幕藩制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑬
天皇制を押し立てる近世神道
                              堀込 純一

   Ⅵ 儒学の台頭と神道の再浮上 

 本居宣長の国粋主義は、決して独創的なものではない。だが、宣長が国粋主義を高く唱えた江戸時代、神道は大衆的な再評価を受けることとなった。当時でもやはり神仏習合は根強かったが、神道の地位が大きく変化してくるのであった。
 今回は、特別にこれまでの流れとは異なり、神道の歴史的変化と江戸時代における新たな台頭を検討する。

 (1)神仏習合から神道自立化へ

 日本に仏教が伝来するのは6世紀中頃であるが、『日本霊異記』によると、備後国三谷郡の大領の先祖が、白村江の大敗(663年)で捕虜となり、何年か後に帰国し、諸神祇のために三谷寺を造立したといわれる。神仏習合の走りである。
 神仏習合とは、神道と仏教を取り合わせ折衷することである。しかし、宗教としては外国からきた仏教の方がはるかに力があったから(神道には教義らしきものもなかった)、結局、神道は仏教に従属することとなる。
 義江彰夫氏によると、「八世紀後半から九世紀前半にかけて、全国いたるところでその地域の大神として人々の信仰を集めていた神々が、次々に神であることの苦しさを訴え、その苦境から脱出するために、神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依することを求めるようになってきたのだ。」(『神仏習合』岩波新書 1996年 P.12)といわれる。
 神仏習合で最も進んだものは、本地垂迹説である。神仏を一体のものとしてとらえ、本地、すなわち本来のあり方をしている仏が、垂迹、すなわち仮の姿をとって日本に現われたのが神であるという考え方である。
 古神道は、仏教と習合することにより教理思想をもつようになる。鎌倉時代の仏教系の神道として有名なのは、天台系の山王神道と真言系の両部神道である。
 仏教に従属する神道が自立へ向けて大きく進む第一歩は、神国思想の台頭である。神国思想がしばしば唱えられるようになったのは、鎌倉時代に入ってからである。とりわけ、「蒙古襲来」の際には、京都をはじめ各地の社寺で「異敵調伏(いてきちょうふく)」の祈祷が盛んに行なわれ、神国思想が高揚した。神国思想は、明確に国粋主義的な性格を顕わにしてくるのであった。
 伊勢神宮外宮の神官・度会氏を中心に推し進められた伊勢神道の理論化は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて体系化された。
 伊勢神道の理論書は種々あるも、「これらの内容は雑然としてまとまりがないが、正直や清明を尊ぶ倫理観や、『大日本は神国なり』とする神国意識などと並んで、『仏法の息を屏 (かく)し、神祇を再拝し奉れ』(『倭姫命世記』)という仏教排除の立場が打ち出されている」(末木文美士著『日本仏教史』新潮社 1992年 P.228~229)といわれる。
 南北朝動乱期になると、反本地垂迹説の傾向は、ますます強くなる。
 卜部氏出身で比叡山天台僧である慈編(じへん *『徒然草』の著者兼好法師の兄弟)は、その著書『旧事本紀玄義(くじほんぎげんぎ)』(1332年成立)で、神儒仏の三教を樹木にたとえて、神道を根本とし儒を枝葉・仏を果実とする「根本枝葉果実説」を唱え、神こそが本地であり、仏は仮の姿であるとする神本仏迹説を表明している。また、天皇を宇宙の元始神の正系を引き、天を父とし地を母とする存在であると論じている。
 伊勢神道の理論化を受け、仏教を明確に神道に従属化させたのが吉田兼倶(1435~1511年)の吉田神道(「唯一神道」)といわれる。
 吉田神道は、神道護摩(しんとうごま)など儀礼面では真言密教を受け習合的性格が濃厚であるが、教理面では仏教から自立した神道を唱えた。兼倶(かねとも)は、神道に「本迹縁起神道」、「両部習合神道」、「元本宗源(げんぽんそうげん)神道」の三つの種類を立て、前二者の仏教系神道に対し、神本仏従の立場から「元本宗源神道」を主張した。そして、慈編の説を継承して、「吾が日本は種子を生じ、震旦(*唐土)は枝葉に現はし、天竺(*インド)は果実に開く。故に仏法は万法の果実たり。儒教は万法の枝葉たり。神道は万法の根本たり。彼の二教は皆(みな)是(こ)れ神道の分化なり。」(『唯一神道名法要集(みょうほうようしゅう)』)と、神道中心主義、日本中心主義を明確に打ち出した。

 (2)儒教の台頭と神儒合一論

 絶えざる下剋上と小国家の乱立に表現される戦国乱世の時代は、織田信長、豊臣秀吉を経て徳川家康の近世統一政権の樹立で終止符をうたれる。これら近世の統一政権が形成される過程は、競合する戦国大名を淘汰する過程であると同時に、政治権力に対抗する宗教的な権威や権力を徹底的に抑圧する過程でもあった。このことは、一向宗、キリスト教、日蓮宗不受不施派などに対する弾圧に集中的に見られる。
 しかし、武力によって樹立された徳川幕府にとって切実に必要とされたのは、その支配と秩序を再生産するのに役立つものとしての政治思想・政治理論や宗教思想などであった。
 徳川幕府は、特定の宗教やイデオロギーを優遇したわけではなかったが、客観的に見て、幕府の必要に比較的応えたのは、朱子学(宋学)を中心とした儒教であった。仏教各派は、寺請制度を担う以上ではなかったのである。
 江戸時代の儒教興隆の始りは、藤原惺窩(1561~1619年)といわれる。惺窩は、五山の一つである相国寺において禅僧であった。当時、禅僧たちは、宋学(朱子学)を禅の興隆の一つの階梯として学び、仏教と宋学は矛盾しないと考えていた。
 だが、惺窩は、仏教が「あの世」のことを専らとし、「この世」のことを扱わない、と批判する。このように、江戸初期の儒者による仏教批判は、人倫の否定(この世の秩序について論じないこと)に集中した。この批判は厳密にいうと正しいものではないが、ただ仏者の政治思想・政治理論は貧弱で、幕府や諸大名家が現実政治のために登用するに値するものではなかった。
 儒学の台頭は、また一部に神儒一致説をも生み出している。代表的には、林羅山(1583~1657年)の理当心地(りとうしんち)神道がある。
 羅山の理当心地神道は、神道と儒教が同じ宇宙万有の原理(理)から発生したという前提に基づく。羅山は、日本では天皇の心に清明なる神(理)が宿り、その神の徳で政事が行なわれ、その神の力で国が治められてきた、という。従って、歴代の天皇が伝えてきた国家統治の指導原理や根本的な精神が、神道であり、同時に王道である、と主張した(『神道伝授』)。

 (3)伊勢神道や吉田神道の近世化

 伊勢神道の近世化を理論的に明確にしたのが、外宮権禰宜の度会延佳(1615~1690年)である。
 延佳は、「太神宮神道或問(*延佳が1660年に成した著作)において、我国の神道は宗廟たる大神宮(*伊勢神宮のこと)にも存続しているが、むしろ朝廷にとどまっているべきものであるとし、『神道と云(いふ)は日本の主の御身に行ひたまひて万民まで教(おしえ)たまふ道』であるから、天子が率先して実行し、万民を教化する道である。」(平重道著「近世の神道思想」―『日本思想大系39 近世神道論・前期国学』解説 岩波書店 1972年 P532)とする。ここには、明らかに儒教の天命思想の影響が見られる。
 そして、延佳にとってみれば、日本に生れた人は天照大神の遠い子孫であるから、神道は日本人の当然行うべき、日用、旦暮の道であって、この考えを根本に持っていれば、儒教を学び仏道を学んでも差支えはない―のである。この「神道を根本に持っていれば」とうのは、明らかに神道中心主義である。
 吉田兼倶によって大成された吉田神道は、兼倶の子・清原宣賢(のぶかた)や豊国社の神官・吉田兼見(かねみ *宣賢の孫)らによって儒教的色彩が加えられ、萩原兼従(かねより *兼見の孫)によって儒教化された。しかし、当時の吉田家の継嗣(兼従の弟や孫)は、病身であったり幼少であったりした。そこで、兼従は周囲の反対にもかかわらず、吉田家以外の弟子・吉川惟足(これたる 1616~1694年)を教学面の後継者とした。
 惟足は、吉田神道における儒学の重視を継承発展させ、朱子学を全面的に採用して、自らの神道を説明した。従って、惟足は自らの神道を理学神道と称した。
 理学神道の特徴は、以下の点にある。
(1) 神道を万法の宗源と考えた。その根拠は日本が世界の東方にあって万州に先立って創造された国であり、日本の神は天地創造の初発において、天地に先立って出現した神だからである。神道は儒教や仏教と合致する部分があるが、神道は宗源としての道そのものの継承であるから、それらと同列の存在ではなく、神仏習合説や三教一致説は誤りである。
(2) 理学神道の中心の神は、国常立尊であるが、人間が本来の人間に帰るには、心の神明を呼び起こし、神人合一を実現する必要がある。それには、「つつしみ」をもって人間の内部にある理を発揮させれば実現する。「つつしみ」を具体的に実現する方法は、神道においては「祓(はらい)」である。
(3) 人は常に神に祈って感応を得ることが大切であるが、その場合、何を祈るのか。それは、五倫(*ふむべき道としての君臣の義・父子の親・夫婦の別・長幼の序・朋友の信)の当為(なすべきこと)である。中でも最も重要なのが、君臣の義である。臣下の道は、誠の心をもって、時には諫言をもって天皇を守り奉ることが第一に重要である。

 (4)垂加神道の興隆と動揺

 江戸時代の思想界に多大な影響を与えた崎門派(きもんは)の創始者・山崎闇斎(1618~1682年)は、京都で浪人の子として生まれ、15歳(1632年)にして妙心寺に預けられ僧となる。その後、土佐に移り、そこで南海派の谷時中に師事して儒学を学ぶ。その中で、闇斎は仏教に疑問を持つようになり儒学に傾倒し、京都に戻り、29歳(1642年)で還俗する。
 闇斎の朱子学研究は晩年まで続くが、闇斎学の特徴は、「一、聖人の教の本質を敬と見、敬を最も重視したこと、二、道の発現は五倫の道であるが、そのうちとくに君臣道の安定とその精神の闡明(せんめい)に力を用いたこと、三、学問の方法としては孔子の『述而不作』の立場を守り、朱子の学説を忠実に祖述することを旨としたこと。」(前掲平論文 P.542)といわれる。
 闇斎の神儒兼学は、すでに20歳台から始まっているが、神道は儒学と異なり、その奥義は秘伝口授で伝承されていたので、神道を深く学ぶためには秘伝口授を受けなければならなかった。そのため、闇斎は江戸往還の途中、しばしば伊勢神宮に立ち寄り、度会延佳から伊勢神道を学んだ。そして、寛文9(1669)年52歳のときに、大宮司大中臣精長(度会延佳の門人)から祓具の秘伝を授けられた。
 闇斎は、吉田神道に関しては、後援を得ていた会津の保科正之が吉川惟足に師事していた関係で、寛文5(1665)年48歳のとき、正之と共に惟足の講釈を聞き、寛文11(1671)年54歳で遂に垂加霊社という生前霊社号を惟足から授与されている。
 闇斎の神道は、垂加神道と称せられるが、それは天照大神の神勅とされる「神垂(かみのしで *垂は神前に供える幣〔ぬさ〕の一種)は祈祷(ねぎごと)を以て先とし、冥加(くらきのます *知らず識らずにのうちにこうむる神仏の加護)は正直(ますぐ)を以て本とせり」(『倭姫命世記』など)を重視して、「垂加」を霊社号としたためといわれる。
 闇斎の垂加神道は、近世の伊勢神道や惟足の理学神道の影響を強く受けている。前田勉氏によると、垂加神道は「近世神道のなかで、もっとも宗教的色彩の濃い神道」であり、その特筆すべき点は、「近世思想史上……『天皇』という存在を浮かび上がらせたことにある。」(『兵学と朱子学・蘭学・国学』平凡社 2006年 P.207)と言われる。
 従って、垂加神道は、人間の生きる道として、普遍的に五倫五常の道をあげた。君臣関係を持って人倫の中心と考え、日本では国土創生の当初から天照大神の子孫を君とすることが確定している、とした。そして、「君臣関係が対抗関係、権力関係としてではなく、本来的に一体のものであり、君臣合体して中を守ってきたところに、我国の特色があり、それが道の純粋の発現で、神道の神道たる本質はそこに存在する」(前掲平論文 P.548)とする。これがまた神道の万教に卓越する所以でもある、とした。
 崎門学派は、数多くの門人を輩出したが、闇斎没後、崎門三傑といわれる佐藤直方、浅見絅斎(けいさい)、三宅尚斎のほぼ三派に分かれて儒説が継承された。しかし、直方と絅斎は、理論上の対立からすでに破門されていた。だが、この対立は神儒一致を説く闇斎の信仰の問題でもあり、崎門学派における神儒兼学派と専儒派の対立に根差した問題でもあった。
 垂加神道は、京都を中心に全国に広まり、門人は非常に多かった。闇斎の没後、垂加神道の道統(系統)は、公家の正親町公通が後継者となり、垂加神道は享保(1716~1736)時代前後の頃に、全盛時代を迎える。
 だが、この時期、秘伝の組織化をした玉木正英は神人巫祝の神道に接近し、伊勢神道を批判した吉見幸和は垂加神道をも批判して離脱するなど、垂加神道は大きく動揺し、崩壊の危機に直面する。(つづく)