幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑫
  一片の反省もない朝鮮侵略評価
                       堀込 純一
 
 Ⅴ本居宣長の思想変遷

    (ⅲ)皇国主義を強める神国思想の普及

 日本的中華思想を保持する宣長が最も評価するのは、モンゴル襲来時における北条政権の対応である。
 文永11(1274)年10月20日、元・高麗の大軍は博多湾に上陸するが、その夜の大暴風雨で覆滅する。弘安4(1281)年6月、ふたたび元は漢人・高麗人を率いて日本を攻めたが、閏7月1日夜の大暴風雨によって覆没する。
 文永の役に先立って、文永4(1267)年9月、高麗の2回目の使者がモンゴルの国書(至元三年〔*1266年〕八月付け)を持って、大宰府に到着した(高麗は1回目の時は抵抗し渡日しなかった)。その時の国書の冒頭は、次のようなものであった。
  上天(*天帝)眷命(けんめい *いつくしく思う)せる
  大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉ず。
 このモンゴルの国書(元の樹立は1271年)は、明らかに天命思想を以て、モンゴル皇帝を天子とし、その下位である日本国王に書を遣わし、好を以て親睦を求めた。そして、「聖人は四海を以て家となす。相通好せざるは豈(あに)一家の理ならんや」と、八紘一宇と同じ思想をかざし、しかもそれに賛同しないと「兵を用うるに至る」と恫喝している。
 国書は、大宰府から翌1268年閏正月に鎌倉へ送られ、さらに2月、京都に送られた。京都の朝廷は、連日会議を重ね同月19日に、「返牒あるべからず」と返事を出さないことを決定した。
 その後、朝廷は直ちに諸大社にモンゴルの難を告げてその調伏を祈願させ、幕府は西国の御家人に命じてその襲来に備えさせた。
 3回目の国使は、高麗だけでなくモンゴルの使者も共に1269年3月に対馬に着いたが、押し問答の末、島民2人を連行して帰国する。
 同年9月、4回目の国使が大宰府に着く。朝廷は、今回は返書を送ろうということになる。しかし、それは国書の体裁をとらず、しかも〝日本は神国だから威嚇には屈しない〟という内容であった。
 だが、モンゴルは高麗の政情不安もあって、すぐには日本征服に踏み切れず、その後も毎年のように使節を派遣し、外交交渉を求める。だが、日本側の拒絶に会い、文永11(1274)年10月についに元は戦端を開く。元軍は戦闘においては一方的に攻め続けたが、しかしその夜の大暴風雨で壊滅する。
 弘安の役(1281年)でも、元は侵略以前、日本に使節を送って交渉を求めている。だが、北条政権は交渉を頑として拒み、1275(建治元)年9月、元使を鎌倉の竜口で斬殺している。1279(弘安2)年7月には、元の使節を鎌倉にも送らず、博多で全員を切り捨てている。 
 国粋主義の宣長は、「かくて此(この)としごろの蒙古の事も、始(はじめ)よりみな(皆)此北条氏がはからひ(計らひ)なりしを。さばかり度々(たびたび)書奉(かきたてまつ)りしにも。一度だに御答(みこたへ)せさせ奉らず。……なびかぬ国もなかりし蒙古王がいきほひ(勢い)にも。いささかおそれず(恐れず)して。つひに(遂に)これぞひがこと(僻事 *悪事、不都合)とおぼゆる(覚ゆる)しわざ(仕業)ひとつもなくて。後の代まで大御国(*日本)のひかり(*威徳)を。かの国にかがやか(輝か)せしは。……」(全集第八巻 P.75)と、北条政権をベタぼめしている。
 古代いらい徐々に浸透してきた神国思想は、「蒙古襲来の国難」を契機に、支配層に広がり、以降の文献には頻繁に登場するようになる。神国思想は、皇国主義をさらに強めた。
 宣長は、モンゴル襲来の失敗の原因について、「さてかく俄(にわ)かにはげしき風のおこりて。たやすくあた(*賊)の軍のほろび(滅び)うせ(失せ)ぬるは。世にも語り伝(つた)ふるごとく。まことに皇神(すめかみ)たちの御力也。」(同前 P.74)と、宗教者らしい心情を吐露している。こうした非科学的精神は、明治国家による国民教育を通して社会全般に広がり、第二次大戦の敗北まで日本社会の常識となっていたのである。

    (ⅳ)対明「国辱外交」と足利義満を批判

 モンゴル襲来の際の北条政権の対応への最大限の賛辞と対照的なのは、足利義満などの対明外交への評価である。 
 中国では朱元璋によって元が北方に追いやられ、1368年に明国が建国された。明は異民族の元王朝を倒して樹立された漢民族の王朝のため、厳格な華夷秩序に固執した。そのため冊封体制を布き、臣属する国々のみに交易を許す朝貢システムをとった。この頃は、前期倭寇(後期倭寇は16世紀中頃)が盛んな時期であるが、明は厳しい海禁政策を以てこれに対処した。洪武帝(朱元璋)の時期には、海禁令はしばしば下され、朝貢船を除いて一切の渡航・漁労や貿易活動を禁止した。
 明王朝は、倭寇に対して、個別の懐柔政策を採ることはなく、倭寇を討伐し得る国家の出現を日本に期待した。そこで、明が最初に「日本国王」として認定したのが、「良懐」であった。1371年に明朝に入貢したこの「良懐」は、今日の研究では、南朝方の征西大将軍の称号を持つ懐良(かねよし)親王(後醍醐天皇の子)と見られている。しかし、「良懐」の朝貢使節に応じて派遣された明の冊封使が博多にたどり着いた時には、北朝・幕府側の九州探題・今川了俊が大宰府を陥落させており、冊封使は探題によって拘留され「良懐」の冊封(日本国王としての認定)は未遂に終わっている。
 その後、明国も次第に、日本が南北朝に分裂し、実権をもつのが足利幕府の方であることが分かり、1372年改めて京都へ使者を派遣し、幕府と交渉を始めた。
 『明実録』によると、義満が使者を明に送ったことが1374年6月条、1380年9月条に書かれている。共に表文(臣下から皇帝に献上する文書)がない(後者では文面が傲慢であったことが加わっている)ため、「貢を却(しりぞ)けた」と言われる。
 義満は、1401(応永8)年にも明に使者を派遣し、5月13日付けの次のような書が今度は受理された。
 日本准三后「某」、書を
 大明皇帝陛下に上(たてまつ)る。日本国は開闢(かいびゃく)以来聘問(へいもん *使者を派遣し訪問させること)を上邦(*中国の事)に通ぜざること無し。「某」幸(さいわい)に国鈞(こくきん *国政)を秉(と)り、海内虞(うれい)無し。特に往古の規法に遵(したがっ)て、肥富(こいつみ *博多商人)をして祖阿(そあ *義満の側近)に相副(あいそ)え、好(よしみ)を通じ、方物(*地元の土産品)を献ぜしむ。……
 道義誠惶誠恐、頓首頓首、謹言。
 《*「准三后」とは、太皇太后・皇太后・皇后に準ずる名誉称号。*「某」の部分は、もともと「道義」(足利義満の法名)とあった。》
 宣長は、この国書に対して事細かに注文をつけ批判する。①「皇国の名には。大〔の〕字をそへずして。かへりてかの国の名に。大明と書給(かきたま)へること。よろしからず」、②「上書(*「書を……上る」の部分)とは。うやまひ(敬ひ)過し給へり。皇帝陛下も同じ。皇帝といふな(名)は。しばらくかり(仮)に。かれがいふ(言ふ)ままにゆる(許)す共。陛下とはきはめて(極めて)のたまふまじきわざ(業)なり」、③「日本国は開闢以来云々とは。あと(跡)もなきこと也。かかるそら(空)言いひて。から(戎・唐)王にこび(媚び)給ひしはいかにぞや」、④「かの国を上邦とあるもわろし(悪し)」、⑤「通好(*「好を通ず」の部分)とは。よろし。『方物を献』とはわろし。方物とは皇国をかの国のかたはらになしたるいひざまなれば也」、⑥「終りの誠惶云々もいたく過(すぎ)たり」、⑦「又(また)年号をしるし給はぬ(*日本の年号を記していないこと)も。かれをはばかりたるにて。よろしからず」(同前 P.86~87)―という調子である。
《③は、中国との外交は遣隋使が初めてとしている関係から整合性をもたせている。⑤は、「方物」という表現が朝貢を示すからという理由である》
 そして、宣長は「まとめ」として、次のように批判する。「そもそも大御国の大将軍は。から(戎)王(*中国皇帝のこと)よりたふとく(尊く)ましませば。いかにこび(媚び)給ふとも。かならずひとしき(*抗礼〔対等の礼〕)ほどよりは。かれをばのぼせ(陟せ)給ふまじきわざなるに。かくのみみだり(濫り)にあがめ(崇め)給へるは。みなひがこと(*間違い)也。……」(同前 P.87)と。
 こうした批判が、日本的中華思想という宣長的見地からなされていることは、言うまでもない。このことは、義満と明国の王との関係が抗礼までは許せるがそれ以上は不可、と言う点に現れている。両者の関係が抗礼以上になると、今度は明国と天皇の関係が対等ないしは天皇が下位に立ち、宣長思想にとっては不都合になってしまうからである。
 1402(応永9、明では建文4)年7月、遣明使・祖阿を送って明使が来日する。その時の明国書は、次のように言う。
 奉天承運(*天命にしたがい帝運を承ける)
 皇帝詔して曰く、覆載(ふくさい *天と地)の間、土地の広きこと、数を以て計るべからず。古の聖人疆(さかい)して之を理(わ)け〔*境界を正し、その地に適した作物を弁別して田を治める〕、貢賦・力役を出し、礼儀を知り、君臣・父子の大倫に達するに於ては、号して中国と曰(い)う。而して中国の外、能(よ)く義を慕いて来る王あらば、未だ嘗(かつ)て予(あた)えて之を進めざるはあらず。……茲(ここ)に爾(なんじ)日本国王源道義、心王室に存り。君を愛するの誠を懐き、波濤(はとう)を踰越(ゆえつ)し、使を遣わして来朝す。逋流(ほりゅう *倭寇に連行された人々)の人を帰(かえ)し、宝刀・駿馬・甲冑・紙・硯を貢し、副(そ)うるに良金を以てす。朕甚だ嘉(よみ)す。……今使者道彝(どうい *天倫道彝)・一如(いちにょ *一菴一如)を遣わし、大統暦(*明代の暦。中国固有の最後の暦)を班示(はんじ *頒布)し、正朔(せいさく *暦)を奉ぜしめ〔*皇帝の班示する暦を使用することで臣属を意味する〕、錦綺(*錦とあやおり)を賜う。至らば領すべきなり。……王其れ朕が心を悉(つぶさ)にし、乃(なんじ)の心を尽し〔*皇帝の真意を汲んで、汝は忠義を尽くせ〕、恭を思い、順を思い〔*謹んで従う〕、以て大倫を篤(あつ)くせよ。逋逃(ほとう *刑罰を逃れ隠れること。ここでは倭寇を指す)を容(い)るること毋(なか)れ。姦O(かんき *悪者)を縦(ゆる)すこと毋れ。天下に日本を以て忠義の邦たらしめば、則ち永世に名あるべし。……
  建文四年二月初六日
 ここで義満は正式に冊封され、明皇帝との君臣関係に入った。
 この時の明使をまた送って、1403年に遣明使が派遣される。その使節が携行した表文は次のようなものであった。
 日本国王源O---
 表す。臣聞く、太陽天に升(のぼ)らば、幽として燭(てら)さざること無く、時雨地を霑(うるお)さば、物として滋(しげ)らざること無し、と。……大明皇帝陛下は堯(*中国の伝説的聖人)の聖神を紹(つ)ぎ、湯(*夏を倒し殷を樹立した王)の知勇に邁(す)ぎたり。……
  年号  日  日本国王源O---
 《この国書の---の部分や年号は、『善隣国宝記』の編者によって省略されている。》
 義満の対明「国辱外交」は、当時の公家や管領斯波義将などにとって、大いに不評であった。義満の後を襲った義持の代では、「勘合貿易」は20余年間停止される。しかし、その後の義教の代でまた復活する。直轄領の少ない足利幕府は、朝貢貿易で財政の脆弱性を補わざるを得なかったのである。
 本居宣長は、「……大かた天地わかれ(分かれ)てよりこなた。此(この)足利のよよ(代々)の大将軍の御政(おんまつりごと)申給(もうしたま)へりほどばかり。何事もあさまかりし世(嘆かわしい時代)はなかりけり。」(全集第八巻 P.95~96)と総評する。そして、足利幕府は後醍醐・後村上・御亀山の南朝方天皇を悩ませたと断罪するとともに次のように言う。
 ……そののち(後)いともかしこく〔*本当に恐れ多いことに〕
 皇朝(すめらみかど)のいよいよ日々におとろへ(衰え)させ給(たま)ひしまにまに(つれて)。天の下も。 こしかた行末〔*後にも先にも〕たぐひ(類 *例)なきまで。みだれにみだれ(乱れに乱れ)つつ。おほやけ(朝廷)のもろもろの御わざ(*礼典、行事)も。学問の道も。よろずの事も。なべて(おしなべて)おとろへ(衰え)におとろへて。よ(世)の中はただ野山の木草の霜にしぼ(萎)みて。冬枯(ふゆがれ)は(果)てたるごとくになん有(あり)ける。しかあれども〔*そうではあっても〕。これ禍津日神(まがつびのかみ)のあらびたりしほどの〔*暴れていた頃の〕。しばしのまが(禍 *凶事)ことにこそ有けれ。さすがに天津日嗣(あまつひつぎ)の御位は、いささかも(少しも)たじろき(揺るぎ)給ふ事なくて。神ながら〔*神の本質として〕傳(つた)はりましませば。又(また)古(いにしえ)の御栄え(*御繁栄)に立かへり(立ち返り)給はで。やむべきならねば〔*絶えてしまわれるようなことがあるはずもない〕。……(同前 P.96)
 宣長は、ただただ都合の悪い時代の原因を「禍津日神」に押し付けて、天皇の位は「神の御心の通りに伝わっている」から心配はない、と自らの宗教的観念によって自らを慰めているだけである。

    (ⅴ)大義なき朝鮮侵略を問わない宣長の空論

 宣長の宗教的歴史観に支えられた日本的中華思想は、豊臣政権による征明―朝鮮侵略の評価において、その反動性は一つの極点に達する。
 朝鮮侵略に参加した大名家が江戸時代人になって編纂した「藩譜」は、そのほとんどが侵略の反省を示していない。黒田家に委託された貝原益軒が編纂した『黒田家譜』は、稀な例として、「今度太閤のとが(咎)なき朝鮮を討(うち)給ふハ、義兵〔*暴をうつ兵〕に非す(あらズ)。若(もし)貪兵(たんへい *他国をむさぼり取るための戦)ならハ、君子の戦に非すと時の人議(ぎ)しあへり。」(新訂『黒田家譜』第一巻 P.196)と評している。
 だが、宣長はこの点を重視していない。それでも、宣長なりにとらえた開戦の「大義名分」を強いてあげると、文禄2(1593)年6月28日付けの秀吉朱印状の次の下りである。
 一 日本の賊船、年来大明国に入り、処々に横行し、寇(あだ *外から侵入し悪事を働くこと)を成すと雖(いえど)も、予(*秀吉)曾(かつ)て日光天下に照臨するの先兆(*きざし)有(あ)るに依(よ)りて、八極(*全世界)を匡正(きょうせい *正し直す)せんと欲す。既にして遠島辺陬(へんそう *片田舎)も海路平穏にして、通貫に障礙(しょうがい *障害)無く、之(これ)を制禁す。大明亦(また)希(のぞ)む所に非(あら)ずか。何の故に謝詞(*感謝の言葉)を伸(の)べざるや。蓋(けだ)し吾朝は小国なり。之を軽(かろん)じ之を侮(あなど)るか。故を以て兵を将(ひき)いて大明を征せんと欲す。(『善隣国宝記 新訂善隣国宝記』集英社 P.383)
 秀吉は、征明の理由を「倭寇」を自分が制禁したのに明は感謝しない、これは小国日本を侮っているのではないか、としている(まるで駄々っ子の言いがかりである)。しかし、16世紀の「後期倭寇」(中国人が中心的)の因となった明の海禁政策はすでに1567年に放棄され、この頃には「倭寇」もほとんど鎮圧されている。秀吉がいくら恩着せがましく言っても話が通じないのである。これに輪をかけて、珍妙なのは朝鮮侵略の理由である。先の言にすぐ続けて、秀吉は次のように言う。
 然(しか)るに朝鮮機を見て三使(*三人の使者)を差し遣(つかわ)し、隣盟を結びて憐(あわれみ)を乞(こ)う。前軍(*先陣)渡海の時に丁(あた)り、糧道を塞(ふさ)ぎ兵路を遮(さえぎ)るべからざるの旨(むね)、之(これ)を約して帰る。(同前)
 この下りは、完全に秀吉のでっち上げである。朝鮮側は度重なる来日要求を固辞したが、数年してようやく秀吉の天下統一を祝賀する名目で、1590年9月に使節を派遣する。しかし、「隣盟を結ぶ」とも言わず、ましてや「前軍渡海に丁り、糧道を塞ぎ兵路を遮るべからず」の約束をしていない。このような約束がないことは、歴史的な外交文書をまとめた前記『善隣国宝記』(この時の朝鮮側の国書が掲載されている)を見れば、明らかなことである。秀吉は一方的に自己の都合の良いように「解釈」して、朝鮮侵略に入ったのである(ヤクザのいちゃもん付けと同じである)。この点を、宣長は鵜呑みにして、朝鮮侵略を肯定しているのである。まさに、宣長も史実の歪曲に加担しているのである。
 宣長は、朝鮮侵略での日明交渉の書面に対しても、「大明」を「明国」に直し、相手を持ち上げる敬語を修正すべきなど、言語学者らしく添削をしている。しかし、他方で宣長は、この朝鮮侵略で膨大な規模での殺戮・放火・略奪が行なわれ、さらには朝鮮人民を拉致・連行し、日本で奴隷労働に従事させたり、他国に売り飛ばしていたりすることには、ほとんど関心も持っていない。
 さらに驚くべきことに、宣長は、戦局についてはまったくの無知を露呈し、「文禄・慶長の役」(朝鮮側では「辰申・丁酉倭乱」と言う)の帰すうについても誤った認識を持っている。
 1592(天正20)年4月に、日本軍は朝鮮に突然侵入し一カ月足らずで首都・漢城を陥れ、6月には平壌まで占領する。だが、日本軍の「勝利」なるものはここまでである。同年夏の海戦では、李舜臣率いる朝鮮海軍に連戦連敗であり、制海権を奪われ、同じ頃から義兵運動が各地で起こり、そのゲリラ活動で補給路は寸断される。戦局は、翌年1月の平壌撤退で後退戦に入り、4月には日本軍は釜山など南部海岸部に撤退する。和議交渉の破綻で、1597(慶長2)年2月頃から第二次派兵が始まるが、もはや征明はおろか朝鮮占領も南部海岸部に縮小され、拠点の倭城を維持するが精一杯であった。大義なき朝鮮侵略は秀吉の死と共に撤退に転ずるが、日本軍は明・朝鮮軍の大軍によって蔚山・順天などを攻められ、命からがら逃げ帰ったのである。
 軍事に無知な宣長は、たとえば、「猶(なお)い(言)はば。すべて此度(このたび)の御いくさ(軍)よ。朝鮮のつみ(罪)をば。しばしのどめ(*猶予)おきて。おぼしたちけんままに〔*最初に思い立ったように〕。はじめよりまづ明の国をこそ。うち(征)給ふべかりけれ。そは朝鮮をへて(経て)。かの北京へよせん(寄せん)は。たより(頼り)よからねば。南の方より物して。まづ南京といふをとる(獲る)べき也。……南京をとり給はんことは。いともたやすかるべし。」(全集第八巻 P.113)と、言い放っている。だが、大船団を組んで、寧波方面を攻撃し、南京を陥れる能力は、当時の日本軍にはなかった。だからこそ、朝鮮半島を通過せざるを得なかったのである。
 宣長の全く誤った朝鮮侵略の認識は、豊臣家崩壊後、朝鮮侵略に参戦した諸大名家を中心にそれぞれの戦功として、誇張も含めて作られた自慢話を無批判的に受け入れた結果である。
 だが、朝鮮侵略で被害を受けたのは朝鮮人民だけではなかった。日本人民もまた朝鮮侵略に強制的に動員され戦闘や兵站活動に従事させられ、戦死したり負傷したりした。また、侵略軍の兵粮を支えるために、多大な収奪に苦しめられ、在所から逃亡する「走り百姓」に追い込まれたのであった。日本人民の苦難にも関心を向けることなく、豊臣秀吉の朝鮮侵略をただ讃美するだけの本居宣長という人物の浅ましさは、底抜けである。(つづく)