古代天皇制国家の版図拡大とエミシの抵抗闘争の歴史①
  アイヌ史研究が迫る日本史再検討
                                          堀込 純一

 はじめに

 アイヌ民族の歴史に関する研究は、1990年代に入って格段と発展した。しかし、アイヌ史研究には、もともと大きな制約がある。アイヌ民族はもとより文字を使用しなかっただけでなく、19世紀になっても自ら記録を行なわなかった(豊かな口承文芸はある)。したがって、アイヌに関する文献史料は、すべて他民族のものである。資料となる絵画や彫刻もまた、他者のものである。
 しかし、考古学にかかわる資料の面では、他の民族と同じ条件であり、実際、発掘・研究の進展で、アイヌ史研究の発展に大きく貢献している。
 アイヌ史の研究は、日本人民の歴史にとっては、まさに反面教師となるものである。古代、大和王権の版図拡大は、南方の熊襲・隼人などとともに、北方の蝦夷が主な対象である。鎌倉幕府は、古代につづき東北地方に、御家人一族などを大勢送り込み、植民させた。
 幕末の欧米諸国の「開国」・通商要求は、米のペリーよりも実はロシアの方が70数年も早い。アイヌ民族の生活の場は、ロシアとこれに対抗する徳川幕府の間で分割され、多くのアイヌ民族が日本に組み込まれた(内国民化)。
 アイヌ民族に対する「和風化」=同化政策は、徳川時代から始まっているが、明治維新以降、本格化された(古代でも蝦夷に対する同化政策は行われた)。近代日本の北海道に対する諸政策は、台湾・朝鮮などへの植民地支配の「予行練習」にもなっている。
 明治政府は、北海道を「無主の地」として、アイヌが狩猟・漁労で使っていた地域を和人に払下げ、さらにアイヌの居住地をも「当分総(すべ)テ官有地」とし、アイヌの人々の生活の術(すべ)を冷酷にも奪い取っていった。1899年に公布された「旧土人保護法」は、アイヌ民族を半強制的に農耕民に変えさせるための法律だが、アイヌの人々を一人前に遇せず、「保護」の対象としている。
 「旧土人保護法」は制定以来、約100年ぶりに廃止され、1997年に「アイヌ文化振興法」が成立した。これにより先住民としてのアイヌ民族が法律的にも認められ、誤った「日本単一民族」論は打破られた。しかし、同法は歴史的に迫害され困窮生活に追いやられてきたアイヌ民族の生活を根本的に立て直す点では、大きな限界をもっており、今日でもこの課題は実現されていない。アイヌ民族の生活を抜本的に改善する課題は、アイヌ民族を名乗ることができる差別のない社会をつくりあげる課題と共に、依然として当面の重要な課題である。
 以下、本稿は、アイヌの歴史を学ぶ前提として、古代天皇制国家とエミシの間での戦争と交易を中心に検討を進めることとする。

Ⅰ 北海道史の時代区分

   (1)アイヌ民族の歴史的起源
                
 かつて、アイヌの起源について、コーカソイド説(皮膚の色と主要居住地域から白色人種とも呼ばれたが、濃色の集団もあるし、アジアやアフリカにも分布する)、モンゴロイド説、オーストラリア先住民説などの説が提唱されてきた。しかし、国際的な研究の進展で、コーカソイド説やオーストラリア先住民説が否定され、結局、現代のモンゴロイド成立以前の「原モンゴロイド」なる仮想集団を想定し、それにアイヌも帰属させている。
 日本国内では、古代の蝦夷について、アイヌ説と非アイヌ説とが存在し、戦後も論争は続いた。蝦夷アイヌ説は、エミシがアイヌの先祖にあたるというものである。これは、江戸時代の新井白石にさかのぼり、近代では金田一京助などが主張している。
 他方、蝦夷非アイヌ説は、その主流は「蝦夷辺民説」といってよく、また「蝦夷日本人説」といってもよい。これは、1910年代、人類学者・長谷部言人の「蝦夷はアイヌなりや」という主張に始まる。
 これらに対して、工藤雅樹氏は、「……蝦夷アイヌ説と蝦夷非アイヌ説とはいうものの、蝦夷アイヌ説では古代蝦夷の実体のうちの北海道的な部分を強調しており、蝦夷非アイヌ説では蝦夷の文化の日本的な面を取りだしていると整理することも可能になり、実は対立する説と見なくとも良いといえる」(『蝦夷と東北古代史』吉川弘文館 1999年 P.338)と主張している。
 また、1960年代からアイヌと縄文人の比較研究が盛んになり、「最近では、北海道の続縄文時代人や擦文(さつもん)時代人骨の形態学的研究も進み、北海道のアイヌが縄文人や続縄文人を母体にして成立した人たちであることは、今や学界の定説となっている。」(『世界大百科事典』平凡社 百々幸雄氏執筆)と言われている。

   (2)続縄文文化と遠距離交易

 左表(蓑島栄紀著「古代北海道地域論」―岩波講座『日本歴史』第20巻 2014 に所収 P.14)は、北海道の時代区分を旧石器時代―縄文時代―続縄文文化期―擦文文化期―アイヌ文化期―近現代としている。
 旧石器時代が終わり新石器時代が始まるが、それが日本列島では縄文時代といわれる。だが、一般的な新石器時代は、農耕・家畜・土器・定住などを特徴とし、それと比べると、日本列島の場合は、農耕が生活の基本となっていないこと、犬を除いては家畜を大々的には飼養していなかったことが特質と言われる。
 縄文時代の次は、日本列島の多くでは弥生時代と言われる。弥生時代は、稲作が普及した(稲作は、西北九州では縄文晩期に始まる)。稲作の普及は人口の増大をもたらし(一説には、西日本各地では縄文晩期の20~50倍に増加)、政治制度が発達する。また、大陸との交流がひんぱんとなり、鏡・青銅器・鉄器などが大陸から導入された。
 しかし、稲作文化が普及したのは、日本列島のすべてではなく、北海道などでは、縄文時代の生活伝統を継承して、狩猟・漁労・採集に生活の基盤を置いた。これが、北海道地方の続縄文文化期である。そして、「考古学の成果を参照すると、すでに四世紀代以来、道奥(陸奥)の北上川流域から津軽を経て北海道の石狩低地帯へ連なる交易ルートによって、北方から続縄文文化の後北(こうほく)C2・D式、北大(ほくだい)式土器が、おそらくはアシカ等の海獣やヒグマの毛皮、昆布、久慈地方産の琥珀(こはく)などとともに南方へもたらされ、逆に穀物などを入れた大量の土師器(はじき)が鉄とともに北方へと送られていたとみられる。この遠距離交易を主に担ったのは、各集落に在住する続縄文文化の負荷集団であ(る)」(田中聡著「蝦夷と隼人・南東の社会」―日本史講座第1巻『東アジアにおける国家の形成』東大出版会 2004年 に所収 P.273)と言われる。

   (3)擦文文化の爆発的進出

 擦文時代は、北海道の続縄文文化が、日本本州の東北地方の古墳文化・土師器文化などの影響を受けて変容し成立した文化である、と言われる。
 蓑島栄紀氏によると、「擦文文化は当初、北海道の道央・道南を中心地として成立する。その早期―前期においては、土器の無文化が著しく、土師器の地域的ヴァリエーションとしてとらえられることもある。住居も基本的に本州と同じカマド付きの方形竪穴住居となり、小規模な『北海道式古墳』も出現する。狩猟・漁撈・採集を基礎としつつも、農耕とそれに伴う文化複合をかなり本格的に受容したようだ。石器の使用はほぼ全面的に払拭され、鉄器文化としての性格が色濃い。文化・社会の再生産に不可欠となった鉄器の入手は、擦文社会が対外交易に大きく傾斜していく前提条件となった。」(蓑島前掲論文 P.14~15)と言われる。
 擦文土器は、縄文文様が失われ、器の内外に木製のヘラ状工具による擦痕(さつこん)、あるいは刷毛目(はけめ)痕が付けられている。擦文土器には、製法・器形において、東北地方の土師器の影響が強くある。末期には、例は少ないが、内耳鉄鍋を模したとみられる内耳土鍋(炎が弦に当たらないように内面に吊り耳をつけた鍋)が現れる。なお、擦文土器は、北海道で使用された最後の土器である。
 擦文時代の初期には、江別市や恵庭市などの道央部で発見された北海道式古墳がある。この古墳からの出土物には、土師器(はじき)、直刀、蕨手(わらびで)刀、鉄斧、鉄釜、?帯(かたい *帯の金具)金具、勾玉(まがたま *装身具の一種)などがある。
 この時代は鉄器が普及するが、鉄器は本州からの移入品が多かったと考えられる。しかし、フイゴ(鍛冶屋が火をおこすための送風器)の羽口(はぐち *送風口)の出土例があるところから、既存の鉄器を簡単に加工する程度の技術はあったと思われる。 
 鉄器の中には、鍬の先、斧、鎌などの農耕具があり、大麦・アワ・ソバなどの種子の発見と合わせてみると、擦文時代の生業は狩猟・漁労・採集をベースにしながらも、初歩的な農業もあったとみられている。
 住居は、一辺が4~5m(あるいは7~8m)の方形の竪穴式で、屋内の中央には炉があり、東側の壁には煙道が外に通ずるカマドが付けられたものが多い。住居は、海岸部や内陸の河川や湖沼に近い段丘上に建てられている。
 他方、続縄文期の途中・5世紀頃から、オホーツク海岸を中心にしたオホーツク文化が、サハリン南部と北海道の宗谷地方に進出する。擦文文化が盛んな頃には、オホーツク文化が、根室半島を越えて北海道太平洋岸の東部や、宗谷岬を越えて日本海岸の北部の利尻・礼文島まで広がっている。
 しかし、擦文人の広がりには、目をみはるものがある。「……九世紀の終わりになると、擦文人は全道へ一気に進出した。それまで擦文人は、オホーツク人が占拠していた道北や道東オホーツク海側の地域を避けて暮らしていたが、これらの地域でも九世紀末の擦文土器が出土している。/この進出により、オホーツク文化は擦文文化の影響を強く受けた『トビニタイ文化』に変容し、擦文人の進出を避けるように知床半島から道東の太平洋岸にその中心を移していった。……しかし、ビッグ・バンをおもわせるこの擦文人の全道進出は、道東ではそのまま定着しなかった。おそらくそこには、オホーツク人の残党でもあるトビニタイ人との確執がかかわっていただろう。しかしその後、擦文人は一〇世紀にオホーツク海沿岸、一一世紀から一二世紀にかけて道東太平洋沿岸にふたたび進出する。擦文人の攻勢のなかでトビニタイ人は次々擦文人に同化し、その分布圏を縮小していった。かれらは、擦文文化が終わる一二世紀末~一三世紀はじめには、ほとんど同化されていたとみられる。サハリンでもほぼ同じころ、土器から鉄鍋に移行してオホーツク文化が終焉を迎えていた。」(瀬川拓郎著『アイヌの歴史』講談社選書メチエ 207年 P.34)といわれる。
 アイヌ文化には、この擦文文化から連続する要素がいくつも存在する。たとえば、サケやマスに依存する生活と、それにかかわって集落の立地もアイヌのコタンと類似している。擦文文化の回転式離頭銛(仕留めた獲物の体内で90度回転し、はずれにくい仕組みのはなれモリ)は、アイヌのキテに連続する。また、擦文文化の遺跡から発掘された繊維製品とアイヌのオヒョウ、イラクサなどから作られた着物の織り方の類似性、擦文土器の低部によくあるヘラ記号とアイヌのイクトパ(男の祖印)の類似性などである。

 Ⅱ 両文化の間に立つ東北の意味

 本稿のテーマとの関係で、東北地方の歴史的地理的位置を確認しておくことは、極めて重要である。
 東北地方にも、弥生文化は前期の内に波及し、水田稲作が開始された、とよく言われる。しかし、そうは言っても、「その文化内容は、他の地域、特に西日本とは同一ではなかった。大陸系磨製(ませい)石器、稲作に伴う信仰、鉄器の製造技術、高床(たかゆか)倉庫と貯蔵穴、青銅製品、階級差を示す墓などが、東北地方の弥生文化には欠落していることが指摘されている。同時に、石器や信仰に関わるものについて縄文時代からの連続性が強いことも指摘されている」(「古代史の舞台 東北」〔藤沢敦氏の執筆部分〕―列島の古代史1『古代史の舞台』岩波書店 2006年 P.67)のである。
 そして、弥生後期になると、発掘された遺跡の状況から水田稲作の比重が低下し、畑作など水田稲作以外の農耕への依存が強くなったようである。すなわち、生業の中でも、狩猟・漁労・採集の活動の比重が再び増大した可能性がある。このような変化の要因は、気候の寒冷化があるのは確かであるが、他地域との交易が発展し、石器の減少・鉄器の普及が進んだことも関係がある、と思われる。
 また東北は、日本列島の中でも最も南北に長く、その南部は関東や畿内との関係が、その北部は北海道との関係が、それぞれ深い。このことも、極めて重要である。
 藤沢氏によると、「古墳時代の東北地方は、南部には古墳文化が、北部には続縄文文化が広がる。この違いは、古墳時代後期まで続いていく。」(同前 P.69)と言われる。
 古墳文化に伴なって、土師器や方形竪穴住居が普遍的に分布するのは、基本的に東北でも南部一帯とみられる。太平洋側では宮城県域、日本海側では山形県の庄内平野までである。だが、「東北南部とは対照的に、東北北部には、北海道の続縄文文化が広がっていく。一部には弥生時代後期から始まっていた北海道の続縄文文化が南下してくる現象は、古墳時代前期には、東北北部全域で認められるようになる。……住居の発見例がないこともあり、東北北部の続縄文文化の内容を、具体的に解明することは難しい。ただ少なくとも、農耕が社会を支える主要な生業であったと考える証拠はない。北海道の続縄文文化と同様に、狩猟・漁労・採集を中心とした社会であったと考えるべきであろう。」(同前 P.73)とされる。
 大和王権や律令国家が東北に版図を拡大する前の時代の、東北地方の南北はこのような社会であった。 (つづく)