「日中関係決議案」(労働者共産党2中総)に関連して
  中国はすでに地域覇権国家

                      深山和彦

 昨年の中総で常任委員会提出の日中関連決議案が、継続審議となった。
 決議案の提出は、中国の台頭と超大国アメリカの覇権への中国の挑戦、日・中の対立拡大という事態に迫られたものであった。それらをどう捉え、それらに対する党としての態度を定めていくことが問われ出していた。
 ただこの決議案は、中国に関する政治態度に関して、曖昧性を帯びている。その曖昧性は、1999年のわが党の結成(統合)時の合意、即ち中国の国家権力の階級的性格については結論づけない、とした合意をベースにしていることと無関係ではない。これまでは、この合意に基づいて、何の支障もなかった。それは中国が、被抑圧民族・第三世界の側に在ったからである。
 しかし、この十数年の中国の台頭、その大国化は、目覚ましいものがあった。それは近年、GDPで日本の2倍へ至り、アメリカを超えるのも時間の問題と言われ、産業構造でも軽工業時代は遥か過去のもの、重化学工業時代も瞬く間に過ぎ去り、いまや耐久消費財産業の発展時代にある。それとともに資本輸出・世界市場再分割も、「一帯一路」戦略を立て、アジア・インフラ投資銀行(AIIB)を設立するなど、超大国アメリカの世界覇権への挑戦を秘めて戦略展開する段階に入っている。
これに対応する形で軍事の領域でも、国土防衛軍から海外遠征軍への転換を開始した。陸軍の地方割り大軍区制を基本とする編成から、中央指揮機能の強化と陸海空軍統合指揮の戦区制へ。空母、大型輸送機の導入に象徴される外征用の装備。そして、第一列島線内での優位確立と第二列島線への進出へ、東南アジア-インド洋-アフリカ-欧州に至る海路沿いの軍事拠点獲得へ、動きだしているのである。
 当然、超大国アメリカは、自己の世界覇権への挑戦を孕むこの中国の動きを抑え込み、自己の覇権秩序の内に包摂するために動き出した。それが、「リバランス」戦略であり、日帝の軍事的動員であり、対中包囲網(日・韓・比・ベトナム・豪・インドなど)の構築である。その中で日帝は、米軍による統合指揮に一層深く組み込まれるとともに、自衛隊を外征軍型へ、編成・装備・海外軍事拠点づくりの点でも、中国と同様の大転換を開始している。
 こうした事態、米日と中国の対立の激化は、これに対する態度の確立をわれわれに迫った。またそれは、日本国内の共生・協同社会を目指す民衆運動と結合する上でも、中国の体制に対する態度の評価を鋭く問わずにはおかないものだった。それは、十数年前の中国問題での合意の地平の見直しにも関わる議論を促している、ということでもある。
 以下、関連して思うところを三点述べてみたい。

   

 第一は、中国の国家権力の階級的性格の問題である。これは、毛沢東の「文化大革命」と鄧小平の「改革開放」の評価の問題になる。
 今日、中国において資本主義的発展の様相が全面化する中では、中国が社会主義の国・労働者の国だとする論拠を探すのは難しくなっている。そのような主張の拠り所として残っているのは、共産党が国家権力を掌握し続けているという点だけだと言っても過言ではない。
 そこで問われているのは、中国共産党それ自身の階級的性格である。その点については、当該党がどう自己主張しているかで判断するのではなく、その社会的な存在形態を直視して判断すること、いかなる階級闘争の帰結としてそこに至ったのかを捉え返すことが重要である。
 現実は、党・国家官僚集団と大多数の労働者民衆の矛盾が厳然と存在し、固定化し、拡大しているということである。共産党は支配システムの核心を成し、労働者民衆は国家権力から疎外され、国家資本なり民間資本に使役され、搾取・収奪される対象になっている。共産党にとって大多数の労働者民衆は、革命主体ではなく支配と政治統合の客体でしかない。
 このようになってしまったのには、歴史的経緯がある。中国共産党は、労働者農民の党として前世紀の半ばに新中国の国家権力を樹立した。当初の約30年間、「反右派闘争」や「文化大革命」という形で、党・国家官僚ブルジョアジーの形成傾向に対する党内闘争が展開された。それは「紅衛兵」を中心とした大衆闘争の大爆発を呼び起こしたが、敗北した。結局は敗北せざるを得なかったといった方がよいだろう。
 なぜなら当時の中国は、日本の侵略戦争の惨禍と内戦による疲弊の克服、貧困からの脱出と物質的豊かさの実現を求めて離陸するとば口、農業社会から工業社会への過渡に在ったからであり、剰余価値の取得を目的とすることで産業の発展へと社会を駆り立てる資本主義を必要としていたからである。資本主義の下で産業が発達し切り、資本主義が社会の必要でなくなり、社会を崩壊させるようになり、社会の存立のために資本主義に代わる新しい社会関係の創造が問われるのは、まだはるか先(「先進諸国」においてさえ、20世紀最後の30年間の過渡を経て21世紀に入ってから)のことだった。
 要するに、20世紀半ばの中国は、物質的豊かさを実現するには、金儲けのために人々を突進させ、人と人・人と自然の関係を犠牲にすることを厭わない資本主義を必要としたということである。走資実権派に対する「文化大革命」も、国家権力の領域における巻き返しを一定・一時的に実現しはしたが、それを支える社会革命は観念的なものに止まり、結局は資本主義の道の前に敗北していったのである。

   

 第二は、「覇権」の問題である。
 中国が、党・国家官僚ブルジョアジーの支配する国であるとしても、また「改革・開放」によって世界市場とのリンクや市場経済化をおし進め、競争の強制法則に駆られて高度成長軌道に乗り、富国強兵路線を推進したとしても、それが即資本主義的な意味での「覇権国家」への転化を意味するものではもちろんない。「覇権国家」への転化は、資本独占の発達・資本の過剰・資本輸出・世界市場再分割という経済的土台を基礎とする。そして近年の中国の国家体制の大転換は、この経済的土台の発展・変化に対応したものとして推し進められているのである。したがってそれは、「必然的」「不可逆的」「構造的」なものである。
 これまで中国は、「覇権を求めない」と主張してきたが、1949年の建国以来長らくその経済的基礎においては、覇権を求める必然性を有していなかった。しかし今日では、異なってきている。
 たとえ日米欧の列強に侵略され削減されたかつての領土なり版図の回復を正当な権利として主張する場合でも、今日それは世界市場再分割としての覇権拡張政治の構成部分に組み込まれているのである。もちろん、たとえそうであったとしても、19世紀~20世紀の日米欧列強による中国侵略の負の遺産は清算されねばならない。それは、中国民衆との国境を超えた民衆連帯にとって必要なことだからである。
 今日の中国の覇権拡張政治は、そうした領土回復の主張を構成部分としつつも、それを超えてグローバルに展開する段階に入っている。それは、ロシアとの連携を強める仕方で、アメリカの世界覇権を脅かす動きともなってきているのである。
 ただし、これを、過去の二つの世界大戦における持たざる帝国主義の持てる帝国主義への挑戦、産業発展を背景とした世界の分割・再分割と同一視するのは誤りである。
今日の世界はアメリカ一極支配の下で、産業が発展し切り資本主義の歴史的役割が終焉した段階に入っている。ますます多くの貨幣資本が実体経済を組織できずにそこから遊離し、国際投機マネーが肥大化し、その対極に失業人口も膨張し、格差が拡大し、社会(関係)が崩壊しだしている。そのような世界史的な資本主義終焉の時代の中では、中国の「新興国」的な産業の発展・資本主義の発展・覇権の拡張は、副次的側面に他ならない。しかも中国は、この世界史的地平に急速に追いつきだしている。中国は、アメリカの覇権に挑戦しているが、資本主義が社会を崩壊させていく中で拡大する民衆反乱の鎮圧においては、アメリカとそれなりに共同しているのである。
 ともあれ中国が覇権拡張を強め、アメリカを軸とした既存の覇権秩序との対立を激化させていること自体は、まぎれのない現実である。これに対してアメリカは、自己の衰退する覇権秩序を守るために日本を軍事動員しつつあり、日本の支配階級もこれに応えて、憲法を無視してまで強引に、地域覇権国家への転換を開始・推進している。
 だが、このような中で中国に対する排外主義の煽動に取り込まれ、アメリカと自国の国家を尻押ししていては、労働者民衆は国家の軛から自己を解放することも、資本主義に代わる社会システムを発展させて自らの生きる道を拓いていくこともできない。反中国排外主義と闘い、日帝打倒・米帝一掃を目指す態度が求められているのである。

   

 第三は、革命主体の問題である。 
 「日中関係」を扱う場合、また国際関係一般を扱う場合もそうであるが、肝心要の要素が欠けている。それは、「真の人類史」を切り拓く国境を超えた革命主体が形成されていないということである。そもそも自国において革命主体が形成されていない現実がある。この現実の克服が当面の最大課題である。
 革命主体のないところでは、国際関係は国家を主体とする関係に、よくて国家間の「平和・友好」を目標とするところに止まらざるを得ない。しかも現代は、資本主義が社会を崩壊させていく時代、アメリカの世界覇権の下での「平和」が崩れていく時代である。その中では、革命主体を形成できずに国家間の「平和と友好」をめざすだけでは、じり貧となる。
 今日、この社会で生きることができなくなる人々は、一方で既存の体制を転覆する闘いへ、他方で、生存の必要に迫られて共生・協同社会の創造へと向かわずにはおかない。それは事柄の性格上、国家(国境)の廃絶へと向かう。国際的に連帯した革命主体の形成は必然である。確信をもって、階級闘争の新時代を切り拓こう。(了)


日中関係決議案の討論に寄せて
  沖縄「緩衝地帯」論の背景

 昨秋の日中関係決議案の意図は、一つは、安倍政権が戦争法を正当化するために鼓吹する中国脅威論への批判であり、もう一つは、党の中国評価を定めていくための叩き台提示というものであった。
 決議案は、中国脅威論を否定しつつ、しかしながら、中国が資本輸出国になったという歴史的変化に着目して、今後の中国の軍事・外交政策に懸念を表明するものであった。
 さて、戦争法案反対の国会包囲の中では、不思議と中国の良し悪しについて語られることはなかった。千人委員会の内田雅敏さんが、「日中条約の反覇権条項を使って、安倍政権と中国の軍拡派の両方を抑えるべきだ」とアジっていた程度である。
 というより、中国大国化と朝鮮核武装によって、日本の安全保障環境が厳しくなっているという認識自体は広く受け入れられていて、安倍政権は違憲の集団的自衛権を強行するからケシカランのであり、合憲の専守防衛を充実させるのは良いのだというのが、大勢の傾向であったのではないか。
 中国の軍事強大化や、朝鮮の核開発の進展は事実であり、中・朝に敵対したい人にとっては確かに脅威である。しかし、この「脅威」は、日米同盟強化から脱日米同盟への日本の立ち位置の転換によって、政治的実質が変化する性質のものである。中・朝との平和共存・互恵関係の展望を示しつつ、戦争法を廃止する必要がある。(我々コミュニストにとっては、平和共存の日中関係・日朝関係それ自体も、社会主義へ向けた変革の対象であるが、今現在の課題ではない)。
 中国脅威論と沖縄軍事基地容認論は、ほぼ一体である。琉球弧の近辺を、中国の軍艦や軍用機がうろうろしていたら、沖縄基地撤去が闘いにくいのも否定できない。東京での7・31辺野古全国討論会で、高野猛さんが「中国が尖閣を手始めに島伝いに日本を侵略してくるというのは本当か?」と切り出して、米中日の軍事的駆け引きについての基調提起を行なったのも、この情勢の反映であろう。
 沖縄の同志も、早くから「中国台頭がキーワード、日本人はアジアの一員に成熟できるか」と提起し(本紙12年5月1日号)、具体的には、米中軍事バランスの変化による沖縄米軍基地の脆弱性、その地位低下を指摘した。
2014年秋に沖縄では翁長県政が誕生し、辺野古新基地建設阻止とともに、「緩衝地帯としての沖縄」を掲げた。沖縄の「自己決定権」は常識となりつつある。
台湾では今年1月、民進党政権が復活し、台湾住民の「自己決定権」が優勢となっている。フィリピンでも今年5月、前政権の対米一辺倒を修正する傾向の、ドゥテルテ政権が生まれた。
大局的にみると、地域大国中国と超大国米国との間の地域で、諸大国から自立化する潮流といえるのではないか。朝鮮との対立は一見厳しいように見えるが、朝鮮もこの自立化潮流の一部分である。日本はこれに合流する気があるのか。
沖縄基地撤去は、この大局と関わらせて、大きな展望で闘うべきだろう。(W)