幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源④
  江戸の闘いで田沼復活を阻止
                                   堀込 純一


Ⅱ宣長思想形成の時代環境

   (6)天明飢饉で田沼政治に不満爆発

 田沼政治の時代(1758~86年)は、天災・人災の多かった時代であり、天明の飢饉の前にも、大きな災害が続いていた。代表的なのは明和9年(1772)年2月の江戸の大火であり、目黒行人坂の大円寺から出火したので、「目黒行人坂の大火」と呼ばれている。この大火は、江戸の街を西南から東北方向へ焼き尽くし、江戸の大半が焼失した。諸藩の藩邸が1500軒、御目見(おめみえ)以上の旗本邸が1705軒、町が628町も焼失し、負傷者6161人、焼死者ならびに行方不明者が1万8700人余であった。
 さらにこの年の秋、風水害のために、諸国は凶作となる。災害が続いたためか、同年の11月16日に、明和から安永に改元された。〝永く安かれ〟という願いであろうか。
 しかし、翌年の安永2(1773)年4月には、諸国で疫病が流行し、江戸では3月から5月までに19万人が死んだと言われる。さらに、安永7(1778)年には伊豆大島の三原山が大噴火し、翌年10月には薩摩の桜島が大爆発する。桜島噴火では、死者は1万6000人、死んだ牛馬は2000頭にのぼった。

      (ⅰ)6年にわたる天明の大飢饉と百姓一揆

 近世の三大飢饉(ききん)は、享保・天明・天保の飢饉を指すが、天明飢饉は、天明2年から同7年(西暦1782~87年)にわたる大飢饉である(近世の六大飢饉は、これらに寛永・元禄・宝暦の飢饉が加わる)。
 この期間の被害は膨大なものであり、徳川幕府の人口調査によると、安永9(1780)年2601万0600人と天明6(1786)年2508万6466人との比較で、実に92万4134人も減少している。この数字は必ずしも正確ではないが、しかし飢饉の規模と悲惨さの大要を表現していることは確かである。
 餓死者が続出し、「人肉あい食(は)む」事態もみられた惨状から、命を守るために、広範な農民や都市民がつぎつぎに一揆や打ちこわしに決起した。

【天明2(1782)年の「千原騒動」】
 この年は、春から天候不順に見舞われ、夏まで冷気と長雨が続いた。このため、奥羽・関東・四国・九州などが飢饉に襲われた。とりわけ被害が甚大であった津軽では、作柄四分(60%減収)というひどさであった。穀物が稔らず、食べられる限りの草の根・木の皮までも食い尽くしたが、餓死者がつづき、命の危険から一家をあげての逃亡、村をあげての離村もみられた。
 ところで綿作が盛んな和泉の大鳥郡・泉郡54か村(一橋領)でも、この年の5月初めから雨続きのところへ、下旬には大風雨となり、木綿は大きな被害を受けた。7月、8月にも、強風や大風に見舞われた。稲作も凶作が予想された。
 領内の農民たち約千人は、代表を通じて代官所に被害の状況を述べ、実地検分を願い出た。しかし、代官所はそれに応えず、年貢の減免も拒否した。ただ庄屋などの村役人を使って説得し、沈静化させようとするだけであった。その中で、農民たちは掛屋(領主の蔵屋敷の出納などを任されていた商人)の不正に怒り、千原村の掛屋・川上佐助宅を襲って、打ちこわした。8月の末、主だったもの148人が捕らえられ、うち死罪1名・遠島5名・入墨敲(たたき)6名・他国留14名・手鎖98名の処罰を下された。多くの犠牲を出した一揆であったが、その後、掛屋は廃止され、年貢の延払いも認められた。

【天明3(1783)年の浅間山噴火と東北の冷害】
 この年も、春から長雨がつづき、晴れた日は稀(まれ)であった。そして、6月中旬には大雨となり、蝦夷地・奥羽・関東・九州などの河川が氾濫した。
 上野(こうずけ)と信濃の境に位置する浅間山は、4月から噴火活動を活発化させ8月まで続いたが、この間、前後10回の大爆発を起こしている。なかでも6月29日から7月2日に及ぶものと、7月6~8日にわたるものが特に大きかったといわれる。
 7月8日に噴出した火砕流は、秒速100メートルを超す速さで北流し、北麓の村々を襲い、縦100キロ・横28~32キロの範囲を焼き尽くした、と言われる。破壊された村は123に上り上野吾妻郡鎌原村(かんばらむら *嬬恋村)は火泥のもとに呑み込まれた。死者は1411人になったと言われる(3078人という説もある)。噴出した砂石が、信州側の軽井沢村には75~135センチほども積もった。噴出した岩石で川がせき止められ洪水となり、多数の人家が流された地域もあった。
 降灰は西風に乗って関東一円に広がり、江戸では昼でも提灯を持ち歩く程で、地震も続いたと言われる。
 浅間山噴火の被害を受けた村々では、年貢減免・夫食拝借を幕府や諸藩などに願い出た。だが、下層民にとって、それが受入れられたとしても解決とはならない。それ故、買占め・売惜しみによって米価をつり上げる商人や豪農に怒りが集中した。9月27日、数百人が板鼻宿(安中市)に押しかけて米の安売りを強要し、29日には、三千人が磯部宿に押し寄せ、米屋を焼き払った。これを口火に中山道沿いの宿駅で打ちこわしが展開され、さらに信州に入り、佐久・小県両郡を席巻した。これは、上田藩・松代藩などによって鎮圧されるが、上州側では、川越藩前橋領を中心に打ちこわしが展開され、下野(しもつけ)にも波及して足利や栃木などでの闘いが年末まで続く。世に言う「天明上信騒動」である。
 そして、「またこの年は東北地方は冷害にみまわれた。だがこうした自然災害による凶作、米不足という事態のもとで東北諸藩では江戸・大坂への廻米が行なわれ、また商人・豪農らの米買占めや売りおしみによって異常な飢饉と米価騰貴が現出した。」(伊藤忠士著「百姓一揆と『民衆自治』」―講座『日本歴史』東大出版会 1985年 に所収)のであった。
 1780年代は、1749~50年に次ぐ一揆のピークをなすが、図(伊藤論文中)が示すように、1783年だけで、一揆は全国で44件発生し、そのうち、東北11件、関東信越で24件と集中している。一揆は、年貢減免・夫食払下げ・廻米反対などを要求した。とともに、その日の食に事欠き、米商人の打ちこわし、米の押し借りという米騒動となっている。図が示すように、この年の「都市騒擾」は22件数えられるが、うち10件が東北地方で起こっている。

【天明5(1785)年の「伏見義民一揆」】
 一揆・打ちこわしは、天明4(1784)年5月頃を境に一時減少した。また、天明5(1785)年は、相対的に作柄が回復し、一揆はさらに減少した。だが、所によって不作が続いた。東日本など各地の困窮は、当然、他の地方にも波及する。
 江戸時代の伏見は、江戸と大坂をつなぐ交通の要所であり、物資の集散地であった。従って、伏見奉行はうま味のある要職である。1778(安永7)年、この伏見奉行に、当時権勢をふるっていた田沼意次と親密な関係にあった小堀政方(まさみち)が就任し、過酷な収奪政策を町民に課したのである。当時、伏見の町人は、集散地として駅役も煩雑で負担が重かったので、着船や船客から「石銭」という形でお金の徴収を許されていた。ところが、小堀は、この「石銭」を奉行所に取り上げてしまった。町年寄りや人足の頭たちは、奉行所に取りやめを再三願い出た。しかし、奉行所はこれを取り合わず、怒った人足達が大挙して奉行所を取り囲んだ。1782年7月の「石銭騒動」である。だが、この闘いは、奉行所によって人足頭の斬殺・関係者の逮捕など徹底的に弾圧される。
 だが、解任された町年寄りたちは、闘いを続行し、天明5(1785)年に江戸への直訴となった。同年9月、直訴は寺社奉行によって取り上げられ、小堀は伏見奉行を辞めさせられた。「伏見義民一揆」である。
 しかし、当時はまだ田沼政権の力は強く、新伏見奉行によって、逆に町民側の指導者たちは逮捕され、拷問などで牢死するものも出た。天明7(1787)年6月、反田沼派のリーダー・松平定信が老中に就任し、吟味は江戸に移され、町民たちの訴えが認められた。

【天明6(1786)年の「福山天明一揆」】
 この年の正月と2月、江戸では寒風が激しく吹きつける日々がつづき、数回も大火事が発生した。5~6月は、何日も雨が降り続き、この年の夏は涼しい位で、江戸の庶民は夏の盛りに袷(あわせ *裏付きの着物で、ひとえ、綿入れに対して言う)を着て過ごしたと言われる。7月には、大雨が降りつづき、利根川が大氾濫した。上野や武蔵は洪水の被害を受け、溺死者は数えきれないほどの多さであった。
 西日本でも、凶作・米価高騰・増税などで一揆が頻発し、この年の11月、備後広島藩で4000人の農民が年貢減免を要求し城下に押しかけ強訴に及ぶと、12月に入ると、隣接する三次藩・福山藩でも強訴が行なわれた。
 備後福山藩の藩主阿部正倫(まさとも)は、田沼意次のもとで要職を歴任し、また出費も大いに増大した。このため、藩政改革を行なわざるを得ず、改革責任者に遠藤弁蔵を起用し、凶作・不作が続く中で、百姓らからの収奪をますます厳しくした。
 この年の12月、約2万の農民は、庄屋を襲って気勢を挙げつつ、遠藤弁蔵を辞めさせること、村役人を改めること、綿の専売制を止めることなど32カ条の要求をかかげて、全藩的強訴に入った。驚いた藩側は、一揆勢の要求を聞き入れざるを得なかった。しかし、藩側は翌年1月、前言を取り消して、百姓たちの要求を拒否し、年貢の納入を指示した。
 期待を裏切られた農民たちは、怒りをもって再び決起し、前年以上に激しく打ちこわしを行ない、国中の庄屋の8割が打ちこわされた。
 一揆勢は、2月6日、隣の岡山藩に越訴(おっそ)した。その要求は岡山藩を通じて、直ちに江戸の阿部正倫に伝えられ、事態の重大さを知った阿部も、遂に遠藤ら不正役人の追放、綿の専売制の廃止、借金棒引きなどを認めた。

     (ⅱ)田沼政治にとどめを刺した「諸国騒動」

 天明7(1787)年もまた、闘いは再び激しく燃え盛ることとなった。図にみられるように、一揆は40件と再び増え、「都市騒擾」にいたっては49件と百姓一揆を上回る件数を記録し、近世最大の件数となった。
 だが、1786~87年の民衆闘争は、1783年と違って東北地方では極めて少なかった。諸藩が津留(米を他領に出さないこと)をしたり、羽前村山郡の村役人層の「郡中議定」による米穀確保などで、大阪や江戸に廻米がなされなかったからである。
 他方、西日本では前年に引き続き、この年も民衆闘争は激しく続けられた。2~6月にかけ、周防・播磨・丹波などで、強訴と打ちこわしが相次ぎ、畿内や四国でも頻発した。とりわけ注目すべきは、諸国からの廻米に依存する大阪や江戸での闘いである。
 大阪の闘いは、天明7年5月10日夜、木津村(道頓堀川南に難波村・木津村)の米屋打ちこわしが契機となり、11日に玉造町々・天満伊勢町・安治川新地などの周辺地域での訴願・打ちこわしを経て、12日朝からは大阪三郷(北組・南組・天満組)全域に展開した。民衆は、11日夜から12日昼までは、諸国米の買占めをした悪辣な商家を見せしめとして打ちこわしたが、12日昼からは搗米屋(つきこめや)に対する押買(おしがい *拒否すれば打ちこわし)となった。13日には、大阪三郷の搗米屋は一斉に店を閉め売り切れの張り紙を掲げたため、民衆は朝から天王寺村・木津村・難波村などの搗米屋へ押買を展開した。これに連動し、平野郷・伏見・尼崎・八尾・京都・西宮などでも打ちこわしが展開された。
 この闘いで特徴的なのは、木津村(難波村とともに畑地)のように①綿屋・絞油屋など加工業や蔬菜栽培・青物渡世など近郊農業の発展、②地主兼借家経営の成長、③無高借家人層の滞留・集積―の地に住む民衆は、大都市に住む住民同様、飯米を米市場に依存せざるを得ず、凶作・飢饉に真っ先にさらされ、闘争に決起していることである。
 兵庫では、5月13日夕方から深夜にかけて、6軒の米屋が打ちこわされている。福井では、5月22日に米屋打ちこわしが行なわれたが、江戸の商人の買占めで、米穀は払底していた。尾道では、5月24日に米屋など2軒に対する「石打ち騒動」が起こっている。
 江戸では、5月20日夕方からの赤坂・深川での打ちこわしが起点となり、小職人・小商人・日雇いなどの下層民衆が主体となって、21~24日に市中全域での打ちこわしとなった。ある調査によると、打ちこわされた「……511軒のうち、66%余は米屋・舂米屋であり、あとの34%弱は酒屋・食料品関係・金融・灯油・衣料・その他の業種の者であった」(岩田浩太郎著「打ちこわしと都市社会」―岩波講座『日本通史』14 近世4 1995年)と言われる。

     (ⅲ)宣長の近辺での一揆・打ちこわし

 今の三重県は、かつての伊賀・伊勢・志摩の三国全域と紀伊国の一部に相当する。徳川政権になると、この地の大半は親藩の紀州徳川藩と、外様ではあるが徳川氏と特別に深い関係になっていた藤堂藩によっておさえられた。家康の子・頼宣が元和5(1619)年に紀州藩主となると、田丸・松坂・白子の18万石と南・北牟婁郡3万5000石は紀州藩領とされる。伊予今治2万石の城主藤堂高虎は、関ヶ原の戦功で伊賀一国と伊勢の安濃・一志二郡で合わせて20万石を与えられ、およそ22万石となる。その後も大坂の陣などの戦功で加増され、藤堂藩は最終的には32万石となる。
 両藩以外には、亀山藩・桑名藩・長島藩・神戸(かんべ)藩・菰野(こもの)・久居藩・鳥羽藩などがおかれたが、皆小さく、しばしば藩主が交代し安定しなかった。他に、伊勢神宮がある宇治・山田は神領とされ、山田奉行が支配する天領も置かれた。
 本居宣長が生まれ育った伊勢松阪は、紀州藩領であり、近世、近江商人と並び称せられる伊勢商人の地である。宣長は、(商人も含む)歌のサロンや門人などを通じ、諸国の民衆闘争の情報を得たことは確かなことであるが、なによりも宣長自身の周辺でも一揆は続発している。
 宣長の生前(1730~1801年)、今の三重県で発生した一揆などの主なものは、以下のものである。
 一揆が激化するのは、18世紀以降とされる。1759(宝暦9)年、紀州藩白子領一志郡小川村で、惣百姓123名は、庄屋六兵衛の悪行19ヶ条をあげて、その交代を奉行所に訴えている。「村方騒動」である。
 1768(明和5)年9月、亀山藩の83か村の農民が参加した大きな一揆が勃発した。一揆の要求は、代官・庄屋の退役、荒地検地の中止、茶・菜年貢の廃止、甲州御用金(幕府から命令された甲州治水工事)・守山御用金(近江守山での朝鮮使節の接待)の免除などである。藩は一揆側の要求をほぼ全面的に認めた。しかし、一揆側は3名が鈴鹿川原で処刑され、4名が永牢とされた。
 天明の大飢饉の時にも、当然のこととして一揆が起こっている。1782(天明2)年10月、武蔵忍藩領(伊勢国員弁郡)で一揆が起こり、年貢増徴を狙う検地に反対し、また各村の富豪を攻撃した。これにより、農民数人が死刑となった。
 同年12月、桑名藩の各郡で3万人の農民が、検地に反対し年貢減免を要求して、目付の家々を攻撃した。藩は洪水で被害が広がっているにもかかわらず、新検地で年貢増徴を図ったのである。藩は、鉄砲をも使用して一揆を鎮圧し、指導者を処刑したが、地方役人全員を辞めさせざるを得なかった。
 この地での、江戸時代最大の一揆は、藤堂藩の藩政改革に反対した1796(寛政8)年の農民3万の全藩一揆である。藩政改革には、切印金(農村金融)百年賦、公私債務の延期というモラトリアム、影伐(障害になる木を伐採。ただ藩士の屋敷は除外)、常廻目付(8人)の禄米を農村負担としたことなどもあるが、やはり最大の問題は地割法(均田制)である。地割に対しては、地主・富農のみならず、歓迎するはずの貧農もまた年貢重課を嫌って反対した。一志郡山中38か村への地割施行が導火線となり、闘いは同年12月26日から始まり、一揆勢は、27日には常廻目付や庄屋の家々を破壊し、28日には津城下に押し寄せた。29日、藩は常廻目付と地割役人を廃止、と発表する。
 翌年3月、藩政改革の中心人物・茨木重謙は知行・屋敷を没収され蟄居を命ぜられ、郡奉行・郷目付も辞めさせられた。だが、一揆の指導者も3人が処刑され、他にも数名が逮捕された。(つづく)