古代日朝関係史から学ぶ教訓③
  侵略思想を支えた任那日本府論
                             堀込 純一

    Ⅲ三韓征伐と不可分の任那日本府論

      (1)植民地主義イデオロギーとして定着

 古代日本国家の野望が色濃く反映された『日本書紀』や『古事記』は、中世においてはほとんど閑却された。それが江戸時代中期ころから国学運動が盛んとなるや再評価されるようになる。そして、幕末期、列強による植民地化の危機の下で、ナショナリズムを高揚させた尊皇攘夷運動は、「世界に冠たる日本」を例証するものとして、「神功皇后の三韓征伐」や「豊臣秀吉の文禄・慶長の役」などをあげ、自らの精神的支えとした。
 その尊皇攘夷運動のメッカとなった水戸藩は、江戸時代初期から、藩財政を傾けて『大日本史』の編纂に力を注いできた。その『大日本史』は『日本書紀』を鵜呑みにして、「任那日本府」について、つぎのように位置づけている。すなわち、同新羅伝では「(新羅)請為西蕃、廷議因定内官家、置日本府于任那、以統制韓国」と、同任那伝では「神功皇后西征、三韓平定、始置内官家、(中略)加羅七国平定、又(中略)総言任那、置日本府、統制韓国」と。韓国を統制するものとして、任那(注1)に日本府を置いた(「内官家」とは、「直轄地ミヤケ」を指す)、というのである。 
 幕末の志士たちが王政復古を唱えるなかで、『日本書紀』にもとづく「任那日本府」論が、「神功皇后の三韓征伐」と不可分のものとして志士たちの間でとらえられるのは必然的なことである。
 こうした王政復古論者によって指導され実現されたのが明治維新(1868年)である。この明治維新直後から開始された朝鮮侵略の策動は、中国やロシアとの激しい戦いの末、ついに1910年、朝鮮の併合と植民地化となる。
 日本帝国主義の植民地主義全盛のもと、「任那日本府」に関する『大日本史』の位置づけは継続され、古代史学界では戦前から次のような見解が長いあいだ通説となっていた。  
 すなわち、「任那『日本府』は通説によると、『大和朝廷』によって四世紀末から五世紀初めの間に、任那諸国を支配するために金官国に設置され、五三二年の新羅による金官併合に伴なって、安羅国に移動し、五六二年の新羅による亡滅まで存在した機関であって、その官人には、『日本書紀』などに『宰』とか『卿』などと表現されている長官と、その下に『任那執事』その他の下僚が存在したものとされている。」(請田正幸著「六世紀前期の日朝関係」―『朝鮮史研究会論文集』11 1974年3月 に所収)といわれる。
 さすがに、架空の神功皇后紀をそのまますべて無批判に受け入れることはできなかったが、基本的には、『日本書紀』史観にもとづいたものである。その際、科学的な補強として利用されたのが、広開土王碑文などである。
 とりわけ、碑文の「(a)百残新羅旧是属民、由来朝貢。(b)而倭、以辛卯年来渡海破百残□□新羅、以為臣民」の(b)の語句が、「日本による朝鮮支配」の根拠とされた。
 そもそも広開土王碑文は、同王の業績を顕彰する為のものであり、そこには明らからな誇張、修飾がある。(a)の語句自身も大げさである。つまり、同王の活躍を引き立てる役割として、倭の強さなるものを誇張したのである。その表現が(b)である。当時、新羅は高句麗に「従属」しているが、倭国の臣民であるはずがない。百済は当時、もっとも激しく高句麗と戦っており、高句麗の臣民であるはずがなく、また、百済と倭は最後まで対等な同盟者であった。
 史実に基づかない誤った「任那日本府」(倭王権の「出先機関」説)については、神武即位が辛酉革命説による造作だと批判する那珂通世や、神功皇后紀などを架空の説話と批判する津田左右吉ですら、同調したのであった。植民地主義イデオロギーとしての任那日本府論は,『日本書紀』に批判的な学者をも巻き込んで、広範に定着していったのである。

     (2)戦後も続いた「出先機関」説

 皇国史観から解放されたにもかかわらず、戦後もなおしばらくは、「出先機関」説は、通説の位置を維持していた。この見地に立って、戦後の本格的な任那研究をまとめたのが、末松保和著『任那興亡史』(吉川弘文館 1949年)といわれる。
 同著は、任那を主体として、その成立・発展・衰退滅亡を描くとしたが、実際はそれとは異なり、「任那中心という最初の研究方向の設定とは違って、『日本による任那経営の興亡史』の叙述になったのは、『日本書紀』をその中心におき、他の史料の解釈をそれに合わせたためであった。」(李永植著『加耶諸国と任那日本府』吉川弘文館 1993年 p.18)といわれる。
 たとえば、『魏志倭人伝』の「其北岸狗邪韓国」の部分をとりあげ、「其の北岸」を「倭国の北岸」と解釈し、狗邪韓国(後の金海加耶、金官国)は「倭人の拠有地」で、「三世紀の中葉すでに弁辰狗邪国(狗邪韓国)、即ち半島の東南端は任那加羅の地を拠有した倭人が、其処を韓地に対する政治的経済的活動の策源地とする」とし、中国の楽浪・帯方郡との中継地として強化したというのである。
 だが、倭と加耶が境を接していた(接点は狗邪韓国で朝鮮半島内部にある)というのは、3~5世紀の中国人の認識であり、6世紀以降には放棄されている。
 また、広開土王碑文の先述の語句を無批判的に受け入れ、「倭が南部朝鮮に権力を樹立した始めの年は、この辛卯年(391)にあると断言」し、さらに神功皇后紀の「新羅征伐」や「加羅七国平定」の物語、応神紀三年条の”倭国が百済の辰斯王を殺し、阿花王を立てた”という記事などを史実として解釈した。これもまた、『日本書紀』の歴史観を前提とした解釈である。
 末松保和氏の見地は、一部のマルクス主義者もふくめて進歩的学者たちにも大きな影響を与えた。それは、『岩波講座日本歴史』1960年代版の内容をみれば歴然としている。一例としてあげるならば、石母田正著「古代史概説」である。
 それによると、ヤマト王権(継体・欽明朝以前の時期)は、初期・中期・末期に区分され、初期が「未開後期」の段階で、「応神・仁徳に代表される中期」(四世紀末~五世紀初)から「文明」の段階に入るとされる。倭人は邪馬台国の時代にすでに、朝鮮半島の「南端の一角に占拠定住」していたが、四世紀60年代の「朝鮮出兵以後、南鮮支配を確立した」とする。そして、ヤマト王権の中・末期への発展の画期を、この「南鮮支配」に求め、以後の「日本古代国家全体の構造を規定した」とする。
 石母田氏は、中期からのヤマト王権が「洛東江流域地帯の任那地方を直轄領とし、百済新羅の両国を貢朝をともなう保護国として支配した」と言うが、任那を直接支配地域、百済新羅を間接支配地域とするのは、末松説を受容するものである。また、末松氏自身は、任那日本府について、「近代の朝鮮総督府の如き行政官庁の存在を想像することは出来ない」と結論づけたが、石母田氏は「任那には任那日本府が常置され」ていたと言って、強固な「出先機関」説を主張した。

     (3)開始された「出先機関」説批判

 進歩的な専門研究者によって、戦前からの通説が批判・否定されるようになるのは、戦後もしばらくたった1960年代になってからである。
 それまでの通説の反省と科学的再検討を直接迫る契機となったのは、1963年に、朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨(キムソツキヨン)氏が発表した論文「三韓三国の日本列島内の分国に対して」である。
 ここで言う分国論とは、朝鮮半島に本国のある三韓の分国が、実は日本列島の中にあり、『日本書紀』等に古代の日本が征服・支配したとされる諸国は、三韓本国を指すのではなく、それらの分国を指す、というものである。従って、朝鮮には任那も日本府もなく、『書紀』の「任那日本府」関連の記事はすべて、九州の百済系分国と大和政権の間で、吉備の加羅系分国の支配をめぐって衝突した内容である、というのである。
 この分国論そのものは、考古学的見地からみると年代的裏付けを欠くなどして、「日本の学界でうけいられることはなかったが、その提唱は、大きな話題をよんだ。一部には朝鮮ナショナリズムの所産であるとして無視する動きもあったものの、真摯にうけとめて、それまでの通説に対して、それでよかったのかと反省し、再検討すべきであるという声が高まっていった。」(田中俊明著「加耶と倭」―『古代史の論点』4 に所収)といわれる。
 韓国でも、1970年代から日本の「出先機関」説に対する批判が 活発となる。その本格的開始は、千寛宇氏の三韓および加耶史に関する一連の論考である。1977年発表の「復元加耶史」などによると、『日本書紀』にみられる史実の歪曲や変造を徹底的に批判した立場からの加耶史の復元であった。だがしかし、これは百済主体の展開となる。従って、任那日本府についても、「『日本書紀』にみられる任那成立記事は、369年に加耶諸国を平定した百済が設置した派遣司令部のようなものと理解し、百済司令部が任那日本府と書かれたのは、百済系倭人が『日本書紀』の編纂に重要な役割を果たしたことにより、百済系倭人たちは自己の祖先が百済にいた時に加耶進出に関与した伝承を、現居住地が倭国だったのでこれらの伝承を追体験的に理解し、倭国から任那に進出したかのように記したと解した」(李永植前掲書 p.38)と主張した。
 しかし、「百済軍司令部」説は、『日本書紀』に登場した任那で活動する倭系的名を持つ人物すべてを百済人として理解しなければならず、辻褄が合わなくなる。また、千寛宇氏の方法論は、「百済側を中心に書いている『百済本記』の立場をそのまま歴史的事実としている点があって、史料批判の方法としては納得できない。」(鬼頭清明著『日本古代国家の形成と東アジア』〈校倉書房 1976年〉所収の「『任那日本府』の検討」p.245)と批判されるのである。
金錫亨氏の提起は、日本の研究者などに新たな刺激を強烈に与えたことは、前述した。これに対する全体的な「対案」を示したのが、井上秀雄氏の一連の論考であり、それらは『任那日本府と倭』(東出版 1972年)にまとめられた。
 この著作は、主に7つの論文によって構成されているが、論文(1)「いわゆる任那日本府について」が1959年に、論文(7)「中国文献にあらわれた朝鮮・韓・倭について」が1973年に公表されたというように、著者の15年間の活動をまとめたもので、しかもほぼ最初の発表のままなので結論の食い違いが顕著である。
 たとえば、論文(1)では、任那日本府設置は、4世紀後半の大和朝廷の南朝鮮進出の時期で、その朝鮮支配の形態は当初軍事拠点の確保=任那(金官加羅)の軍事的統轄であったが、5世紀中葉になると、百済・新羅の任那諸国への侵入により、大和朝廷は紛争地を直轄経営した。任那日本府は、任那諸国の合同会議の議長的存在で、行政・外交の機能をもった。6世紀に入ると、百済・新羅の侵略は激しく、大和朝廷自ら対朝鮮政策を決定し、また在地有力倭人の意見が日本府を動かしたので、任那日本府の出先機関としての機能はほとんど停止した。ただ、基本的な軍事基地の機能は存続した、とされた。。
 それが、金錫亨氏の影響を受けたという論文(2)「任那日本府の行政組織」や論文(3)「古代日本のいわゆる南朝鮮経営」では、「任那日本府は大和朝廷の出先機関でも南朝鮮経営の拠点でもない」と結論付ける。そして、南朝鮮とりわけ加耶(任那)に居住していた倭人が、任那日本府の実体であり、任那日本府とは加羅諸国の政治勢力を結集した政治機関だというのである。
 しかし、加耶に広範に倭人が居住していたことについては、史料的裏付けをもって証明できず、他の研究者によって否定された。
 ただ、井上説で最も評価できるのは、『日本書紀』さらには「百済本記」(注2)などの史料を無批判的に鵜呑みにするのでなく、厳とした史料批判の立場をとっていること、倭とヤマト王権とを単純にイコールで結びつけない発想をもたらしたことである。(つづく)

(注1)朝鮮や中国の史料では、「任那」の使用例は少ないが、本来的には加耶諸国の有力国の一つであった金官国をさしていた。朝鮮半島南部の地域呼称として「任那」を汎用するのは、『日本書紀』のみといわれる。田中俊明氏によると、同地域の呼称としては、「加耶を用いるべきである。」(『大加耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館 1992年)とされる。なお、同氏によると、朝鮮語ではヤとラは通用するため、カヤでもカラでも同じであり、従って「加羅」、「加良」も「加耶」も同じである。
(注2)『日本書紀』は、外国史料としては中国系史料や朝鮮系史料などを用いている。その中で、百済系史料としては、「百済本記」、「百済記」、「百済新撰」がある。うち、「百済本記」がもっとも多く引用されているが、任那日本府論もまた「百済本記」に大いに依拠している。だが、「百済本記」が百済滅亡以前に書かれたものか、亡命百済人によって書かれたものかについては、異なった見解がある。