幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑥

 記紀神話に拠る反人民史観

                                     堀込 純一


 Ⅲ 百姓一揆に対する宣長の態度

    (2) 身分制秩序の固執と体制順応主義

        〈百姓の困窮は自らの贅沢なためか〉

百姓が困窮する理由に関して、宣長は、第一に支配者の重税を挙げ(これは前号で論じた)、第二に百姓自身の贅沢・おごりを挙げた。
 この第二の点について、宣長は次のように述べている。「さて二つに、百姓の身分は、右のごとくくつろぎ(*ゆとり)なきうへ(*上)に、又(また)町人などの世のおごりを見ならひて、おのづから(*自然と)おごりもつきたる故に、いよいよ困窮甚(はなはだ)しき也(なり)、……困窮の百姓の身分にて、奢(おごり)などいふほどの事は、とてもならぬことなれ共、世上につれて、覚えずしらず(*知らず知らずのうちに)おごりの付(つき)たる事多し、……」(『玉くしげ』―全集第八巻 P.341)と。
 宣長は、百姓が困窮する理由として、「百姓の身分」はもともと余裕がない所に、町人の奢りにつられて自然と贅沢をするからである、と言う。
 宣長は、第一で藩主などを批判するとともに、第二で百姓自身の贅沢・奢りを批判する。これには、理由がある。というのは、両者の上位に立つ天皇が支配する秩序に両者を帰依させるためである。したがって、宣長の批判は終始、身分制秩序(天皇を頂点とする)を前提として、その価値観からの批判・論評となる。
 このことは、さきの引用文の中にも、はっきり浮かび出ている。すなはち、「百姓の身分は、右のごとくくつろぎなき」と、百姓の生活は余裕がない(貧乏)のが当然としている。
 宣長は、「人並みの生活」のレベルを、身分に応じて異なったものとして想定しているのである。そには、牢固とした身分差とそれに基づく秩序観があるのである。つまり、その身分差を廃止し、諸身分みな平等などという考えは、微塵もないのである。この点は、宣長が最も嫌う儒教を始めとする中国の思想と、皮肉にも全く一致しているのである。
 宣長は、儒者とは異なり、人欲を肯定するとよく言われるが、それは身分制に応じたものであり、百姓の「人並みの生活」を求める欲求は実質的に否定されるのである。
 さらに問題なのは、この『玉くしげ』や『玉くしげ別巻』が書かれた時期は、まさに天明の大飢饉が進行している頃なのにもかかわらず、宣長は、非常時に対する備えについての献策の一つもなく、飢饉そのものについてさえ全く触れていないのである。
 天明の大飢饉に直面する当時において、「人肉あい食(は)む」という非常時に対する備え(備荒貯穀や殖産興業政策など)を一言も述べずに、〝百姓の困窮の原因の一つに百姓自身の贅沢・おごりがある〟などと言っているのは、余りにも呑気(のんき)なものではないか。宣長が天明の大飢饉を知らなかった、ということは決してありえず、みずから日記に記している。にもかかわらず、『玉くしげ』で一言も触れていないということは、宣長自身の政治センスの低劣さを示す以外のなにものでもない。
 
        〈百姓の生活・生命よりも領主のメンツ優先〉

 宣長は、一揆の責任について、次のように言っている。「抑(そもそも)此事(このこと *百姓一揆や町人の打ちこわし)の起るを考ふるに、いづれも下の非はなくして、皆(みな)上の非なるより起れり、今の世百姓町人の心も、あしくなりたりとはいへ共、よくよく堪(たえ)がたきに至(いた)らざれば、此事はおこる物にあらず……」(同前 P.341)と。
 この部分だけを見ると、一見して、宣長は藩主を批判して、百姓・町人の立場に立っているかのように錯覚しやすい。しかし、それは誤解である。
 先ほど述べたように、宣長は、一揆に至る前提としての、百姓の困窮の原因の一つを百姓自身の贅沢・おごりに求めている以上、宣長が百姓に味方し、百姓の利害を擁護するなどということは、決してありえない。
 また、起こった一揆に対して、宣長は領主の側が厳しい対応をするのをたしなめながらも、「但しさしあたりては、手強(てごは)きときは、やむ事を得ず、少々人を損じてなりとも、まづ早く静むるやうにはか(図)らんこと、もとより然るべきこと也、又(また)後来を恐れしめんためにも、一旦は武威を以て、きびしく押へ静むるも權道(けんどう *臨機応変のはかりごと。方便)也……」(同前 P.343)と、強権的な一揆鎮圧を行使するべきと言っている。ここでは、はっきりと百姓たちに敵対している。
 また、宣長が一揆に対して、次のように認識し、把握していることから、百姓・町人の味方をすることなど決してありえない。すなわち、百姓一揆や都市民の打ちこわしが近年あちこちで起こっているが、「これ武士にあづからず(*武士は無関係で)、畢竟(ひっきょう)百姓町人のことなれば、何ほどの事にもあらず、小事なるには似たれ共、小事にあらず、甚(はなはだ)大切の事也、いづれも困窮にせまりて、せん方(かた)なきよりおこるとはいへども、詮ずる所(*結局の所)上を恐れざるより起れり、下(しも)民の上(かみ)をおそれざるは、乱の本にて、甚(はなはだ)容易ならざる事にて、まづ第一その領主の恥辱、これに過(すぎ)たるはなし、さればたとひいささかの事にもせよ、此(この)筋(*こういった事)あらば、其(その)起るところの本(もと)を、委細によくよく吟味して是非をただし、下の非あらば、その張本のともがらを、重く刑し給ふべきは勿論(もちろん)の事、又(また)上に非あらば、その非を行へる役人を、重く罰し給ふべき也、」(同前 P.341)という態度をとるのである。
 百姓一揆や打ちこわしは、「いづれも困窮にせまりて、せん方なきより」起きると言いながら、それは「まづ第一その領主の恥辱、これに過たるはなし」と、幕藩制秩序に反するからいけない、と言っているのである。つまり、百姓などの生命や生活よりも、領主のメンツの方が、身分制秩序の方が大事なのである。
 このことは、宣長思想が、百姓など人民の利益よりも、身分制秩序の維持が何よりも重要だ、という反人民性を歴然として示している。

       〈凡庸な『玉くしげ』の具体的施策〉

 宣長は、『玉くしげ』でいくつかの具体策を述べるのであるが、その冒頭で、すべての諸身分が身持ちを分際以上に重くしていること(格式を重々しき見せるために、金を使ってきらびやかにしていること)を取り上げて、次のように述べている。
 「惣體(そうたい *総じて)上中下の人々の身分の持(もち)やう、各(おのおの)その分際相応のよきほどあるべきは勿論(もちろん)なれども、其(その)分際分際につきて、いかほどなるが相応のあたりまへといふ事は、たしかなる手本なければ、実は定めがたきことなれども、古今の間をあまねく考へ渡して、これを按(あん)ずるに〔*調べて考えるに〕、今の世の人々の身分の持様(もちよう)は、上中下共におしなべて、分際よりは殊(こと)の外(ほか)重々しきに過(すぎ)たり、……」(同前 P.333~334)と。
 身分の持ち様が分際以上なのは、武士だけではなく町人・百姓にまで広がっている、というのが宣長の主張である。したがって、宣長は、贅沢を止めて身分に応じた節約などを行なって、身分制秩序を維持すべきだ、というのである。だが、節約策は、当時ほとんどの人が主張したもので別に目新しいものでもない。
 宣長は『玉くしげ』で、節約策以外にも、①重いお咎(とが)めを避け、刑はなるべく緩やかにすること、②むやみに法律を改めないこと、③身分の低い者の意見にも耳を傾けるべきこと、④忙しくない家臣には農作をさせること、⑤無駄な役人を減らし、期間を決めて家臣の俸禄を減額することなどを献策している(興味深いことに、賄賂については、世間のしきたりなので深く咎めるべきでないと言っている)。だが、これらの献策は凡庸なもので、これまで幕府や諸藩が幕藩体制維持のために行なっているもの(一様ではないが)ばかりである。
 幕府は、寛永飢饉(1642年がピーク)の教訓から農業政策を大きく転換し、水利・新田工事が耕地の外延的発展から内包的発展に質的に転換し、小百姓の自立化を促進すようになった。これとともに、農民を農業労働に専念させるため、これまでの農民の陣夫役(軍需物資輸送の労力負担。労働地代の一種)を銭納化すること、下級武士に重かった軍役を均等化することなどで、軍役制度も大きく変わる。
 第八代将軍・吉宗の時代(1716~1745年)の享保の改革については、本紙544号で若干触れたが、その後、18世紀後半には、米沢藩、肥後藩などのように諸藩の藩政改革(農村の建て直し、特産品の奨励と専売制、藩校の設立など)が推進されている。
 だが、宣長の具体策は、幕府や諸藩のもの以下なのである。

    (3)神の手に操られる人間と歴史

 というのは、宣長の思想背景には、記紀(*『古事記』『日本書紀』)神話に基づいた特異な宗教観・歴史観が存在しているからである。すなわち、「さて世中(よのなか)にあらゆる、大小のもろもろの事は、天地の間におのづからあることも、人の身のうへのことも、なすわざも、皆ことごとく神の御霊によりて、神の御(おん)はからひなるが、惣じて神には、尊卑善悪邪正さまざまある故に、世中の事も、吉事(きちじ)善事(ぜんじ)のみにはあらず、悪事(あくじ)凶事(きょうじ)もまじりて、国の乱などもをりをり(折々)は起(おこ)り、世のため人のためにあしき事なども行(おこな)はれ、又(また)人の禍福などの、正しく道理にあたらざることも多き」(『玉くしげ別巻』―全集第八巻 P.315)と言う。そして、これらの悪いことは「みな悪(あし)き神の所為(しょき)なり」(同前)と言い、その神は「禍津日神(まがつびのかみ)と申す神の御霊によりて、諸(もろもろ)の邪(よこさま)なる事悪き事を行(おこな)ふ神たち」(同前)である、という。
 こうなると、人間は単なる神のロボットであり、人間がつくり上げる歴史は、実際は「神の歴史」に成り下がってしまう。
 宣長が、現状に対する変革行動を望まず、改良のための具体策さえほとんど真剣に考えないのも、歴史は神が創るものであり、人間が創るものではない、と考えているからである。そして、人生や歴史には嫌なことも凶事もあるが、神の所為で最終的には人間は幸福を掴(つか)むことができる、というのである。
 こうした歴史観に立つ限り、すべての事象に神の意志があるのであり、すべての現実を肯定しなければならない。まさに、現実肯定主義であり、体制順応主義の鼓吹そのものである。したがって、人間は、否定的事実に直面しても、それを否定してはならず、すべてを受け入れ諦(あきら)める以外にはない、のである。まさに、人間は神のロボットでしかない、のである。
 こうした批判に対して、宣長は次のように反論する。「人も、人の行(おこな)ふべきかぎりをば、行ふが人の道にして、そのうへに、其事(そのこと)の成(なる)と成(なら)ざるとは、人の力に及ばざるところぞ、といふことを心得(こころえ)居りて、強(しひ)たる事をば行ふまじきなり、然るにその行ふべきたけをも行はずして、ただなりゆくままに打捨おくは、人の道にそむけり」(同前 P.320)というのである。
 宣長は、「人の行ふべきかぎりをば、行ふが人の道」といって、他方では「強たる事をば行ふまぎきなり」と言う。だが、この言葉だけでは「行ふべきかぎり」と「強たる事」との違いを明確にする客観基準が全く明らかではない。ただ、結果的に言えることは、同じ尊王思想家でも、明和事件(1767年)の首謀者として死罪に処せられた山縣大弐に対しては批判的であったことから、これらは「強たる事」の部類に入り、宣長の嫌うところである。
 宣長は、このような歴史観・道理は「神代に定まりたる旨(むね)」があって、それに基づくものである、と言う。その旨とは、大国主命(おおくにぬしのみこと)が皇孫尊(すめみまのみこと *天照大御神の子孫)に国譲りを行なったとき、天照大御神・高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ)の命令でかわされた約束である。
 その約束とは、「今よりして、世中の顕事(あらはにごと)は、 皇孫尊これを所知看(しろしめ)すべし、 大国主命は、幽事(かみごと)を所知(しらす)べし」(同前)というものである。「幽事とは、天下の治乱吉凶、人の禍福など其外(そのほか)にも、すべて何者のすることと、あらはにはしれずして、冥(みやう)に神のなしたまふ御所為(みしわざ)をいひ、顕事とは、世人(よのひと)の行ふ事業にして、いはゆる人事なれば、皇孫尊の御上(おんうへ)の顕事は、即(すなわち)天下を治めさせ給ふ御政(おんまつりごと)なり」(同前)とされる。
 宣長によると、この幽事と顕事とは次のような差別(違い)がある。「其(その)差別は譬(たと)へば、神は人にて、幽事は、人のはたらくが如く、世中の人は人形にて、顕事は、其(その)人形の首(かしら)手足(てあし)など有(あり)て、はたらくが如し、かくてその人形の色々とはたらくも、実は是(これ)も人のつかふによることなれども、人形のはたらくところは、つかふ人とは別にして、その首手足など有て、それがよくはたらけばこそ、人形のしるしはあることなれ、首手足もなく、はたらくところなくては、何をか人形のしるしとはせん、此(この)差別をわきまへて、顕事のつとめも、なくてはかなはぬ事をさとるべし」(同前 P.320~321)というのである。
 なかなか理解しにくい文章だが、宣長は、神と人との関係を、「人形を操る人と人形の首手足」に譬えて、幽事では世の中の人は人形のように神によってただ操られるだけだが、顕事では「その首手足など有て、それがよくはたららけばこそ、人形のしるしはあることなれ」といって、人形(世の中の人をたとえた)の「能動性」を証明しようとした。しかし、これは失敗している。なぜならば、「人形の首手足がよく働く」のは、人形遣いが働かせるからよく働くのであり、人形が自らの意志で働いている訳ではないからである(カラクリ人形に自動装置が付いていても、その場合も人が付けたものだからである)。
 やはり、宣長的な歴史観では、人は神に操られたロボットでしかない。(つづく)