藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑭
《現世利益を求め広がる大衆神道》
                           堀込 純一


Ⅵ 儒学の台頭と神道の再浮上 

   (5)江戸時代の神社制度と吉田・白川両家の争い

 徳川幕府は、禁裏御料として一万石(のちに三万石)を定め、1615(元和元)年7月に、「禁中並(ならびに)公家諸法度(しょはっと)」を制定し、天皇・朝廷を統制した。全17ヶ条の第一条は、「天子諸芸能の事、第一御学問なり」であるが、これは史上はじめて天皇の行為を法的に規制したものである。
 しかし、皇室は厳然として存在し、律令官制の流れを受けた朝廷の神事、行事も行なわれ、叙位、任官、祭式作法などの儀礼は大分衰えたとはいえ維持された。
 神祇道を家業(家職)とする公家には、白川、藤波、吉田などがあった。この三家は、触穢(しょくえ *死亡・出産など「穢れ」とされた人・物などに触れること)について、関白・太政大臣・左右大臣などから諮問された時、これに応えるのが家業であった。この他に、朝廷の神祇道を分担して世襲的に担った。
 高埜利彦氏によると、「江戸時代の朝廷の祭祀は三重の構造を持っていた。天皇を中心にしてもっとも内側の祭祀(「内」の神事)、その次に朝廷の表の儀礼として行なわれる祭祀(「表」の神事)、その外側の内裏(だいり)を離れた二十二社1)など畿内や各地の、朝廷と結び付きの深い神社で行なわれる祭祀(「外」の神事)で、いずれも天皇・朝廷が主体になって神事が担われる。」(日本の時代史15『元禄の社会と文化』 P.270)という。
 第一の「内」の神事は、内侍所(ないしどころ *八咫〔やた〕の鏡が祭ってある賢所)で行なわれる歴代の天皇が毎朝行なう御拝、内侍所前庭で3日間行なわれる内侍所神楽(かぐら)、臨時に行なわれる内侍所祈願である。これらの儀式は、「天下泰平」「五穀豊穣」「病気平癒」などを祈る祭祀である。
 律令時代、太政官と並立していた神祇官の長官である伯の家職である白川家は、天皇の毎朝の御拝などができない時に、その代官を勤めた。その代官を勤める白川家に対して、幕府は役料100石(家料200石以外に)を与えた。
 第二の「表」の神事は、禁裏年中行事や臨時行事で、具体的には四方拝、新嘗祭(しんじょうさい)、大嘗祭などである。
 四方拝は、元旦の午前4時から行なうもので、その歳の厄災無きことを天神地祇に祈り、四方(東西南北)を拝し、皇祖(山稜)に宝祚(天子の位)の無事を祈る祭祀である。四方拝は、江戸時代行なわれなかった時もあったが、その場合、白川家が代拝することは出来なかった。新嘗祭は、11月の卯の日に、その年の新穀を天皇が神祇に供えこれを食す儀式で、いうなれば収穫祭である。大嘗祭は、新たに天皇が即位した後の初めての新嘗祭のことである。
 第三の「外」の神事は、朝廷との関係が深い主だった神社に、天皇が奉幣使(勅使)を遣わして、祈年穀(きねんこく)、国家安全、雨乞いなどを祈念する神事である。これは、平安時代後期に成立した「二十二社制度」1)を原型としたものである。
 朝廷は「二十二社制度」の復活を狙ったが、幕府は、一部を除き幕末まで許可しなかったが、伊勢神宮と日光東照宮への毎年の例幣使は、許可した。
 伊勢の例幣使は、内外宮で九月に行なわれる神嘗祭(かんなめさい *新穀を神に供し収穫を感謝する祭)に、天皇が奉幣使を遣わす神事だが、応仁の乱の時期に中絶していた。だが、江戸時代に入ると、藤波家が祭主職(さいしゅしき)に補任され、神嘗祭や遷宮に下向して祭礼を執行した。藤波家には幕府から家禄として173石が与えられたほかに、祭主料として662石余が、幕府から安堵された伊勢神宮6198石余の中から支給された。また、藤波家は、伊勢両宮の神職(荒木田・度会両氏)の官位執奏(しっそう *取り次いで奏上する)なども行なった。
 古代の神祇官制度は、江戸時代には官名だけで、有名無実となっていた。神祇官の官衙が存在していた頃には、その西院には神祇官の祭神(神産日神や高御産日神など八神)を祀る八神殿があったが、豊臣政権から徳川時代初期ごろには、吉田家が管理するようになったようである。吉田家は、神祇官代として、1688~1739年にわたって内密に新嘗祭を挙行した。1791年から神嘉殿(内裏の西にある中和院の正殿)で新嘗祭が行なわれるようになると、吉田家が新嘗祭卜定(ぼくじょう *占いで吉凶を決めること)を行なう。また、大嘗祭の国郡卜定(*新穀を奉る国郡を占いで決める)も担った。
 吉田家は、戦国・織豊期から地方の神社・神主に働きかけて関係を結ぶことを積極的に行なってきた。神祇官伯家の白川家が衰退する戦国初期には、吉田兼倶が吉田神社に大元宮と称する独特の神殿を建て、ここにすべての天神地祇、全国三千余社の神々を勧請(かんじょう *神の分霊を請じ迎えること)し、神祇管領長上などと自称して、神号・神位の授与や神官の補任裁許などを始めた。そし、て吉田神道の近世化を推進した吉川惟足(前号参照)は、徳川家綱将軍を支える保科正之や稲葉正則らに、吉田家が諸社の執奏を行なえるように工作した。
 徳川幕府は1665(寛文5)年7月11日付けで、「諸社禰宜神主法度」五ヶ条を発した。その第一条は、諸社の禰宜(ねぎ *神官の位階システム・宮司―神主―禰宜―祝〔はふり〕の一つ)・神主らはもっぱら神祇道を学び、祭神について熟知し、古来の神事・祭礼を勤めること―を命じた上で、第二条で、社家が位階を受ける場合、朝廷に執奏する公家(神社伝奏2))が前々より決まっている場合はこれまで通りとし、第三条で、無位の社人は白張(しらはり *糊をこわく張った白の狩衣)を着すように、白張以外の装束を着ける時は吉田家の許状を受けることを規定した。
 江戸時代は、家元制度(同一家業の家々がある特定のイエの下に編成される身分制度)が諸分野で組織され、徳川幕府の身分秩序を支えた。白川家と吉田家は、近世において、神職の家元(本所)として、激しく競合し対立する関係にあったが、この法度は吉田家が地方の大小神社を組織化する上で極めて有利な働きをしたのであった。
 だが、この法度に対する反発が、出雲大社、阿蘇宮、熱田神社など地方の大社に広がった。これらを見て、吉田家は妥協的な態度をとった。
 徳川幕府は1674(延宝2)年8月、この争論に対して、次のような「諸社禰宜神主法度」の解釈で治めた。すなわち、第二条に関して、執奏家を持たなかった社家の場合でも必ずしも吉田家に限定されないこと、また、第三条に関しては、無位無官の社人の装束は吉田家の許状を受けるべきこと―であった。
 吉田家の勢力伸長に対して、白川家は18世紀半ばに、関白だった一条兼香や摂政をつとめた一条道香の父子の威勢を借りながら、白川家に八神殿を再興した。そして、1757(宝暦7)年、白川家はまず畿内諸国に弟子を派遣し、白川家に隨職するように工作する。吉田家はこれに対し、武家伝奏(武家との窓口になる朝廷内官職)に訴え、押しとどめた。しかし、吉田家と白川家の勢力争いは、その後も止まることなく、幕末まで各地で展開されることとなる。

         勢力争いは村落まで

 争いは、社守(しゃもり)と呼ばれた専業神主の組織化を巡るものだけではない。百姓身分で村落持ちの神社を管理する鍵取(かぎとり *百姓たちは宮座を組織して村の神社の祭式を行なった)や、大きな神社や富士山のような信仰対象に参詣する人々の宿泊や神社の守札(まもりふだ)を配る御師(おし)たちを組織し、神職身分に上昇させようとする争いにまで発展する。さらに、江戸・大坂など大都市で、神職の姿をして家々の前に立ち、門付け芸のように祈祷をし銭などを貰い受ける「神道者」をも、自らの勢力に引き入れる点でも争った。

注1)古代の祈年祭(旧暦2月4日に、神祇官で五穀豊穣、天皇の安泰、国家の安穏などを祈る祭)や月次祭(6月と12月に、祈年祭と同様に伊勢神社以下の諸社に幣帛〔へいはく *神前の供物〕を分配して祈る祭事)などが、律令制度と共に衰退すると、天皇が主な神社に奉幣師を遣わして、旧来と同様の神事を行なわせた。その主な神社が、10世紀後半に、伊勢・石清水・賀茂・松尾・平野・稲荷・春日・大原野・大神(おおみわ)・石上(いそのかみ)・大和・広瀬・龍田(たった)・住吉・丹生(にう)・貴布禰(きふね)の16社、10世紀末に、吉田・広田・北野が加わり19社となり、その後、梅宮・祇園社・日枝社(日枝社)が加わり、1081年から祈年祭は必ず22社が奉幣の対象となった。
 2)神社伝奏とは、神社から朝廷への奏事を行ない、あるいは逆に、朝廷の決定事項を神社に下知する役割を果たす。奏事の中には、神職の官位執奏のように身分にかかわるものもある。

   (6)大衆神道家の輩出

 神道の古典や教義を平易に説いて、民衆を導き教化することを、神道講釈あるいは神道講談という。「……元来吉田家は、俗間の信仰を利用することで勢力の基礎を作ってきた。『三社託宣』1)『中臣祓』2)などの霊符を頒布する方法は、吉田家が最も得意としたところである。人材面でも、在野の神道家、敏腕家を登用している。……延宝三年(1675)、吉田家は橘三喜に全国の一宮への『中臣祓(なかとみのはらえ)』奉納を委託した。……三喜はこの巡国で一般大衆への講釈を行った。」(国学院大学日本文化研究所編『神道辞典』弘文堂 1994年 P.568〔長沢ヒロ子氏執筆〕と言われる。
 橘三喜(たちばなみつよし)は、『日本書紀』の神代紀も講釈していた。
 増穂残口(ますほざんこう 1655~1742年)は、「風流講釈」と呼ばれて一世を風靡したが、残口は仏教や儒教を厳しく批判した。玉田永教(たまだながのり)も、寛政から文化の頃(1789~1818年)、全国を廻って神道講釈を行なっている。矢野守光(やのもりみつ)は、1838年に吉田家から泉州神祇道取締役を任じられた人物であるが、「守光の講釈は、神礼を受けず、時には神棚を流し捨てたり、正月に門松を立てないといった真宗の民俗を激しく誹謗するものだった。」(同前)と言われる。
 神道講釈家で有名な増穂残口は、もともとは仏教徒であった。はじめ浄土宗徒であったが、後に日蓮宗門徒となった。それが1691(元禄4)年、日蓮宗不受不施派への弾圧で、残口がいた谷中の感応寺が強制的に天台宗に改宗させられた時に、僧籍を離れた(44歳)と推定されている。
 残口は、江戸時代初期の猛烈な新田開発を土台に、元禄時代(1688~1704年)に著しく発達した商品経済を厳しく批判した。新田売買・人身売買はおろか、仏教・儒教・神道までも金儲けの手段に化している、というのである。そこで、残口は、無欲が最も重要なものと教え、男女の「自由恋愛」を高唱した。
 さらに、残口は仏教や儒教を激しく批判し(《補論 安藤昌益の儒仏批判》)、その原籍地であるインドや中国よりも日本が優越していると大衆に呼びかける。
 残口は、「日本へ出店し給(たま)ふからは、三如来をはじめ五大虚空蔵も、三文殊も三十三所の名観音も、皆天照大神の末社なり。神勅を背き給ふ事叶(かなう)べからず。……聖徳太子の日本へ借入(かりいれ)給ふ元由(げんゆ *元々の理由)は、天照大神が変じて仏となり、聖人となりて、異国蠻狄(いこくばんてき *中国・インドを指す)の強悪を教(おしえ)給ふがゆへ(故)に、本は神(*日本の神道)のおしへ(教え)ぞとして、此国へ借リ用(もちい)給ふ。」(『異理和理合鏡(いりわりあわせかがみ)』)という。これは、まぎれもなく反本地垂迹説である。
 残口ははじめ、インドや中国に対して、日本の独自性を唱えていたのだが、その批判が激しくなるにつれ、やがては両者に対する優越感や差別感が強まってきた。
 そして、ついには「日本に生れたる者第一に知(しる)べき事は、三千世界(*広い世界。仏教用語)の中に日本程(ほど)尊(たっと)き国はなし、人の中に日本人程うるは(麗)しきはなし、日本人程かしこ(賢)き人はなし、日本程ゆたか(豊)なる所なしと知べし。」(『有象無象小社探(うぞうむぞうほこらさがし)』)と、手放しの日本主義・国粋主義を讃美するのであった。

      乱世終息で神道再浮上

 戦国乱世が終息し、徳川政権の海禁政策の下で、檻(おり)の中の「平和」がもたらされ、明日をも知れぬ儚(はかな)い命という極限状況が殆ど無くなる(自然災害を除き)につれ、さらに拝金主義が社会をおおうようになるにつれ、民衆の中に猛然と現世利益の欲求が澎湃と起こるようになる。実際、江戸時代には、射幸心をあおる「富くじ」(一種の宝くじ)が流行し、これを主催したのは多くが寺社であった。
 時代は、高尚な理屈(魂の救済)よりも目の前の物欲が追求され、高邁(こうまい)な仏教理論よりも、目の前に鎮座する神様にすがるほうが現実的となった情勢をもたらした(政治はもちろん支配者に独占されていた)。本地垂迹説よりも再び神道が高く評価される時代の再来である。
 したがって、江戸時代には、いわゆる「流行神」がたくさん出現している。万寿亭正二『江戸神仏 願懸(がんかけ)重宝記』(1814〔文化11〕年)によると、江戸のさまざまな神社で祈願された御利益の類型をあげると、頭痛・眼病・歯痛・痰(たん)・百日咳(ひゃくにちせき)・痔(じ)・脚気(かっけ)・疱瘡(ほうそう)・瘧(おこり)・痣(あざ、ほくろ)・怪我除け(けがよケ)・安産・夫婦和合・盗賊除けなどがある。中には「諸願」といって複数の御利益があげられる神社もある。
 本居宣長が国粋主義・皇国主義を高唱した時代、社会の下層では、「魂の救済」よりも現世利益が追求され、理性的なものよりも即物的なものが重視されたのであった。(つづく)

注1)天照大神・八幡大菩薩・春日大明神の託宣と称したものを書いたもの。
 2)古来、6月と12月の晦日に、親王以下、在京の百官を朱雀門前の広場に会して、万民の罪穢を祓った神事。

《補論 安藤昌益の儒仏批判》

 安藤昌益(1700年代初期~1762年)は、今の秋田県大館市で、農民の子として生まれる。少年期に京都で、禅宗系の寺に入ったと推定されている。だが、青年時代に仏教に疑問を抱き、医者に転じる。しかし、昌益は長じて、儒仏を激しく批判する。石渡博明著『いのちの思想家 安藤昌益』(自然食通通信社 2012年)によると、昌益の仏教批判の特徴は、釈迦の生き方批判として、「王位にあった釈迦が王位を捨てたことは評価しながらも、家族の絆を断ち切り出家したこと」であり、教義批判として、「男女の性愛、夫婦の性愛を否定する反自然的教義」とともに「女性を汚れた不浄なものとして遠ざけ、仏道修行のさまたげとする女性観、女性は悟りに至れないとする女性蔑視観にあ(る)」(P.104~105)とされる。同じく儒教批判の特徴は、「王権の樹立こそが諸悪の根源だ」とし、それが衆人の搾取と支配を正当化している(P.112~13)としていることである。昌益の儒仏批判で共通しているのは、他者の搾取・収奪であるが、この点は世界史的にも先駆的なものである。ところで、石渡氏は、儒家と国学者との論争では、昌益が「国学者に近い位置にいたといってもいい」(P.126)と言いつつも、「(本居宣長と)同じように排外的な心情を共有し、あるべき日本の姿を追い求めていた昌益が自民族中心主義に陥らなかったのは、合理的な批判精神で日本史を解釈し、各国史を俯瞰するなかで自身をも日本をも、相対化しえていたからだ」(P.128)と指摘している。