幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑯

「大政委任論」は誤った観念
                            堀込 純一


     Ⅶ 続・本居宣長の思想変遷

  (3) 18世紀後半から「大政委任論」の浸透

 1867(慶応3)年10月14日、第15代将軍徳川慶喜は、朝廷(天皇)へ大政(天下の政治)の奉還を申し出、翌15日に許可された。世にいう「大政奉還」である。
 「大政奉還」と言うと、逆に、徳川幕府は朝廷の「大政委任」によって開かれたという単純な発想に陥りやすいが、それは戦前の皇国史観と同じ誤りである。それは史実に合わないものであり、徳川政権樹立時に「大政委任」なるものは存在しなかった。

 (ⅰ)「大政委任論」の前提は天照神話
 
 宣長は、天皇による支配が崩壊したことも総括しないままに、武家支配の評価基準も「朝廷を尊崇」していたか否に求めている。すなわち、一方で、鎌倉時代の北条氏や室町時代の足利氏の政権を厳しく批判するとともに、他方で、織田氏・豊臣氏の政権を評価し、徳川政権に至っては家康をベタ褒(ほ)めである(全集第八巻『玉くしげ別巻』〔1789年刊〕P.317)。徳川家康を最大限にほめそやした後、宣長は「大政委任論」を次のように展開する。

 さて今の御代と申すは、まづ 天照大御神の御はからひ、朝廷の御任(みよさし *御委任)によりて、東照神御祖命(あづまてるかむみおやのみこと)より御つぎつぎ、大将軍家の、天下の御政(みまつりごと)をば、敷行(しきおこな)はせ給(たま)ふ御世にして、その御政を、又(また)一国一郡と分けて、御大名たち各(おのおの)これを預かり行ひたまふ御事なれば、其(その)御領内(ごりょうない)の民も、全く私(わたくし)の民にはあらず、国も私の国にはあらず、天下の民は、みな当時これを、東照神御祖命御代々の大将軍家へ、天照大御神の預けさせ給へる御民(おんたみ)なり、国も又(また) 天照大御神の預けさせたまえる御国なり(同前 P.319)と。
 朝廷から東照神御祖命(家康)へ大政委任がなされ、その神祖家康から代々の徳川将軍にまた「天下の政治」が委任される。その将軍からさらに、各大名へ各国郡の政治が委任される、というのである。
 だが、「大政委任論」を主張したのは、国学者など一部知識人だけではなかった。18世紀後半になると、寛政の改革を主導した松平定信(徳川吉宗の孫)もまた、同様のことを述べている。
 1788年、定信は幼少の将軍家斉(いえなり)の補佐職に就いてすぐ、「御心得之箇条」(15カ条)」で、将軍の職分を朝廷との関係で次のように述べている。
 
 古人も、天下は天下の天下、一人の天下にあらずと申(もうし)候、まして六十余州は、禁廷(*朝廷)より御預(おんあず)かり遊ばされ候(そうろう)御事に御座(ござ)候、仮初(かりそめ)にも御自身のものと思召(おぼしめ)すまじき御事に御座候、将軍と成(な)らせられ天下を御治め遊ばされ候は、御職分に御座候18世紀後半ともなると、「大政委任論」は、幕閣の中枢にまで浸透しているのである。
 
 (ⅱ)徳川政権発足時に「大政委任」は無し

 では、宣長の独特の史観に基づく先の「大政委任論」は、果して史実として正しいのであろうか? それは、結論的に言うと、皇国史観に基づいた誤りである。
 石井良助氏は、その著『天皇―天皇の生成および不親政の伝統』(山川出版社 1982年)で、次のように厳しく批判している。
 「……ところで、戦国時代の分国というのは、……ほとんど実力をもって成立したものであり、朝廷または幕府の委任によって成立したものではない。その後身である江戸幕府の地位もまた同様であり、その政権は実力をもって獲得したものであって、決して朝廷より与えられたものではない。朝廷が家康をもって征夷大将軍に任じたということは、たんに朝廷において、形式的にかれをもって武家の棟梁たることを是認し、これにふさわしい称号を与えただけのものに過ぎない。家康に対して武家の棟梁としての権限を付与したのではない。朝廷には決してそういう実力はなかったのである。何人も自己の有する以上の権利を他人に移転することはできない、というローマ法の原則があるが、委任についても同様である。征夷大将軍の補任は、政権の委任を意味したのではないのである。」(P.225~226)と。
 渡辺浩氏も、次のように批判する。「将軍権力の正統性根拠は天皇に在ったなどと簡単にはいえない。権力と権威や、『実務的部分』と『尊厳的部分』の分業でもない。将軍自身の『御威光』はすさまじいものであった。」「現に、『大政奉還』はいとも厳粛になされたが、『大政授与』の儀のなされた事実はない。」(渡辺浩著『近世日本社会と宋学』東大出版会 1985年 P.36)と。
 やや異なったアプローチだが、水林彪氏もまた次のように批判する。
 「幕末に、幕府から朝廷に『大政奉還』がなされたために、幕初には、朝廷から幕府に『大政委任』がなされたのだとする説明がなされることがあるが、統一権力の形成の時代には、少なくともこのような表現は存在せず、『大政委任』は、むしろ天道から徳川家康への大政委任という形で観念されていた。……当時の人々の観念では、なによりも天道の信長・秀吉・家康に対する政務の委任が基本であり、その意味では天皇制的正当性は副次的な位置を占めるにすぎなかったということもできるのである。」(日本通史Ⅱ『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 1987年 P.191)と。
 いずれにしても、徳川政権の樹立は、天皇・朝廷の委任ではないことが明白である。もちろん、信長も秀吉も家康も、自らの実力で天下を勝ち取ったのではあるが、そのことを被支配者にも「同意」させる観念的なものとして、天道思想が唱えられたのである。

 (ⅲ)天道思想から東照宮信仰へ

 ではその「天道」とは、一体、いかなるものであろうか。
 天道思想は、中世に萌芽的に形成され、戦国時代に流行した思想である、といわれる。下剋上が頻出する時代には、それを正当化するために天道思想が引き合いに出された。
 その後、徳川時代になると、「天道委任論は、日本の近世の代表的政道書である『東照宮御遺訓』と『本佐録』に採り入れられる。」(若尾政希著「江戸時代前期の社会と文化」―岩波講座『日本歴史』第11巻 近世2 2014年 に所収 P.294)のであった。『東照宮御遺訓』も『本佐録』(本多佐渡守正信が書いたとされた)も、ともに偽書である。
 17世紀前半ごろの徳川時代初期に、天道思想を論述する書籍として、大要がほぼ似たようなものとして、『心学五倫書』、『仮名性理(かなしゃうり)』(後に『千代もと草』と改題される)、『本佐録』などがある。『心学五倫書』をもとに、二次書として生み出されたのが『仮名性理』、『本佐録』である、と言われる。
 『心学五倫書』は、①天道、②明徳、③誠、④敬、⑤仁義礼智信、⑥君臣父子夫婦兄弟朋友の倫理、⑦慈悲、⑧神儒一致説を唱え、仏道については批判、⑨家職に専念し、家内を整えること―などで構成されている。その冒頭の天道思想は、次のように規定されている。

 天道とは、天地の間(あいだ)の主人なり。形(かたち)もなきゆへ(故)に、目にも見えず。然(しかれ)ども春夏秋冬の、次第(*順序)のみだれ(乱れ)ぬごとくに、四時(しいじ *四季)をおこなひ、人間を生ずる事も、花咲(さき)実(み)なる事も、五穀を生ずる事も、皆(みな)是(これ)天道のわざなり。人の心はかたちもなくして、しかも一身(いっしん)のぬし(主)となり、爪(つめ)の先(さき)髪筋(かみすじ)のはずれまで、此(この)心(こころ)行(ゆき)わたらずと云(いう)事なし。此人のこころは、天よりわかれ来て我(わが)心と成(なる)なり。本(もと)は天と一躰(いったい)の物なり。此天地の間に、有(あり)とあらゆるものまで、皆天道のうちに、はらまれて有(ある)なり。たとへば大海の内に魚のあるがごとし。魚のひれの内まで、水の行わたらぬと、云事なし。されども魚は水より出(いで)て、水のかげ(*お蔭)にて、遊行(ゆうぎょう)する事をしらず。人の心の内へは、天の行渡(ゆきわた)らざる事なし。此故に、一念(いちねん)慈悲を思へば、其(その)一念天に通じ、悪を思へば、其悪天に通(つうず)る故に、君子は、独(ひとり)をつつしむ〔*君子は必ず自分しか解らない境地で、微細なことにも注意深くするのである〕。だが、天道思想は、儒教、仏教、老荘思想、さらには神道、キリスト教も融合しようとする意味では、極めて諸教折衷主義的性格をもっている、と言われる。
 
 〈天道思想の変質〉
 戦国時代、天道思想は主要に下剋上を正当化するものであったが、徳川政権の時代になると、支配関係の永続化を徳川家の「子孫繁盛」という形で正当化する事が強く求められるようになる。そのために、天下の支配権は天道によって、徳川家康に与えれたという『東照宮御遺訓』が、武士層を中心に流布された。
 『東照宮御遺訓』は、1681年に貝原益軒によって、『井上主計頭覚書』を改訂したものと言われる。『井上主計頭覚書』は、浄土宗の観点からの仏教治国論であるが、益軒によって改訂された『東照宮御遺訓』は仏教色が儒教により全面的に払拭されたものとなっている。そして、そこでの天道思想は、家康の言葉として次のように展開されている。
 忠信や義は、徳川家のためのものではなく、「天道」に対するものである。それを理解し行動したため、自分に対し、「天道」が天下の支配を許して下さったのである。もし徳川の政治が不正なものとなったなら、天が権力を取り上げるであろう。天下が治まるか否かは、ひとえに将軍の心の正否にかかっていることを、重々承知しなければならない。まことに天下は天下の天下なのである。
 1616年4月17日に死去した家康は、死後、神となり、東照大権現と称せられた(権現とは、仏がかり〔=権〕に神の形で現れること)。一周忌を過ぎて、東照大権現は下野の日光山に勧請(神仏の分霊を請〔しょう〕じむかえること)され、簡素な東照社が建てられた。同じ頃、二代将軍秀忠は、江戸城内の紅葉山にも東照社を造営するように命令し、1618年に完成した。諸大名を引き連れて、日光山にお参りする以外、通常は紅葉山に参拝した。
 権現様信仰に最も力を入れた将軍は、第三代の家光である。家光は、東照大権現に絶対的に帰依し、1636年、東照社を全面的に造り替え、今日見られるような豪華な堂社とした。翌年には、江戸城の二の丸にも、東照大権現を勧請している。1645年には、東照宮号が朝廷から贈られ、翌年以降、朝廷から日光へ例幣使が派遣されるようにもなる。
 徳川家の開祖・家康(東照宮)に対する信仰は強められ、東照宮が諸大名によって全国各地に勧請されるだけでなく、一部の庶民においても勧請されていく。高藤晴俊著『家康公と全国の東照宮』(東京美術 1992年)によると、全国の東照宮は555社にのぼる。勧請した主体別にみると、大名43(他の神社への合祀や城内の奉祀を含む)、代官4、奉行1、民衆(村役人や村全体)31、幕府・将軍家13、幕臣2、旧幕臣7となる。これ以外の大部分は、既存の社寺境内で祀られた。大名家の内には、勧請した東照宮の祭礼で家臣団や町方を参加させて盛大に行ない、民衆の統制と支配に利用したものもある。
 しかし、東照宮信仰が強まるにつれ、「天命」は東照大権現の神意と同じものとなり、天道思想は変質していく。つまり、何事も「権現様の掟」に従うことが「天道への忠信」となっていくようになる。
 このことは、第六代家宣・第七代家継に仕えた新井白石の次のような言で明らかである。

 礼に天子は上帝(*天)に事(つか)ふるの礼ありて、諸侯より以下敢(あえ)えて天を祀る事あらず。これ尊卑の分位(*身分を示す位)みだ(乱)るべからざる所あるが故也。しかれども、臣は君を以て天とし、子は父を以て天とし、妻は夫を以て天とす。
 されば、君につかへて忠、もて天につかふる所也。父につかへて孝なる、もて天につかふる所也。夫につかへて義なる、もて天につかふる所也。(『西洋紀聞』下 東洋文庫 1968年 P.79)
 下線部の考え方は、日本独特のものである。中国の天命思想は、天が民を生じ、民だけでは統治ができないので天子によって治めさせた―というものである。だが、中国史では存在しなかった封建制(フューダリズム)が、日本では中世から登場し、この社会関係を基盤にした封建的な重層的支配構造に基づいて、それぞれの直接の上位者を天にした(中国ではあり得ない)のが、新井白石の思想である。
 こうして天道観念は、封建的な重層的支配のヒエラルヒーと秩序の再生産のみを正当化する観念に変質されていく。

 (ⅳ)幕府中枢における「大政委任論」の確立

 「大政委任論」は、国学者のみならず、老中首座の松平定信までも唱えるようになったと前述した。だが、「大政委任論」は定信個人の考えではなく、幕府の中枢を捉えるようになる。その一つの契機に、「尊号事件」がある。
 これは、後桃園天皇に継嗣がなく、閑院宮家から光格天皇が皇位を継いだことに始まる。同天皇は父・典仁親王の禁中での座位が「禁中並公家諸法度」の規定によって、大臣よりも下とされているのを好ましくないと思い、父に「太上(だじょう)天皇」の尊号を宣下しようとして、幕府に執拗に交渉した。だが、幕府はこれを厳格に拒否した―という事件である。
 幕府は、事件の首謀者と目された中山愛親と正親町(おおぎまち)公明を江戸に召還し、厳しい吟味を行なった。結論的には、二名に科する「閉門」は幕府が直接申し渡し、二名に対する「御役御免」は幕府から朝廷に申し入れ、そのうえで朝廷が命じる―こととなった。結論が決定する過程で、老中間で処罰の下し方で意見が割れたが、定信の主導で結論が決まり、これを将軍も、紀伊・尾張徳川家も了承したといわれる。
 この一連の経過の中で、朝廷の高位高官に対して、幕府が朝廷に通告することなしに処罰を加えるという「幕府の前例のない行為に正当性を与えるために定信が持ち出した論理は、『天下之人は皆王臣』という論理である。つまり、武家も公家もともに王臣であり、天皇の臣である点に何らの差もない」ということである。これが第一である。そして、第二に、「罪を犯したものを厳重に処罰することは幕府の『職任』であるから、その『職任』を厳粛に遂行することが、『職任』を重んじ、『職任』を敬うことであり、それが天皇・朝廷を『崇敬』することになる」という「職任」の論理である。(詳しくは、藤田覚著『近世政治史と天皇』(吉川弘文館 2000年)P.114~124を参照)
 この「職任」の論理は、当然のこととして、幕府の「職任」は天皇・朝廷から授けられているという「大政委任論」が前提になる。(つづく)