幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑪
 

  日本的中華思想で外交史撫斬り
                           堀込 純一

   Ⅴ本居宣長の思想変遷

(5) 国粋主義の立場から日本の外交に憤慨

 安永6(1777)年、本居宣長は『待異論』を著わし、これを翌年に『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』(「からをさめのうれたみごと」ともいう)と改題する(寛政8〔1796〕年に刊行)。
 この戎とは、中国や朝鮮などを指し、日本からみて西方の野蛮国と見なして西戎とする。そして、天照大御神の子孫が統治する日本が万国に優れており、これらの野蛮国を御する立場にあり、この見地から日本の外交を歴史的に見ると憤慨に耐えない、というのが題名の意味である。
 対象とする主な日本外交の時期は、①朝鮮や中国との外交が始まる時期、②邪馬台国の時期、③「倭の五王」の時期、④隋との外交の時期、⑤唐との外交の時期、⑥元寇の時期、⑦明との外交の時期(南北朝期)、⑧勘合貿易の時期、⑨豊臣政権による「朝鮮征伐」の時期である。
 自己認識は、他者認識と対の関係にあり、二者は極めて密接な関係にある。『馭戎慨言』の全編に流れる基調は、裏返しの中華思想、すなわち日本的中華思想である。日本は万国に勝れた唯一の国という宣長的見地から、単純に外交を論じているため極めて紋切型である。以下、時期を追って点検する。(【】の内は、底本の二行になった割注)

       (ⅰ)とりわけ史実に合わない外交初期
 宣長は、まず冒頭で、外国が大御国(日本)に初めて朝貢してきたのはいつか、と設問して次のように答える。
 ①「師木瑞籬宮(しきのみずがきのみや)御宇(あめのしたしろしめしし)【崇神】天皇(すめらみこと)1)の大御代の七年(*前91年)に」、倭の辺り一帯の小さき国々(後にこれらの小国は、日本に編入された)が朝貢してきた、②次に同じ崇神天皇の65年(*前33年)に、「任那(みまな)の国といふより。使(つかい)まゐりて。みつぎ物を奉(たてまつ)りき。そは筑紫(つくし)をはなれて。二千余里北の方にある国也と見えたり。此国は。もろこしの書どもにものせ(載せ)て。後の世までから(戎)なれば。これぞまさしく外国のまゐりし始(はじめ)とはいふべき。」(全集第八巻―『馭戎慨言』 P.25)という。
 だが、宣長はフィクションが随所にちりばめられた『日本書紀』に依拠したため、大きな間違いを犯している。そもそもヤマト王権による日本列島(東北地方以北を除く)統一の時期について、今日、3~5世紀の範囲で諸説が存在するが、それよりはるか以前の「崇神天皇」の頃に、周辺の小国が服属したり朝貢したりする訳はない。そもそも「崇神天皇」なるものも存在していない。また、前33年に「任那という国」が朝貢したというが、この時代、「任那」という国がそもそも存在していない。
 宣長はまた、いわゆる「三韓征伐」なる歴史偽造を次のように再確認している。「その後息長帯姫尊(おきながたらしひめのみこと)【神功】。神の御教(みをしえ)にしたがひて。御みずから新羅の国をことむけ(*征服)におはしまししに。其(その)王やがて大御船(おほみふね)のまへにまゐりて。くさぐさ(*いろいろ)のちか言(誓言)をたてて。まつろひし(*臣服する)より。つねに八十艘(やそふね *たくさんの船)のみつぎ(貢)を奉る例とはなれり。此時(このとき)高麗(*高句麗)百済のふたぐに(二国)も。同じさまにまつろひ参りてよりこなた。この三つの韓のから(戎)国。またそのわたりの国々も。ひたぶるに皇朝(すめらみかど)のみのり(制)にしたがひて。つかへまつり(服事)し事は。世の人もよくしれる(知れる)が如し。……」(同前 P.25~26)と。
 しかし、「新羅征伐」、「三韓征伐」なるものは、『日本書紀』によって創作されたフィクションであり、史実ではない。2)
 4~7世紀にかけた朝鮮半島での三国統一戦争は、初めもっとも弱かった新羅が最後には勝者となる。これにより、途中から百済を支援してきた倭国は、朝鮮半島での政治的影響力を完全かつ最終的に失う。「7世紀末期から8世紀にかけて企画され編纂された『日本書紀』は、史実を曲げてまで、最後の勝者である新羅への敵対意識の感情を3世紀にまで遡(さかのぼ)らせ、神功皇后紀を創作した」3)が、その中から「新羅征伐」、「三韓征伐」なるものをひねり出したのである。
 そして、さらに宣長は、「小治田宮御宇(おわりだのみやにしたしろしめしし)【推古】天皇の御代に。かへりて(かえって)こなたよりぞ大御使(おほみつかひ)つかわし(遣わし)ける。……」(同前 P.28)と断言する。
 中国も朝鮮と同じように、万国に優れた日本に自ら朝貢すべきだが、わけあって(この理由は後述)倭国側からもろこしへ使者を逆に派遣した、というのである。これが『日本書紀』の推古天皇15(607)年7月に、小野妹子を唐へ派遣した―という記述を指すというのである。 
 では宣長は、何故に、倭国と中国との外交の始まりを607年以降と断言したのであろうか。それは、結論的に言うと、その時期以前に倭の国々が既に中国の冊封体制下に入っていたことが、『漢書』、『後漢書』、『魏志』倭人伝などに記述されており、このこと自体が宣長のイデオロギー的立場にとって都合が悪いからである。
 たとえば、『漢書』地理志に「楽浪の海中に倭人あり。分かれて百余国を為(な)す。歳時を以て来(きたり)て献見す。」とあり、『後漢書』には「光武の建武中元二(57)年、倭の奴国(なこく)、奉貢(*貢物を献上)して朝賀(*天子に拝謁して賀詞を述べること)す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武(*後漢第一代の皇帝)、賜うに印綬(*金印紫綬)を以てす。/安帝(*後漢第六代皇帝)の永初元(107)年、倭の国王帥升等、生口(*奴隷)六十人を献じ、請見(*拝謁)を願う。」とある。
 『魏志』には、「景初二(239)年六月、倭の女王(*卑弥呼のこと)、大夫難升米等を遣わし郡(*朝鮮半島にある帯方郡)に詣(いた)り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守(*帯方郡の長官)劉夏、吏を遣わし、将(おく)って送りて京都(*魏の都)に詣らしむ。/その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、『親魏倭王卑弥呼に制詔す。……』と。/正始元(240)年、太守弓遵、建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎(もたら)し、金帛・錦O(きんけい)・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上表し、詔恩を答謝す。」とある。
 同書には、他にも正始4(243)年に倭王が使者を遣わし、同6(245)年に魏から答礼があり、同8(247)年にも、狗奴国と戦う倭王から帯方太守に援助が要請され、魏が「詔書・黄幢(こうどう *黄色の旗)」をもった使者を送り、檄(げき)をもって応援する様子が記述されている。4)
 宣長は『魏志』倭人伝などの記述に示されている倭国の中国王朝への朝貢を否定し(宣長のイデオロギー的立場からはあってはならない)、それはたとえあったとしてもその場合は倭国の使節ではなく、倭国周辺の属国が私的に行なったものであり、皇朝の使節ではない、と辻褄を合せたのである。
 したがって、「倭の五王」の時代の朝貢外交も存在してはならないことである。この時代は中国では南北朝時代であり、南朝は東晋(317~420年)―宋(420~479年)―斉(479~502)―梁(502~557年)―陳(557~589年)と続くが、その宋の時代に相当する。
 『宋書』倭国伝は、「倭の五王」について次のように記述している。
 ……高祖(*劉宋第一代武帝)の永初二年(421年)、詔(みことのり)していうには、「倭讃が万里はるばる貢(みつぎ)を修めた。遠方からの遠方からの忠誠のこころざしは、宜しくあらわすべく、除授(*官につけ職を授ける)を賜うであろう」と。……讃死して、弟の珍が立つ。使を遣わして貢献し、みずから使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、上表文をたてまつって除正(*叙任)されるよう求めた。詔して安東将軍・倭国王に除した。……二十年(443年)、倭国王済が使を遣わして奉献した。そこでまた安東将軍・倭国王とした。……済が死んだ。
 世子(*よつぎ)興が使を遣わして貢献した。世祖(*第四代孝武帝)の大明六年(463年)、詔していうには「倭の世子興は、奕世(えきせい *代々)すなわち忠、藩を外海になし、化をうけ境をやすんじ、恭(うやうや)しく貢職(*みつぎ)を修め、新たに辺業をうけついだ。よろしく爵号を授けるべきで、安東将軍・倭国王とせよ」と。
 興が死んで弟の武が立ち、みずから指持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東将軍、倭国王と称した。……
 宣長は、『宋書』倭国伝の記述内容が『日本書紀』とことごとく違っている事をもって「倭の五王」が当時の中国に朝貢し、臣従したことを否定した。しかし、今日の研究水準からすると、創作や偽りの多い『日本書紀』よりも『宋書』倭国伝の方が史料的価値は高く、宣長のような態度は顧みられていない。

     (ⅱ)裏返しの中華思想がもたらす矛盾と観念性
 「倭の五王」時代から約百数十年も後に、倭国は中国との外交を再開する。いわゆる遣隋使・遣唐使の時代である。
 この時期に対する宣長の論評の特徴は、大きくいって二つある。一つは、天照大御神の子孫が統治する日本が万国に優れ君臨すべきという見地から対隋・対唐の外交を論じているにもかかわらず、「聖徳太子」の崇仏思想に立脚する外交・政治や律令制導入全般を厳正に批判しないという矛盾である。二つ目は、裏返しの中華思想の見地で単純に外交を撫で切っているだけなので、当時の複雑な東アジア諸国の外国関係が全く把握し得てないことである。
 一つ目でいう矛盾とは、宣長が、遣隋使の国書の文面が隋にへつらい「国辱的」なものと非難しながら、他方では、以下の理由で隋への派遣を容認するということである。
 たとえば、推古15(607)年、小野妹子が遣隋使となって派遣された際の国書の冒頭は、『隋書』倭国伝によると、「日出(いず)る処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや……」5)とあり、これに煬帝は「之(これ)を覽(み)て悦(よろこ)ばず、鴻臚卿(こうろけい *渉外担当の長官)に謂(い)いて曰く『蛮夷の書に礼を無(な)みする者(もの)有らば、復(ま)た聞(ぶん)する勿(な)かれ」と命じている。これに対して、宣長は、逆の角度から次のように批判している。
 (*例の如く、日本が万国に優れた唯一の国であることを述べたあと)もろこしの国の王などの。かけても(*少しも)及び奉るべき物にあらず(*中国が日本に及ばない)。
 はるかにすぐれて。尊くましませば(*日本が)。もしかの国王などへ。詔書たまはんには。「天皇、隋の国王に勅す」などとこそ有(ある)べきに。此度(このたび)かれ(彼)をしも。天子とのたまへるは。ゐやまひ(敬ひ)給へること。ことわり(理)に過たりき。(同前 P.43)
 煬帝を「天子」などというのは道理に過ぎており、「天皇、隋の国王に勅す」で十分である、と言っているのである。
 しかし、宣長は、先の言葉にすぐ続けて、「しかあれ共。かれはたしかにすがに大きなる国にて。かたへ(かたわら)の国共をしたがへて。古(いにしへ)よりおごりならへる王にしあれば。しか隋国王などとのたまひつかわさんには。いとどいみしくはらたちぬべきを〔*ますますひどく腹を立てるに決まっている〕。こなたには深くのぞみ(望み)給ふ事し有(あり)て。つかはす御使(おんつかい)なれば。しばし心をやぶるべきにはたあらざれば。」(同前 P.43)と言って、愉快ではないが「国書」に隋国王を「天子」と言ったのだ、と言い訳をしている。
 では、その「深くのぞみ給ふ事」とは、一体、なんであろうか。それは、「聖徳皇太子の。大御政(おほみまつりごと)きこしめす(*お治めになる)御代なりければ。おほくは仏の道のためにつかはしし御使なりけり。」(同前 P.28)というのである。
 古道(宣長の言う神道)をもって国粋主義を根拠づける宣長が、外交において隋に頭を下げる理由として、あれほど嫌う(儒教とともに)「仏の道を学ぶため」というのは、まさに矛盾である。宣長の見地からすれば、間違った事でも皇室関係者の行なうことは(古今伝授の時と同じで)容認せざるを得ないというのであろうか。
 それでも宣長の言動は、矛盾にみちたものである。同じようなことは、遣唐使の場合にもある。
 新羅など韓国の人々が「かのもろこしのことを。めでたき(*素晴らしい)国也」と誉めそやすのを聞くだけでなく、帰国した留学生が「其(その)大唐の国は。法式備はり定て珍(めずらしき *立派な)国也。常に達(かよふ)べし」(同前 P.29)というのにも、宣長はうなずいている。
 宣長は遣唐使派遣の意義において、「唐の法式を学ぶこと」を重視している。だが、宣長はかつて、日本では「上古の時、君と民と皆其の自然の神道を奉じて之に依り、身は修めずして修まり、天下は治めずして治まる。礼儀自らここに存す」(本紙549号)と言っている。すなわち、外国などから学ぶ必要もない、と実質的には言っていたのである。それが、ここでは「唐の法式を学ぶ」必要があり、だから遣唐使を派遣する意義がある、といっているのである。これもまた矛盾である。
 二つ目の問題は、外交史をただ、宣長が「裏返しの中華思想」の見地から撫で切っているだけなので、東アジア国際情勢での各国のやり取りや、その中での倭国(日本)の客観的位置などがリアルに捉えられていなく、まったくの観念論に陥っているのである。
 この点について、紙幅の関係で詳しく論じられないが、663年に唐・新羅の連合軍に、百済・倭国が大敗し(白村江の戦い)、倭国もまた占領・征服される危機に陥った状況などについて、宣長は全く危機感を持ち合わせていない。この一事だけでも、宣長の観念性がよく理解できるのである。(つづく)

注1)今日の歴史学では、「天皇」号・「日本」国号は、天武朝期(在位673~686年)から使用したとされる。それ以前は天皇ではなく、「大王(おおきみ)」と言われた。なお、漢字二字からなるいわゆる漢風諡号(しごう *おくりな)は、8世紀後半、淡海三船によって一斉に撰進されたもので、『日本書紀』にはもともと「○○天皇」は存在しない。しかし、本稿では和風諡号は長く一般にも知られていないため、便宜的に漢風諡号を使用する。
2),3)拙稿「古代日朝関係史から学ぶ教訓②」―本紙『プロレタリア』2014年8月1日号 を参照 
4)古い時代については確かな史料がなく、外国の史料に頼らざるを得ない場合が多い。だがその場合も、無批判的に利用すべきでないことは言うまでもない。たとえば、『魏志』倭人伝にも荒唐無稽なカ所がある。夷狄よりさらに外側の「四荒」にあるとされる「小人国」「黒歯国」の存在である。また、帯方郡から邪馬台国への距離・方向などは信頼できない。中国古来の「遠交近攻策」にとらわれて、魏に敵対する呉の背後に倭国があったという先入観によって、距離・方向が錯乱しているのである。この点については、渡邉義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書 2012年)を参照。
 5)近年の研究によると、「日出る処」「日没する処」の章句は、『大品般若経』の注釈である『大智度論』(大乗仏教の百科全書といわれる)にあり、それは単に東、西の方位を示すに過ぎない。問題点は、やはり天の下に2人の「天子」が存在することにある。