古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史②

  中国思想を真似て差別・野蛮視
                              堀込 純一


  Ⅲ 大和王権によって差別されたエミシ

 アイヌ文化の時代が確立(13~15世紀)する以前の日本古代においては、東北地方・北海道の一部の人々はエミシと呼ばれた。
 『日本書紀』は、最終的には8世紀初めに出来上がっているが、その神武(架空の人物)紀の歌謡には、万葉仮名で次のように記されている。
 愛瀰詩烏(エミシを) ??利(ひだり *一人) 毛々那比苔(ももなひと *百々な人) 比苔破易倍廼毛(ひとはいへども *人は云へども) 多牟伽?毛勢儒(たむかひもせず *抵抗もせず)
 この戦勝祝歌の意味するところは、「エミシは一人当百(*一人で百人に匹敵する)ぐらい強い兵と人は言うけれど、来目部(くめべ *神武東征の際の神武護衛隊)に対しては、全然、抵抗しない。(だから俺らはこんなに強いのだ)」というものである。
 和人が、東北地方などの人々をエミシと呼んだのは、何時頃までさかのぼれるかは不明である。だが、少なくとも『日本書紀成立』以前までには、エミシと呼んでいたことがわかる。(土橋寛著『古代歌謡全注釈 日本書紀編』〔角川書店 1976年〕によると、この歌は遅くとも5世紀頃までにはできている、と言われる。)
 エミシの語義については、アイヌ語説や日本語説がある。アイヌ語説では、樺太(サハリン)方面で使用されているエンチウ(「人」の意)がエミシの語源である、というのである。だが、「現在では、エミシがアイヌ語起源の言葉でエゾと同一の語源から出たとする考えは否定されている。」(児島恭子著『アイヌ民族史の研究』吉川弘文館 2003年 P.108)という。
 他方、『アイヌ民族の歴史』(関口明・田端宏・桑原真人・龍澤正編 山川出版社)の立場は、日本語説である。それは、「『ユミシ』=『弓ー師』が『エミシ』に転訛(てんか)した」(P.37)というものである。児島恭子氏は、エミシの語源については諸説あるが、「古代の日本語、としておいたほうがよいと思われる。」(同前 P.114)と述べている。

    (1)差別に満ちたエミシの漢字表記

 ところで、古い文献史料では、漢字で「毛人」や「蝦夷」で表記されているのが多い。
 「毛人」表記で有名なのは、倭の五王の一人・武の上表文で使用されているものである。南朝梁の時代、沈約(441~513年)が撰んだ『宋書』倭国伝は、武(いわゆる雄略天皇に当たる)の順帝(劉宋最後の天子 在位477~478年)への上表文(478年)の冒頭部分について、次のように記している。
 昔より祖彌(そでい *父祖)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を?(つらぬ)き、山川を跋渉(ばっしょう *歩き廻ること)し、寧處(ねいしょ *おちついて居るこ
 と)に遑(いとま *ひま)あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。……
 五代の晋の時代、劉?(887~946年)が撰んだ『旧唐書(くとうじょ)』もまた、次のように述べている。
 日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在(あ)るを以て、故に日本を以て名と為(な)す。……其の国の界、東西南北各々(おのおの)数千里あり、西界南界は咸(み)な大海に至り、東界北界は大山有りて限りを為し、山外は即ち毛人の国なりと。……
 これらの毛人がエミシを指すと、一般的に言われている。
 児島恭子氏によると、「上表文中の『毛人』は中国の『毛民』(*中国の古典『山海経』にみえる語)をとりいれたものと考えてよいだろう。直接には中国の毛民が東北の住民だったからにほかならない。」(児島前掲書P.56)といわれる。
 しかし、中国の古地理書である『山海経(せんがいきょう)』の「毛民」は、実態を正確に反映したものでなく、中国の古くからの華夷思想によって、差別の相で観念されたものである。(華夷思想は、中国の周りを野蛮人と決めつけ、東夷・北狄・西戎・南蛮の野蛮未開国と称した)

    (2)『日本書紀』に多い「蝦夷」表記

 「毛人」表記は、『古事記』や『日本書紀』になると、「蝦夷」に変わる。児島恭子氏によると、「蝦夷」表記は、『古事記』では1回(倭建命〔やまとたけるのみこと〕の東征―景行紀)だけであるが、『日本書紀』では、俄然(がぜん)多くなる。景行紀12回、応神紀2回、仁徳紀4回、雄略紀3回、清寧紀1回、欽明紀1回、敏達紀3回、崇峻紀1回、舒明紀5回、皇極紀3回、孝徳紀3回、斉明紀35回、天智紀2回、天武紀2回、持統紀7回である。(児島前掲書 P.50)である。
 『日本書紀』の各巻の中では、斉明紀が最も多く、次いで多いのが景行紀である。景行紀の日本武尊(倭建命)は、明らかに架空の人物なので論外とすると、斉明紀(西暦655~661年)のころに、大和朝廷とエミシとの「本格的な」交渉・交流が始まった可能性が大である。
 ところで、エミシの漢字表記は、「毛人」あるいは「蝦夷」である。だが、「毛人」も「蝦夷」も、人名にも使用されている。たとえば、蘇我蝦夷(そがのえみし *毛人とも表記)が有名であるが、他にも小野朝臣毛人(おののあそんえみし)、鴨朝臣蝦夷(かものあそんえみし)、佐伯宿禰毛人(さえきのすくねえみし)などである。蘇我蝦夷は逆賊であるから後に蝦夷と書かれたという説もあったが、これは俗説である。というのは、その後も、功臣にも蝦夷は人名として使われているからである。
 エミシはもともと勇者の美称であったが、華夷思想が強くなるなかで、勇者は「強暴な人」に通じ、エミシがエビスに転訛(てんか *元々の音がなまって変わること)してからはもっぱら賤称として使われたようである。

       〈弘法大師・空海のエミシ像〉
 鎮護国家の真言宗の開祖であり、入唐の経験もある空海(773~835年)は、『性霊集』で毛人を次のように描いてる。
 その中の、「野陸州に贈る歌」(小野朝臣岑守〔小野篁の息〕が陸奥守に任じられた時に贈った歌)では、日本の麗城(れいせい *美しく立派な国)三百の州。就中(このなか)に陸奥(りょくおう *むつ)最も柔(やはら)げ難(がた)し。……毛人(ぼうじん)羽人(うじん)境界(けいかい *国境)に接す。猛虎豺狼(猛々しい虎やヒョウ・オオカミ)処々に鳩(あつま)る。老?(ろうあ *老いたカラス)の目〔*エミシの目の形容〕、猪鹿の裘(かわごろも *皮製の衣服)。髻(もとどり *髪の毛を頭の上に束ねた所)の中には骨毒の箭(や)〔*骨製のヤジリに毒をぬった矢〕を挿(さしはさ)み著(つ)けたり、手の上には毎(つね)に刀と矛(ほこ)とを執(と)れり。田(た)つくらず、衣(きぬ)おらず、麋鹿(びろく *トナカイ)を逐(お)ふ。
 ここでは、日本全国で陸奥が最も鎮めにくいと言い、それはエミシ(『山海経』の毛人〔体中に長毛がはえている〕や羽人〔長い羽をはやしている〕にたとえている)に境が接しているからだ、とする。そして、エミシの生活実態について、その「野蛮さ」を誇張する形で描いている。先の語句にすぐ続けて、晦(かい)とも靡(な)く明(めい)とも靡く〔*昼夜の別なく〕、山谷に遊ぶ。羅刹(らせつ *大力ですばやく、人を食する悪鬼)のたぐいにして非人の儔(たぐい)なり。時々、人の村里に来往して千万の人と牛とを殺食す。馬を走らしめ、刀を弄(もてあそ)ぶこと、電(いなびかり)の撃つが如し。弓を彎(ひ)き、箭を飛ばす、誰か敢(あ)えて囚(とら)えん。苦しい哉(かな)、辺人常に毒を被って歳々年々に常に喫(くら)わるる愁(うれ)いあり。……毛人面縛(めんばく *両手を後ろ手に縛られ、面を人に見せる)して城辺に側(そば)だてり。
 ここでは、後世にまで残る歪曲されたエミシ像が描かれている。「羅刹のたぐいにして非人の儔なり」は、明らかに中傷であり、差別的な決めつけを公然と行なっている。「時々、人の村里に来往して千万の人と牛を殺食す。」は、具体的な時期と場所を示さずに一般的に描いているが、そもそも侵略を進めたのは大和王権の側からなのであり、エミシの狩猟生活を侵し(一部農耕も行なわれたが、まだまだ狩猟は重要)、生活基盤を奪い取ってきたのは和人の側なのである。

     (3)中国史書での「蝦夷」表記

 中国史書でも古くから「蝦夷」表記が見られる。『通典』(唐の杜祐〔735~812〕の撰)の「辺防典」では、「辺防一 蝦夷」として、「蝦夷国海島中小国也 其使鬚長四尺 尤善弓矢挿於首令人載之而四十歩射之無不中者 大唐顕慶四年十月随倭国使人入朝」と記述されている。
 唐の顕慶四年とは、西暦でいうと659年にあたる。蝦夷(エミシ)が、中国史書に初めて現れるのは、この時である。
 北宋時代の宋祺(998~1061年)が撰んだ『新唐書』にも、蝦夷のことについて次のように述べられている。「未だ幾(いくばく)して孝徳死し、其(その)子天豊財(あめとよたから *皇極、重祚した斉明のこと。孝徳は同母弟であり、親ではない)立ち、死し、子天智立つ。明年(*663年)、使者(*日本の遣唐使)蝦夷人とともに朝す(*朝廷に参る)。蝦夷もまた海島の中に居る。其の使者髭(ひげ *鬚)の長さ四尺許(ばか)り。箭(や *矢)を首に珥(はさ)み、人をして瓠(こ *ひさご)を載せて数十歩に立たしめ、射て中(あ)たらざる無し。」と。
 この二書では、蝦夷の特徴として、①ひげが濃いということともに、②弓矢に長じていることを強調している(これは、同じ史料を出典としていると思われるが)。②については、前出の空海の『性霊集』でも語られている。
 ただ、『通典』と『新唐書』では、日本からの遣唐使が蝦夷とともに皇帝に謁見した年が異なっている。

    (4)日本型華夷思想の誇示

 『日本書紀』斉明紀の蝦夷関連の記事で、唯一、中国史書によって「裏付け」があるのは、「五年(*659年―『通典』と一致)七月戊寅 道奥蝦夷男(をのこ)女(めのこ)二人を以(ゐ)て、唐(もろこし)の天子(みかど)に示(み)せたてまつる。」というカ所である。遣唐使が蝦夷男女2人を率いて、唐の天子に示したのである。 
 『日本書紀』では、この部分で割注を付け、「伊吉連博徳書曰はく」として、唐の天子が、大和の大王・重臣の様子や治安の状況を使節に尋ねた後、蝦夷のことに関しても尋ねた様子が次のように述べられている。
 天子(みかど)問ひて曰(のたま)はく、「此等(これら)の蝦夷(エミシ)の国は、何(いずれ)の方に有るぞや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「国は東北に有り」とまうす。天子問ひて曰はく、「蝦夷は幾種(いくくさ)ぞや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「類(たぐひ)三種有り。遠き者をば都加留(つかる)と名(なづ)け、次の者をば麁(あら)蝦夷と名け、近き者をば熟(にき)蝦夷と名く。今(いま)此(これ)は熟蝦夷なり。歳(とし)毎(ごと)に、本国(やまとのくに)の朝(みかど)に入(まゐ)り貢(たてま)る」とまうす。天子問ひて曰はく、「其の国に、五穀有りや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「無し。肉を食(くら)ひて在活(わたら)ふ」とまうす。天子問ひて曰はく、「国に屋舎(やかず)有りや」とのたまふ。使人謹みて答へまうさく、「無し。深山の中にして、樹(こ)の本(もと)に止住(す)む」とまうす。
 ここで、蝦夷を「都加留」、「麁蝦夷」、「熟蝦夷」の三種に分けているが、それは交流・交易や親愛度などに応じて分けられたものである。「都加留」とはほとんど交流もなく、情報も少ないようである。「伊吉連博徳の書」においても、蝦夷が狩猟民として描かれていることがわかる。
 しかし、『日本書紀』のここでの記述でもっとも重要なことは、遣唐使が蝦夷の男女二名を引き連れて、皇帝に拝謁していることである。すなわち、文明が遅れたと決めつけた蝦夷(華夷思想では、狩猟民であることそのものが野蛮人の証左である)を皇帝の前に帯同して、挨拶させることは、日本が蝦夷を服属させ、教化させている何よりの証拠であり、そのように日本の文明化をアピールしているのである。したがって、逆に言えば、蝦夷(エミシ)はそれこそ野蛮人そのものでなければならないのである。   (つづく)