幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑦
  天皇統治宿命視する宗教観念
                             堀込 純一

 Ⅳ 天皇支配の根拠づけ

     (1)独りよがりの「まことの道」

 紀州藩主徳川治定に上程した献策『玉くしげ』で、宣長がほんとうに主張したかったのは、今まで述べたような具体策ではなく、添付された『玉くしげ別巻』で総論として提唱された「古道」1)(神代から続く「まことの道」なるもの)であった。 
 何故ならば、眼前の利益ばかりを追求していては、物事は根本から是正されないから、という理由からである。
 では、「その大本のわけ(道理)」「まことの道」とは何か。『玉くしげ別巻』によって見てみよう。

          記紀神話に基づく「まことの道」

 この「まことの道(古道)」について、宣長は以下のように説明している。「まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すぢなり、然(しか)るに此(この)道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく傳(つた)はりて、外国(ぐわいこく)にはみな、上古より既にその傳(伝)来を失へり、それ故に異国には、又(また)別にさまざまな道を説(とき)て、おのおの其(その)道を正道のやうに申せども、異国の道は皆(みな)末々(すえずえ)の枝道(えだみち)にして、本のまことの正道にはあらず、たとひここかしこと似(に)たる所は有(あり)といへども、その末々の枝道の意をまじへとりては、まことの道にかなひがたし」(『玉くしげ別巻』―全集第八巻 P.309)と。
 しかし、宣長は、大言壮語の割には「まことの道」の内容について、簡潔にかつ明示的に提示し得てない。だから宣長は、まず「この世の中の惣體(そうたい)の道理」をよく心得なければならないと、『玉くしげ別巻』で以下のように続けている。
 その「道理」とは、「此天地も諸神も万物も、皆ことごとく其本(そのもと)は、 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) 神皇産霊神(かみむすびのかみ)と申す二神の、産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出来(なりいでき)たる物にして、世々に人類の生まれ出(いで)、万物万事の成出(なりいで)るも、みな此(この)御霊(みたま)にあらずといふことなし、されば神代のはじめに、 伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)二柱大御神(ふたばしらのおおみかみ)の、国土万物もろもろの神たちを生成(うみな)し給(たま)へるも、其本は皆、かの 二神の産霊(むすび)の御霊によれるものなり」(
同前 P.309)と、いうのである。
 宣長は、記紀神話を論拠にして、天地万物さらに諸神までも高皇産霊神と神皇産霊神によって創られ、伊邪那岐・伊邪那美もまたこの二神の御霊によって創られた、とする。
 そして、伊弉那岐と伊邪那美の子として、「天照大御神が生出(なりいで)ましまして、御父大御神(*いざなぎ)の御事依(みことよさ)し〔*御委任〕によりて、永く高天原(たかまのはら)を所知看(しろしめ)す〔*お治めになる〕なり、 天照大御神と申し奉(たてまつ)るは、ありがたくも即(すなわ)ち今此(この)世を照しまします、天津日(あまつひ *太陽)の御事ぞかし、さて此(この) 天照大御神の、 皇孫尊(すめみまのみこと)に、葦原中国(あしはらのなかつくに *日本国の古称)を所知看(しろしめ)せとありて、天上より此土(このど)に降(くだ)し奉りたまふ、其時に、 大御神の勅命に、 寶祚之隆當與天壌無窮者矣(あまつひつぎはあめつちのむたときかきはにさかえまさむ)とありし、此(この) 勅命はこれ、道の根元(こんげん)大本なり、かくて大かた世中のよろづの道理、人の道は、神代の段々のおもむきに〔*一部始終の趣に〕ことごとく備(そな)はりて、これにもれたる事なし」とする。そして、「その段々の趣は、皆これ神代の古傳説なるぞかし、古傳説とは、誰(だれ)言出(いひいで)たることともなく、ただいと上代より、語り傳へたる物にして、即(すなわち)古事記(こじき)日本紀(*日本書紀)に記(しる)されたる所を申すなり」(同前 P.310)とされる。
 天照大御神は、父・伊邪那岐の委任に基づいて高天原を統治し、その天照大御神の子孫が、天津日(太陽)である天照大御神の委任によって日本を統治するようにと命令を受けた、というのである。この勅命にあった「寶祚之隆當與天壌無窮者矣」は、〝寶祚(ほうそ *天子の御位)の栄え(隆當)は、天地と共に極まりなし〟という意味合いであり、これこそが「道の根元(こんげん)大本(たいほん)」である、というのである。このことは、「天壌無窮」の天皇が「日本をしろしめす」ことが「まことの道」であることを意味する。
 だが、記紀神話はもちろん史実ではなく、日本国家が中国や朝鮮国に対峙して進もうと意気込んだ7世紀後半から8世紀はじめの頃、日本の支配階級が、この上なく背伸びをして、虚実を織り交ぜて創作したものである。このようなフィクションを「正史」とするような独りよがりの考え方から「まことの道」が導き出されることは、とてもありえない。
 道とは、一般的に言うと、倫理・道徳・政治など人間のあるべき姿を指すでものあろう。この道について、宣長はいきなり「まことの道は……ひとり皇国のみに正しく傳はりて」、外国のものはすべて偽物と断定する。この背景には、秀吉の朝鮮侵略、徳川政権の安定にともなう内向きの太平(元和偃武〔えんぶ *武器を用いぬこと〕)、神道の巻返しと大衆化などに基づいた日本国意識の台頭がある。
 日本のナショナリズムは、幕末、西欧列強による強圧的な開国要求という外的契機に際して、一挙に高揚した尊王攘夷運動が第一歩である、というのが衆目の一致するところであろう。しかし、このナショナリズムの高揚を準備した日本人意識、日本国家意識は、遅くとも近世とりわけ江戸時代前期には着々と普及し、庶民層にまで広がりつつあった(水本邦彦著 日本の歴史 第10巻『徳川の国家デザイン』小学館 2008年 P.11~15)。それをさらに強化・拡大する先頭に立ったのが国学運動であり、本居宣長はその国学の大成者の一人といわれる。従って、宣長の「まことの道」「古道」を分析研究することは、日本のナショナリズムの起源をさぐる一つの方法ともなるであろう。

 Ⅴ  宣長の思想的変遷

 宣長が言う「まことの道(古道)」の性格と特徴を把握するには、宣長の思想形成の過程を分析することによって、より掘り下げることが要求されるであろう。

    (1)「私有自楽」の立場から儒教に距離をとる

 宣長は、20歳前後から始めた和歌の道を、京都遊学中にますます強め傾倒する。医師になることを目指した宣長は、儒学者堀景山に入門するが、その当時の同門秀才・清水吉太郎との論争で、次のように述べている。
 清水が、「君は儒よりも和歌を愛好する」という非難に対して、宣長は逆に、清水が儒を好むことに反対する。その理由は、「是(こ)れ何となれば則(すなは)ち儒也(なる)者は聖人の道也(なり)。聖人の道は、国を為(をさ)め天下を治め民を安んずるの道也。私(ひそ)かに自(み)づから楽しむ有(あ)る所以(ゆえん)の者に非(あら)ざる也。」(『書簡集』9―全集第十七巻 P.19)と、いうのである。聖人の道は為政者が学ぶべきもので、自分らのような「私有自楽する者」にとって、無関係だから……、というのである。
 これに対して、清水はさらに宣長が和歌を好むだけでなく、「淫靡浮華(いんびふか)の辞」を好む人間として非難する。これに宣長は、「和歌は不妄(ふもう *自分の謙称。わたくし)の好む所也。浮華の辞は、則ち不妄の好む所に非ざる也。適(たま)たま其の辞の浮華なるは、是れ和歌自然の勢(いきお)ひ也。今の世、人情浮華なれば、則ち其の詠ずる所の歌辞、豈(あ)に亦(また)浮華ならざるを得ん乎(や)。和歌は情語也。即ち人情に隨(したが)ひて変化するは、固(もとよ)り其(その)所也」(同前 P.22~23)と、反論する。
 つまり、宣長は、情に根差す和歌の世界を、いわゆる道徳的基準で判断するのは誤りである、というのである。
 また、宣長は、「……足下(そくか *同輩にたいする敬称)将(まさ)に聖人の書を読みて道を明らかにし、而(しこ)うして後に禽獣為(た)ることを免がれんとする乎(か)。亦(ま)た迂(う *遠回り)なる哉(かな)。知らず異国人(*唐人を指す)は其れ然(しか)歟(や)。吾が神州は則ち然(しか)らず。」と、神州(日本)の特異性を述べる。そして、「不妄不肖と雖(いえど)も、幸ひに此(こ)の神州に生まれ、大日霊貴(おおひるめのむち *天照大?御神)の寵霊に頼り、自然の神道を奉ず。而うして之(こ)れに依(よ)れば、則ち礼義智仁、?(もと)めずして有り焉。夫(そ)れ人の萬物の霊為(た)る乎(や)。天神地祇の寵霊に頼るの故を以つてなる已(のみ)。」(同前P.23)と、神州では聖人の道は必要ないと反論するのである。
 神州では、「上古の時、君と民と皆其の自然の神道を奉じて之に依り、身は修めずして修まり、天下は治めずして治まる。礼儀自らここの存す」であり、これが日本上古の状態であると、聖人の道との違いを強調する。だが、この言はなんらの根拠もなく、単なる夢想である。
 ただ、この段階では、和歌の世界と「自然の神道」の関係は、明確にされておらず不明である。

           旧派の下で和歌を学ぶ

 国学は、「江戸時代中期に新しく起った文献学的方法による古典研究の学問」で、「特に儒教・仏教渡来以前におけるわが国固有の生活・精神を明らかにしようとした」(久松潜一・佐藤謙三編 角川新版『古語辞典』)ものである。この国学には、発祥いらい、歌学(歌の学び)と古道学(道の学び)という二つの顔がある。
 宣長は20歳頃から和歌に親しみ、1749(寛延2)年3月から、地元の宗安寺の法幢和尚に和歌の添削を受けている。1752(宝暦2)年3月に上京し、儒学や医学を学ぶとともに、9月には新玉津島神社の宮司である森河章尹(あきただ)に入門し、1756(宝暦6)年2月には、有賀長川に入門し、それぞれ歌会に出席するなどして、和歌を学んでいる。
 これらの師匠は、すべて旧派の流れに属するものである。法幢和尚と長川は、二条派の系統で、章尹は冷泉派の系統である。そのうえ、長川と章尹は、旧派でも堂上派(堂上とは清涼殿に昇殿を許された上級貴族で、その対語が地下〔じげ〕)である。
 歴史的に見ると、和歌の全盛時代は『新古今集』(藤原定家らが1205年に撰進)で終り、以降、衰微する。中世においては、和歌の地位は動揺し、和歌を母胎として生まれた連歌に圧倒された。近世に入ると、連歌から転生した俳諧が発達するが、和歌の世界でも、堂上派歌学に対する批判と古典の自由な討議・研究が進み、新風が巻き上がる。
 和歌が再興された江戸時代は、思想的には儒学が勃興した時代で、とりわけ朱子学が盛んで、その思想は和歌の世界にも大きな影響を与えた。
 朱子学によると、宇宙万物の生成・運動・現象はすべて気(元素のようなもの)の生成・運動・現象であるとされる。ただし、それらが十全に行なわれるのは、理に依拠して行なわれているからである。理は自然・政治・人間に通貫的なもので、万物の生成・運動を法則的に秩序付けるものである。理は気を離れて独立に存在するものでなく、理は気に付帯することによってはじめてその働きを示し得る。
 社会秩序を維持するということは、天と連続する道徳的本性によって人の行為を治めていくことであり、これが理性的行為とされるのである。道徳的本性は、天命の性、天地の性、本然の性などと呼ばれ、宇宙自然の理が人間に宿ったもので、「性は即ち理なり」とも言われる。だが、人の肉体や欲望・感情など人間の現実態は、気質の性と呼ばれ、これはしばしば喜怒哀楽に偏り、善悪にまみれ善悪に走る場合も少なくない。この気質の性に対して本然の性が働きかけ、後者を以て善を勧め、前者の悪を懲らしめる―というのが勧善懲悪論である。
 この道徳第一の考え方は、当然にも文芸に影響を与え、旧派を支配する。すなわち、和歌は政道を助けるものであり、政道を大道とするならば和歌は小道と位置づけられるのであった。だが、宣長の「和歌を道徳的基準で判断するのは誤り」という主張は、旧派の考えと真っ向から対立するものである。(つづく)

注(1)国学者は、神道家の唱える「神道」が仏教や儒教によって教義付けられているのと区別するために、しばしばそれに代わる用語として「古道」を用いた。