古代日朝関係史から学ぶ教訓④ 

  反動的な「出先機関」説の崩壊
                                 堀込 純一


   Ⅲ三韓征伐と不可分の任那日本府論 

        (4)国際外交機関説の登場

 金錫亨氏や井上秀雄氏の論文発表をきっかけとして、「任那日本府」に関する研究・論争は、活発に展開される。
 鈴木靖民氏は、『歴史学研究』の1974年2月号で、井上氏の著書『任那日本府と倭』を書評する論文「いわゆる任那日本府および倭問題」を発表する。その書評で鈴木氏は、①古代日朝関係史の再構築に意欲的に取り組み、従来と異なる構想の下に幾多の史実が解明されている、②任那(日本府)・倭問題を任那史の自立的発展とのかかわりで研究している、③古代日朝関係史の実証水準を高め、史料吟味を厳しく迫ったこと、「つまり原史料にまで遡った精密な文献批判をせずに研究することがもはや不可能であることを厳しく警告した」と評価した。
 そのうえで、鈴木氏は、内容的には次のような疑問を提起する。「……基本的な問題として、第一に任那日本府が実際に朝鮮南部在住の倭人の行政機関であったと断定し切ることが果たして可能か。第二に倭も任那地方の別名・総名としてすべてを解決して構わないか。倭はやはり日本を主体とする点を重視すべきではないか、ということをなおも指摘せざるをえない。」と述べている。
 そして、鈴木氏は簡潔に自己の見解を次のように開陳している。「今私見を略述すると、任那日本府がもし実在したとすればそれは4世紀以降随時任那地方におかれた国際外交機関的組織ではなかったかと思われる。その構成も日本人(大和朝廷とは限らない)を含めて任那地方・百済地方の人びとが参加していたと考えてよい。その設置の動機は、やはり4世紀中葉以後における東アジアの変動、とりわけ朝鮮南部をめぐる任那諸国と百済との間の抗争に際してであり、これに倭=日本が何かの形で干渉するようになったのであるまいか。日本府なる称は元来倭府とでも呼んだものであり、むしろ組織の主体は任那諸国の側にあったのでなかろうか。後の新羅における領客府が倭典をその前身とする事実(注1)……が以上のような推測を類証するように思われる。少なくとも、任那日本府は従来の通説となっているような大和朝廷の朝鮮南部支配の機構としての権力構造を決してもってはいなかったろう。」と。
この鈴木氏の説を発展させたのが、奥田尚著「『任那日本府』と新羅倭典」(『古代国家の形成と展開』吉川弘文館 1976年 に所収)である。それによると、「『日本府』の実態は、百済・新羅・日本などが任那諸国に影響力を確保するためにつくり出した諸国臣集団であった。諸国臣集団は各本国の位階にくみ込まれながら、逆にその関係を利用し行動した。任那諸国もまた生存のためにはこのような集団を利用する必要があったのである。このために諸国臣集団は任那諸国共同の外交機関のような様相を示すこととなった。」といわれる。

         (5)ミコトモチ=倭の使者説

 鈴木靖民氏の論文が発表された頃とほぼ同じ時期に、請田正幸著「六世紀前期の日朝関係」(『朝鮮史研究会論文集』11 1974年3月)が公表される。
 請田氏は、『日本書紀』に見られる「日本府」にかんする記事の検討から、「……先ず第一に確認すべき点は、『日本書紀』には『日本府』という形であらわされるものは、六世紀前期、日本の年代では欽明天皇の時代にしか見えないのであるから、『日本府』が四・五世紀に逆上って存在したとする『通説』は、『日本書紀』の主張をさらに、拡大して解釈したものである。」と批判する(「通説」の内容については、本シリーズの前回を参照)。「次に任那『日本府』の一般的な性格であるが、『日本書紀』の『日本府』関係の記事を検討しても、『日本府』が任那諸国に命令を下したり、監視をしたりするという記事は見えず、任那諸国や、新羅・百済などと外交交渉をしたという記事ばかりである。」とおさえる。
 そのうえで、「日本府」の性格を訓から考察する。まず「『日本府』の古訓は『ミコトモチ』であり、また『国守』『国司』は『クニノミコトモチ』である。両者に共通する『ミコトモチ』の意味は、古注釈によると、『令持天皇御言之人也、故称美古止毛知』(注2)とある。この『ミコトモチ』は律令制下の国司とアナロジーして考えられていたために、天皇の命によって一定地域を支配するものと考えられていた。そのために、任那の『国守』や『国司』も律令制下の国司と同じもののように考えられて、支配する機関又は人間と見られていた。しかし『ミコトモチ』の古義には天皇の意志を伝達する人間=使者という意味だけであって、律令制下の国司ほどの強い権限を持っていなかったようである。また、具体的な職掌から見ても、律令以前の国司は強い権限を持っていなかったし、山部小楯の例から見ると臨時派遣の官であったことから考えると、任那の『日本府』や『国司』や『国守も臨時派遣の使者であったようである。」としている。
 また「通説」批判として、「『日本府』は、『府』の字がついていることなどより官衙のように通説では考えられている。しかし、『日本書紀』を見る限りでは官衙であることを証明する記事は見えなく、逆に『日本府』が個人(及び個人の集団)を指すような記事が多く見みられる。」と指摘する。「府」という字形から、後世の人間ならば陥りやすい誤り、すなわち、何らかの行政府なり、軍事府としての幕府をイメージするのが誤りだと指摘するのである。
 以上を踏まえて、請田氏は、「任那『日本府』は安羅にしか存在せず、金官には存在しなかったということであり、その任務は、朝鮮諸国を支配・監督するためではなく、外交交渉のためであり、さらに『日本府』は、一つの官衙を持った官僚組織ではなく、個人又は個人の集合であるということである。」と、まとめた。
 請田説すなわち「倭の外交使節』説によって、「通説」による「任那日本府」論は、ほぼ全面的に批判され否定された。戦前からの長い間、日本帝国主義の植民地主義イデオロギーの中核を占めてきた「任那日本府」論は、ついに崩壊したのである。

  Ⅳ残された課題

 「任那日本府」に関する『日本書紀』の記述は、実に複雑で、なかなか理解しにくい。筆者にとって、最大の疑問は、①「任那復興会議」に参加する諸勢力間の対立の真相、②倭王権の態度や政策の変転と理由、③倭王権が派遣した「日本府」(ミコトモチ)やその下で働く倭系加耶人たちと倭王権との関係が最終的に決裂する理由などである。
 これらの疑問を解決するには、まずもって当時の加耶をめぐる諸国・諸勢力の関係を把握することが不可欠である。

        (1)加耶地方をめぐる百済・新羅の争奪

 倭国は、360年代に卓淳(半島南部の海岸部で安羅〔咸安〕に近く、その東側の地)と通交し、これを媒介に安羅や百済とも通交するようになる。金官とはそれ以前から交流があり、4世紀後半には、倭―加耶南部諸国―百済の「南方通交ライン」とも称すべき関係ができあがっていた。
 だが、この時代は、百済と高句麗との間では激しい戦争が展開されており、広開土王(在位391~412年)の南下政策により、両者の戦いはさらに激烈になる。高句麗の厳しい攻撃に対し、百済は安羅や倭などに救援をもとめ、これに答えて倭や安羅が支援し戦った。
 396年には、広開土王は親征して、百済の王都・漢山城を陥れ、百済の阿華王に忠誠を誓わせ、王族も含めた人質や沢山の貢物の獲得、並びに58城の奪取という大戦果をあげている。しかし、百済はすぐに反旗を翻し、倭との同盟を強める。
 427年、高句麗が平壌に遷都し、南下政策を強めると、百済は434年に新羅とも同盟し対決する。
 高句麗に対して、百済、新羅が抵抗し、倭が百済を支援するという構造をもったこの時期、他方では、加耶諸国をめぐる百済と新羅の抗争が激しくなってくる。  
 田中氏によると、「……442年に倭は、かねてより友好関係にある金官国もしくは安羅国を足場として、独自に大加耶に進出し、そこに覇権を確立しようとしたが、大加耶の救援要請をうけた百済の攻撃によって失敗した」(田中俊明著『大加耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館 1992年 P.97)と推定されている。
 加耶諸国の存立が厳しくなる中で、470年代に、大加耶(高霊)を中心として10数か国が参加した大加耶連盟が形成される。
 長きにわたって高句麗に従属していた新羅は、5世紀中頃からは自立を強め、481年、高句麗に攻め込まれた時には、百済、加耶に救援を要請し、ともに戦っている。
 475年、百済は高句麗によって漢山城を陥落させられ、蓋鹵王(がいろ)王(在位455~475年)が殺され、一時的に滅亡する。蓋鹵王の子・文周は南に逃れ、錦江上流の熊津を王都とし、ここで即位(在位475~477年?)して、百済の再興を図る。百済の再建は、周囲の環境からして南部への領土拡大とならざるを得ず、5世紀末から6世紀初めにかけて今の全羅南道まで進出した。積極的に領土拡大を狙う百済は、さらに南東部の加耶地域へも手を伸ばす。
 513~516年、百済は、大加耶連盟に属する上己?・下己?(蟾津江〔ソムヂンガン〕上流域)を狙って攻め込む。大加耶を中心とする連盟側は抵抗するが、百済はこの地を奪い取る。百済は、そこからさらに進出し、河口の多沙津を522年までに獲得する。
 大加耶は、百済のさらなる侵略に対処しようと、かねてより接近策をとっていた新羅に通婚を要請した。これは成功し、522年に新羅と大加耶の間で婚姻同盟が成立した。
 この状況下で、新羅は524年加耶南部の金官国へ侵攻(第一次侵攻)する。だが、他方で、大加耶との婚姻同盟は、夫婦に子ども(月光太子)まで生まれたが529年に破綻する。新羅王の王族の女と大加耶の異脳王の息子が522年に結婚した時、新羅側は従者1000名を一緒に送り込んできた。大加耶では、これら従者に大加耶の服装を着衣させた上で各地方に散置した。だが、新羅は何年かして、これら従者の服装を新羅の公服に変えさせた(「変服問題」)。公服は、新羅の官位制を示すもので、あえて大加耶の服装を新羅の公服に変えさせたのは、新羅の下心を露骨にあらわしたものである。大加耶は、従者たちを召還させ、ここに婚姻同盟は、崩壊する。
 新羅は、大加耶との婚姻同盟が破たんした529年、金官・?己呑(とくことん *金官と卓淳の間の国)へ侵攻し壊滅的な打撃を与え(第二次侵攻)、531年までには卓淳を制圧する。そして、532年、金官国の仇亥王は新羅に来たりて降服する。こうして、金官国は最終的に滅亡する。
 だが、新羅は、降服した金官国王一族を破格に厚遇する。降った仇亥王を高い位につけ新羅王都に邸宅を与え、新羅の支配層に組み入れた。かつての本国も食邑とした。この厚遇ぶりは、後の大加耶連盟の争奪をめぐる百済との闘いで有利な要素となる。
 大加耶連盟に属さない安羅は、新羅の金官国へのたびかさなる侵攻に危機感を持ち、倭に救援を求めたようである。しかし、海を越えた倭では不十分とみたのか、531年、百済にも救援を求めた。
 百済は、これに乗じて、安羅に進駐し、久礼山(卓淳の内)を守備する。だが、しかし、久礼山は新羅によって落とされる。ここにおいて、東からの新羅と、西からの百済が直接対峙することとなる。(図〔田中前掲書 P.236〕を参照)
 このことは、すでに占領している多沙(帯沙)から安羅へのルートの間にある思勿(しぶつ *泗川)、宝伎(ほうぎ *泗川昆陽)、勿慧(ぶつけい *固城上里)の諸国をも、百済が実質上支配したことを意味する。その後の543~544年頃、百済はこの地域(『日本書紀』では、「下韓」あるいは「南韓」と称されている)に、郡令・城主(注3)を設置していく。すなわち、直轄領化である。
 だが、加耶地方をめぐる百済と新羅の争奪は、あくまでも強国高句麗との戦いという大枠の内でのことである。百済は、538年に王都を熊津からわずか30キロほどの近距離の泗?に遷都し、国号も南扶餘とした。高句麗との闘いに本腰を入れるためである。そして、百済は、新羅に和議を提起し、541年に羅済(らさい)同盟が成立する。この同盟は、以後、10年ほど続くことになる。この「休戦」期間中に、いわゆる「任那復興会議」が、541年、544年に開かれる。(つづく)

(注1)『三国史記』新羅職官志によると、新羅の外交を職掌した機関が領客府である。これが、621年以前は倭典と呼ばれた。倭典とは、倭のことを扱う役所という意味である。
(注2)書き下すと、「天皇の御言(*お言葉、命令)を持たしめる人なり。故に〔美古止毛知〕(ミコトモチ)と称す。」となる。『古語辞典』(角川書店)によると、ミコトモチは「天皇のことばをいただいて政務を行なう人。地方に行って政務をつかさどる官。地方官」である。
(注3)百済の地方支配体制は、「方―郡―城制」といわれる。全国を五つの方に分け、方ごとに6~10の郡を管轄する。郡の長が、郡令(郡将)である。また、郡県には道使が設置され、それは城主とも名づけられている。