幕藩体制の動揺と天皇制ナショナリズムの起源――①

幕藩制揺るがす田畑売買の盛況
                                     堀込 純一

  はじめに

 今、世界を覆う新自由主義は、極端な競争主義と格差拡大で、まさにその本性である弱肉強食をみせつけている。ここでは、一握りの享受者を除くと圧倒的多数の人々が犠牲者である。しかし、中には犠牲者であるにもかかわらず、事態の本質を見抜くことができず、立ち向かうべき資本主義ではなく、あたかも八つ当たりの如く、自己の不満をより弱い立場の人々に押し付けてカタルシスにひたる向きもいる。その典型の一つが、豊かな国々でのナショナリズムであり、排外主義である。日本においても、その動きは近年ますます強まっている。
 以下では、日本のナショナリズムの形成に大きな役割を果たした本居宣長を取り上げ、その内容を改めて批判的に検討してみることとする。

 Ⅰ 本居宣長の生い立ち

 国学者として有名な本居宣長は、享保10(1730)年5月7日、伊勢国飯高郡松坂本町に生まれる。幼名は小津富之助である。
 父は小津三四右衛門定利で、母は村田孫兵衛豊商の娘・お勝である。松坂には、三井家、殿村家など30軒近くの豪商があったが、宣長の実家・小津家(木綿問屋)や母の実家・村田家もまたこの豪商に属していた。曽祖父・三郎右衛門の代に江戸大伝馬町に三つの店を開き、祖父・定治の時には江戸堀留町に煙草店と両替商を創設するなど経営は大きくなっていく。
 宣長には、義兄がいた。義兄は、父の最初の妻・きよの連れ子・定治である(祖父と同名)。従って、宣長は、次男である。宣長が生まれたので、義兄・定治は嗣子の位置を退き、江戸で別に一家を立てたいと願い出たが、定利はこれを許さなかった。しかし、義兄・定治は強いて江戸に出て自ら商売を始めた。
 宣長は、11歳の時(1740年)、父を失う。この年の8月、宣長は幼名・富之助を彌四郎に改める。翌1741年5月、母・お勝は子どもたち(男女二人ずつ)を連れて、本町の本宅から魚町の隠居所に移る。この移転は、父の遺産を義兄・定治が相続したので、お勝が気を使ったためと言われる。だが、定治は江戸の店を整理し、残った資産四百両を親戚に預け、お勝・彌四郎ら母子の生計が立つように取り計らっている。
 宣長は、延享2(1744)年4月から一年間、母の計らいで江戸の伯父の木綿問屋で商いの見習いを始める(16歳)。だが、宣長は商売に不向きなのか、一年ばかりで投げ出し、江戸から戻ってしまった。
 寛延元(1748)年11月、宣長は、山田の紙商・今井田家の養子となる(19歳)。だが、寛延3(1750)年12月、今井田家を離縁となり、松坂に帰る(21歳)。
 しかし、実家の家業を継ぎ、江戸で営んでいた義兄・定治が、宝暦元(1751)年、40歳の若さで病死する。宣長は同年2月江戸に下り、その後始末を行ない、同年7月、松坂に戻った宣長は、家督を継ぐ。だが、その時には父の江戸の店は既になく、義兄の店もまたすっかり衰え、宣長が相続したのは、かつて義兄の配慮で親戚に預けられていた四百両と、魚町の家だけであった。
 母は宣長の素質が商いに向かないとみて、宣長が医師となるための勉学を目的に京都に上ることを援助する。宣長、23歳の時であった。この頃、小津姓から元の姓である本居姓に改めている。
 宣長(1730~1801年)の生きた時代は、徳川吉宗などが推進した享保の改革(1716~1745年)の中頃から松平定信などが推進した寛政の改革(1787~93年)に至る時代である。その間には、重商主義的性格の色濃い「田沼時代」(1758~86年)が横たわっている。

 Ⅱ 宣長思想形成の時代環境

       (1)幕藩体制の経済的基礎は小農生産
 
 徳川幕藩体制の経済的基礎は、土地と人に対する封建的領有制の下での小農生産である。これが基本である。そして、この基本を支えるのが、手工業・商業の三都(江戸・大阪・京都)・城下町への集中と全国的流通網の形成1)、全領主階級の江戸・城下町への集住、外国貿易の幕府による独占などの諸条件である。
 近世の国家と社会は、16世紀末期に成立し17世紀半ばには安定したといわれる。
 だが、早くも寛永20(1643)年3月に、田畑永代売買禁止令2)が出される。これは、農民層分解がすすみ、土豪や上層農民が小農の窮状につけこんで土地兼併を行なうことを禁止する小農保護策である。
 さらに寛文13(1673)年6月には、分地制限令が出される。その内容は、〝名主は20石以上・百姓は10石以上持っている場合以外は、田畑を分けてはいけない〟というものである。
 この背景には、新田開発―分家輩出の停滞という状況がある。近代以前に於いて、最も新田開発が推進されたのは、戦国時代から慶安~寛文(1648~73年)期にかけてである。室町時代中期(1450年)頃の耕地面積は94・6万町歩であり、それが1600年頃に163・5万町歩、1720年頃に297・0万町歩に増加する。室町中期を100・0とすると、1600年頃が172・8,1720年頃が313・9となり、江戸時代初期に約3倍という爆発的増大をみたのである。
 分地制限令も小農保護策であるが、分家輩出を続けることにより、本家自身の経営ですら危ぶまれるために対処して出されたものである。新田開発が少ない中での分地は、幕藩体制そのものの経済的基礎を破壊することに直結するからである。
 しかし、支配階級の懸命の小農保護策にもかかわらず農民層分解は止まらず、耕作農民の田畑質入れ・永代売買は増大する。幕府の土地政策が大きく転換するのは、六代将軍綱吉の時代である。すなわち、元禄8(1695)年6月、「質地取扱に関する十二ヶ条の覚」が出された。
 従来、幕府は田畑永代売買禁止令という土地政策の原則から、田畑の質入れは認めても、その結果としての質流れは認めていなかった。年季を切らずに質入れしたり、年季を切っていても請返しが出来ないときには、証文の書き替えという処置をとっていた。しかし、17世紀半ば頃になると、質入れ地が又質に入れられ、それがさらに又又質に入れられるなどして、江戸時代初期の根幹的土地政策、すなわち、耕地所持権者=名請人(耕作するものが同時に年貢を納入する)という原則が極めて不明確になってきたのである。
 よって、新たな「覚」では、〝年季が来て請返しが出来ない時は、質入れ地を渡す(質流れとする)〟という流地文言が証文に入っている場合には、質流れを認め、質入れ主の質地請返し請求権を認めないことにしたのである。
 農業における商品生産の増大、凶作と重税などは、農民層分解を推し進め、田畑永代売買禁止の原則を形骸化させ、田畑の質入れ・質流れをますます拡大させた。

      (2)享保改革でも止まらない田畑の質入れ

 1716年8月、紀州藩主の徳川吉宗が、徳川幕府の第八代将軍に就任した。第三代将軍・家光以来の血脈が絶えたためである。これを、儒学者・室鳩巣は「天命」と言い、加賀藩の家老・今枝民部直方は「革命(天命が革〔あらた〕む)」と称した。
 徳川吉宗が中心となって推進された享保の改革は、後の松平定信らの寛政の改革や水野忠邦らの天保の改革(1841~43年)を含む三大改革の起点とされ、吉宗の政治は後世、理想化され、改革政治のモデルとされた。
 大石学著「享保改革と社会変容」(『日本の時代史16』吉川弘文館 2003年 に所収)によると、享保改革の概要は、Ⅰ統治体制の強化、Ⅱ幕府財政の再建、Ⅲ官僚システムの整備となる。Ⅰは①将軍権力の強化、②首都江戸の改造、③首都圏の再編、④国家政策・公共政策の展開、Ⅲは①法の整備、②官僚機構の改編、③公文書システムの確立などの諸分野にわたる。
 Ⅱでは、「吉宗の財政再建の基本は、倹約による支出抑制と、増税による収入増加であった」とする。そして、自らが登用した最初の老中である水野忠之を勝手掛老中に任命し、再建プランを検討させた。水野の答申は、?年貢増徴と?新田開発を基本とし、成果が出るまでの緊急措置として、上米(あげまい)の制を実施するというものである。
 上米の制は、「幕府の苦しい財政事情を説明し、恥をしのんで諸大名に毎年高一万石につき百石の割で献米させる」というもので、享保7(1722)年に実施された。
 年貢増徴では、各地の幕領で検見取(けみどり)法(*年々の検見〔役人による検分〕をもとに年貢量を決定する)から定免(じょうめん)法(*作柄にかかわらず一定期間年貢量を固定する)に代えて、役人の不正を防止し、収入の安定を図るとともに、期間切れ時に年貢引き上げを狙った。1727年には、幕領全般で年貢率を40%から50%に引き上げた。
 新田開発では、町人請負も含めた開発促進を行ない、越後の紫雲寺新田、下総の飯沼新田、武蔵の見沼新田・武蔵野新田などが開発された。幕府の年貢総額の平均は、1716~26年の140万石余に対し、1727~36年には156万石に増加している。
 他にも、甘薯やハゼなどの殖産興業政策や、朝鮮人参など輸入品の国産化なども行なっている。こうして、1730年頃には江戸城の金蔵には新に100万両の金が蓄積され、同年には、上米制も廃止された。
 しかし、1732(享保17)年頃になると、享保の大飢饉で西国が困窮し、また過剰米による米価暴落などで、幕府財政は再び悪化した。
 吉宗は、1737(元文2)年、空席となっていた勝手掛老中に松平乗邑(のりさと)を任命し、年貢増徴―財政再建に改めて取り組む。乗邑は享保改革の最後の8年間(1737~45年)を、老中首座・勝手掛老中として主導するが、彼の下で諸政策を積極的に展開したのが、勘定奉行の神尾春央(かんおはるひで)である。彼は、「胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり」(本多利明著『西域物語』)と語った人物とされ、厳しい農民収奪で知られる。
 さらに彼らは、流作場(河川敷)や原地への新たな新田検地を行なった。流作場(りゅうさくば)検地は1738年以降、本格的に立案・実施されたが、従来、入会地(いりあいち)であり、高(大名・旗本などに支給された土地の量)を付けていない河川敷を開発し、年貢を賦課する政策である。原地(はらち)検地は、1743年以降、本格的に進められた政策で、山林・原野を新たに「林畑」として把握し、年貢を賦課するのであった。
 これらはいずれも、肥料・燃料の供給源であって、農業経営・農民生活に不可欠なものである。そして従来、共有地として課税もなく利用できたものであった。幕府は、これらを強引に新田として取り込み、収奪政策を強化したのである。
 これらの結果、幕府は1744(延享元)年に、享保改革期において、180・1万石という年貢収納量のピークを記録した。享保改革は、このように将軍の権力基盤の強化・官僚システムの整備を背景に、強権的な農民収奪を基本として成し遂げられたのである。
 だが、吉宗の政治も初めから思い通りに進められたわけではないようである。つまり、吉宗を紀州から招いた老中たちに対する遠慮があったといわれる。その代表例は、享保7(1722)年4月に出された「流地禁止令」である。これは、当時、農政および財政担当の老中・井上正岑らが推進したと言われる。
 その主旨は、元禄時代以来認めてきた質入れ地の質流れを認めないというものである。理由は、江戸町方で屋敷地を質入れした際の商習慣を、農地に安易に適用した誤ったものであること、そのため裕福な者が質流れの田地を多量に集積したり、田地が金を持つ町人の手元に集積される結果になったことである。
 だが、「流地禁止令」は、幕領・私領(大名領や旗本領など)を問わず、大きな波乱をひきおこし、なかでも羽州村山郡長瀞村、越後国頸城郡などで農民一揆が大規模におこり、世に「質地騒動」と呼ばれた。
 「流地禁止令」は、一揆指導者たちの犠牲のうえに、発布以来2年もたたない1723年8月に、吉宗たちにより撤回される。この結果、質地の取扱いは、享保6年以前のルールに戻り、享保の改革によっても田畑永代売買禁止の原則はますます形骸化していったのである。むしろ、享保の改革においても、この形骸化を阻止し変革しようなどという姿勢はなかったのである。(つづく)

注1)幕藩体制の下で、諸地域経済は、幕府直轄領の大阪・京都・江戸、中でも大阪が中心となって形成された全国市場(17世紀後半に形成)と有機的に結合した。例えば、大藩は大量の年貢米と諸々の特産物を大阪などへ運んで貨幣に換え、その金で諸地域で生産される種々の物資を購入して藩に持ち帰るという形で、全国市場と結びついた。
2)中世の土地売買には、①年季売り、②本物返(ほんものかえし)、③永代売買(今日の売買と同じ)の三種があった。①②は質入れと似るが、根本的に異なる。質入れは本銭(借入金)に利子を添えるが、①②は利子が不用。①は一定の期間を限って売ることで、買戻し行為をしなくても年限がくると田畑は売主に戻る。②は本銭返とも言い、本銭を返さないと売主の下に田畑が戻らない。だが、近世にかけて、①と②の区別は次第に無くなる。