と席次(序列)を激しく争った事件である。
 「夷狄」の南島人は、多禰(たね *種子島)・掖玖(やく *屋久島)から、現在の
奄美諸島、沖縄諸島などに住む人々とみられる。隼人は、九州南部に住む先住民である。
 エミシも含む「夷狄」と分類された人々は、未だ国家を持たない集団であり、律令国家は諸蕃とは異なり、日本へ併合(内国民化)する対象であった。従って、隼人にも城柵を設けて服属を迫り、大宝2(702)年、和銅6(713)年、養老4(720)年には律令国家による征討が行なわれている。隼人の朝貢はほぼ6年ごとに行われたが、延暦20(801)年に停止された。それは、その前年12月に、大隅・薩摩両国に班田制が施行され、隼人は夷狄ではなく正式に公民として扱われるようになったからである。だが、蝦夷は最後まで日本の支配に抵抗し、律令国家の変質・崩壊の要因の一つとなったのである。
 もちろん、服属させられた蝦夷も少なからず存在し、「……服属させられた蝦夷は、『蝦夷』『俘囚(ふしゅう)』という身分秩序に組み込まれた。本来の部族的集団性を保って服属したものが、『蝦夷』で君〔きみ〕(公)姓を与えられ、集団性を失って個別に服属したものが『俘囚』で吉弥侯部(きみこべ)などの部姓を与えられた。『夷俘』は身分ではなく『蝦夷』『俘囚』の総称とみるべきである。また位階および六ランクのいわゆる蝦夷爵による序列化も行われた。」(熊田前掲論文 P.192)と言われる。

        (3)城柵の機能とその展開過程

 城柵について、かつては砦と理解されていたが、発掘調査・研究が進む中で、城柵の中心に政庁の存在が見られるようになり、城柵は東北辺での政治工作の場と理解できるようになった。
 「城柵の施設としての特徴は、中心に政庁を置き、周囲に実務官衙を配し、全体を築地塀(ついじべい)・材木塀などの外郭施設で囲むことである。城柵が外郭施設を持つのは、外観を威厳あるものにして、蝦夷に対して国家の権威を誇示するとともに、城柵が蝦夷の攻撃を受ける恐れのある政情不安定な地に設置されるからであり、それに対する防御の意味があった。これに関するのが、城柵が軍団兵士や鎮兵によって常に防御されていたことである。/城柵には国司が派遣されて城司と呼ばれ、これらの兵士を統率するとともに、公民支配・蝦夷支配を行った。これに対応するのが国府でない城柵も国府型の政庁をもつことである。城柵の政庁は、広場を中心に、北に南向きの正殿(せいでん)を、東西に東脇殿・西脇殿を向い合せて置き、全体を塀で囲む構造を持っている。これは都の大極殿(だいごくでん)・朝堂院を簡略にしたもので、一般諸国における国府の政庁とも共通する。国府型政庁は、中央から派遣された国司が、天皇の権威を帯びつつ政務・儀式を行う神聖な空間であった。城柵の場合、そこに蝦夷が朝貢して国家への服属を誓約し、城司は天皇に代わって朝貢を受け、饗給を行った」(鈴木拓也著「律令国家と夷狄」―岩波講座『日本歴史』第5巻 200??年 P.324)と言われる。
 阿部義平著「考古資料から見た律令国家」(国立民俗博物館編『考古資料と歴史学』吉川弘文館 1999年)によると、図2(同書 P.106)に示されるように、東北辺での城柵はⅠ期(7世紀後半)、Ⅱ期(8世紀前半)、Ⅲ期(8世紀後半)、Ⅳ期(9世紀初)と、展開される。
 城柵の展開過程は、Ⅰ期からⅣ期までの展開をみると、日本の版図の拡大傾向を示している。だが、それは一方的なものではなく、蝦夷と古代天皇制国家との激しい戦争によるせめぎ合いであり、特にⅢ期では一進一退を繰り返した末での版図の拡大であった。
 7世紀後半のⅠ期では、淳足柵(ぬたりのき *新潟市沼垂)、磐舟柵(いわふねのき *新潟県村上市岩船)、仙台市郡山遺跡が、造営されている。
『日本書紀』によると、淳足柵は647年に、磐舟柵は648年に造られ、越(こし *越国は持統朝〔686~697年〕までには、越前・越中・越後に分割される)や信濃の民が植民され、柵戸(きのへ)となっているようである。
 仙台市郡山遺跡は、第Ⅰ期官衙の開始時期が7世紀半ば前後にさかのぼり、第Ⅱ期官衙の開始も7世紀末から8世紀初頭と言われる。阿部前掲論文によると、「仙台市郡山遺跡では、7世紀末の、柵木列をまわし櫓(やぐら)を林立させた方形城柵とそれに先行する七世紀後半の柵木列で囲んだ施設が判明している。」(P.105)と言われる。
 『続日本紀』によると、文武天皇元(697)年10月19日―「陸奥(みちのく)の蝦夷が、その地の産物を献上した」、同12月18日―「越後の蝦夷に地位に応じて物を与えた」、同2(698)年6月14日―「越後国の蝦夷が土地の産物を献上した」、同10月23日―「陸奥の蝦夷が土地の産物を献上した」、同3(699)年4月25日―「越後の蝦夷百六人に、身分に応じて位を授けた」と、記録されている。
 ここでは、丁寧には記録されてはいないが、朝貢交易においては、夷狄などからの貢物に対して、天子はその代わりに相手に賜物する。これは、一種の「公的レベルの交易」であるとみることもできる。のちに交易が盛んな時代になると、「公的レベルの交易」に付随して同道する私的商人にも、国家統制の下で交易が許される。
 この時代、擦文人は、北方世界(サハリン、大陸、千島)と交易を続けるだけでなく、古代天皇制国家とも交易を行なっている。したがって、律令国家に服属した一部のエミシも、その継続を願って服属したと思われる。むしろ、服属したエミシの中で、古代天皇制国家に心服して服属した者などは、圧倒的に少数だと思われる。
 したがって、交易において不正がまかり通り、収奪が激しい際には、服属したエミシでも、反乱に決起することは、十分にあるのである。 (つづく)