幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源②

 重商主義の田沼政治―悩む物価問題
                             堀込 純一


  Ⅱ 宣長思想形成の時代環境

    (3)直接税の限界から間接税も導入

 将軍吉宗の隠退(1745年)から松平定信などによる寛政の改革が始まる1787年の間の42年間のうち、前半の13年間の幕府政治は、通常、「宝暦期の幕政」と言われる。残りの後半が「田沼政治」の時代である。
 「宝暦期の幕政」は、松平武元(たけちか)・酒井忠寄・秋元涼朝(すけとも)・松平康福(やすよし)らの老中や側用人・板倉勝清などの集団指導体制である。この時期の政治の性質は、享保の改革の延長である。具体的には、部局別予算編成による経費削減を進めながらの、①官僚システムの整備・発展、②幕府権力の強化による諸藩の統制などが、特徴的である。
 田沼時代(1758~86年)においても、幕府財政を健全化するという基本政策は変わりはなかった。しかし、具体的な政策は大きく変化する。すなわち、重農主義の限界から重商主義へと重点が移動したのである。
 その特徴を具体的にみると、まず第一は、財政支出の削減内容である。1755年と1771年の予算をみると、この間に、約三割の削減がある。しかし、削減は諸部門一律ではなかった。江戸町奉行所の予算や農村対策費は据え置かれ、「盗賊改め」の新設もあった。削減された対象は、大奥や殿中の消費支出と、治水・土木工事関係費である。後者の大幅削減で、必要な治水・土木工事は、農民や国持大名に課せられ、大きな負担となったのである。いうなれば、治安関係予算は優遇されたが、公共政策は農民や国持大名に押し付けられたのである。
 第二は、財政収入の増大策である。依然として、年貢増徴は追求された。しかし、享保改革期の松平乗邑・神尾春央らの過酷な取り立て策で年貢増徴は極点に達し、既存の耕地からの増収は限界に至っていた。そこで、新田開発に向かった。田沼時代の新田開発は「町人請負新田」と言われ、商人資本を利用したもので、大規模なものは少なかった。大規模な新田開発は、江戸や大坂の商人資本を導入して幕府が行なったもので、1782年印旛沼干拓・1786年手賀沼干拓がそれぞれ着手された。だが、普請の途中で洪水にあったり、田沼が失脚したりして中断する。これらの大規模な新田開発は、当時の技術水準では困難であり、計画倒れとなった。
 もう一つ失敗したものに、蝦夷地の大規模な開発構想がある。1778年、南下政策を続けるロシアは松前藩に通商を求めるが、同藩はこれを拒否する。これらを聞き、仙台藩の藩医・工藤平助は自ら蝦夷地を調査し、『赤江戸風説考』を著わし、北方問題の重要性を説いた。この著書は幕閣も入手し、1785年に調査隊が派遣され、帰還後、報告書が提出された。報告書は、調査を継続するとともに、アイヌ民族を使って蝦夷地を開発するというものであった。だが、ロシアとの貿易に関しては、否定的であった。蝦夷地開発には、浅草の弾左衛門以下の「長吏や非人」ら被差別民も動員される予定であった。報告書の見積もりでは、本蝦夷地(後の北海道)の10分の1を開発すると、116万6400町歩(583万2000石)の耕地が得られる、というものであった。これは、当時の全幕府領の石高が400万石強であるから、この構想がいかに破天荒であるかがわかる。これも実行直前に田沼が失脚し、頓挫する。

       重商主義政策をつぎつぎと導入

 財政収入において、直接税(年貢増徴)の限界から間接税を導入し定着させたのが、田沼政治の一つの特徴である。これは、株仲間を積極的に公認したことにみられる。
 株仲間とは、商工業者の独占的な同業者組合であり、仲間数を株によって固定する集団である。幕府は、株仲間に仕入れや販売の独占権を与え、その代わりに運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)の名目で、営業税を上納させた。運上金は一定の税率を定めた租税であり、冥加金は幕府の保護に対する見返りの献金である。
 同業者組合結成は既に享保改革で行なわれていたが、田沼政治はこれを全面的に展開した。株仲間公認政策は、都市の商工業者のみならず、農村の在郷商人に対しても、在方株の公認という形で推し進められた。運上金も冥加金も、かつては臨時的なもので、定額ではなかったが、田沼政治は、これらを重要な税目として定着させた。
 田沼政治は、株仲間のような特権団体を作り、財政増収を図っただけでなく、御用商人を使って銅・鉄・真鍮(しんちゅう)・朝鮮人参・朱(しゅ *赤色の顔料)・龍脳(りゅうのう *龍脳樹という木からとった白色の結晶で、香料や防虫剤に使う)など幕府直営の座を結成したり、明礬(みょうばん)会所や石灰会所などの会所(取引所)を設置するなどして、幕府の専売体制も整備した。
 幕府経営でいうと、長崎貿易の拡大がある。貿易政策は、寛永期(1624~44年)に「鎖国体制」を確立して以降、金銀産出の減少に対応して規模の縮小が繰り返された。だが、田沼政治は大きく方針を転換し、貿易を拡大して金銀の輸入を図った。そのために、輸出品としての銅を扱う銅座や、俵物(煎海鼠〔いりなまこ〕、干鮑〔ほしあわび〕、鱶鰭〔ふかひれ〕)・諸色(雑物)を扱う俵物会所を設け、輸出品の拡大を奨励した。
 長崎貿易によって、中国やオランダからの輸入銀が増加した。田沼政治は、この銀を使って南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)を製造した。
 田沼政治は、商業全般の興隆を図るために、貨幣政策にも力をいれた。1765年には、最初の計数を表示した銀貨である五匁(ごもんめ)銀を鋳造している。これまでの秤量銀貨(ハカリで重さを測り価値を表す銀貨)からの転換である。1768年には、銅の代わりに真鍮を素材とする四文銭(しもんせん)を鋳造している。だが、四文銭は1億5700万枚の大量発行であったが、品質が悪かったため銭相場の下落を招き、日常的な諸物価を押し上げることとなった。
 1772年には、前述した南鐐二朱銀を鋳造し、さらに計数銀貨(価値を表示した銀貨)への転換を図った。近世では、東の金貨、西の銀貨と言われるように両貨がそれぞれ決済通貨になっていたが、計数銀貨はその不統一の克服を図る手段でもあった。南鐐二朱銀はその名が示すように銀貨であったが、二朱という金貨の単位をもち、八枚で金一両と交換できた。南鐐二朱銀は、大阪ではよく通用したと言われるが、金銀相場の変動で利益をあげようとする両替商には歓迎されず、また、政治不信から江戸の町人にも敬遠された。

    (4)「米価安の諸色高」に悪戦苦闘

 田沼政治は幕府財政の収入増加のために、重商主義政策を次々と採用したが、それは物価対策においても顕著にみられた。すなわち、米価は安いのに諸色(しょしき *他の諸物価)が高いという「米価安の諸色高」の是正である。この問題は、享保改革期から見られ、以降引き続き幕府が悩み悪戦苦闘する課題である。1)
 江戸時代、百姓が生産する米の多くは、領主に年貢として徴収され、一部の富裕農の余剰米や零細農の自家消費の一部も米商人に売却され換金されることが多かった。幕府や諸藩も年貢の一部を家臣に支給した他は大半を都市で換金し、家臣も支給された俸禄を換金した。多くの藩は領内に城下町や鉱山など限定的な米穀市場しかもっておらず、最大の市場である大阪や江戸に年貢米を販売し、参勤交代や大名の妻子・家臣の江戸生活のために貨幣や非自給物資を獲得した。
 大阪の堂島には、西国や北國の諸藩の米が集まった。江戸中期以降、大阪の諸藩の蔵屋敷は約100カ所を数え、毎年100~200万石ほどが入津(入港)した。江戸で扱われた米の大半は商人米である。領主米としては仙台藩など太平洋側の東北諸藩や関東の諸藩の廻米があったが、幕府の城米(幕府直轄領の年貢米)も重要であった。城米の大半は、浅草の蔵前の御蔵に入り、毎年40~50万石の米が幕臣に俸禄として支給された。
 当時の蔵米(幕府や諸藩の蔵屋敷を通じて商品化される米穀)の売却は、①蔵屋敷の蔵米入札公示、②米仲買商の入札、③特定商人への落札、④落札した商人の米代金の支払いと現米の受領に代わる米切手(一種の倉庫証券)の受領、という形でなされた。
 幕府は、「米価安の諸色高」を是正するために、諸物価の抑制(その一環として株仲間が公認された)を進めるとともに、米価維持回復策として、1761年に空米(くうまい)切手の振出しを禁止した。
 空米切手とは、まだ蔵に納められていない、これから入蔵する予定の年貢米の売却に際して振り出された米切手のことである。空米切手は、諸大名の贅沢な消費を賄うための現金需要の増大故に大量に振り出されていた。このことが、米価を絶えず引き下げる要因となっていた。
 
       強権的な全国御用金・貸付会所令で失脚

幕府は、空米切手の禁止と共に、米市場に対する強権的な介入を行ない、米価の安定を図ろうとした。すなわち、空米切手禁止令の発令と同時に行なわれた御用金政策である。
 これは、幕府御用金としては初めてのことであり、1761年から翌年正月のかけて三回に分けて行なわれた。「それは、①大阪の有力商人二〇〇人余から一七〇万両の御用金を幕府が徴収し、②幕府はこの金をただちに大阪町々に割り付けて拝借させ、③大阪町々は、その中の三分の二で米を購入し、残りの三分の一を大名などへ貸し付けるという計画であった。これは、第一に、米商品の総量の価額を事実上、公定することによって米価低落を防止し、第二に、空米切手禁止によって生ずる大名の金融逼迫を解消しようとするものであった」(水林彪著 日本通史Ⅱ『封建制の再編と日本的社会の確立』山川出版社 1987年 P.402)と思われる。
 だが、このような強権的な政策は不評であり、70万両しか集まらず、この政策は打ち切られた。だが、田沼政治はあきらめることなく、1767年、1773年と同様の意図をもった法令が出された。そして、1785年には、大阪商人を対象とした再度の御用金徴収が行なわれ、翌86年には、御用金を全国の諸身分に課す拡大策をとり、全国御用金・貸付会所令が発令された。
 この全国御用金・貸付会所令は、向こう5年間、全百姓から持高100石につき銀25匁、全町人から間口一間につき銀3匁、宮門跡(みやもんぜき)を除く全寺社から15両を上限とする格式相当の御用金を徴収し、これに幕府自身の資金を加えて、大阪に設立される貸付会所を通して大名に利貸しするもので、担保は大阪の米切手か領地に限られていた。もし大名が債務返済不能の時は、幕府の手で米切手による強制蔵出し、または領地の代官移管による年貢取り立てが行なわれるというものであった。
 しかし、この中央集権的で強権的な政策は、民衆はもちろんのこと、御三家・諸大名さえ反対し、結局、田沼政権がこの年に打倒されることによって頓挫した。
 田沼政治の決算をある一面からみるならば、次のように言える。田沼意次が政治の主導権を握る以前の1755年、幕府の貯蓄額は253万両であったのが、1770年には、300万4000両に増やしている。しかし、この年をピークにして貯蓄額は大きく減少し、田沼失脚後の1788年には81万7000両にまで減少した。
 大幅な減少の原因は、1782年からの東北地方の大飢饉や、1783年の浅間山の噴火などの天災・飢饉の続発もあげられうるが、より根本的には田沼政治の重商主義政策が
成功していなかったことにある。
 田沼時代の政治については、古くから近年に至っても、おしなべて「改革」とはみられていない。この理由について、深谷克己著「18世記後半の日本」(岩波講座『日本通史』14 近世4 1995年 に所収)は、次のように述べている。
 「近世の改革は根本において、建て直しのための集中的政策のことであった。それは強烈な現状批判の意識に立ち、権力機構や世俗慣習に立ち向かうという性格をもつ。ここでの建て直しとは、志と義を内面化させた武士の奉公生活、勤と倹を内面化させた百姓・町人の家業生活、これを回復させるための強権政治のことである。田沼政治も広い意味では建て直しを目ざしたのであるが、それは幕府の勝手元(かつてもと)不如意の解決という経済課題を第一義とするもので、武士や百姓や町人の身分制的なあり方の倫理内容にまで立ち入ろうとする政治は展開しなかった。したがって田沼政治に動かされる近世国家は教諭・教化国家の性格を後退させ、風俗・風紀に対して強く統制しなかった。……」と。
 強い政治的制約の下でありながら、豪商・豪農が諸藩の財政を左右するほどに成長するなかで、田沼政治が「教諭・教化国家の性格を後退させ、風俗・風紀に対して強く統制しなかった」ことで、そのすき間から町人文化がさらに成長したのであった。(つづく)

注1)米価安は、1723(享保8)年頃から始まり、1731年には、最高時の四分の一の安値にまで落ち込んでいる。暴落の直接の原因は、大阪市場への米の供給過剰である。享保期の通貨政策の失敗によるデフレ、緊縮策による諸商品の増産や新製品製造の禁止と、これらに対照的な年貢増徴策などは、米の供給過剰問題を増幅させた。これに対して、他の商品が高値をつけた理由は、背景に商品生産の発展がある。小農の生産と生活を維持するためには、年貢米と自給作物以外に「諸稼ぎ」(商品作物の栽培・加工と賃稼ぎなど)をしなければならなかった。納税皆済(18世紀後半には貨幣納の比率があがる)や、生産向上のための金肥(油粕やニシン)購入などによって、農民も貨幣経済に巻き込まれざるを得ない。また、商品需要は、都市人口の増大や消費水準の上昇でも拡大した。しかし、「米価安の諸色高」は、米年貢制を主軸とした幕藩制社会を根底から揺るがすものである。庶民の生活だけでなく、俸禄米を換金し生活物資を調達する武士をも脅かすからである。