幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズム③
  
  天明期激増の一揆と打ちこわし
                         堀込 純一



Ⅱ 宣長思想形成の時代環境

    (5) 幕藩制を揺さぶる百姓一揆・打ちこわし

 旧君主の臣下や土豪とともに戦われた百姓一揆は、1637~38年の島原・天草の乱をもって終わる。だが、武装解除された(兵農分離制下の)百姓の一揆は、17世紀後半からじょじょに多くなり、本格化する。
 最初のピークをなすのが、1749~50(寛延2~3)年頃であり、1749年には約22件も発生した。次のピークが、1780年代で、田沼政治の時代(1758~86年)の末期にあたるとともに、天明の大飢饉に襲われた時期である。その規模は、年平均でいうと、1749年のおよそ二倍になる。江戸時代の百姓一揆は、その後、1830年代のピークで更に増加し(1780年代の約1・5倍)、幕末の1860年代にも、1830年代に準ずる規模で持続している。
 幕府は、1620(元和6)年に、徒党禁止令を出す。寛永年間(1624~44年)には、農民が遵守(じゅんしゅ)を誓わされた五人組帳の前書きにも、一味神水・徒党の禁止がうたわれた。1633年には、直訴(じきそ)も実質的に禁止する。直訴とは、決められた手続きを経ないで、お上(かみ)に直接訴えることである。
 だが、幕藩権力が「百姓の成立(なりたち *生活や生産の維持)」だけでなく、生命それ自身を脅かすほどの過酷な収奪に走ると、百姓たちは、やむなく非合法な一揆を組織し、果敢に抵抗した。
 江戸時代初期は、地方知行制(じかたちぎょうせい)[幕府・諸藩の上・中級家臣〔これを給人・地頭という〕が知行地を宛行〔あてが〕われ、直接、農民支配や年貢収奪を行なった]により、過酷な収奪をおこなう給人や代官に対する抵抗闘争が行なわれた。主な闘争形態は、逃散(ちょうさん *逃亡)である。同時に、村請制1)の要である名主などの不正をただす初期「村方騒動」2)も展開される。
 農民たちは、「百姓の成立」のために、必死の闘争や経営改善(農間の余業や賃稼ぎ)を行なう。だが、1642(寛永19)年の寛永大飢饉を通じて当時の小農経営の脆(もろ)さが一挙に露呈する。これを契機として、以降、幕府もまた小農保護の法令を次々に発布せざるを得なくなる。
 17世紀後半になると、百姓一揆は、越訴(非合法な直訴)が主なものとなってくる。17世紀末になると、惣百姓が直接に参加する惣百姓強訴が現れはじめる。この「十七世紀末、生産諸力の発展とさまざまなたたかいは、しだいに全剰余労働の収奪を不可能にさせ、十八世紀前後には、百姓のもとにわずかながら剰余部分の確保を可能とし、小百姓経営の一般的成立をみた。それは、百姓身分の村落構成員としての自立化を意味し、ここに村には、本百姓(高持)と水呑(無高)という年貢負担の有無を基準とする身分序列と、『名主・庄屋、組頭、年寄』などの『長百姓』(『大前』)と『小百姓』(小前)という村政上の身分序列が生まれるにいたる。」(青木美智男著『百姓一揆の時代』校倉書房 1999年 P.156~157)のである。

       (ⅰ)全藩的強訴の頻発

 1710年代(正徳・享保期)以降になると、百姓一揆は先鋭化し、従来の代表越訴から強訴がしだいに増えて来る。強訴とは、農民が集団で、年貢軽減などの反対を訴えて実力闘争に入ることである。
 藩領域の農民が集団で城下に押しかけ強訴するという全藩的強訴は、すでに17世紀後半からみられる。1681(天和元)年、美濃加納藩領の農民7~800人が城下に押しかけ年貢減免を要求した一揆、1686(貞享3)年、信濃松本藩領の農民千数百人が年貢増徴政策に反対し、城下に5日間とどまり、用達商人の店を打ちこわし、藩にほぼ要求を認めさせた一揆(「加助騒動」)、1698(元禄11)年、美作津山藩領で、新領主の年貢増徴に反対する農民数百人が城下に強訴して要求を実現した一揆などは、先駆的な全藩的強訴である。
 18世紀に入ると、全藩的強訴は本格化する。有名なものは、以下のような一揆である。 
 まず挙げられるのは、、1708~09年の「水戸宝永一揆」である。水戸藩の財政は光圀の時代から既に厳しかったが、その死後一挙に表面化し、藩は改革に取り組まざるを得なかった。改革は、1703(元禄16)年~1709(宝永6)年にかけて行なわれ、具体的には、藩札の発行、殖産興業の推進、年貢増徴、新田開発、運河の開削、諸役人の整理などである。水戸藩はこれらの改革を譜代の家臣ではなく、他所から浪人(松波勘十郎ら)を招いて行なった。1708(宝永5)年すえから翌年正月にかけて、常陸水戸藩の全領を巻き込んだ一揆は、水戸藩庁への請願から始まったが受け入れられず、江戸藩邸に切り換えて行なわれた。農民たちの要求は29項目にも及んだが、主なものは、年貢増徴・運河開削の夫役反対、松波罷免などである。この一揆では、村々から100石に一人当たりで代表を出し、約3000人の代表が江戸に上って交渉し、結局、農民側は犠牲者も出さずに勝利した。
 次に挙げられるのは、1711年の安房の「万石騒動」である。安房の27か村1万石の小大名北条藩は、1703(元禄16)年の元禄大地震や、1708(宝永5)年の富士山大噴火の降灰やその後の冷害などで農業が衰退してしまった。北条藩は藩政改革として、新田開発や灌漑用水路の開削などに取り組み、そのために農民たちは長期間の無償労働に駆り出された。1711(正徳元)年、藩はさらに新たな検見(米の収穫前に田を検分して年貢量を定めたこと)をして、年貢増徴を図った。これには、遂に農民たちの怒りが爆発し、年貢米の増徴撤回、過去10年間の年貢率の軽減を要求し、代表が江戸屋敷に押しかけ門訴した。しかし、藩側はこれらを受け付けず、弾圧した。一揆指導者6名のうち、3名を斬首、3名を追放刑とした。これに対し、農民たちは決死の覚悟で、時の老中に駕籠訴を繰り返した。これにより、幕府評定所は農民たちの訴えを認め、北条藩は取りつぶし同然となった。
 全藩的強訴の典型と言われるのが、1712(正徳2)年の「大聖寺正徳大一揆」である。同年、加賀前田藩の支藩である加賀大聖寺藩では、台風に伴う塩風でほとんどの稲が立ち枯れてしまった。農民たちは減免を願い出て、藩はこれに応えて、郡奉行らが検見の巡回に出た。しかし、役人たちは大悪作の村でも平年よりわずかの減免をしただけで、全く減免なしの村もあった。農民たちは、これに憤慨し、何回も討議し、その上でようやく役人たちが那谷寺に止宿している時に、これを襲った。農民5000人が包囲する中で、交渉が行なわれ、押し問答の末、年貢高の4割納入・6割用捨(免除)となった。「成功」した農民たちは、今度は茶・紙などの運上による年貢増徴策を推進した十村(前田藩や大聖寺藩での大庄屋の呼称。20~30村を束ねた)や茶問屋・紙問屋などを打ちこわした。この一揆には、肝煎(きもいり *名主・庄屋に相当)から頭振(あたまふり *水呑百姓のこと)・下人まですべての諸階層が、しかも15~65歳までの成人男性が一人残らず参加し、全藩的強訴の典型と言われる。だが翌年3月、一揆指導者15名が斬首された。
 1716~18(享保元~3)年になると、中国地方の諸藩でも全藩的一揆が頻発する。1716年6月頃に、石見浜田藩、周防徳山藩で、同年12月には、丹波篠山藩で、翌1717年2月になると、因幡・伯耆にまたがる鳥取藩で、同年秋には、備中松山藩で、同年12月から翌1718年1月にかけては、備後福山藩で、同年2月には、広島藩の支藩・三次(みよし)藩で、同年3月には、備後広島藩で、と相次いで全藩的強訴が起こっている。

         〈江戸では初めての打ちこわし〉
 全藩的強訴は、幕府領も例外ではない。1720(享保5)年11月に、会津南山御蔵入(おくらいり)5万石で、1729(享保14)年には、岩代信夫・伊達両郡8万石で、年貢減免などの強訴が起こる。1725(享保10)年に、但馬朝来郡10か村で、銀納米価引き下げの闘いが、1738(元文3)年には、但馬生野、美作の幕府領で、年貢減免と夫食(ふじき *農民の食料となる五穀やイモのこと)を要求する大規模な強訴と打ちこわしが行なわれている。1744(延享元)年10月には、勘定奉行神尾春央が上方筋を巡見し、隠し田の摘発や年貢率の引上げを強行したので、摂津・河内・和泉・播磨の幕府領農民が代官所、京・大坂町奉行所さらには公卿・朝廷にまで訴願を繰り返した。
 1733(享保18)年、江戸で初めて都市下層民による打ちこわしが行なわれた。この年、気候不順に伴なって稲の害虫が異常発生し、西国は大凶作となり、餓死者も続出した。このため、西国救援のため通常とは逆に江戸から上方へ米が送られ、江戸の米価は急上昇し、江戸の民は塗炭の苦しみに陥った。多くの裏店(うらだな)層はもとより表店(おもてだな)層も商売に困窮し、これらの人々と同情する家主らは、年末から翌年正月にかけ、2~3000人でたびたび町奉行(大岡忠相・稲生正武)に米価値下げを嘆願した。 
 だが、幕府はこの嘆願を取り合わず、民衆は遂に米価買占めの下り米問屋・高間伝兵衛の店を打ちこわした。この打ちこわしは、江戸では初めてであり、幕府に対する強烈な批判である。
 1749(寛延2)年、この年は、陸奥・羽前・越後・佐渡・磐城・岩代・常陸・武蔵・丹波・播磨・讃岐などで、強訴・打ちこわしが同時多発的に広範に展開された。一年間に22件前後であり、江戸時代の百姓一揆の最初のピークをなす。
 これに対して、幕府は、1750(寛延3)年正月、幕府領・私領の百姓あてに「強訴徒党逃散」を厳しく禁ずる法令を出す。これは、1741(寛保元)年の「地頭江対し強訴、其上徒党致し逃散之百姓御仕置之事」として、〝頭取死罪、名主重キ追放、組頭田畑取上所払(ところばらい)〟などの処罰を規定したのに続く、本格的な一揆弾圧令である。

     (ⅱ)広域化し専売制に反対する一揆

 しかし、百姓一揆は、1750年代を通じて大きな衰えもなく持続し、18世紀後半になると、惣百姓強訴の性格は変わらないまま、農民闘争の性格に新たな特徴が表れて来るのである。
 その特徴の第一は、専売制反対の一揆が登場することである。江戸時代中期以降、諸藩は財政改革のために、領内での特産品生産の奨励とともに、特権商人を使って藩がその販売を独占をしたのである。専売制反対の一揆も、他の一揆同様に多くの要求項目をもったが、とりわけ、自由売買を掲げ、価格、流通の統制に反対した。
 1754(宝暦4)年3月、筑後久留米藩では、数万人の農民が一揆に決起した。その要求は年貢減免と共に、新に強行された人別銀の賦課や新運上銀に反対し、また穀物・紅花など特産品売買への藩の統制や、紅花染藍問屋の廃止を求めるものであった。この闘いでは、在方商人16軒をふくむ大庄屋・庄屋・用達商人など60軒が打ちこわしに会った。
 1755(宝暦5)年、土佐藩では、国産方役所設置に伴い、特権商人の不当な国産紙強制買上げに反対する一揆が起こる。
 その特徴の第二は、広域闘争である。田沼時代(1758~86年)の幕藩が、商品生産や流通への介入を強化するのに対して、農民らの民衆闘争も幕府領・私領を超えた地域的連携をもった一揆へと発展していったのである。
 1764(明和元)年、幕府は中山道の伝馬のための助郷村3)を飛躍的に拡大し、〝新たに編入された村々の伝馬負担は金納とし、その徴収権を委託させる代わりに、輸送業務を保障する〟という商人グループの提案を採用し、実施に乗り出した。これに対して、信州・上州・武州の百姓数万人は、徴税強化とみて、反対闘争に立ち上がり撤回させた。
 1768~69(明和5~6)年は、越前福井藩の御用金(藩が強制的に富裕な町人や農民に課した借金)反対一揆、伊勢亀山藩の用金(朝鮮使節の接待や甲州治水工事のための費用)免除や茶菜年貢の免除を要求した一揆などが相次ぎ、それとともに、商人や村役人に対する打ちこわしが伴なった。同じころ、「……1768年だけでも、大阪町、越後直江津町、加賀小松町・越後出雲崎町、同新潟町、同十日町、同三条町、と七件もの打ちこわしを伴なった都市下層民の闘争が記録されている。商品生産と貨幣経済の拡大が引起こす矛盾が、農民ばかりでなく都市下層民の生活を脅かし、一揆・騒動と都市騒擾を同時的に引起こしたのである。広域闘争はこうした基礎的条件のもとで展開した。」(藤忠士著「百姓一揆と『民衆自治』」―講座『日本歴史』6近世2 東大出版会 1985年)のである。
 1781(天明元)年、幕府が上州の一部の豪農・豪商らが出願した絹糸貫目改所(検査料を生産者から徴収し、ここから幕府への冥加金をひねり出す。同様な計画は1758年にもあったが失敗)設置を許可したのに対して、三都の商業資本が同盟して買入れボイコットを行なったため、販売先を失った農民たちが、領域を超えて結合し、設置計画に加担した豪農・豪商ら数十軒を打ちこわした。上州南西部と武州北部の農民約6万人は、高崎城を包囲し、幕府は遂に計画を断念した(「上州絹一揆」)。この闘いは、養蚕業など小商品生産に従事する多くの零細農民と、幕府権力ならびにこれと癒着する特権商人・豪農との鋭い対立を示す代表的な広域闘争である。(つづく)

注1)領主権力は、名主(西国では庄屋)・組頭(同、年寄)の村政執行機関を通じて、個々の村人(イエ)ではなくムラ全体の連帯責任で年貢の徴収、夫役の徴発を行ない、支配した。これを村請制という。
 2)一般百姓が、村役人(名主・組頭)の年貢割当てや村入用などの不正を領主に訴え、村政を改革する運動。
 3)公用の旅行者・参勤交代や物資輸送のために、定められた人馬を常備し、輸送に従事することを伝馬と言い、宿場周辺の村々がそれを負担するのが助郷役という。