幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑱

 固定的でない民衆の朝鮮評価
                                      堀込 純一


Ⅷ 民族的な一体感が未成熟な近世


     (1)近現代の日本的社会の原型確立

 田尻祐一郎氏は、1660年代から1700年代初めにかけての江戸時代初期を、「……近現代の日本の或る原型ができたという意味で、この時期を日本的社会の確立の時期」(「儒学の日本化をめぐって」―『神道宗教』154号 1994年 に所収)だと述べている。
 そして、「日本的社会の原型」の要素として、同氏は、①イエの原理、②宗教と国家の関係、③対外関係の基本―をあげている。
 田尻氏は、①について、「死んだ後の、死後の祭祀、お祭りという問題だけではなくて、中国や朝鮮のような血縁集団としてのイエとは非常に違った、経営体としてのイエです。家産、家名、家督、家業、そういったものと不可分に結び付いた日本的なイエ、そういうイエが実に士農工商のあらゆる階層に行き渡って、さらにそれより下の賤民の場合にも、疑似的なイエがつくられる。そういうイエの原理でもって、社会全体が運営される。」と言う。
 ②については、「私は徳川の日本、平和な日本、パックス・トクガワーナなどと言う人もいますけれど、そういう平和な社会というのは、要するに一向一揆、あるいは法華一揆、キリシタン一揆、そういう何らかの意味で宗教的な王国をつくろうというそういう運動、中世末期の運動ですが、それを文字通り決定的に叩きつぶしたところに成立した」と言っている。
 ③について、対中国では、「古い時代の中国に対する熱烈な憧れが、現在(*江戸時代初期)の中国の在り方に対する軽蔑と奇妙に共存」し、「それから琉球であるとか、朝鮮であるとか、アイヌといったような人々は、古来歴史的に見て日本に従属すべきものだ、彼等を従えたものとして日本があるのだ、そういう感覚が……一般化する、浸透する。」と言う。
 水林彪氏もまた、自ら手掛けた山川出版社の『日本通史Ⅱ』の書名を「封建制の再編と日本的社会の確立」と銘打っている。そして、「近現代の日本社会の祖型が、近世社会、特にその後半期の幕藩体制社会のうちに見出される」(P.6)とし、近代に「新しく成立してきた資本主義的経営体が、イエの属性をひきついだ」(P.470)としている。
 本章では、田尻氏がいう「日本的社会の原型確立」の中で、③の分野をさらに以下で追求していくこととする。

     (2) 外国に対する近世民衆の意識

 豊臣政権による文禄・慶長の役(朝鮮では壬辰・丁酉倭乱)は、なんらの大義もない、文字通りの侵略戦争であった(本紙554号参照)。この侵略では、膨大な規模での殺戮・放火・略奪が行なわれ、たくさんの朝鮮人を拉致・連行した。同時に、日本人民にも多大な犠牲を強いて、朝鮮・日本での膨大な投降者や逃亡者を生み出している。
 朝鮮現地で投降・逃亡した日本人の数は、正確には分からないが、少なくとも数千人(中村栄孝氏)から一万人超(貫井正之氏)の規模に達すると専門研究者によって推定されている。日本侵略軍の総数は、計画では約15万人とされているから、約1万人の投降者・逃亡者という規模は相当に多数と見て間違いない。それは、近代日本の侵略戦争のそれと比較すれば、格段の差を示すものとなろう。
 このことは、明白に、豊臣政権による朝鮮侵略の時代、日本人民の日本国意識の脆弱さを明らかにしている。すなわち、当時は、「日本国」に帰属する意識は、一般の武士や庶民には弱く、それよりも仕える大名や郷土に帰属する意識が圧倒的に強かったのである。したがって、侵略軍が朝鮮軍や明軍に破られ、兵士の生命が危うくなる中で、あたかも仕える主君を取り替えるが如くに投降したのである。近世当初の日本国意識は、この程度でしかないのが実情であろう。
 島国の日本で、最も異国を感じ得る可能性をもつ庶民は、おそらく船乗りや漁業民であろう。池内敏著「境界の意識」(『日本の近世』16 民衆のこころ 中央公論社 1994年)によると、伯耆国(現鳥取県)河村郡長瀬村の農家に生まれた与太郎は、15~16歳の頃までに、親兄弟姉妹を亡くし、近村の船に雇用されて炊(かしき *飯炊き)となり、後に水主(かこ *船を操る者)となる。そして、1850年10月末に漂流し、米国商船に救助されサンフランシスコに行き、その後、香港・上海・乍浦(サホ)を経て、1854年に長崎に戻る。
 興味深いのは、与太郎が「日本」という言葉を使用する時期である。池内論文によると、与太郎は漂流して50日ほど経った頃に、「……異国船らしきものと出会い、その船に乗ったときに、はじめて『日本』ということば遣いをする。そして乍浦滞在中に使用するのが最後である。乍浦を出発して日本へ向かい、日本の領土を見付けたときは、すでに日本という言い方をしない。『薩州領分クシキノの羽嶋』『長崎領分椛崎(かばさき)沖』であった。」(P.277)といわれる。
 ここでは、実際の体験を通じて、「日本国」や「日本人」の意識を感じている。すなわち、抽象的な「日本国」や「日本人」の意識はないのである。現実に、当時、官であれ民間であれ、「日本人意識」を育てる教育がなされているわけではなかったからである。(近代国家のナショナリズム形成には、教育制度や徴兵制度などが大きな力を発揮した)

     (3)江戸期演劇に見られる対外意識

 江戸時代、「異国」や「異人」を登場させる演劇は種々あるが、その内有名なものをいくつか検討する。1)

        (ⅰ)国姓爺―日本的な小中華思想の兆し
 『国姓爺合戦』系統の戯曲は、鄭成功の清朝に抵抗し、明朝を復興させようという活動を題材にしている。
 国姓爺・鄭成功の父は、鄭芝竜といい明国の臣であった。慶長17(1612年)に平戸にきて、縁があって平戸の田川氏の娘と結婚する。寛永元(1624)年に、鄭成功が生まれる。
 明が1644年に、女真人の後金(のちの清)に滅ぼされると、芝竜は明の太祖の子孫である唐王を助けて明を復興しようとし、平国公に任ぜられる。しかし、明復興は挫折し、清に降伏する。それでも鄭成功は、新たに永明王を奉じて明復興に決起する。その時、徳川幕府にもしきりに援兵を求めた。だが、万治2(1659)年7月、南京で敗れ、厦門に逃れた。さらに台湾を根拠地にして、清朝に抵抗する。鄭成功は、前後20年間抵抗したが、寛文2(1662)年、39歳で亡くなる。
 近松門左衛門の作った浄瑠璃『国姓爺合戦』は、大坂道頓堀の竹本座で上演された。この作品は、当時の京・大坂で大当たりし、正徳(1715)年11月から享保(1717)2月まで、前後17カ月のロングランとなった。
 浄瑠璃では、明皇帝の臣下である大司馬将軍・呉三桂が、明の臣でありながら韃靼(だったん)の貝勒(ばいろく)王と通ずる李踏天を批判するセリフに次のものがある。「おお、貴殿はいつのまにか犬畜生になりさがった。そもそも大明国には君臣・夫婦・兄弟の道がそなわり、天竺には悪道をいましめる仏(ほとけ)の道があり、日本には正直をすすめる神の教えがある。それに反し、韃靼国には礼もなく法もなく、だから畜生国と呼ばれている。」(古典文学全集19 横山青娥『近松名作物語』 1966年 P.7)と。
 ここには、三教一致説がみられるだけではなく、「華夷変態」を踏まえて韃靼国(後の清国)を貶めることで、中国の華夷秩序から日本が離脱し、自らを中心とした「小中華」に踏み出す兆しをみることができる。
 また、戯曲では、さまざまな行動にかかわって、「日本の恥だ」というセリフが頻発し、日本人の「自国意識」が強調されている。
 なお、『国姓爺合戦』系統の演劇(鄭成功の日本名は和藤内)は、近世を通じて一貫して上演され続けてきた。

        (ⅱ)天竺徳兵衛―18世紀後半流行った「謀叛物」
 『天竺徳兵衛』系統の戯曲は、江戸時代初期の商人・天竺徳兵衛(1612~?年)が、1626年と1630年にシャム(今日のタイ)に渡航した時の見聞を、1707年に長崎奉行所に提出したものを題材としている。
 その一つである人形浄瑠璃『天竺徳兵衛郷鏡(さとのすがたみ)』(以下、『郷鏡』)は、1757年、大坂で上演された歌舞伎『天竺徳兵衛聞書(ききがき)往来』を近松半二らの合作で書き換えたもので、1763(宝暦13)年4月に、大坂道頓堀の竹本座で上演された。
 日野龍夫著「近世文学に現れた異国像」(『日本の近世』1 世界史のなかの近世 中央公論社 1991年 に所収)によると、『郷鏡』における天竺徳兵衛は、①キリシタンの妖術使い、②朝鮮国の遺臣の血を引いていること、③日本国の滅亡を図る謀叛人であること―三つの要素をもっている、という。
 ①は、島原・天草の乱(1637年)の天草四郎の面影を背負う妖術使いである。②は、豊臣秀吉の朝鮮侵略を受け、恨み骨髄たる朝鮮国の遺臣である。①も②も、当時の観客が彼らに共鳴し同情していなければ、興行として成り立ちえない。①が、農民一揆の性格を色濃くもっていたことから庶民の共鳴を得たことは当然であり、この頃から百姓一揆と打ちこわしが激化していくため、民衆の「世直し」の願望を託し得るものであった。
 ②については、異国との関係がからむとはいえ、日本の民衆も朝鮮侵略のための過重な課税と軍役動員で、各地で逃亡者が続出したことからみて、「朝鮮国に遺臣の血を引く」という設定も大いに共鳴を受けたのである。
 また、朝鮮での日本軍の暴虐は、ある程度は民衆も知っており(不均質であろうが)、文禄・慶長の役に関する読み物もたくさんあったと言われる。その一つである『朝鮮太平記』は、次のように描写している。
 日本勢、王城を引き退(の)きしかば、大将軍李如松、明兵を帥(ひき)ゐて、四月二十日に入り替って、小公主の殿に宿陣せり。遺民等を見るに、百に一も存せず、適々(たまたま)残り居る者共も、皆飢ゑ疲れて、面色鬼の如くなり。此の比(ころ)、日気(じつき)?(あぶ)るが如くに暑かりければ、人馬共に死する者何万といふ数を知らず。方々に積み重ねたれば、臭く穢(けがらわ)しき事云ふばかりなく、城中に満ちければ、行く者鼻を掩(おお)うて走り過(す)ぐる。
 『天竺徳兵衛』系統は、百姓一揆など民衆の「世直し」の願望が仮託された「謀叛物」として、18世紀後半に流行った演劇の一つである。

        (ⅲ)唐人殺し―朝鮮人差別を明確に表現
 小説『唐人殺し』の題材は、実際に朝鮮通信使が日本の武士に殺された事件である。
1764(明和元)年、徳川家治の第十代将軍襲職を祝賀する朝鮮通信使が、江戸での儀礼を終えて帰途につき、大坂での宿舎(西本願寺津村別院)で泊まっていた4月7日未明、中官崔天宗が槍の穂先で殺された。犯人はしばらく不明であったが4月13日に、対馬藩士で通詞の鈴木伝蔵が家来を使って自ら届出て明らかとなる。対馬に逃げ込もうとしていた伝蔵は、4月18日、摂津小浜村で捕縛され、5月2日、通信使側54名も立会人となって、月正嶋で処刑された。だが、伝蔵が崔天宗を殺害した理由は明らかにされていない。
 小説「唐人殺し」では、伝蔵は朝鮮商人桂彦と長崎の遊女・千歳の間に生まれ、後に対馬藩通詞・鈴木伝衛門の養子となる。ところで、桂彦の留守中に、妻・燕氏と桂彦の甥・萬麗は密通し、ついには萬麗(後に高官となり崔天宗と名乗る)に殺される。このことを、亡霊となった桂彦が千歳の夢枕にたって話し、敵(かたき)を討って欲しいと頼み込む。伝蔵は、これを母・千歳のいまはの際に知らされる。やがて、朝鮮通信使の一員として、崔天宗が来日し、伝蔵は念願の敵討ちを現実のものとする。小説「唐人殺し」は、その場面を次のように描写する。
 かねて隠しおく槍追つ取り、崔天宗が太腹がばと突き通す。崔天宗は伝蔵が両刀を打落し、其上(そのうえ)劔(つるぎ)を鴨居に強く切込みて、抜かんとせしが、此(この)槍にてどうと伏す。伝蔵やがて取つて押へ、止めを刺さんと、取直す槍の塩首しかつり握り、「やれ待て伝蔵、言ふことあり」と起直り「此世の名残りに一通り、我が身の上を懺悔せん」と、涙をはらはらと流し、「同じ血筋とは雖(いえど)も、我は色欲に迷い、父同前の伯父を討つ。夫(それに)引きかへ其方(そのほう)は、顔さへ見ぬ父の仇を討たんとて幾世の苦労。血筋同じき其方なれども、日本人の腹に宿れば、是(これ)ほどまでに違ふものか、……今其方が手にかかり空しく成るは我れ元よりの願ひなり。然(しか)りながら成せる罪とはいえども、此身は日本難波の夢となるとも、消えやらぬ悪名は両国の噂に留まり、永く汚名を残すべし。然りながら之れとても帰らぬ繰言(くりごと)、さア首討つて父へ手向けよ」と両手を組み坐し居たる。
 ここでは、「血筋同じ其方なれども、日本人の腹に宿れば、是ほどまでに違ふものか」と、明白な朝鮮人差別が述べられている。
 なお、この事件を題材にした記録・伝聞や各種の創作は多いが、後に歌舞伎の脚本では「漢人韓文手管初」と題されて、上演されている。ただ、歌舞伎では個人名も時代設定も大きく変わっており、異国人はすでに登場しておらず、服装などにわずかな名残りがある程度と言われる。
 池内敏氏は、江戸時代の浄瑠璃・歌舞伎で、「異国」や「異国人」を扱ったものを調査しているが、その一つの特徴として、18世紀半ばから末にかけては、「その演劇の脚本の筋立ての基本構想が、『日本を転覆する』とか、日本に対する『反逆』『謀叛』というところに重点をおくものである。」(『「唐人殺し」の世界』臨川書店 2000年 P.140)と述べている。

        (ⅳ)権力の弾圧で「謀叛物」そのものが終了
 そして、19世紀になってからの演劇は、「水中での早替を売り物にした作品」(同前P.136)が目立つようになっている。そこには、明らかに権力の弾圧と規制が介在していることは間違いない。
 倉地克直氏は、著作『近世日本人は朝鮮をどうみていたか』(角川選書 2002年)で、「一般にナショナリズムは、身分・階層・地域を越えた普遍的な価値や共通感覚の形成をともなうものである。江戸時代には、いわゆる『海禁』政策のもとで日本列島上の各地域とそこに住む人々の間に、言語や文化などの共通化が進んだことは確かであるが、民族や国民としての集団的な一体感は未成熟であったといわざるを得ない。」(P.249)と結論付けている。
 この結論は、同氏の研究によって、近世日本人の異国に対する意識(それは自国意識と裏腹である)が、身分・職業・地域などによって大きく違うことに基づくものである。
 このことは、朝鮮・朝鮮人に対する意識でも同じである。倉地氏によると、「近世民衆が朝鮮人と触れ合う機会は限られていた。それでも、江戸時代には十二回の朝鮮使節が来日し、多くの民衆がその接待に参加し、その行列を見物した。それによって民衆は朝鮮に親しみを持ち、その『異なる世界』を祭礼に取り入れて楽しんだ。その経験や情報はささやかなものであったが、朝鮮への漂流民の体験が示しているように、『異人』や『異国』を素直に受け容れていく素地となった。他方、権力中枢の知識人によって形作られた朝鮮を日本の朝貢国とする意識は、江戸時代を通じて通俗化されステロタイプ化して民衆社会に浸透した。十八世紀には、外交関係が『安定』化するなかで両者の朝鮮像が併存し、せめぎあっていた。」(同前 P.249~250)というのである。  (つづく)


注1)内山美樹子著「演劇史のなかの天皇」(『日本の近世』2 天皇と将軍 中央公論社)によると、歌舞伎は三都など大都市で人気を博したが、農村はもちろんのこと、地方の小都市でも上演されることは極めて少なかった。それに対して、浄瑠璃は好評を得た作品の場合、数か月後には全国規模の巡行が行なわれた。そして、各地の素人がこれを真似て演じた。しかも、歌舞伎の戯曲は原則的に刊行されないが、浄瑠璃は初演直後に、節付けまで備わったテキストが全国向けに売り出されたと言われる。