古代日朝関係史から学ぶ(最終回)
 現地外交官を統轄できない倭


   Ⅳ残されたいくつかの疑問

(2) 「任那復興会議」での論点とは何か

 「任那復興会議」とは、欽明2(541)年4月と欽明5(544)年11月に、百済が加耶諸国の代表と「日本府」(倭の外交使節)を招いて開いた会議のことである。
 百済は、加耶問題において、「任那復興会議」の開催だけではなく、使者を安羅や倭国に派遣し説得するなど、さまざまな工作を行なっている。
 『日本書紀』によると、この時期の叙述は主に『百済本記』を史料としているため、百済中心に展開されている。しかし、体裁は、神功皇后の「新羅征伐」「三韓征伐」を契機とした「朝鮮支配」を前提にしているために、倭の領導の下に「任那復興」という共通スローガンで百済や加耶諸国が協調しながら、諸矛盾を取り除く外交交渉を進める形になっている。
 だが、実情はきわめて複雑で激しい交渉となっている。
 まず第一に確認すべきは、諸矛盾の核心である。それは、結論的に言って、加耶諸国の存立の危機であり、それを巡っての加耶諸国と一方の加害者・百済との非和解的な交渉にある。(もう一方の加害者・新羅と加耶諸国との交渉は、『日本書紀』にはほとんど描かれていない)
 外交交渉で問題となっていることは、具体的には、新羅による金官・卓淳・?己呑の三国占領に際して、百済が要請に応えて安羅に進駐した(531年)が、先に百済が占領した帯沙と安羅の間の下韓(ないしは南韓)の地を、百済が直轄化するために郡令・城主を置いた問題である。
 このことは、加耶諸国が百済に面と向かって要求している場面は描かれていないが、代わりに倭王権の口を借りて明確に要求されている。
 たとえば、『日本書紀』欽明4(西暦543)年11月条で、天皇が「津守連(つもりのむらじ)」を百済に派遣して詔して、「任那の下韓にいる郡令・城主を日本府に附けるべきである」といっていることで明らかである。
 「郡令・城主」問題が交渉の第一論点となっていることは、百済側もまた、十分自覚している。だから、百済の聖明王が、倭国の要求について佐平(*百済の官位十六階の第一)らに相談した際、佐平らは「郡令・城主は出すべきではありません。(三国の)復建のことは(天皇の)勅を聞くべきです。」と答えている。
 また、欽明5(544)年11月条で(第二次「任那復興会議」で)、聖明王は「任那(三国)復興」について、次の三つの計略を述べた。すなわち、「任那を復興し、元のように兄弟となりたい。聞くところによれば、新羅と安羅両国の境には大きな江(かわ)があり、要害の地という。私はここに六城を築き、天皇に三千の兵士を請い、新羅に耕作させないように苦しめれば、久礼山の五城は自ずから武器を捨てて降服し、卓淳も復興するだろう。これが第一の策である。南韓に郡令・城主を置くのは、多難を救い、強敵(*高句麗のこと)を防ぎ、新羅を制するためであり、そうでなければ滅ぼされてしまう。第二の策である。吉備臣、河内直、移那斯、麻都がなお任那に居れば、任那の復建はできない。彼らを本邑に還(かえ)すべきである。これが第三の策である。」と。
 聖明王は、第二策で、明確に「郡令・城主」を置くのは、対高句麗・新羅戦で不可欠であり、それなくしては滅ぼされるとまで言っている。聖明王は、それに止まらずさらに安羅と新羅の間に築城を増やすとまでいっている(第一策)。「郡令・城主」問題は、双方にとって譲ることができない問題になっているのである。
 第二に確認すべきことは、聖明王の第三策にも見える倭王権のミコトモチの更迭要求に関してである。
 聖明王は、欽明2(西暦541)年4月の第一次「任那復興会議」で、近肖古王(在位346~375年)や近仇首王(在位375~384)時代から、百済と安羅・加羅・卓淳との間の友好関係を強調し、「三国が滅んだのは新羅が強いためではなく内応などのために滅んだのであり、新羅は独力で任那を滅ぼせない。ともに力をあわせよう。」と強調している。
 欽明4(西暦543)年12月条では、聖明王の諮問に対して群臣らが、「任那の執事(つかさ)・国々の旱岐(かんき)らをよび、ともに計るべきです。また河内直・移那斯(えなし)・麻都(まつ)らが、なお安羅にいると任那復建は難しいので、本国に返らせるようにしましょう。」と答えている。聖明王も、自分の意見と同じであるといった。
 同年11月の第二次「任那復興会議」でも、同様の更迭要求が百済から出されていることは前述した。

(3)何故「日本府」を統轄できないのか

 百済の執拗なミコトモチ更迭の要求に対して、倭国はのらりくらりとして受け入れていない。これは、一体何故なのであろうか。
 その理由は、いくつか挙げることができる。最大の理由は、①具体的な方針を打ち出す前提としての情報収集を現地の状況に詳しい倭系加耶人に頼らざるをえないことである。次に、②具体的な指示を出す側の倭王権の不安定さのために、これまた現地に依存せざるを得なかったからである。
 ①について検討すると、これは倭国だけではないが、当時、外交交渉の相手の情報を採ることができるのは、極めて限定された人間に限られていた。
 このことを示す手がかりとなる話が、『日本書紀』に記述されている。
 それは、欽明5(西暦544)年3月条である。そこでは、百済が倭に使者として派遣して上表した、という。そこでは、「先に任那や日本府の執事らをよびましたが参りませんでした。それは、阿賢移那斯(あけえなし)と佐魯麻都(さろまつ)の策謀によります。そもそも任那は安羅を兄とし、安羅の人は日本府を父として、その意に従っております。的臣(いくはのおみ)・吉備臣・河内直らは、移那斯・麻都に従っております。この二人が日本府の政をほしいままにしているのです。二人が安羅にいて策謀すれば、任那を復建することはできません。二人を本国に召還して下さい。」と述べられている。
 的臣・吉備臣・河内直は、明らかに「日本府」(倭国の使節―ミコトモチ)である。だが、移那斯・麻都は、「日本府」(ミコトモチ)とは記述されておらず、河内直らよりも身分は低い者である。二人は、倭系の加耶人であり、現地で採用された者と思われる。
 それにもかかわらず、欽明5年3月条によると、この河内直らは「移那斯・麻都に従っている」と、百済に批判されている。つまり、立場が転倒していると思われるような関係に陥っている。その原因は、現地情報に詳しい移那斯・麻都ら抜きには、的臣・吉備臣・河内直らミコトモチは情勢を把握できず、また任務を遂行できないからである。しかも、現地情報にくわしい現地出身者は、極めて限定されていたと思われる。だから、余計に移那斯・麻都に頼らざるを得なかったのだろう。
 そのうえさらに、ミコトモチのひとりである河内直は、加耶から倭へ渡来した者の子孫と言われる。論者によって細かいところは異なるが、河内直が加耶(星山加耶の説もある)からきた渡来人の子孫であることは、明らかである。
 移那斯・麻都が「日本府」(ミコトモチ)をリードし、河内直らもまた彼らと意を同じくする。彼らが加耶諸国の利害を追求することを第一として、そのために倭王権を利用する
真意は、百済や新羅によって滅ぼされた自らの先祖たちの無念を大事にするからである。
 倭王権がミコトモチたちを統轄できないのには、倭国側の事情もまた存在している。
 吉田晶氏によると、6世紀前半の倭国の加羅(加耶)諸国に対する基本政策は、次のような内容を持っていたと言う。「第一に、……海を距てた異種族の居住地を領土的に支配することは、倭国の国家形成にとって必然性を持たない。倭国の側で期待されることは、国家形成の主体勢力としての畿内勢力が独占的に先進文明を受容しうる体制をつくり上げることである。第二に、……磐井の乱(『書紀』によると528年―引用者)後においても反乱主体勢力であった筑紫君を国造に任ずるという形での、在地の首長層のもつ政治的秩序に依存した支配形態のあり方からみて、加羅地域への倭国の支配が何らかの形で存在したとすれば、それは加羅地域の政治的秩序に依存することを基本とするものであった」(「古代国家の形成」―『岩波講座 日本歴史』2 古代2 1975年)と。
 このことは、「日本府」が行政府や軍事府のような官衙でないことを間接的に示している(「加羅地域への倭国の支配」は肯けないが)。また、倭王権の実体が、石母田正氏らが抱いた程、強固な王権としては形成されていないことをも示している。
 さらに、移那斯や麻都らは、経済的には倭に依存しておらず、必ずしも倭の統括下にあって活動していないのである。『書紀』欽明5年3条によると、「新羅、春に?淳を取る。仍(よ)りて我が久礼山の戍(まもり)を擯(お)ひ出して、遂に有(たも)つ。安羅に近き処(ところ)をば、安羅耕種(なりはひ)す。久礼山に近き処をば、斯羅(しらぎ)耕種す。各(おのおの)自ら耕(なりはひ)して、相(あい)侵し奪わず。而(しか)るを移那斯・麻都、他(ひと)の界(さかい)を過ぎ耕して、六月に逃げ去りぬ。……」とある。このように、二人は、安羅と新羅との境界にまたがった地を耕作して、生活していたのである。全面的に倭に依存した生活ではなかったのである。

(4)情勢激変で大加耶も滅亡

 548年、高句麗が百済を攻撃し、三国の間での戦争がまた激しくなる。高句麗に対して、百済と新羅が共闘し、これを撃退する関係が大きく変わる情勢となる。
 550年正月、今度は百済が兵1万で高句麗を攻め、道薩城(天安)を陥落させた。だが、3月には逆に高句麗が百済の金?城(全義)を陥落させた。新羅は二国の兵が疲労している隙に乗じ、勢力を拡大し、漁夫の利を占めている。
 551年には、新羅が高句麗を襲い、10郡(漢江上流域)を奪い取った。
 553年7月には、新羅は百済の東北地方を攻め取り、新州という郡を設置し、阿?(あさん)の金武力(最後の金官国王の三男)をそこの軍主とした。
 554年7月、百済の聖明王は、加良(高霊)とともに新羅の管山城(忠清北道沃川)を攻めるが、逆に百済王は討ち取られる。この戦いで、新羅は大勝利し、百済側は「馬一頭すら生きて帰ったものはいなかった」といわれる。
 『書紀』によると、この間、百済は547年、553年、554年と、倭に救援を要請し、倭国もこれに応え、救援軍の派遣や武器・軍糧の援助などを行なっている。
 554年の管山城の戦いの後の数年は大きな戦いはない。
 562年7月、百済が国境を侵したので、新羅王は兵を出してこれを防ぎ、1千余人を戦死させたり捕虜にした。『三国史記』新羅本紀によると、同年「9月、加耶(大加耶 今の高霊郡)が叛いた。王(*新羅王)は異斯夫にこれを討つように命じ、斯多含は彼を助けることになった。斯多含は五千騎を率いてまず栴檀門から攻め入り白旗を立てた。城の中の人々は恐れおののいてなすすべを知らなかった。ついで異斯夫が兵を率いてたどりつくと、たちまちみな降服してしまった。」という。
 田中俊明氏によると、「……安羅の新羅との『内応』の意向からすれば、おそらく管山城の戦い(*554年)からまもなく、(*安羅は)新羅にかんぜんに従属したとみてよかろう。……『三国史記』に、異斯夫や斯多含が大加耶を攻撃したことのみを記しているのは、どうやら大加耶が陥落するのにともなって、連盟の諸国がしたがったということを示しているようである。連盟諸国は、盟主大加耶の陥落によって、その命運が決まったのであり、ここに大加耶連盟は、終局をむかえた」(『大加耶連盟の興亡と「任那」』)のである。
 高句麗・百済・新羅三国の間での戦争が激しくなるにつれ、「任那復興」をめぐる倭国の態度は大きく変化してくる。かつては、「郡令・城主」問題で百済を批判し、加耶諸国の側に立っていたのが、いまや百済へのそのような注文は掻き消え、百済への軍事支援が専らになってくる。倭国は、情勢変化を前にしてあくまでも自国の利益を優先して、政策転換を行なったのである。
 この政策転換点について、(「任那日本府」は)「外交使節」説の立場にたつ李永植氏は、「倭国において、古い段階の鉄資源を始めとする加耶の先進文物は、政権維持の鍵でもあった。しかし、この時期(欽明初期のこと―引用者)を前後にして、日本府の関連記事で”呉の財物”のごとく記された、百済からの先進文物が、加耶のそれを圧倒するようになり、倭国は主な外交相手を加耶から百済へ乗り換えようとした。東部加耶の滅亡や復興の問題に、それほど積極的ではなかった所以がここにある。」(『東アジアの古代文化』110 2002年冬)と言う。
 倭国が安羅や大加耶連盟諸国の「独立維持」よりも、百済支援を優先したということは、旧来の通説(「任那を日本が直轄領としていた」という主張)の誤りを逆に照射するものでもある。つまり、「自国の領土」の維持をやめて(「任那支配」の放棄)、百済救援を敢行するなどは決してありえないからである。(終り)