幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑧

  劣等感から優越感への萌芽
                          堀込 純一


 Ⅴ 本居宣長の思想変遷
     
   (2) 二条派の下での宣長の独自性
 
      ⅰ)契沖を中興の歌学者と評価

 宣長は、京都遊学を終えて宝暦7(1757)年に帰郷し、医師として生活を支えながら歌の道を追求する。そして、歌論『排蘆小船(あしわけおぶね)』がまとめられたのが、宝暦8~9(1758~1759)年頃といわれる。
 これは、繰り返しが多く整理されたものとは言えず、結局、未定稿に終わったが、宣長の歌道に対する考えがよく示されている。
 宣長は、すでに遊学中、堀景山の下で学んでいる時から、書物によって契沖の影響を受けていたが、このことは、『排蘆小船』でも示されている。
 宣長は、僧契沖を次のように高く評価している。
 「近代難波ノ契冲師此(この)道ノ学問ニ通シ、スヘテ古書ヲ引證シ、中古以来ノ妄説ヲヤフリ(破り)、数百年来ノ非ヲ正シ、万葉(『万葉集』)ヨリハシメ(始め)多クノ注解ヲナシテ、衆人ノ惑(まど)ヒヲトケリ(解けり)、その著述多ケレトモ、梓行(しぎょう *出版)セサレハ世ニ知(しる)人マレナリ、オシイカナ、ママ此人ノ説ヲミルモノハ、始テカノ異説トモ(共)ノ非ナル事ヲサトレリ、サレハ近比(ちかごろ)ハスコフル伝授ナト云(いう)事ヲヤフル人モママ出来レリ、大カタ契冲ハ中興ノ歌学者トミエタリ、世ニ碌々(ろくろく *凡庸)タル輩トハ格別トオモハルル也」(全集第二巻 P.14)と。
 宣長は、文献学的手法で従来の説を正す契沖を高く評価し、「中興の歌学者」とまで讃美している。そして、古今伝授を批判する者が最近出現しているが、これもまた契沖の影響であろう、としている。
 宣長は、歌道上における近世での誤りを始めて契沖が打ち破ったが、まだ目の覚めない人が多いと評価し、「予(*宣長のこと)サヒハヒニ(幸いに)此人の書ヲミテ、サツソクニ目ガサメタルユエニ、此道ノ味、ヲノツカラ(自ずから)心ニアキラカニナリテ、近世ノヤウノワロキ事ヲサトレリ、コレヒトエニ冲師ノタマモノ也」(同前 P.78)、「今二条家ト云(いう)家々ノ説ハ、名ハ定家(藤原定家)卿ノオシヘヲ立テ用ユレトモ、実ハ定家卿ノオシへ本意ニタカヘリ、……故ニ用ヒズ、ソノ二条家ノ説ノ定家卿ノ本意ニソムク事ヲシレルハ、冲師ノカゲ(*お蔭)也、ヨツテコレ(*契沖のこと)ヲ師トスルモノ也」(同前 P.79)と、歌学では契沖を師とする、と明記したのである。

       ⅱ)よき歌は第一に詞をえらび…

 宣長は契沖の影響で万葉集など上古の歌も評価するようになるが、だからといって今まで培ってきた新古今調の詞や技巧を捨て去ったわけではなかった。そして、宣長は、歌の本質を次のようにまとめる。
 すなわち、「和歌ハ……只(ただ)思(おも)フ事ヲ程ヨク云(いひ)ツツクルマテノ事也」(同前 P.26)とする。ただ心の思いを表現するだけでなく、「程ヨク」表現する。
 つまり、実情の吐露だけではダメであり、そこには歌としての技巧が大事だ、というのである。
 したがって、歌の良し悪しは、詞(ことば)の選びにある、という。「ヨキ歌ヲヨマム(詠まむ)トオモハバ(思はば)、第一ニ詞ヲエラヒ(選び)、優美ノ辞ヲ以テ、ウルハシク(麗しく)ツツケナスベシ、コレ詠歌ノ第一義也、……ソノユエ(故)ハ、和歌ハ言辞ノ道也、心ニオモフ事ヲ、ホドヨク(程よく)イヒ(言ひ)ツヅクル道也、心ニオモフ(思ふ)事ヲ、アリノママニオモフ(思ふ)トヲリ(通り)ニイヘバ(言へば)、歌ヲナサズ、歌ヲナストイヘトモ、トルニタラサル(足らざる)アシキ歌也、サレハズイフン(随分)辞ヲトトノフ(整ふ)ヘキ也、コトバ(詞)サヘウルハシ(麗し)ケレハ、意(こころ)ハサノミフカカラネ(深かからね)トモ、自然トコトバ(詞)ノ美シキニシタガフテ(従ふて)、意(こころ)モフカク(深く)ナル也、フカキ情モコトバ(詞)アシケレハ、反(カエツ)テ浅クキコユル(聞こゆる)也」(同前 P.31~32)というのである。
 宣長は、具体的に和歌の歴史を振り返り、歌集の各々の評価や手本とする歌人・歌集を挙げている。「マズ万葉ハ上古ノ歌ノサマヲミ、詞ノヨツテ(依って)オコル所ヲ考ヘナト(考えなど)スル、歌学ノタメニハヨキ物ニテ、ヨミ歌ノタメニハサノミ(*さほど)用ナシ、ヨミ歌ニハ、イクタヒモイクタヒモ古今ヲ手本ニスル事也、サテ後撰集ハ古今ニ及ハサレトモ、ナヲ歌サマヨク、清撰ノ集ナレハ、同シク取用(とりもち)ル也、拾遺ハ撰ヒヤウハヨロシカラズ、不審ナル事トモ多ケレド、時代ナヲヨクシテ、歌サマヨケレハ、三代集(*古今集・後撰集・拾遺集のこと)トテ後世マテ歌道ノ眼ニスル事也」(同前 P.63)とする。
 万葉集は、歌学の研究にはよいが、作歌には左程役には立たない。詠歌には古今集を手本にするべきである、とする。
 さらに、歌道の歴史において、「新古今ガ此道ノ至極頂上ニシテ、歌ノ風体ノ全備シタル處(ところ)ナレハ、後世ノ歌ノ善悪勝劣ヲミルニ、新古今ヲ的ニシテ、此集(このしゅう)ノ風ニ似タルホトガヨキ歌也、……サテ新古今ニ少シニテモ似ヨリテ、ヨキ歌ヲヨマントナラハ、三代集ヲズイブン学フヘシ、コレ肝要也」(同前 P.65)と言う。(1)
 新古今を指標として歌をよもうとするならば、三代集をよくよく学ぶべきだ、と言うのである。こうして、宣長は「ヨツテ詠歌ハトヲク(遠く)定家卿ヲ師トシテ、ソノオシエ(教え)ニシタガヒ(従ひ)、ソノ風ヲシタフ(慕ふ)、歌学ハチカク(近く)契冲師ヲ師トシテ、ソノ説ニモトツキ(基づき)テ、ソノ趣キニシタカフ(従ふ)モノ也」(同前 P.78)とするのであった。
 宣長は、後に賀茂真淵の弟子となり、新古今風の歌を送って添削を受けるが、その際に
真淵から、「是(これ)は新古今のよく歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也、右の歌とも一つもおのかとるへきはなし、是を好み給ふならは、万葉の御問も止給(やめたま)へ、かくては万葉は何の用にたたぬ事也」(全集第十八巻 P.66)と厳しく叱責されている。それほど、宣長は、新古今調に固執したのであった。

           〈古今伝授批判の限界
 ところで、宣長は『排蘆小船』で、かなりの分量をさいて二条派の歴史を語り、東常縁(とうのつねより ?~1484年頃)の時から古今伝授が行なわれ、歌道をダメにしている、と批判している。
 宣長の古今伝授批判は、次のようにかなり手厳しいものである。「古今伝授大ニ歌道ノサマタケ(妨げ)ニテ、此(この)道ノ大厄也、ソノユヘ(故)ハ、近世此事アルニヨリテ、ソノ家ト云事(いふこと)ヲ重クシテ、歌ノヨシアシ(良し悪し)ヨリハ、此伝授ヲ詮(せん *法、道理)ニスルユヘニ、天下ノ名人イデキガタシ、歌道ノ道ヲフサク(塞ぐ)ヤウナルモノ也、此伝授ヲシタリトテ、露ホトモ歌道ニ益ハナクシテ、大ナル害アル事也」(全集第二巻 P.73)と。
古今伝授批判は、別に、宣長が初めてでもなく、木下長嘯子(きのしたちょうしょうし 1569~1649年)や戸田茂睡(1629~1706年)らが行なっている。
 それに、宣長の古今伝授批判には、どうしても文字通りには理解できないものがある。すなわち、同じ『排蘆小船』で、「(古今伝授は)ソノ本ハミナコシラヘ事ニテ信スルニタラサル(足らざる)事ナレトモ、天子御代々コレヲ尊信シ玉ヒ(したまひ)、オモキ御事ニナリキタリタレハ、今ハ古今伝受ナトハナハタ(甚だ)此道ノ重事也、ミタリニ(濫りに)非スル事ナカレ、オソレアル事也、ママ奇瑞(きずい *目出度いことの不思議な前兆)ナトノアルト世ニ云(いふ)モ一概ヤフラレス(破られず)、其(その)故ハ、モトハワケモナキ軽キ事ニテモ、朝廷ノ威霊ニヨツテシカル事アルマシキ(あるまじき)トモイハレヌ(言はれぬ)事也、……予ハ古今伝授ハオカシキ事也ト思ヘト、今ソノ重典ナル事ヲ敬スル也」(同前 P.15)と述べている。
 宣長としては、「古今伝授はおかしいこと」だと思うが、天皇が代々信じてしまったから、濫りに否定もできず「重典なる事」として「敬す」としている。いかなる誤りも、天照大御神の子孫である天子が代々、尊信しているが故に「軽視」できない、というのである。これでは、誤りを教訓にはできず、何回も誤りを繰り返すこととなるであろう。

        ⅲ)歌の本体は政治を助けるものではない

 歌と政道との関係は、近世和歌史上最大の論争の一つであるが、宣長は、『排蘆小船』の冒頭で、自らの主張を次のように述べている。
 歌は天下の政道を助けるものではないか、という問いに対して、「答(こたえて)曰(いわく)、非也、歌ノ本体、政治ヲタスクルタメニモアラズ〔*儒道を想定〕、身ヲオサムル為(ため)ニモアラズ〔*仏道を想定〕、タタ(唯)心ニ思フ事ヲイフ(言ふ)ヨリ外ナシ、其(その)内ニ政(まつりごと)ノタスケトナル歌モアルベシ、身ノイマシメ(戒め)トナル歌モアルベシ、又(また)国家ノ害トモナルベシ、身ノワサハイ(災い)トモナルベシ、ミナ其人ノ心ニヨリ出来ル歌ニヨルヘシ、悪事ニモ用ヒラレ、善事ニモ用ヒラレ、興ニモ愁ニモ思ニモ怒ニモ、何事ニモ用ラル也」(全集第二巻 P.3)と。
 また、「……和歌政道ノタスケニアラズト云(いふ)ハイカカ」という問いに対しては、次のように答えている。「……コレハソノ用ユル所と本体トノチガヒ(違い)ヲ、ヨクヨクワキマヘテ知ルヘシ、モト和歌ノ本体ハ、政道ノタスケトスルモノニアラズ、只(ただ)思フ事ヲ、ホト(程)ヨクイヒ(言ひ)ノブルマデノ事也、政道ノタスケトスルハ、其(その)ヨミタル歌ヲ取リ用ル時ノ事也、……」(全集第二巻 P.49)と。
 ここでは、歌の体と用の違いをよく見なければならないとし、歌の本体はあくまでも「思フ事ヲ、ホトヨクイヒノブルマデノ事」であり、天下政道のために助けになるのは、その歌が利用し得る場合だけである、としている。
 和歌と政道の関係については、18世紀の半ばごろに、『国歌八論』をめぐる論争がある(近世和歌史上、最大の論争)。第八代将軍吉宗の次男・田安宗武が、寛保2(1742)年8月、宗武に仕えていた荷田在満(かだのありまろ 1706~1751年 *荷田春満の甥で、後に養子となる)に歌道について諮問し、それにわずか3日ばかりで答書したが『国歌八論』である。論争には、途中から賀茂真淵も加わった。
 三者とも、堂上派歌人を評価せず、古今伝授や作歌上での詞(ことば)の制禁を批判する点などでは、意見が一致する。最大の論争点は、「和歌が政道を助ける」ものであるか否か、である。
 在満は、「歌の物たる、六芸(りくげい *周代、士以上の者に必修科目とされたもので、礼・楽・射・書・御〔馬術〕・数)の類にあらざれば、もとより天下の政務に益なく、また日用常行(*日常生活)にも助くる所なし」(日本古典文学大系『近世文学論集』岩波書店 P.52~53)と主張する。そして、在満は、契沖に倣い、今の時世、和歌の「詞花(しいか *表現を飾って美しくした言葉・文章)言葉を翫(もてあそ)ぶに若(し)かず」とするのであった。
 これに対して、宗武は、幕府と同じ儒教的教学精神をもって、あくまでも朱子学的な「理」の立場から、歌道が国を治め天下を平かにする大道に対する「小道」として、政道の助けになるとした。
 途中から論争に参加した真淵の主張は、〝天下は、理のみでは治まらず、人情を基礎とするべきだ〟というものだが、和歌は理の外において人の実情を表現するものである、と言う。したがって、和歌による政治的道徳的教化の働きは、結果的なものである、とした。
 『国歌八論』をめぐる論争は、約20年後の1761(宝暦11)年3月、彦根藩士・大菅中養父(おおすがなかやぶ *大菅公圭のこと)が、儒教主義と古今主義の立場から荷田在満を批判した『国歌八論斥非(せきひ)』を書いて復活する。第二次論争である。
 宣長は、1768年(明和5)年、在満の『国歌八論』と中養父の『国歌八論斥非』を論評した。これに対して、儒学者・藤原惟濟が『国歌八論斥非再評』を書いて批判する。宣長は、これに対しても反論し、『国歌八論斥非再評の評』を以て応酬した。
 宣長の立場は、和歌を正道を助ける「小道」とせず、文芸の自律性を主張する契沖―在満の系列にたつものである。それは、すでに青年期の清水との論争や『排蘆小船』の冒頭の主張などからして明らかである。
 文芸を政治に従属するものなどというのは論外にしても、文芸に於ける政治的発言を毛嫌いし、「脱政治」を文芸の本質かのように言うこともまた誤りである。

          ⅳ)優劣なくみなそれぞれの大道

 宣長は、『排蘆小船』の段階では、それぞれの大道を認めて、「吾邦の大道」が万国に勝れた唯一の大道という見地には、未だ至っていない。
 たとえば、宣長は「和歌ハ吾邦ノ大道也ト云事(いふこと)イカカ」という問いに、次のように答えている。
 「非ナリ、大道ト云ハ、儒ハ聖人之道ヲ以テノ大道トシ、釋氏(*仏教家のこと)ハ仏道ヲ大道トシ、老荘ハ道徳自然ニシタカフ(従ふ)ヲ大道トシ、ソレソレニ我(わが)道ヲ以テ大道トス、吾邦ノ大道ト云時ハ、自然の神道アリコレ也、自然ノ神道ハ、天地開闢(てんちかいびゃく)神代ヨリアル所ノ道ナリ、……ミナソレソレニ大道ナリトシルヘシ」(全集第二巻 P.45)と。
 ここでは、儒も仏も老荘も「自然の神道」も、みなそれぞれ大道とされている。
 ただ、『国歌八論』をめぐる第一次論争の頃、国学者に国粋主義の萌芽が芽生えてきていることを注目すべきであろう。
 荷田在満は、『国歌八論』の翫歌論で、「されど、学者の歌を嗜(たしな)むは心なきににあらず〔*若干わけがある〕。いかにとなれば、日本はわが万世父母の国なれども、文華の遅く開けたる故に文字も西土(せいど *日本から見て西方にある中国を指す)の文字を用ゐ、礼儀・法令・服章(*官人の服の模様)・器財等にいたるまで悉(ことごと)く異朝に本(もと)づかざるはなし。ただ歌のみわが国自然の音(おん)を用ゐて、いささかも漢語をまじへず。冠辞(くわんじ *枕詞のこと)、或いは心を転じて言を続くる句〔*懸詞を用いた句〕などに至りては、西土の言語の及ばざる所あり。そのわが国の純粋なるを悦ぶのみなり。」(『近世文学論集』 P.53)という。
 宣長も、『排蘆小船』の中で唯一、「テニヲハト云(いふ)モノ、和歌ノ第一に重(おもん)する所也、スヘテ和歌ニカキラス(限らず)、吾邦一切ノ言語、コトコトクテニハヲ以テ分明ニ分ルル事也。吾邦ノ言語萬国ニスグレテ(優れて)、明ラカニ詳ラカナルハ、テニハアルヲ以テ也、異国ノ言語ハ、テニハナキユエニ、ソノ明詳ナル事、吾邦ニ及ハス、達セサル所モママアル事也」(全集第二巻 P.50)といって、「てにおは」の存在を日本が万国に優れた論拠とした。
 歴史を振り返れば、圧倒的に中国や朝鮮の文化的影響の下でスタートした日本国家の経緯をみれば、日本の独自性を発見したことは、それまでのコンプレックスを払拭して精神的自立をはかる上では大きなテコとなり得る。共に和歌を通じて、万葉仮名―ひらかなの歴史を抱く歌学者、国学者にとっては必然的なことである。しかし、そこに(他国との関係における対等性)にとどめず、さらに増長して日本が万国において最も優れた国だと慢心し、さらに他国を蔑視・差別することにまで至るのは、まさに「井の中の蛙大海を知らず」である。宣長の論拠とて、言語構造の違いを指して、万国に抜きんでた優秀性とすることは的外れである。(つづく)

注(1)角川新版『古語辞典』によると、『古今集』の歌の傾向は、優美・繊細・詠嘆的・情意的と言われるのに対して、『新古今集』のそれは、情緒的・感覚的・浪漫的・耽美的・夢幻的と言われ、余情・妖艶が尊ばれる。これらに対して、『万葉集』のそれは、強い実感が直接・切実に表現され、言葉の使い方も素直で雄渾の趣があるとされる。