幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑰
「物のあはれ」が求めた神道権威
                                           堀込 純一

Ⅶ 続・本居宣長の思想変遷

             
     (3) 防禦から攻勢へ転換 
      純化する独善性


 宣長の思想的立場は、「物のあわれ」論を媒介に、青年期と晩年では大きく変化する。

         (ⅰ)「物のあはれ論」の適用を普遍化

 本居宣長(1730~1801年)は、その晩年の1796年(67歳)に、『源氏物語玉の小櫛』を完成させる。
 同書は、石見国(現・島根県)浜田藩主松平安定の依頼を受けて執筆されたもので、宣長の『源氏物語』研究の集大成をなしたものと言われる。この内の一の巻・二の巻は、全体の総論にあたる部分であり、宣長の最初の『源氏物語』評論書である『紫文要領』(1763年成立)を補訂した『源氏物語玉の小琴』(1779年成立)を更に改訂して成立させたものと言われる。
 宣長は、「物のあはれ」論を絶対的価値にまで祭り上げた結果、この『源氏物語玉の小櫛』二の巻で、次のような主張をするまでに至る。
 
 物のあはれをしる(知る)といふことをおしひろめ(押し広め)なば、身ををさめ(修め)、家をも国をも治むべき道にも、わたりぬべき也、人のおや(親)の、子を思ふ心しわざ(仕業 *行為、所為)を、あはれと思ひしらば、不孝(ふこう)の子はよ(世)にあるまじく、民のいたつき(*労苦)、奴のつとめ(勤め)を、あはれとおもひ(思ひ)しらむには、よに不仁の君はあるまじきを、不仁なる君不孝なる子も、よ(世)にあるは、いひ(言ひ)もてゆけば、もののあはれをしら(知ら)ねばぞかし、……(全集第四巻 P.225)
 宣長が至上のものとする「物のあはれを知る」ということが、文芸のみならず他の分野にも押し広げられ適用されるならば、政治的には「不仁なる君」も、道徳的には「不孝なる子」も存在しなくなる、というのである。いわば、一つの芸術至上主義である。
 だが、宣長は、このような考え方を若い頃には持っていなかった。すなわち、京都遊学中(1752~1756年)、同輩の清水吉太郎との論争で、自らの立場を「私有自楽」とする。「……則ち儒なる者は聖人の道なり。聖人の道は、国を為(をさ)め天下を治め民を安んずるの道なり」であるが、自分のように政治に携わらない者(「私(ひそ)かに自(おの)ずから【*和歌を】楽しむ有(あ)る〔*「私有自楽」〕所以(ゆえん)の者」)にとっては、関係がない、と言うのである。(本紙549号を参照)
 ここでは、宣長は「私有自楽」していると言って、明らかに政治の世界から和歌の世界への政治干渉を防ごうという「防禦的立場・消極的立場」を表明しているのである。これは、先の『源氏物語玉の小櫛』の見地が示す「攻勢的立場・積極的立場」とは、正反対のものである。
 宣長は、1756年(27歳)頃に、歌論『排蘆小船』を書き上げる。そこでは、「和歌ハ吾邦ノ大道也ト云事イカカ」と自ら設問し、その答えとして、大道とは聖人の道(儒教)、釋氏(仏教)、老荘思想、日本の神道をいうのであり、「……ミナソレソレニ大道ナリトシル(知る)ヘシ」と述べている。この段階では、宣長は、未だこれらの大道の間に優劣を設けていない。(本紙550号を参照)
 また、同書では歌と大道の関係を、次のように述べている。「……歌ハオモフ(思ふ)事ヲ程(ほど)ヨクイヒ(言ひ)出ル物也、心ニオモフ事ハ、善悪ニカカハラス、ヨミ(詠み)イツル(出る)モノ也、……スグレ(優れ)タル歌ナラハ、僧俗エラフ(選ぶ)ベキニアラス(非ず)、ソノ行跡ノヨシアシ(良し悪し)、心ノ邪正美悪ハ、ソノ道々ニテ褒貶(ほうへん)議論スヘキ事ニテ、歌ノ道ニテ、トカク論スヘキニアラス、此道ニテハ、只(ただ)ソノ歌ノ善悪ヲコソイフ(言ふ)ヘキ事ナレ」(全集第二巻 P.28)と。
 道徳的観点からすると、色欲を戒めとする仏道にある僧が、恋歌などを歌うなどというのはとんでもない、と世間では言われるのに対して、宣長は、歌の道においては世間の善悪は関係ないと言う。歌の良し悪しは、「思ふ事を程よく言ひ出る」か否かにある。歌ではなく、その行為そのものの良し悪しは、それぞれの大道において判断すべきことと割り切っている。 

        (ⅱ)「物のあはれ」論が宣長思想の転換点
 
だが、1763年(34歳)の頃になると、宣長の思想は大きく変化する。その最大のポイントは、「物のあはれを知る心」の追求である。
 宣長は、『源氏物語』研究を推し進める中で、1758年に、『安波禮辨(あはれべん)』を書き上げる。宣長は、『古事記』『日本書紀』などの書から用例を引き出し、「大方歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ(*他になすべき方法がない)」(全集第四巻 P.585)と結論付ける。
 宣長は、1763年に書き上げた『紫文要領』、『石上私淑言』では、「物のあはれ」論をさらに深化させる。すなわち、「あはれ」とは「見る物きく事なすわざ(業 *行為)にふれて。情(こころ)の深く感ずることをいふ也」と言う。そして、「おかし事うれし事などには感(うご)く事(こと)浅し。かなしき事こひしことなどには感くこと深し。故にその深く感ずるかたを。とりわきてあはれといふ事ある也。」(全集第二巻『石上私淑言』P.106)とする。
 宣長は、この「物のあはれ」論を基準にして、和歌は漢詩よりも優れているという。すなわち、もろこしの詩も『詩経』の頃までは「あはれになつかしきふし」であったが、それ以降は無くなった。だが、日本人は今も昔も「おほとかにやはらびたるならはし(慣はし)」なので、和歌も詞(ことば)こそ変わったが「ただ物はかなくあはれになつかしき事のみ」で、和歌の方が漢詩よりも優れている(同前 P.149~150)、というのである。
 また、漢詩が批判される論拠は、「かの国は人の心さかし(賢し)だちて。こちたき(*仰々しい)事を好むならはし(慣はし)なる故に、詩もただその方にまつはれて(*つきまとわれ)異(こと)ふみも同じやうに。ことさらに道々しき事をいひ(言ひ)つらねて。人をさとし(諭し)いましめ(戒め)。あるは時のまつりごと(政)をそしり(誹り)など。すべてあやにくに(*間も悪く)物のことわり(理)をたてむとかば。まして鬼神の感ぜんことは。いちおぼつかなし。」(同前 P.169~170)という点にある。
 宣長は、大道についても、この段階で日本の神道の方が「聖人の道」(儒教)よりも優れている、と大きく変化している。その論拠もまた、中国の理性主義批判であり、「天地のあひだにある事の理(ことわり)は。ただ人の心の浅き心にてことごとく考へつくすにべきにあらず。」(同前)としている。宣長は物事に対する理性的追求を諦め不可知論に陥り、記紀神話を宗教として位置づけ、天照大神の子孫である天皇の政治にただ従うのが正しいと考えるのである。(本紙551号を参照)
 宣長の遊学中に見られた「防禦的立場」(「私有自楽」の立場)は、「物のあはれ」論を媒介に大きく「攻勢的立場」に転換した。この理由として、本山幸彦氏は次のように言う。すなわち、「この『物のあはれ』を知る心が、倫理規範として儒仏に権威づけられた道徳規範に対抗して、自らの価値を主張するには、たとえそれが王朝という過去の時代の規範だったとしても、その背後に何らかの儒仏をこえる権威を必要とする。なぜならば、宣長の生きた封建時代は、人間自体が絶対だとされる時代ではなく、したがって、人間の心情そのものからは、その権威は生まれてこない時代だったからである。宣長はこの権威を神代に求めたのだった。」(『本居宣長』清水書院 1978年 P.124)と。

          (ⅲ)記紀神話の宗教化で国粋主義的権威づけ

 宣長は、「儒仏をこえる権威」を求めて、『古事記』『日本書紀』や種々の祝詞(のりと *人間から神に告げ申す言葉)・祓(はらえ *穢れや物忌み〔神事に仕えるため一定期間、飲食・言行を慎むこと〕の際に、神に祈って清めること)などを研究する。『古事記』研究の成果としての『古事記伝』の執筆に至っては、1764年から晩年の1798年(35~69歳)までの35年間にわたっている。
 記紀神話の宗教化は、宣長の古道(まことの神道)論の核心ともいうべき『直毘霊(なおびのみたま)』(全集第九巻 『古事記伝』一之巻に所収)に集中的に示されている。
 その内容は、記紀神話に基づくもので、第一は、日本国が万国に優れていると国粋主義を高唱している。

皇大御国(すめらおほみくに *日本国)は、掛けまくも(*言葉に出して言うことも)可畏き(かしこキ *おそれ多い)神御祖(かむみおや *皇祖神)天照大御神(あまてらすおほみかみ)の、御生(みあれ *お生まれ)坐る(ませル *なさせる)大御国にして、
万国に勝(すぐ)れたる所由(ゆえ)は、先(まづ)ここにいちじるし(著し)、国といふ国に、此(この)大御神の大御徳(おほみめぐみ)かがふらぬ(被ラヌ *たまわらない)国なし(同前 P.49)
 冒頭のこの一節は、日本国が万国に優れた根拠として、皇祖神である天照大御神が日本国に生まれたこと、そして、この天照大御神は太陽神であってその徳をたまわらない国は世界に存在しないということを挙げている。
 ここでのポイントは、天照大御神が皇室の祖先であり、同時に太陽神であること―にある。すなわち、太陽神の徳が万国に施され、その太陽神が日本生まれである所に日本が万国に優れた根拠があり、同時にその太陽神が皇室の先祖であることが、代々、天照大御神の子孫が支配者の位を引き継ぐ正当性の論拠となっているのである。
 しかし、宣長の時代には、一般に知られていなかったかもしれないが、太陽神信仰は日本だけに存在したわけではなく、古くから、インドネシア、エジプト、南アメリカ、内陸アジアの遊牧民、北アジアの狩猟民など、世界各地に存在していた。太陽神信仰は、決して日本の専売特許ではなかったのである。
 したがって、「日本が万国に優れた国」という宣長の主張は、根拠がなく、否定されるべきものである。
 第二は、天照大御神の子孫が日本を支配することの論拠である。
 宣長は、独善的な第一の主張を前提に、三種の神器が代々伝わったことを根拠に、「萬(よろづ)千秋の長秋に〔*永遠に〕、吾(あが *天照大御神の)御子(みこ)のしろしめさむ(*お治めになる)国なりと、ことよさし(事寄さし *政治を委任なさる)賜(たま)へりしまにまに、/天津日嗣(あまつひつぎ *天照大御神の系統を継承されること)高御座(たかみくら *天皇の位)の、天地の共(むた *~とともに)動かぬことは、既(はや)くここに定まりつ」(同前)と断定する。
 しかし、三種の神器なるものは、人間の手によっていくらでも繰り返し製作は可能なのであり、天照大御神の子孫が統治し続けることの正当性の根拠とはならない。
 第三は、日本的華夷秩序(中華思想)を明確に述べて、侵略思想を肯定していることである。
 先の引用部分にすぐ続けて、「天雲(あまぐも *天の雲)がむかぶす(向か伏す *はるか向うに遠く伏す)かぎり(限り)、谷蟆(たにぐく *ヒキガエル)のさわたる(さ渡る)きはみ(極み)、皇御孫命(すめみま *天照大御神の子孫)命の大御食国(おほみをすくに *天皇の統治なさる国)とさだまりて、天下(あめのした)にはあらぶる(荒ぶる)神もなく、まつろわぬ人もなく…」(同前)と、天皇が支配する華夷秩序を昂然と表明する。天皇による支配は、天の下に限りがないのである。
 宣長は、「あらぶる神もなく、まつろわぬ人もなく」などと勝手なことを言っているが、史実は、出雲王権、熊襲、蝦夷(えみし)など、ほとんどの集団が大和王権に併合される際に、激しく戦っており、抵抗しているのである。だからこそ、宣長も「御代御代の間に、たまたまも不伏(まつろわぬ)悪穢奴(きたなきやつこ)もあれば、神代の古事のまにまに、大御稜威(おほみいつ *天皇や神の威徳)をかが(輝)やかして、たちまちにうち(討ち)滅(ほろぼ)し給(たま)ふ物ぞ」(同前)と威嚇するのである。
 第四に、皇国では「君臣の分」が神代より定まっており、これによって乱が起こらず君主が変わらず、国の安穏が保てるとしている。

神代も今もへだてなく、
 ただ天津日嗣の然まします(*おありになる)のみならず〔*天照大御神の子孫がこの様に継承されているだけでなく〕、臣(おみ)連(むらじ)八十伴緒(やそとものを*朝廷に仕える百官)にいたるまで、氏かばね(姓)を重(おも)みして〔*重んじて〕、子孫(うみのこ)の八十続(やそつづき *長く続くこと)、その家々の職業(わざ)をうけつがひつつ、祖神(おやがみ)たちに異(こと)ならず、只(ただ)一世(ひとよ)の如くにして、神代のままに奉仕(つかえまつ)れり(同前 P.49~50)
 日本は君臣関係が神代から同じように子々孫々続いて、それぞれの家業をもって天皇に奉仕して穏やかに暮らしてきたのだから、「何々の道」に惑わされることなく、これからも昔通りにやっていけば良い、という主張は史実として間違いである。史実は宣長が言うようなものでなく、日本も外国と同じように激しい権力争いがあり、天皇家内部ですら血で血を洗う争いがあったのである。(本紙552号)
 万世一系の皇統主義が万国に優れた日本と云う国粋主義に凝り固まった宣長は、外に対しては、日本的華夷秩序を誇示し、1777年(48歳)に『待異論』を書き、それを翌年に『馭戎慨言(からをさめのうれたもごと)』と改題し、1796年に刊行する。
 この著作の主旨は、天照大神の子孫が統治する日本が万国に優れており、朝鮮や中国など野蛮国を御する立場にあるとして、この見地から日本の外交の歴史を見ると憤慨に耐え得ない―というものである。そして、宣長は、日本的中華主義の見地から、日本の外交文書を添削するのであった。(本紙553・554号)

           (ⅳ)歌道で政道の代用はできない

 江戸時代は、1644年に清が明を滅ぼし「華夷変態」(夷狄〔清〕が中華〔明〕を占領・支配)となり、日本では「自国意識」が全般的に強まる。そして、日本は中国の華夷秩序からはじき出され、日本中心の小中華を打ち立てる。
 そのような時代状況の下で、宣長は和歌の分野でも、大道の分野でも、中国批判を徹底する。中国批判の核心は、その「賢(さか)しら」を嫌う理性主義批判である。その論拠こそが、「物のあはれ」論であった。
 だからこそ、冒頭の「物のあはれをしるといふことをおしひろめなば、身ををさめ、家をも国をも治むべき道にも、わたりぬべき也」という、豪語に至るのである。
 しかし、かつて宣長は、歌の体(本体)と用(体の作用)の違いを踏まえ、歌の体はあくまでも「思フ事ヲ、ホトヨク(程よく)イヒノブル(言い述ぶる)マデノ事」し、歌が天下政道の助けになるのは、その歌が利用し得る場合だけである―という態度をとっていた。宣長のこの態度は、「国歌八論」を巡る第二次論争でも堅持されていたと言える。(本紙550号を参照)
 だが、「物のあはれ」論が、宗教化された「神代」の古道で権威付けられると、宣長の立場は、積極化し攻勢的となり、冒頭のような発言に至るのであった。
 しかし、それにもかかわらず、歌と政道はやはり異なる分野なのであり、「物のあはれ」論では、「民を安んじる」ことを目標とする政道の世界においては無力なのである。というのは、「物のあはれ」論では、人民の窮状に同情はできるとしても、それ以上にはならないからである。すなわち、同情論では、とても収奪と抑圧そのものを無くすことが出来ないからである。
 ましてや、「悲しい事恋しい事」を核心とする「物のあはれ」論は、王朝文芸を基礎としており、その宮廷の優雅な生活は、民に対する苛酷な収奪と抑圧によって成立するものである。民を虐(しいた)げる者が、我が身の存立条件を知らずに、民に同情するなどということは、まさに二律背反でしかないのである。(つづく)