幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑨
  「物のあはれ」論が日本優越の証
                            堀込 純一

 Ⅴ 宣長の思想的変遷
 

 (3)「物のあはれ」論の深化から国粋主義へ

 ところが、宝暦13(1763)年に成立した歌論『石上私淑言(いそのかみささめごと)』や、『源氏物語』を論じた『紫文要領(しぶんようりょう)』の頃になると、宣長思想は、歌論としても神道論としても大きな変化を示してくる。

    〈脱政治をもっぱらとする宣長的「物のあはれ」論〉
 宣長の思想が大きく変化したのには、歌論の発展、すなわち「物のあはれを知る」論に深く関係している、と思われる。宣長は、「物のあはれ」論を基準として、日本文芸が「もろこし」の文芸に勝(まさ)ることを主張する。これが、宣長思想の変化の第一の特徴である。 
 『石上私淑言』の眼目は、「物のあはれを知る」ことの追求にある。それは、『石上私淑言』と同じ1763(宝暦13)年に書かれた『紫文要領(しぶんようりょう)』にも見ることができる。ここで「物のあはれを知る」の事例を数多く検討したうえで、宣長は「大よそ此(この)物語(*『源氏物語』のこと)五十四帖は、物のあはれをしるといふ一言にてつきぬへし。」(『紫文要領』―全集第四巻 P.57)と言っている。
 宣長の『源氏物語』研究は勿論それ以前からおこなわれており、1758(宝暦8)年には『安波禮辨(あはれべん)』を書き上げている。そこでは、「あはれ」という言葉の意味について、『古事記』『日本書紀』などの書から用例を引用して考究している。そして、「大方歌道ハアハレノ一言ヨリ外ニ余義ナシ、神代ヨリ今ニ至リ、末世無窮ニ及ブマデ、ヨミ出ル所ノ和歌ミナ、アハレノ一言ニ帰ス、……伊勢源氏等ノ物語ミナ、物ノアハレヲ書(かき)ノセテ、人ニ物ノアハレヲ知ラシムルモノト知ルベシ、是(これ)ヨリ外ニ義ナシ」(『安波禮辨』―全集第四巻 P.585)と述べている。
 「物のあはれをしる」の「物」とは、「ものおもひ」(物事を思ひ煩う)や、「ものがなし」(なんとなく悲しい。うら悲しい)の「もの」と同じである。それは、無限定で、幅の広い言葉で、感ずる人の対象になるものが、おしなべて「もの」である。
 『石上私淑言』では、「……すべて世中にいき(生き)としいける物はみな情(こころ)あり。情あれば、物にふれて必(かならず)おもふ(思ふ)事あり。このゆへにいきとしいけるものみな歌ある也。其中(そのなか)にも人はことに萬(よろず)の物よりすぐれて。心もあきらかなれば。おもふ事もしげく深し。そのうへ(上)人は禽獣(きんじゅう)よりもことわざのしげき(繁き)物にて。事にふるる事おほ(多)ければ。いよいよおもふ事おほき也。されば人は歌なくてはかなはぬことはり(理)也。その思ふ事のしげく深きはなにゆへぞといへば。物のあはれをしる故也。」(全集第二巻 P.99)とする。人こそが最も思う事が多く、歌をうたわかなければならない存在であり、その理由は「物のあはれを知る」故にだ、というのである。
 また、『紫文要領』では、「〔……さてその見る物きく(聞く)物につけて、心のうこきて(動きて)、めつらし(珍し)共、あやし共、おもしろし共、おそろし共、かなし共、哀也(あはれなり)共、見たり聞たりする事の、心にしか思ふて計(ばかり)はゐられす(ず)して、人にかたり(語り)きかする(聞かする)也、かたるも物にかく(書く)も同し(同じ)事也、〕〔さて〕其(その)見る物聞(きく)物につきて、〔哀(あはれ)也共かなし共思ふが、〕心のうこく(動く)〔なり、その心のうこくが〕、すなはち物の哀(あはれ)をしるといふ物〔なり、……〕」(全集第四巻 P.26)と規定する。
 そして『石上私淑言』で、「さてかくのごとく阿波禮(あはれ)といふ言葉は。さまざまいひかた(言ひ方)はかはり(変はり)たれ共。其意(そのい)はみな同じ事にて。見る物きく事なすわざ(業 *行為)にふれて。情(こころ)の深く感ずることをいふ也。俗にはただ悲哀をのみあはれと心得たれ共。さにあらず。すべてうれし(嬉し)共おかし(*趣がある)共たのし(楽し)共こひし(恋し)共。情に感(うご)ずる事はみな阿波禮也。……別していへば。人の情のさまざまに感(うご)く中に。おかし事うれし事などには感く事(こと)浅(あさ)し。かなしき事こひしことなどには感くこと深し。故にその深く感ずるかたを。とりわきてあはれといふ事ある也。」(全集第二巻 P.105~106)と言う。「あはれ」とは、一般的には「情(こころ)の深く感ずること」をいうが、その中でも特に「かなしき事こひしこと」は深く感ずるため、とりわけ「あはれ」である、とする。
だが、宣長の「物のあはれをしる」ということは、ただ人が事物に接した時に、その情趣(しみじみとした味わい)的本質を認識し、それによりその事物に感動し、さらにその感情を発露させ歌を詠むなど、意識に於いて顕在化させることに終わらない。このことを、宣長は「さて又歌といふ物は。物のあはれにたへぬ(耐へぬ)とき。よみ(詠み)いでてをのづから(自ずから)心をのぶる(述ぶる)のみにもあらず。いたりて(至りて)あはれの深きときは。みづからよみ出たるばかりにては。猶(なお)心ゆかずあきたらねば。人にきかせてなぐさむ物也。人のこれを聞(きき)てあはれと思ふときに。いたく心のはるる物也。これ又自然の事也。……さればすべて心にふかく感ずる事は。人にいひきかせではやみがたき物也。……」(『石上私淑言』―全集第二巻 P.112)と、言う。 
 これは、杉田昌彦氏によると、「『もののあはれを知る』という精神性を基盤として、詠み手(語り手)と聞き手、創作者と享受者という二者が、感情的なコミュニケーションを成立させ、精神的な浄化(カタルシス)を成就させるための媒(なかだち)となり得るところに、和歌をはじめとする文芸の存在意義があると、宣長は考えた」(『本居宣長辞典』東京堂出版 2001年 P.242)と言われるのである。
 だが、宣長の「物のあはれ」論は、藤原定家の新古今調や『源氏物語』を最も評価するところに見られるように、平安朝の宮廷や貴族生活での感動に狭めている。従って、現実に立脚せず、庶民の悲哀は勿論のこと、政治問題や社会矛盾の全般から切り離された文芸論でしかない。このことは、日本と中国の文芸論を比較した以下の論述で明らかとなる。

    〈一面的な見方で理性に情緒を対置〉
 宣長は、『石上私淑言』で、「詩(*漢詩)と于多(うた *和歌)とは心ばへ(*趣、味わい)おなじ物にや」という問いをたて、次のように答えている。もろこしの詩も『詩経』頃までは「上ツ代のすなを(素直)なりし心ばへの残りて。あはれになつかしきふし(節)おほかる(多かる)」が、その後は人情の「あはれなるすぢ(筋)は失せて」、かつての心映えはなくなってしまった。それに比較して、「さて于多(*歌)も世のうつるにしたがひて。上(あが)れる代のさまとはこよなくかはり来(き)つれど。わが御国の人心は。人の国(*もろこしを指す)やうにさかし(賢し)だち〔*才気ばしった〕たることなく。おほとかに(*おおらか、鷹揚で物静かなさま)やはらびたる(*穏和な)ならはしなれば。今の世まで。よみ出る歌もをのづから(自ずから)その心ばへにて。詩のようにさかしだちたるすぢはさらにまじらず。ただ物はかなくあはれになつかしき事のみなるを。いまめかしく(*今風に)めづらかにとりなしてよむとては。詞(ことば)のいひ(言ひ)ざまこそ古(いにしへ)いまのにかはりにたれ。いふ事の心ばへは神代も今もただ同じことぞかし。さればかの詩の変れるやうとは異なるにあらずや。」(『石上私淑言』―全集第二巻 P.149~150)と。
 もろこしの詩も『詩経』の頃までは「あはれになつかしきふし」があったが、それ以降はなくなった。それに対して和歌は、日本人が「おほとかにやはらびたるならはし(慣はし)」なれば、詞(ことば)こそ古に変わるが、「ただ物はかなくあはれになつかしき事のみ」なる点で変わりなく、「心ばへは神代も今も」同じで変わっていない、というのである。
 さらに別の箇所では、中国批判として「かの国は人の心さかし(賢し)だちて。こちたき(仰々しい)事を好むならはし(慣はし)なる故に、詩もただその方にまつはれて(*つきまとわれ)異(こと)ふみも同じやうに。ことさらに道々しき事をいひ(言ひ)つらねて。人をさとし(諭し)いましめ(戒め)。あるは時のまつりごと(政)をそしり(誹り)など。すべてあやにくに(*間も悪く)物のことはり(理)をたてむとかば。まして鬼神の感ぜんことは。いとおぼつかなし。」(全集第二巻 P.169~170)と決めつける。すなわち、中国の文芸は、人を説教し、政治を批判し、理屈っぽいところに特徴がある、と批判するのである。
 これに対して、日本の方が優れている証拠として、次のように述べている。「吾(わが)御国は天照大御神の御国として。佗(あだし *他の)国々にすぐれ。めでたくたへなる(妙なる *言いようもなく優れている)御国なれば。人の心もなすわざもいふ(言ふ)言の葉(ことノは)も。只(ただ)直(なお)くみやびか(雅か)なるままにて。天の下は事なく穏(おだやか)に治まり来(き)ぬれば。人の国のやうにこちたく(*ぎょうぎょうしい、わずらわしい)むつかしげ(難しげ)なる事は。つゆ(露)まじらず(混じらず)なむ有(あり)けむ。」(同前 P.154)と。
 宣長は、しきりに唐(もろこし)を批判するのに、「賢しだち」「こちたく難しげ」「萬の道理を考へもとめて」と表現している。これに対して、日本の優秀性を特徴づけるのに、「おほとかに(*おおらかに)」「やはらびたる(*穏和な)」「物はかなくあはれに」「直く」「雅か」などと表現している。
 だが、人間であれ、民族であれ、情性と理性はともに備わっており、どちらか片方に一面化しているわけではない。したがって、民族性を片方に一面化し特徴づけることそのものが、そもそも無理なことである。ましてや、理性に対して情緒の方が優れている、などというのは、全く根拠のないたわごとである。
 文芸においては、理屈だたないで「脱政治」が当たり前であるというのが、宣長に限らず日本的な伝統ですらある。しかし、この日本の常識は、世界の非常識なのである。鈴木修次著『中国文学と日本文学』(東京書籍 1987年)によると、「日本文学の伝統は、実のところ、世界でもまれに見るほど脱政治の傾向を顕著に持つのであるが、日本人はかえってそのことをほんとうには知らない。現代もなお、文学に政治をもちこむのはやぼだと考える風潮が強い。中国文学の側からいえば、人生や政治、社会の問題を離れて、どこに文学の課題があるのかと考えるのが、伝統的な、そして常識的な文学観なのである……」(P.47)という。そして、この中国の文学観の方がむしろ世界的には主流であるとして、鈴木氏は、「日本の文学は、世界で珍しいほど脱政治の傾向を顕著にもち、そこのところが外国人にわかりにくさと違和感とを与え続けているのである。『脱政治』ということは、けっして、文学そのものが保有すべき本質の性格ではないのだ。文学の本質的性格は、外国人の感覚からすれば、むしろ逆なのである。」(P.53)と言っている。
 確かに、今日では従来の伝統と異なり、人生や社会・政治問題も扱う文学が一部では増える傾向はある。しかし、伝統的傾向もまた、いまだ根強いものがある。天皇にひたすら従順、為政者にひたすら従順であるために、脱政治にひたることは、宣長的考え方にとっては非常に都合がよいものである。しかし、「物のあはれ」は、政治・社会問題でも必然的に発生するのである。

     〈諦観主義に立脚する神道の優越性〉
 和歌が漢詩に優(すぐ)れていると主張する宣長は、大道においても、「神の道」(日本の神道)が「聖人の道」(儒教)に優れていると主張する。
 宣長は、かつては、儒道、仏道、神の道をそれぞれの大道として容認していた。ところが『石上私淑言』では、明確に経学(儒教を修める学問)批判に転ずる。「いはゆる教学などはかの国にてもことに所せく(*窮屈、不自由)こちたき(*うるさい、わずらわしい)教へにて。いささかのみじろぎもやす(安)からず。とにかく人のよきあしき事をさがなく(*思いやりがなく)いひかかづらふ(*ものを言って、かかわり合う)をのみいみじき(*はなはだしい)事にして。たをやぎ(*しとやか)たる風雅のおもむき(趣)は露しらず。」(全集第二巻 P.150)と否定する。
 宣長の唐国(もろこし)批判の中心は、その理性主義である。唐国の人は、天地の間のありとあらゆる事は、理性によって解明できないことはない、という信念を持っているが、しかし人間のできることには限界があるのである。その証拠に、聖人の深く考えて案出した諸制度も、後の世には揺るいだではないか、というのである。そして、「……天地のあひだにある事の理(ことはり)は。ただ人の浅き心にてことごとく考へつくすべきにあらず。いかにさとり深く才(ざえ)かしこきも。人の心をよぶかぎり(及ぶ限り)のある物なれば。いにしえ(古)のいとかしこきから(唐)の聖人の。心をつくして深く考へさだめていひ(言ひ)をかれたる(置かれたる)事の。後の世迄ゆるぐまじく。たれも(誰も)たれもさるべき事と深く信じたる事も。はるかにたがひて思ひの外(ほか)なるもおほかるわざなるをや。」(同前 P.175)という。宣長の主張は、明らかに不可知論の立場に立っている。
 もろこしとは対照的なのが、日本である。すぐ続けて、「されば吾(わが)御門(みかど *天皇)にはさらにさやう(左様)のことはり(理)がましき心をまじえず(混じえず)。さかし(賢し)だちたる教(おしへ)をまうけず(設けず)。只何事も神の御心にうちまかせて。よろづをまつりごち(政)給ひ。又(また)天の下の青人くさ(あをひと草 *人民)も只(ただ)その大御心を心としてなびきしたがひ(従ひ)まつる。これを神の道とはいふ也。……」(同前 P.175)と、言う。すなわち、天皇の政は、神の御心に従った政治で、賢しらの政治ではない。したがって、人民もただ「神の御心」に従順に従い、服従するだけである。
 宣長は、自らの不可知論によって、日本の人民はただひたすらに天照大御神の子孫である天皇の政治に、不満一つも言わずにおとなしく従うべき、と強制するのであった。宣長は、唐・唐書を批判することに専心するあまり、従来、大道における儒・仏・老荘・神道をそれぞれ認めた包容性、寛容性を失ってしまったのである。これが、宣長思想の変化における第二の特徴である。(つづく)