幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源⑤

 歴史認識の基礎で誤る宣長 


 Ⅲ 百姓一揆に対する宣長の態度

  (1)賦税に関する史実誤認

 天変地異と百姓一揆など民衆闘争が激発する時代において、本居宣長は、人民の闘いに対して、一体、どのような態度をとったのであろうか。
 それは、1787(天明7)年12月、宣長58歳の時、紀州藩主徳川治貞に上程した『玉くしげ』(別名『秘本玉くしげ』)と『玉くしげ別巻』によく表れている。1)
 宣長は、まず現状について、「近来百姓は、殊(こと)に困窮の甚(はなはだ)しき者のみ多し、これに二つの故(ゆえ)あり、一つには地頭へ上る年貢甚多きが故也(なり)、二つには世上一同の者につれて、百姓もおのづから身分のおごりもつきたる故也、」(『本居宣長全集』第八巻―『玉くしげ』 筑摩書房 1972年 P.338 以下、宣長著作からの引用は全集から。)と述べている。

    ⅰ)上古の方が収奪は少ないか

 この現状認識は、はたして妥当なものであろうか。一つ目の「年貢甚多き」という点は、結論的にはその通りだが、賦税制度に関する歴史的把握では、誤りが多い。
 たとえば、「さて本朝は、大宝のころ令の御定めを考ふるに、廿(にじゅう)分の一ほどにあたりて、たとへば米廿俵とる所にて、年貢はわづかに一俵ほどにて済(すまし)たる也、但しこれにはいささか不審なること有(あり)て、別に僕が考へもあれど、たとひその考への如くにしても、其外(そのほか)に調庸など云物(いうもの)ありしか共、それも何ほどの事にもあらず、大宝の比(ころ)かくのごとくなれば、それより以前、上古はなほなほすくなかりけむ事、思ひやるべし」(同上)と言う。
 宣長は、大宝律令の頃と武家が政権を握った以降を比較し、今は年貢が甚だ多いと言う。確かに、大宝律令下の田租が、上田でほぼ3%という低率(佐藤和彦著『租税』東京堂出版 1997年 P.8)なのに対して、1658~1667年当時の藤堂藩(津方城代などの報告)の平均年貢率が38・5%(佐々木潤之助著『日本の歴史』15大名と百姓 中公文庫 1974年 P.316)という高率である。しかし、この比較は、租税と労役(賦)の全体構成を無視した上で、田租だけを比較したものであり、誤解を引起す。
 唐代律令制の課役2)は、租・調・歳役の三種である。だが、養老律令(大宝律令の改訂版。718年に着手され、完成年は不明)の下での課役は、調・庸・雑徭の三者である〔大宝律令(701年完成)段階では、雑徭を課役に含めない場合もあった〕。
 養老の賦役令の規定によると、歳役は、成年男子に課される労役で、中央での都の造営や造寺などのために正丁(21~60歳)が年間10日間、食料自弁で従事させられる規定となっている。次丁(老丁〔61~65歳〕と軽度の身体障がい者)は正丁の半分で、中男(17~20歳 大宝令では少丁)と京・畿内の人民は免除された。政府の都合で留役(りゅうえき)として、30日間使役を延期することもできた。その場合、日数に応じて租・調が免除された。だが、大宝の賦役令では、実際には歳役の代わりに庸という布や米を納めさせ、この庸で役夫を雇用していた。歳役は、建前と思われる。
 調は、絹・綿・布などの織物を中心に、所によっては鉄・鍬・塩・海産物など、郷土の特産物が上納された。
 雑徭は、成年男子に課せられた労役で、平安時代、正丁の場合年間60日以内の期限で徴発され、国司郡司によって地方の雑役(普請や池溝の修理など)に従事させられた。60日以内とはいえ、実際は60日いっぱい強制的に働かされることが多かった。畿内やその近国の民は都まで上り、10日は働かされた。あまりの過酷さから、労働日数を軽減されたこともある。
 人民にとって、最も負担の大きい賦は、兵士役である。軍防令によると、一戸の正丁の内、三丁ごとに一丁を採ることになっている(実際は3~5丁に一人の割合)。兵士に指定されると、毎年、通算一カ月の間、近くの軍団に訓練に行かなければならない。その上、衛士(えじ)や防人に選抜されると、都や北九州で何年使われるかわからなかった。ただし、兵士に徴発されると、庸と雑徭が免除された。だが、あまりにも過酷なためもあって、諸国一律の軍団兵士制は792年に、防人制は795年に、それぞれ廃止される。
 租は、日本では課役(人頭税)でなく、田一段につき稲二束二把(慶雲3〔706〕年に一束五把に改定)の基準で課され、税率として上田で3%ほどといわれるように、概して低率であった。租は、一部は中央に進上されたが、主要には地方官衙の財源となった。

      農民が収奪強化を阻止

 これに対して、江戸時代も確かに年貢以外に、助郷役とか、普請役(城郭、河川、寺社などの建築・修築に動員された)とかが存在した。だが、租税の場合と違って、役務の面では、古代の方が圧倒的に重負担である。それは、雑徭にみられるように、毎年定期的にかつ無報酬(多くの場合)であったからである。
 では総体としてみた場合、どちらが強く収奪されていたのであろうか。どちらも強い収奪だが、その上であえて比較すると、やはり古代の方がより収奪されていたと思われる。それは、実質上、税と変わらないものとしての出挙(すいこ)の制度で明らかである。
 この制度は律令制以前から存在しているが、公出挙(くすいこ)は、稲穀を毎年春(播種用の種もみ)夏(端境期の食用)の二回、頴稲(えいとう *稲穂)で貸出し、秋の収穫後に利息とともに回収される。利息は、5割が原則である(私出挙の場合、10割などの高率もあった)。公出挙は、地方国衙にとっては、重要な財源となった。公出挙制は、745年には完全に税制(国家財政にあてる田租の一つとして)へと変化し、9~10世紀にかけて、貸出しの基準が人から戸、そして土地へと移行し、地税化する。
 そもそも、公出挙がなければ農民の生活が恒常的に保障されないということは、政府の賦税があまりにも過酷で、農民の必要労働部分にまで食い込んで収奪が行なわれていたことを示す何よりの証拠である。
 江戸時代の支配階級の収奪も過酷ではあったが、多くの農民の果敢な抵抗闘争で、必要労働部分にまで食い込むような収奪は阻止したのである。このことは、前々回に触れた。
 宣長は、当時よりも大宝の頃の方が農民の負担は軽いかのように述べているが、大きな誤りである。また、自らの復古思想を裏付けるかのように、大宝の頃がこのような状況なので、「上古はなほなほすくなかりけむ」といっているが、これもまた、(原始共産制の時代ならいざしらず)公出挙が律令制以前から存在していたことからも史実認定で誤っている。これが、宣長の第一の誤りである。 

   ⅱ)年貢は新旧支配者に納め続けられたか
 
 先の『玉くしげ』の引用文に程ない後のカ所で、宣長はまた、「源平の乱の後、鎌倉より諸国にことごとく守護地頭といふものをおかるる世になりては、領主と地頭と両方へ年貢を上る事になりて、此時より年貢よほど多くなれる也」(P.338)と述べている。
 宣長の誤りの第二は、源平の頃から年貢が多くなったとし、その論拠を「領主と地頭と両方へ年貢を上る事」に求めたことである。
 宣長がここで言う「領主」は必ずしも明確ではないが、旧支配階級を指すと思われる。律令制国家・社会から成長した荘園制は、寺院ではすでに8世紀から認められていたが、初期の自墾地系荘園の時代から、11~12世紀には寄進地系荘園が盛んとなり、全国的に展開される。それは、各地の開発領主、在地領主が国司の圧迫から土地を守るために、皇族や大貴族の保護を求めたからである。
 朝廷は、902年の延喜の改革での荘園整理令以降たびたび荘園停止を図ってきたが、ついに院政期の鳥羽法皇(1129~1156年)の時から、荘園を積極的に認めるようになり、天皇家と皇族が持つ荘園が摂関家のそれを上回り最大となる。これは、大貴族のみならず、天皇もまた公益より私益に走ったことを意味する。天皇・天皇家の腐敗と堕落である。
 この頃の土地制度は、荘園公領制と言われ、12世紀以降、荘園も公領(国衙領)も同質的構造となった。
 土地制度の基本は、一種の職務と同時に私的所有権が一体となった「所職」の重層的構造となっている所にある。これは、本所(天皇・皇族、摂関家、大寺社)職―領家(中級以下の貴族、一般の寺社)職―各種荘官(在地領主など)職(預所職・下司職・公文職など)―名主(みょうしゅ)職の重層的な階層をもち、職(しき)の体系3)といわれる(主に西国)。ここでは、同一の土地に対して、複数の収奪者が重層的に群がり寄生するのである。だが職の体系では、その上下で封建的な主従関係は形成されていない。
 
      地頭守護が王朝蚕食

 地頭は、すでに平氏政権の頃から存在しているが、さきの職の体系でいうと荘官職のレベルである。地頭職が公的制度に転化するのは、義経追捕問題が起こった1185年の「地頭職補任の勅許」の時からである。地頭職の職権内容は、①下地管理権(土地を管理し、観農・荒地開発などを遂行する権限)、②徴税権(本所・領家、国衙そして自らのための年貢・公事〔夫役・雑税など〕の徴収権)、③警察および裁判権である。源頼朝(鎌倉殿)は、自らと主従関係を結んだ御家人を地頭職に補任し、本所・領家と対立しながら王朝国家を下から蚕食した。
 関東御分国(知行国4))と関東御領(鎌倉幕府の直轄領)を基盤とした鎌倉幕府は、1221年の承久の乱でさらに勢力を西に拡大し、京方の貴族・武士の所領3000余カ所が幕府によって没収された。そして、地頭職の任命地も拡大し、多くの荘園で、幕府の任命した地頭と荘園領主の任命した預所・下司の二重支配が進展した。こうした事態の下で、地頭は荘園領主に送るべき年貢を実力で抑留し、新旧支配階級の対立が激化した。
 この対立を解決する方法として、下地中分、地頭請などがなされた。下地は上分(じょうぶん *年貢・公事などの剰余生産物)に対する語で、上分を産み出す土地のことで、下地中分とは、この土地(田畠や山野など)を分割することである。だがこれは、争論は解決しても、地頭の武力による土地獲得を「半分」は認めることである。地頭請は、荘園・公領で、収穫の豊凶にかかわらず定額年貢の貢納を地頭が請け負うことである。この場合も、荘園・公領の実質的支配・管理権を地頭が握ることとなり、本所・領家の分け前獲得は減少するか、なし崩し的に喪失するかである。これらの結果、地頭の一円領主化が促進され、荘園制の崩壊を早める一因となった。
 他方、鎌倉時代の守護の職務内容は、一国ごとに幕府御家人(鎌倉殿との間で主従関係を結んだ武士)を動員して、謀反人の追討、殺害人など重刑事犯の捜索・逮捕、朝廷または幕府の警護(番役)の「大犯三箇条」などに当たることであり、軍事・検察の枢要部分を握った。南北朝の動乱期(1334~1360年代後半)の下で、室町幕府は、守護の軍事動員力を強化するために、守護職権を拡大した。すなわち、大犯三箇条に加えて苅田狼藉取締りの検断権、使節遵行権(判決実現の職権)、半済(はんぜい)給与権(荘園・国衙領の年貢の半分を武士に与える権限)、諸役徴収権など行政権の拡大である。
 荘官や名主が守護の被官(家来になること)になる動きは、鎌倉時代後期から進んでいる。しかし、南北朝期の守護は「遷替の職」と言われるほど交替が激しく、任国との結合が不安定であった。だが、1360年代ころから、守護の任国在任が安定的となり、「守護が国内の地頭・御家人を被官化し、守護の被官が庄園の代官になる事実が増加する」(佐藤進一著『日本の歴史』9 南北朝の動乱 中公文庫 1974年 P.379)といわれる。
 応安元(1368)年の半済令は、皇室領・摂関家領・大寺社一円領を除き、一般寺社・本所領の土地の半分を武士に与える代わりに、荘園領主の土地を侵害してはならない、とした。だが、残り半分に対しても、武士勢力の浸出は目覚ましく、15世紀以降、荘園や国衙領の年貢を一定額で請け負う守護請が広がり、ついに本所勢力は荘園支配の実務から完全に遊離し、単なる得文(とくぶん *分け前)取得者に転落する。
 1467~1477年にわたる応仁・文明の乱によって、室町幕府は衰退に陥り、戦国大名が台頭して来る。同時に、荘園もさらに全国的に衰退し、わずかに京都近郊の庄園が多少とも実質的な支配を保つだけになる。戦国大名の検地で荘園公領制はほとんど命脈がつき、太閤検地で完全に息の根を止められたのであった。
 以上の歴史的経過をたどれば、とても新旧の支配者が共存共栄し、その分農民に対する収奪が倍加したとは言えない。当然にも収奪には限界があるのであり、農民の剰余労働部分を超えると逃散などの抵抗で搾取の対象自身が無くなってしまうのである。だからこそ、収奪者どうしの激しい戦いが必然的に起こるのである。このことは、地頭や守護が本所・領家・荘官との食うか食われるかの厳しい戦いの歴史経過が如実に示している。とても宣長が云うように、「源平の乱後、……領主と地頭と両方へ年貢を上る」事態などがあり得ることはなかったのである。(つづく)

注1)『玉くしげ』は、当時の紀州藩主の諮問に答えて、藩の政治・経済政策に関する具体的な提言をまとめたものである。その際、『玉くしげ別巻』が添付された。これは、先の各論に対して総論とも言うべきもので、各政策の土台となる「まことの道」を論じた。ただ、別巻はそれ以前の天明5(1785)年ころに、宣長の門人である尾張藩士・横井千秋にあてて書いてあったものとみられるものを字句修正して、上程したものである。その後、宣長は1792年12月に、紀州藩に五人扶持で仕え、1794年11月に、十人扶持で同藩御針医格となる。なお、「くしげ」とは、櫛(くし)などの化粧道具などを入れておく箱のこと。
 2)「課」とは、割り当てて徴発する意で人頭物納税の総称であり、「役」とは労役に徴発する意で、もともとは兵役を指したが、のち純然たる力役を指すようになった。課役の特徴は、正丁に対して均等に賦課された人頭税であり、正丁に対して1丁100畝を支給する均田制にリンクしているところにある。だから、唐では給田を受けない中男(16~20歳)にも賦課される雑徭は、課役とはみなされない。なお、課役を負担するものを課口、負担しないものを不課口といい、課口を含む戸を課戸、含まない戸を不課口という。
3)班田制の崩壊後、いくつかの土地所有あるいは経営体を包摂した徴税単位として名(みょう)が形成される。この名の年貢・公事などの納入責任を負った経営者を名主(みょうしゅ)といい、その所職を名主職という。職の体系は、鎌倉時代末期ごろから、百姓の力の増大で、本所職―領家職―各種荘官職―名主職となり、さらに生産力が発展する中で、南北朝末期・室町時代初期には、直接耕作者が分化し、名主職のもとに新たな階層として作人職―下作職が作られ更に重層化する。
4)律令制度に基づく貴族の俸禄制度が9世紀頃から次第に崩れ、それを補うものとして、親王任国制(親王が国の守に任命されることが定まっている制度であり、上総・常陸・上野の三か国である)や年給制(天皇・上皇や摂関家などに、一定の官職・位階の推挙権を与え、私的に得分を得させる)がはじまる。10世紀の末からは、年給制によって任命する院宮分国制(院・皇后・女院が国守を推挙する)が始まり、後には大貴族・大寺社にもこの権限が与えられ、院政時代(年)には急増し、一族の者や近親を国守にして利益を上げた。これらは公式なものであるが、同様な制度を「朝廷の私事」として行なったものが、知行国制である。最盛期、平氏は30余国の知行国を有し、500余カ所の荘園とともに平氏政権の経済基盤となった。