幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑩

 「古道論」の確立で国粋主義化

                                        堀込 純一

 Ⅴ宣長の思想的変遷

   (4)『古事記』研究で深まる国粋主義

 『紫文要領』と『石上私淑言』を書いた年(1763〔宝暦13〕)の5月25日、宣長は初めて賀茂真淵と対面する。最初で最後の対面である。その年の12月、宣長は真淵に入門し、以後、書面で教えを乞う。
 宣長は真淵の門人となって以降、『古事記』の本格的研究に入る。
 歴史的にみて、『古事記』の研究は『日本書紀』のそれに比して遅れていた。本格的な研究は、江戸時代に入ってからである、と言われる。
 有名な研究者としては、契沖が『古事記』の歌謡すべてを『日本書紀』の歌謡とともに取り出して、注解を加えている。荷田春満の講説は、『古事記?記』として作られた。これは賀茂真淵に影響を与える。真淵は、古代を明らかにするためには『古事記』を解読することが不可欠だと考えていたが、古語を理解するには古語の豊富な『万葉集』を研究しなければと考え、それに専心した。このため、真淵にとっては『古事記』研究の時間はなく、それは宣長に託される形となった。
 その際の真淵の教えは、『玉勝間(たまかつま)』二の巻に、次のように述べられている。「……われ(我)ももとより、神の御典(みふみ)をとかんむ(解かむ)と思ふ心ざしあるを、そはまづからこころ(漢意)を清くはなれて、古(いにしへ)のまことの意をたづね(尋ね)え(得)ずはあるべからず、然(しか)るにそのいにしへ(古)のこころをえ(得)んことは、古言を得たるうへ(上)ならではあたはず、古言をえむことは、万葉をよく明らむるにこそあれ……」(日本思想大系40『本居宣長』岩波書店 1978年 P.70)と。
 漢文化が千年以上も日本社会に普及し、人々の心の底までしみついてしまったから、漢国の人と同じように考え、発想する漢意(からごころ)を払拭しなくては、日本(やまと)の古のこころや誠は理解できない、と言うのである。
 宣長は『古事記』研究を進めるにしたがい、ますます皇国主義(日本主義)・国粋主義を強める。その過程で、皇国の万国に優れたことを異国の道と対比する形で表現された宣長の「古道」論は、「道テフ物ノ論」→「道云事之論」→「直霊」→「直毘霊」と推敲され、次第に明瞭なものとなっていく。だが、文意は基本的には変わっていない。
 「道テフ物ノ論」は、『古事記雑考』二巻に所収されているが、書き上げた正確な時期は不明で、おおむね1767年頃までには成立したとされる。「道云事之論」も成稿の時期がはっきりしないが、1767年から1771年の間とみられる。
 「道テフ物ノ論」は、書き直しや削除など複雑な推敲の跡が見られるが、「道云事之論」になると、錯雑とした叙述が整理され、すっきりとしたものになってくる。だが、「道云事之論」は、万葉仮名での表記となっており、宣長が形式美を求めた傾向が強く出ている。 
 だが、それでは他者の理解が簡単ではなく、なかなか得られにくいものである。そこで、「直霊(なおびのみたま)」(1771年成稿)では、一般に理解しやすい啓蒙的な文体になっている。「直霊」とほぼ同じものが「直毘霊(なおびのみたま)」であり、『古事記伝』一之巻に所収されている。
 「道テフ物ノ論」は、異国(主に漢国)との対比で、皇国の優れた点を以下のように挙げている。[ 凡例―〔〕は末梢部分、9ポイントの小字は加筆訂正部分]

     (ⅰ)記紀神話は史実ではない
 まず第一は、皇国の古道(神道)の特質を極めて神秘的かつ非理性的に特徴づけ、これこそが万国に優れた証拠としていることである。(注)
 宣長は、はじめに、大御国(皇国)にはもともと「道」という用語はただの「行路」としての意味の「道」しかなかった。だがしかし、他国から「物のあるべき理(ことはり)、又(また)萬(よろづ)のすべきわざ、教え事」の意をもつ「道」という言葉が持ち込まれ普及したので、便宜的に大御国の「道」を神道と名付けた、とする。
 そして、「……大御国ノ道ハ異国ノイハユル道ノタグヒ(類)ニハアラス、アヤシク(霊し *神秘的)クスシク(奇すしく *人間離れしている)、萬ノ道ニスクレテ(優れて)タフトク(尊く)メテタキ(目出度き)道ニナンアリケル、マヅ異国ノ道ハ、コチタク(*ぎょうぎょうしい)サマサマ(様々)ノ名ヲマウケ(設け)、カシコク(賢く)人ヲオシヘタテテ(押し隔てて)、治(おさ)マリカタキ(難き)国ヲ治ムル道也、大御国ハコトサラニ(殊更に)治ムルワサ(行)ヲセサレトモ(*しないでも)、オノツカラ二(自ずからに)天下ハ治マリテ、天地ノヨリアヒ(寄り合ひ)ノキハミ(極み)、ウゴカス(動かず)カハラヌ(変わらぬ)御国ナレハ、シヒテ(強いて)ヲシエ(教え)ミチヒク(導く)ワサモ何ニカハセン、ヲシエ道ヒク(教え導く)事ナケレハ名ヲマウクル事モナシ、コレ人ノ国トイタク異ナルヨシ(由)也、」(『古事記雑考』―全集第十四巻 P.93)と言う。
 大御国は天地の極地で不動の国だから、強いて教え導くこともなく治まる、と宣長は独善的に断定する(この考え方は宣長の独創ではなく、既に真淵も唱えている)。しかし、宣長は、文字や遺物で証明もしようがない、はるかの昔(神代)を想定して、御国は「シヒテヲシエミチヒク」ことなく治まる国と勝手に断定するのである。これほど無茶苦茶な話はない。論理的に証明しようもない対象を選び取って、「私のいう神道の世界の実在」を「信じるかそれとも否か」と突きつけているだけだからである。
 宣長の誤りの根本は、その方法論にある。宣長は、契沖や真淵らの教えに則り、古典に残された宣命、祝詞、記紀や万葉集などの歌から日本(やまと)の古の言(ことば)や意(こころ)を探り出し、そこから事(こと)を復元する、という方法をとる。だから、宣長にとっては、言・意・事が、ストレートに一致するのである。

 すなわち、「抑(そもそも)意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相称(あいかな)へる物にして、上代(かみつよ)は、意も事も言も上代、後代(のちのよ)は、意も事も言も後代、漢国(からくに)は、意も事も言も漢国なるを、書紀(*『日本書紀』のこと)は、後代の意をもて、上代の事を記し、漢国の言を以(もって)、皇国の意を記されたる故に、あひかなはざること多かるを、此(この)記(*『古事記』のこと)は、いささかもさかしら(賢しら)を加へずて、古より云伝(いひつたへ)たるままに記されたれば、その意も事も言も相称て、皆(みな)上代の実(まこと)なり、是(これ)もはら(専ら)古の語言(ことば)を主(むね)としたが故ぞかし、……」(『古事記伝』一之巻―全集第九巻 P.6)と断言する。
 宣長は、『古事記』が上代の言い伝えをそのままに伝えているから、意=事=言だというが、まさに『古事記』や『日本書紀』を制作した当時の為政者たちの狙い通りの罠にかかってしまっているのである。確かに、言や意には上代の風儀が残っているかもしれない。だからといって、それが100%表現されている確証はなく、ましてや、事(史実)については創作が随所に配されていることから意・言=事とは言えないのである。神武天皇をはじめとする架空の天皇を数多く創作して「大和国家」の古さを創り上げ、日本武尊や神功皇后など架空の人物の挿入などをして歴史をつなげている点などは、まさに史実の歪曲そのものである。
 なお、蛇足ながら言えば、歴史的に明らかにし得る時代をみれば、日本もまた他の国と同じように、「治乱興亡」の激しい経過をもっている。古代天皇制の下でも、天皇家内部での血を血で洗う皇位継承争いを始め、その後の藤原氏の摂関政治による天皇政治の簒奪と奪回の動き、さらに、鎌暮時代とりわけ承久の乱(1221年)以降、武家政権によって、朝廷政治はほとんど政治の世界から隔絶させられ、今度は武士同士の権力争いが続けられるのである。この史実からすれば、「日本は自然に治まる」という宣長の断定が誤りであることは明らかである。

     (ⅱ)太陽神信仰は日本のみに存在した訳ではない
 第二にあげられるのは、日本は天照大御神の子孫が治める国と決まっているから、異国より優れている、という論拠である。
 すなわち、「御代御代ノ天皇ハ、天神御子(あまかみのみこ)トモ日御子(ひのみこ)トモ申(もうし)テ、即(すなはち)天照大御神ノ御子ニテマシマセハ、異国ノ王トヒトシ(等し)ナミ(並み)ニハ申シカタシ(難し)、異国ハモトヨリ定(さだま)レル主ナクシテ、ツヨキ(強き)モノ(者)王トナレハ、ソノ善悪ニヨリテ、国ヲ得モシ失ヒモスル事、イニシヘ(古)ヨリノナラハシ(慣はし)也、大御国ハ天地ノ始(はじめ)此(この)御国ヲ生(なり)ナシ玉(たま)へる神ノ、御(おん)ミツカラ(自ら)ツケ玉ヘル皇統(あまつひつぎ)ニシテ、人ノモノヲ取レルニアラス、始ヨリ天皇ノ御国ニシテ、天皇ノアシク(悪しく)マシマサハ、ソノ詔ウケ玉ハルナトノリ玉フ神勅ハナキ事ナレハ、天地ノヨリアヒ(寄り合ひ)ノキハミ(極)、月日ノテラシ(照らし)玉フカキリ(限り)ハ、イク(幾)萬代ヲヘテモ天皇ノ御国ニシテ、ヨクモ(良くも)アシクモ(悪しくも)カタハラ(傍ら)ヨリウカカヒ(窺がひ *皇位を狙う)奉(たてまつ)ルカナハヌ御国也、サレハ古語ニモ、当代ノ天皇ヲモ神ト申シテ、即神ニテマシマセハ、ヨキアシキコトハリ(理 *議論)ヲステテ、タタ(唯)ヒタフルニ(*ひたすらに)カシコミ(畏み)イヤマヒ(敬ひ)マツル(奉る)そ(ぞ)、〔神〕大御国ノ道ニハアリケル……」(同前 P.98)と言う。
 ここでは、日本は「人のものを取れるにあらず」の国で、大御国を創った神の子孫が統治するのが定められているのだから、天皇の統治が良くても悪くても他の者が統治を成り代われることができない。だから、この大御国(日本)では、神である天皇を良くも悪くもひたすらに「カシコミイヤマヒマツル」べきだ、というのである。
 だが、宣長はここでも大和国家が「出雲王朝」など他の諸集団を征服し形成され、その後もまた蝦夷など異民族を征服統合してきた歴史を無視して、「人のものを取れるにあらず」などと、史実を歪曲している。また、天皇統治があたかも連綿と続いてきたかのような幻想をいだいているが、それは先述したように誤りである。
 そして、異国では国王が決められておらず、力の強いものが王になるので、その善悪によって国家権力を奪いもし失いもするので、その善悪を論ずる聖人の道が唱えられるのだ、と宣長は言う。これに比し、日本は天照大御神の子孫が王になる事が決まっているので、「聖人の道」は必要ない、というのである。
 だが、これは珍妙な論理である。まず、日本が自然に治まるなどという主張が誤りであることは、史実に照らしてみれば歴然としている。また、悪い統治者でもひたすら敬い、それを取り換えないなどというのは、「学習能力の欠如」を厚かましくも誇り、自慢する愚かさを露呈しているのである。これでは、歴史的誤りを教訓にできず、絶えず同じ過ちを繰り返すだけである。
 なお、「直毘霊」では、冒頭の「皇大御国(すめらおほみくに)は、かけまくも〔*言葉に出して言うことも〕可畏(かしこ)き〔*おそれおおい〕神御祖(かむみおや)天照大御神(あまてらすおほみかみ)の、御生(みあれ)坐(ませ)る〔*神聖なものがお出でになる〕大御国にして、」の「注釈」として、「萬国(よろづのくに)に勝(すぐ)れたる所由(ゆえ)は、先(まず)ここにいちじるし(著し)、国といふ国に、此(この)大御国の大御徳(おほみめぐみ)かがふらぬ〔*「被〔こうむ〕る」の古形で否定形〕国なし」(全集第九巻 P.49)と述べている。太陽神としての天照大御神の恵みという恩恵を受けない国は万国にないので、その子孫が治める日本が「萬国に勝れ」ている、というのである。
 だが、自然物としての太陽はただ一つではあるが、太陽神信仰は世界に数多く存在しているのであり、その内の一つである天照大御神の「子孫が治める国」だからといって、日本が万国に勝れた国とは自慢できないのである

      (ⅲ)君臣関係の世襲化で律令制国家は崩壊へ
 第三は、古代の虚偽のイデオロギーをわざわざ持ちだして、日本は神代から皇統連綿として君臣関係が安定している点で異国と異なる、と述べていることである。
 すなわち、「大御国ハ上モ下モソノ氏々ヲ重クシテ、子孫八十続(やそつづき *長々しく続く)ニイタルマテ(至るまで)、〔タタ〕オノモオノモ(各も各も *それぞれが)ソノ祖神(そしん)ト異ナル事ナク、タタ一世ノ如クニテ、〔神代ノママニオノモオノモ〕ソノ家々ノ業ヲツキ(継ぎ)〔モテユキテ〕ツツ、神代ノママニ奉仕(つかへまつ)ル事、天津日嗣(あまつひつぎ)ノミナラス、〔次々ノ〕臣(おみ)連(むらじ)八十伴緒(やそのともお *たくさんの伴造)〔ニ至ルマテ〕モミナソノ氏〔々〕姓ヲ重クシテ、子孫
カラ国ナトモ、周ノヨ(代)マテ(迄)ハ然(しか)アルニ似タレト、ソレモ王ノ統(すぢ)カハレハ(代われば)下々モミナカハ〔レレハ〕リツレハ、ヒトシナミニ云カタシ、秦ヨリ後ハイヨヨ〔ミタリ(濫り)カハシクシテ〕此(この)道タタス(立たず)シテミタリ也、」(同前 P.99)と言う。
 日本は、君臣関係が神代から同じように子々孫々続いており、それぞれの家業をもって天皇に奉仕しているので安定している、と言うのである。それは、天平15(743)年5月5日の節会の日に、元正上皇が聖武天皇に要請し、「君臣祖子の理(きみおみおやこノことはり)を忘るることなく、継ぎ坐さむ天皇が御世御世に明けき浄き心を以て祖(おや)の名を戴き持ちて天地と共に長く遠く仕え奉れとして、冠位上賜ひ治め賜うふ」(『続紀』天平15年5月葵卯条)と述べた「君臣祖子の理」と同じである。すなはち、「君臣祖子の理」とは、「祖先が歴代の天皇に奉仕したのと同じように、その子孫は〝祖の名〟を戴きもって奉仕しつづけるべきだ」という考えである。
 このような、天皇制支配を正当化するイデオロギーは、埼玉県の遺跡から発掘された稲荷山鉄剣にも刻み込まれている。だが、蘇我氏による天皇暗殺、天皇家による蘇我氏本宗家の壊滅をあげるまでもなく、古代においても、「君臣祖子の理」は史実ではなく、天皇家支配を維持するための単なるイデオロギーでしかない。
 しかも、君臣関係の世襲化の狙いは、一面では「万世一系」主義を支えるイデオロギーを裏付けようとするものであるが、他面では、専制国家を担う官僚制の腐敗(貴族の腐敗)を招き、律令制国家そのものの腐敗・空洞化をもたらす要因の一つになっていくのである。
そして、科挙制によって官僚制を再生産した中国専制国家と、科挙制を採用できなかった古代日本が封建制(フューダリズム)を招く歴史発展の大きな5分岐をももたらすのであった。
(つづく)
(注)北畠親房は『神皇正統記』(1339年)で、「大日本は神国なり。天祖(あまつおや)はじめて基をひらき、日神(*天照大神)ながく統を伝(つたへ)給ふ。我国のみ此事(このこと)あり。異朝には其(その)たぐひ(類)なし。此故(このゆえ)に神国といふなり。」と言っている。