幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑮
  国学台頭し儒学者と激しく論争
                           堀込 純一


Ⅶ 続・本居宣長の思想変遷

 前2回、宣長を取り巻く思想状況とくに神道の社会的評価が、従来の本地垂迹説の時代と大きく変化していることを確認した。これは、国学運動が社会的に評価される一つの基盤となり、ひいては国学運動が明治維新の原動力の一翼を担う遠因ともなったものである。
 今回は、もとに戻って宣長の思想変遷を続行する。

  (1)春台への反論で「神代の道」を示せない真淵

 日本で儒学が本格的に盛んとなるのは、江戸時代半ば(庶民に浸透し始めるのは享保時代〔1716~1736年〕頃)からであり、江戸時代後期を通じて次第に儒者は増えていった。しかし、江戸時代前半期、儒者は数も少なく、政治への直接的影響力を持った儒者は、少なかった。だがこの反面、当時の日本では比較的、「自由」な儒学研究が進み、さまざまな流派が出現した。それは、いわば外来思想としての朱子学(宋学)を日本的儒学へと改編する過程であったとも言えるのである。1) 
 その江戸時代前半期、儒者は比較的神道に親和的であったが、国学が台頭するとともに、両者の論争も厳しくなる。
 荻生徂徠(1666~1728年)の弟子である太宰春台(1680~1747年)は、1735年に『弁道書』( 名著刊行会刊『日本思想闘諍史料』第3巻 1969年 に所収)を著わす。そこでは仏道批判・儒道称揚が中心だが、神道批判もわずかではあるが触れられている。
 春台は、日本にはもともと道(神道)などというものは無かった、と率直に言う。その証拠には、①倫理規範としての「仁義・礼楽・孝悌」に和訓がないこと、②古代天皇が「近親婚」を行なっていたこと、をあげる。そして、③日本人も中国から「聖人の教えた礼儀」を学ぶことによって、禽獣とは異なる人間になった、というのである。
 これに対して、国学では賀茂真淵(1697~1769年)が反論する形となる。真淵はその著『国意考』(1765年)で、次のように言う。
 ①に対して―「……さて唐の字は、用たるやうなれど、古(いにしへ)はただ字の音をのみかり(借り)て、ここの詞(ことば)の目じるしのみなり。其(その)暫(しばらく)後には、字のこころをも交(まじ)えて用(もちい)たれど、猶(なお)訓をのみ専ら用て、意にはかかはらざりしなり。」(日本思想大系39『近世神道論 前期国学』岩波書店 1972年 P.380~381)と。
 真淵は、漢字に対し日本語を記す一時的な借りものとしてみているだけで、「仁義・礼楽・孝悌」の倫理規範(日本に「道」がなかった証拠)には関連して言及していない。だが、真淵は他の箇所で、「仁義礼智信」について、一年に四季が自然にあるように、五常(仁義礼智信)もまた人間に〝自然に備わる〟という。「自然に備わる」というのは、まさに老荘思想を彷彿(ほうふつ)とさせるものである。
 ②に対して―「暫く制(*規則)を立(たつ)るは人なれば、其制も国により、地により、こと成る(異なる)べきことは、草木鳥獣もこと成(異なる)が如し。……此(この)国のいにし(古)へのはらから(同胞)を、兄弟とし、異母をば兄弟とせず、よりて、古へは人情の直(なお)ければ、はらから通ぜしことはなくて、異母兄弟の通ぜしは常に多し。……」(同前 p.387)と。
 真淵は、同父同母の場合だけが兄弟(母親が異なる場合は兄弟としない)だ、と反論するが、真淵の言うことは、「近親婚」批判に対しては、まともな答えとなっていない。
 ③に対して―「又(また)人を鳥獣にこと(異)なりといふは、人の方にて、我ぼめ(褒め)言ひて、外をあなど(侮)るものにて、また唐人のくせなり。……凡天地の際に生(いき)とし生るものは、みな虫ならずや。それが中に、人のみいかで貴(とうと)く、人のみいかむ〔*威厳がある〕ことあるにや。……」(同前 P.379)と。
 確かに、動物を虐待することや人が動物界の頂点に立つという考えは誤りだが、しかし、真淵のように人と禽獣を区別しないで同質なものとすることにも、大きな問題がはらまれることとなる。何故ならば、その考え方は、人類の文化・文明作用そのもを否定するからである。このような考え方の背景には、老荘思想と類似した真淵の思想がある。
 だが他方、真淵は、儒教の「聖人の道」に対置されるべき、自己の理想とする「神代の道」を具体的には示せずにいる。ただ、「古への世」を知る階梯として「歌」がある、と言うだけである。

  (2)記紀神話の宗教的純化で誤魔化す

 国学者と儒者の論争は、その後、本居宣長と徂徠派の流れをくむ市川匡麻呂(たづまろ 1740~95年)との間で直接行なわれる。
 匡麻呂はその著『末賀乃比礼(まがのひれ)』(1780年4月)で、宣長の『古事記伝』の自筆再稿本に収められた「道云事之論」に対して、次のように批判する。

    ⅰ)徳を価値基準に皇統主義を批判

 第一は、「文字の徳」に関してである。匡麻呂は、冒頭、「抑(そも)上ツ代ノ古事ヲ知ベキ御史(みふみ)ハ、古事記日本書紀ナリ」と言い、「凡テ言傳(ことづて)ト云(いふ)モノハ、人ニ命ノ極アリ、事ニ伝(つたへ)ノ謬(あやまり)アリ、多クハ消(ケ)ヌルガチニシテ、実(み)ナラヌ事ノミ遺存(のこれる)ゾ、常ノ例(ためし)ナル、文字アル国ハ、文字ニテ事ヲ記(しるし)ツレバ、上ツ代今ノ如ク知事(しらすこと)灼然(いちじろけく *輝くさま)、是(これ)ヲ文字ノ徳ト云メリ」(全集第八巻 P.183)と言って、文字の有る無しの違いと、文字の存在の重要性を説く。
 
          応神以前は創作
 第二は、記紀に書かれた応神天皇より以前のことは、すべて文字のない時代のことなので「創りごと」であると喝破した。すなはち、「凡テ文字ナキ間ハ、其事ハタ(*そもそも)言傳ノミニシテ、消(け)ヌル例ノ中ナレバ、上ツ代ノ古事ハ、後ノ天皇ノ御慮(みはかり)ニ令成(ならせ)ツル秘事(ひめごと)ナリケリ、御国ノ史(ふみ)読ン人、ヨク此書(*旨)ヲ意得(こころえ)テヨ」(同前)と警告する。
 第三は、神代の巻の国粋主義を批判する。「神代ノ巻ノ大旨(おおむね)ハ、御国ヲ本(もと)ツ根トシ、萬(よろず)ノ国ヲ末枝(ほづえ *こずえ)トナシタルモノニシテ、此大旨ハ、当時(そのかみ)ノ天皇ノ御慮(みはかり)ニテ令成(ならせ)タルモノナリ……
聖人ノ道ハ、天地ノ極(きわみ)充塞(みちふさが)リシ物ナレバ、私心ヲ以テ尽スベキニシモアラズ、天地ハ二(ふたつ)ナク広カメレド、是(これ)ヲ畳如(たたみなす)一平(ひとひら)ノ物ニ成(なし)テ見ヨ、何レカ吾国、何レカ他国ト云別(いいわき)アラレ(あらん)」(同前 P.184)と、たしなめる。
 「聖人の道」は、徳を価値基準とするもので、そこでは吾国・他国などの区別は眼中にない。それなのに神代の巻は、「日ノ神(*天照大御神)御国(*日本)ニ生レタマヒテ、萬ノ国皆(みな)御徳ヲ蒙(こうむ)ルトイヒ(言ひ)、又(また)異国ハ日神ノ御国ニアラザル故、定マレル主ナクシテ……」(同前)と誹謗する。世界の人々からあがめられるか否かは徳の有無によってなのであって、これを価値基準としないで、どこそこの出身か否かを価値基準とするのは、極めて心の狭い偏見である、というのである。

          道にはずれた天皇は降ろすべき
 第四は、徳を基準とする歴史観・歴史論をもって、皇統を基準とした宣長の歴史観・暦論を批判する。
 例えば、「若(もし)ヤ(北条)泰時(足利)尊氏ガ所為(しわざ)ヲシモ、禍神(まがかみ)ノ助(たすけ)ヲ得タルモノトイハバ(言はば)、当時天ツ神ハ如何(いかが)見ソナハシ坐(まし)マセシゾヤ、猶(なお)(北条)高時(足利)義輝ヨリハ、天ノ御心ニ合(あい)ツル事有シ(ん)カシ、抑(そも)皇統ノ絶(たえ)セヌハ、未タ異国ニモ聞(きか)ヌ事ニテ、二ナク目出度(めでた)カリケレドモ、御徳ハ盛衰(さかえをとろえ)ル事アルニヤ」(同前 P.193)と、歴代天皇の徳の消長を立てる。そして、藤原氏の摂関時代、法皇の院政時代を経て、武家の時代の到来を述べ、「聖賢ノ君ハ、必(かならず)道シレル賤夫(しづのを)ヲ、取挙テ、用(もちい)タマフナリ、世ノ態(さま)物ノ情(こころ)ヲ知テ、ヨク家国ヲ治(おさめ)ンモノハ、必賤夫ノ中ニゾ多カリケル」(同前)と、徳の観点から皇統主義を批判する。
 第五は、天皇を神に祭り上げて、たとえ天皇が悪をなしてもひたすらに随従することを説く宣長を真っ向から批判する。
 すなわち、「……サレバ君悪キ行(おこなひ)アラバ、臣ナドカ諌(いさめ)ザラン、カノ武烈陽明ノ如(ごと)キ君ニシテ、諌ヲシモ聴(きき)タマハズハ、臣ナドカ位ヲ下(をろし)マヰラセザラン、人草(*人民)を仁(いつくしむ)ハ君ノ職ナルヲ、若(もし)其職ヲ忘タマハバ、君ノ私ナリ、古ノ人モ君ノ私ニハ臣(しん)従ズトイヘリ、君モ天ノ御心ヲ御心トシ、臣モ天ノ御心ヲ心トスルゾ、正シキ道ナリケル」(同前 P.191)である。また、「当代(そのかみ)ノ天皇ヲ神ト申テ、即チ神ニ坐マセバ、善キ悪キ論ヲ舎(すて)テ、偏(ひたふる)ニ畏敬タテマツルゾ、御国ノ道ニナンアルトイヘリ、是(これ)ハ正シク道ヲ乱ル枉言(まがごと *間違った言)ナリ」(同前)と正論を述べる。
 第六は、老荘思想批判である。匡麻呂は、「聖人の道」の正当性を主張するために、しばしば老荘思想の批判を引き合いにしている。
 一例をあげると、大和王権が各地の王権や集団を服従させる際に、民に多くの難渋を負わせたにもかかわらず、「然(しか)ルヲ御国ノ古ヘハ、言痛(こぢたき *わずらわしい)教(をしえ)モ何モナカリシカド、穏(おだやか)ニ安(やす)ク治リタル故、道ト云事(いうこと)ナケレドモ道ハ〔カ〕【ア】リシトイヘルハ、偽言ナリ」(同前 P.186)と言っている。すなわち、何の教えもないのに「穏ニ安ク治リタル」などというのは、全くのたわごとというのである。

    ⅱ)神がかり的反論と逃げ口上

 宣長は、これに対し、さっそく同年11月に『くず花』を書き上げ、反論する。それは事細かなもので、99項目にわたる。分量にして、匡麻呂(たづまろ)の『末賀之比礼』の約2・8倍である。
 宣長の反論の最大の特徴点は、記紀神話を宗教化することによって匡麻呂の批判に対処していることである。それは、日本神国論を論拠にした神がかり的な反論(言い訳)が随所に展開されていることで明らかである。
 たとえば、①匡麻呂の〝天ツ日は、天地創造の始めより天に懸っているはずなのに、天照大御神が草木や宮殿などが出来あった後に登場するのはおかしい〟というのに対して、宣長は次のように反論する。「すべて神の御所行(みしわざ)は、尋常(よのつね)の理をもて、人のよく測り知(しる)ところにあらず、人の智は、いかにかしこきも限(かぎり)ありて、小(ちひさ)き物にて、その至る限の外の事は、えしらぬ(得知らぬ)物也」(同前 P.127)とけむに巻く。これでは、神代の巻に書かれた不合理な諸点はすべて合理化できることになる。そもそも神は、人間が創造したものなのだが……。
 ②宣長は、「神のしわざはさまざまはかり(測り)がたき物なれば、聖人といへ共(ども)知ることあたはず、況(いわん)やそれより智の浅き者をや、然(しか)る神のしわざも、理をもて推(おさ)ば、いかでか知らざらんと思ふは、大きにひがこと(僻事 *道理にはずれた間違い)也」(同前 P.135)という。だが、これは神の名をもって、論争の場から逃走しているだけである。
 ③匡麻呂の〝神代の神も、ほんとうは人だ〟という批判に対して、宣長は「そもそも神代の神は、人なれども、神なるが故に神といふ(言ふ)、神ならざるただの人を神とはいはず」(同前 P.158)と答えるが、ここでは尋常な論理とはなっていない。神代の神は「人なれども、神なるが故に神といふ」答えは、同義反復であり、なんらの説明にもならず、説得力ゼロである。

    ⅲ)唯我独尊でかみ合わぬ宣長の反論

 記紀神話を宗教化した宣長は、当然にも匡麻呂との論争がまったく噛み合わないのである。それだけでなく、次のような個々の論点でも「唯我独尊」を貫くだけに陥っている。
 第一は、「文字の徳」に関するものである。
 宣長は、「文字による伝承」と「言葉による伝承」のそれぞれの得失を論じながら、「文字は不朽の物なれば、一(ひと)たび記し置(おき)つる事は、いく千年を経ても、そのまま遺(のこ)るは文字の徳也、然れ共文字無き世の心なる故に、言傳(ことつた)へとても、文字ある世の言傳へとは大に異にして、うきたることさらになし……殊(こと)に皇国は、言霊(ことだま)の助くる国、言霊の幸(さき)はふ国と古語にもいひ(言ひ)て、実に言語の妙なること、万国にすぐれ(勝れ)たるをや」(同前 P.124~125)と言霊の世界に逃げ込む。
 言霊とは、あらゆる物に精霊が存在するという考え方の一種で、ある言葉が発せられるとその内容が実現されると信じられた。宣長は、日本はその言霊の助くる国だから、「言葉による伝承」が優れているだ、と負け惜しみの口実を神霊に求めるのであった。
 第二は、皇統の不可侵性を神の名によって合理化することである。
 宣長は、「臣(しん)君を諌(いさむ)るは可也、位を下(おろ)し奉(たてまつ)るは、外国(*中国を指す)の悪風俗にて、大きに道にそむけり、故に武烈天皇のごとき大悪天皇といへ共(ども)、臣これを下し奉れることなし、……皇国は天照大御神の授け給(たま)へる皇統にして、天壤(てんじょう *天地)と無窮にしろしめす(*お治めになる)大御位に坐(ませ)ば、君の私といふ事はなき也」(同前 P.149)という。
 天皇の間違った言動を諌めることは許されるが、天皇位から引きずり下ろすのは間違いだ、というのである。その理由は、皇国の君は天照大御神の子孫が引き継いでいくことになっているので、天皇が私事をすることがあり得ないからである、というのである。つまり、天皇は人でありながら神であり、その神が私事をするわけがないから(個々の間違いはあっても)……というのである。だが、これは史実に照らしても誤りである。天皇家が公田制の空洞化・荘園制の拡大を自らもおしひろめ、ついに武家に政権を奪われたのも、民の公益を顧みなかったからである。
 宣長は、さらに皇統の維持と天皇制による秩序を最優先にしたため、徳を価値基準とする「聖人の道」(儒教)と真っ向から対立する。「いかにも漢国などには、徳によりて位をも得つることあれば、これ(*徳のこと)を真の貴(とうと)き物と思ふも、さることなれ共、それは実は悪風俗也、皇国は神代より君臣の分(ぶん)早く定まりて、君は本より真に貴(たっと)し、その貴きは徳によらず、もはら(専ら)種(たね *血統)によれる事にて、下(しも)にいかほど徳のある人あれ共、かはる(替わる)ことあたはざれば、万々年の末の代までも、君臣の位動くことなく厳然たり」(同前 P153)と宣長は言う。
 宣長は、易姓革命を否定する論拠として、連綿たる皇統をあげ、その根拠を神である天照大御神の子孫であることに求めている。ここでも、「人智では測り知れない神」を楯に、皇統主義を合理化する。そして、皇位の維持を自己目的化しているために、逆に、君主の徳性を最優先することを「これ乱の本(もと)也と知(しる)べし」と言って、自らの転倒した考えを恥ともしないのであった。
 ただ、宣長は老荘思想に対しては、師の真淵とは異なり、一線を画する。「……かれら(*老荘)の道は、もとさかしら(賢しら)を厭(いと)ふから、自然の道をしひて(強ひて)立(たて)んとする物なる故に、その自然は真の自然にあらず」(同前 P.163)という。
そして、人と鳥獣を同一視しないで、人の方が優れているとして、儒者の批判をかわした。
(つづく)