古代日朝関係史から学ぶ教訓②

 朝鮮侵略は初手からの既定路線
                          堀込 純一


     Ⅱ「三韓征伐」は対外路線の道標

 神託による「新羅征伐」

 「新羅征伐」―「三韓征伐」は、日本の支配階級にとって律令国家が建設される以前の段階からの既定の対外路線である。
 新羅という名前が、『日本書紀』に最初に登場するのは、巻第一神代(上)である。高天原から追放された素戔鳴尊(スサノオノミコト)は、「一書(あるふみ)」では、「是(こ)の時に、素戔鳴尊、其の子(みこ)五十猛神(いたけるのかみ)を帥(ひき)ゐて、新羅国に降到(あまくだ)り」している。だが、素戔鳴尊は新羅国に居たくないと出雲に移る。五十猛神は「天降ります時に、多(さは)に樹種(こだね)を将(も)ちて下(くだ)る。然(しか)れども韓地(からくに)に植ゑずして尽(ことごとく)に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡(すべ)て大八洲国(おほやしまのくに)の内に、播殖(まきおほ)して青山に成さずといふこと莫(な)し。」という。
 また、別の「一書」では、「素戔鳴尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には是(これ)金銀(こがねしろがね)有(あ)り。若使(たとひ)吾が児の所御(しらす)〔*治める〕国に、浮宝(うくたから *舟のこと)有らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』」と言って、ひげや胸の毛などを抜き取って放つと、さまざまな木々になったという。
 ここで既に「韓郷の嶋にはこれ金銀有り」といい、それを確保する上で必要な、渡海のための舟の材料をなす木々を繁殖させたのである。(倭国がのちのちまで固執する任那地域には、鉄資源が豊富にあった)
 神代から人代に入っても、崇神(すじん)天皇(注)が、自分の代になって災害が多いのは神がお咎めになっているのではないかと恐れ、八十万神(やおよろずのかみ)に占って問うた。この時に、神が倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと *孝霊天皇の皇女)に憑(かか)って、〔天皇よ、心配するな。我を敬い祭れば、必ず平穏になろう〕という。これに対して崇神が、いずれの神かと問うと「名は大物主神(おおものぬしのかみ)」と答えた。
 ここでは、中国の天命思想〈すなわち、為政者の統治活動に対する天の賞罰という構造〉の影響がみられるが、最大の違いは、日本では「天」が「神」に代わり、「皇帝」が「神」の子孫である「天皇」に代わっていることにある。
 崇神天皇は、教えのままに祭祀を行なったが、なかなかその兆しがみえない。そこで、崇神は、沐浴斎戒して、殿の内を浄め、「神の恩(みうつくしび)を畢(つく)したまへ」と祈る。「是の夜の夢に、一(ひとり)の貴人有り。殿戸(みあらかのほとり)に対(むか)ひ立ちて、自ら大物主神と称(なの)りて曰(のたま)はく、『天皇、復(また)な愁(うれ)へましそ。国の治らざるは、是(これ)吾が意(こころ)ぞ。若(も)し吾が児(こ)大田田根子(おおたたねこ)を以て、吾(われ)を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平(たいら)ぎなむ。亦(また)海外(わたのほか)の国有りて、自(おの)づからに帰伏(まうしたが)ひなむ』とのたまふ」とされる。
 ここでは、大物主神を祭れば、国内の平和・平穏のみならず、「海外の国」の帰伏(帰順降伏)までもが実現するとされるのである。「帰伏」という言葉を使って、海外侵略が、神の意思によって肯定されているのである。
 以上の伏線を敷いた後に、架空の人物である神功皇后の「新羅征伐」―「三韓征伐」なるものが展開される。
 『日本書紀』巻第九の神功皇后摂政前紀によると、神功皇后の夫である足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと *仲哀天皇)は、筑紫の橿日宮(かしひのみや)で服(まつろ)わぬ(*服属しない)熊襲(くまそ)を平らげようと群臣(まえつきみたち)たちに議(はか)らしめた。その時、神功皇后は神がかりして、中味のない熊襲よりも、金銀財宝のある新羅を伐つべきだという神託を伝える。しかし、天皇はこれを信じなかったので、神の怒りにふれて命絶えてしまった。時は、仲哀天皇9(西暦200)年の2月である。
 この神託をなした神とはいずれの神かと、七日七夜祈った結果、その神の名は、①伊勢五十鈴(のちの伊勢神宮)の神、②淡郡(あわのこおり)に居る神、③厳之事代神(いつのことしろかみ)、④住吉三神(表筒男〈うわつつのを〉・中筒男〈なかつつのを〉・底筒男〈そこつつのを〉)と、次々に明らかとなる。
 同年十月三日に、神功皇后率いる倭軍は、ついに新羅を侵略する、といわれる。その時の様子は、次のように描かれる。「和珥津(わにのつ *対馬の鰐浦)より発(た)ちたまふ。時に飛廉(かぜのかみ)は風を起し、陽侯(うみのかみ)は浪(なみ)を挙げて、海の中の大魚、悉(ふつく)に浮かびて船を扶(たす)く。則(すなは)ち大きなる風(かぜ)順に吹きて、帆船(ほつむ)波に随(したが)ふ。木へんに虜(かぢ *舵、櫓)楫(かい)を労(いたつ)かずして〔*使わないで〕、便(すなは)ち新羅に到る。時に随船潮浪(ふななみ)、遠く国の中に逮(みちおよ)ぶ。即(すなは)ち知る。天神地祇(あまつかみくにつかみ)の悉に助けたまふか。新羅の王(こきし)、是(ここ)に、戦戦慄慄(おじわなな)きて厝身無所(せむすべなし)。」(「神功皇后紀」摂政前紀十月条)と。
 そして、『書紀』は、新羅の降伏を聞いて、高句麗、百済もまた降参し、朝貢を絶やさぬと誓った、という。
 
 「新羅征伐」・「三韓征伐」の虚詭性

 神功皇后摂政前紀によると、神功皇后らの「新羅征伐」―「三韓征伐」は、仲哀天皇の死んだ西暦200年となっている。では、朝鮮側の史料にはそのような大事件は記されているのであろうか。
 朝鮮の史書『三国史記』の新羅本紀での倭関係の記述(神功皇后摂政の前後を含む)をみると、以下のようになっている。
 『三国史記』新羅本紀は、157~500年までの344年間で、「倭人」あるいは「倭兵」の侵入を計24回記述している。だが、『日本書記』による「新羅征伐」が西暦200年であるとしても、これは記録されていない。また、「新羅征伐」が120年引き下げられたと想定し、320年としても、これもまた記録されていない。(前後10年を考慮範囲として拡大しても同じである)
 しかし、新羅本紀は倭の侵入の記述を、200年代7回、300年代3回、400年代14回記している。つまり、『日本書記』が「新羅征伐」を行なったとされた時期(200年であれ、320年であれ)よりも、その後の400年代の方がはるかに多くの侵入を行なっているのである。「新羅征伐」なるものがあったとすれば(200年であれ、320年であれ)、その後に倭の新羅侵入は皆無となるか激変するはずである。しかし、『三国史記』によれば、その後の400年代の方が激増しているのである。(だが、501年以降は、倭の侵入事件はばったりと無くなっている)
 『三国史記』新羅本紀のすべての事項が史実といえないとしても、これらの数字は、倭の侵略の時代的傾向性を示すものであろう。これが、「新羅征伐」なるものが虚詭である第一の理由である。
 神功皇后紀が虚詭である第二の理由は、「新羅征伐」が虚偽の史実であるとともに、「三韓征伐」もまた虚偽の史実だということである。
 神功皇后紀は、新羅が倭に征服されたことから、高麗(*ここでは高句麗のこと)と百済も降伏したと記している。すなわち、「是(ここ)に高麗(こま)・百済、二(ふたつ)の国の王(こきし)、新羅の、図籍(しるしへふみた)を収めて日本国(やまとのくに *日本という国号表記はこの時代には未だ存在しない)に降(まつ)りぬと聞きて、密かに其の御軍勢を伺はしむ。則ちえ勝まじき〔*決して勝ち得ないこと〕を知りて、自ら営の外に来て、叩頭(の)みて〔*ぬかづいて〕款(まう)して〔*誓約して〕曰(まう)く、『今より以後は、永く西蕃(にしのとなり)と称(い)ひつつ、朝貢(みつきたてまつること)絶たじ』とまう。故、因(よ)りて、内官家屯倉(うちつみやけ)を定む。是(これ)所謂(いわゆる)三韓(みつのからくに)なり。」と。
 だが、この記述は果たして正しいのであろうか。
 この時代、朝鮮半島にあった諸国の中で、最も力のあった大国は言うまでもなく高句麗である。したがって、百歩譲って、『日本書記』が言うように、仮に神の加護で「新羅征伐」が行なわれたとしても、いともたやすく大国・高句麗が戦わずして、倭に降伏し、朝貢を行なうであろうか。後年の668年、高句麗は新羅・唐の連合軍に敗退して滅亡するが、倭よりもはるかに強大な唐とも命運をかけて戦ったのである。戦わずして倭に降伏するなどというのは、全くの絵空事である。
 
 侵略に失敗し正史を偽造

 では、三、四世紀の朝鮮半島の三国はどのような状態であったのだろうか。簡単に見てみよう。
 ツングース系の貊(ばく)族の中から成長した高句麗が政治的に大きく飛躍するのは、三世紀初頭、鴨緑江中流域に進出してからである。だが、「高句麗は三・四世紀を通じて国家形成の道を着実に歩んでいたのだが、同時にそれは対外的危機を克服する過程でもあった」(木村誠著「朝鮮三国の興亡」―日本の対外関係1『東アジア世界の成立』吉川弘文館 2010年 に所収)といわれる。
 高句麗は、三世紀初期には、公孫氏(後漢王朝の衰退により中国東北地方を拠点に自立)に圧迫される。公孫氏滅亡後には、魏の侵攻が242~245年になされ、高句麗は丸都城を攻略される。
 だが、高句麗は西晋末期の弱体化に乗じて313~314年にかけて、西晋の楽浪郡と帯方郡を攻略し、前漢以来400年にわたる朝鮮半島における漢族直轄地を消滅させた。そして、高句麗は、楽浪郡の故地である平壌を拠点として南方すなわち朝鮮半島中・南部方面に領土を拡大する。
 しかし、それは西方面での燕王朝の圧迫によって余儀なくされた南下政策でもある。
 342年、高句麗は前燕に大敗する。王都がまたもや陥落し、翌年、高句麗王は前燕(337~370年)に臣従する。前燕は前秦によって滅ぼされるが、同じ慕容(ぼよう)氏によって後燕(284~409年)が再興される。高句麗は、この後燕によっても苦しめられる。高句麗は、広開土王(在位391~412年)時代の飛躍的発展を迎え、百済・倭との戦いで輝かしい勝利を重ねる。だが、広開土王碑には全く記されていないが、広開土王の生涯の戦いの半分は、後燕との厳しい戦いであった。
 『三国志』魏書の韓伝によると、三世紀ごろの朝鮮半島中・南部には韓族が住んでいた。当時の韓族は大まかにいって馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)に分かれ、それら三韓はさらに八十近くの「小国」に分かれていた。西晋の楽浪郡と帯方郡が前述のように滅亡すると、韓族の間でも、本格的な国家形成が始まる。
 馬韓では、伯済(はくさい)国を中心に周りの「小国」が統合され(全てではないが)、四世紀前半に百済が形成される。その領域は当初、今のソウルを中心に京畿道と忠清道に限られた。
 辰韓では、斯盧(しろ)国を中心に周りの「小国」が統合され、百済にやや遅れて新羅が形成される。新羅は、金城(慶尚北道慶州)を拠点に、洛東江東岸地域の政治的統一を進めていった。
 馬韓や辰韓とは異なり、弁韓では統一的な国家は形成されず、四世紀以降もこの地域では「小国」が分立している。「加耶諸国」と総称される「小国群」は、百済と新羅に挟まれながらも、豊富な鉄資源を背景に独自のゆるやかな連盟勢力となっていた。この中では、金官国(慶尚南道金海)と大加耶国(慶尚北道高霊)が有力で、加耶諸国の中でこの二国だけが建国説話を伝えている。
 朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国の中で、最も力の弱い国は新羅であった。その後、徐々に力をつける中で、新羅は、高句麗の重圧に対処するため、434年に、百済との同盟関係を樹立し、対峙する。新羅が高句麗からの自立を推進し始めたのは、5世紀中頃からであり、新羅が百済に代わって、高句麗との対決で前面に立つようになるのは、6世紀の中頃からである。
 高句麗・新羅・百済の三国鼎立と抗争の中から、最終的に三国統一戦争に勝利したのは、もともとは三国の中で最も弱かった新羅であった。百済を最後まで支援した倭国は、新羅の巧みな外交と戦争によって、663年の白村江の戦いで新羅・唐の連合軍に大敗する。これにより、倭国は、朝鮮半島への政治的影響力を完全に失うのであった。
 7世紀末期から8世紀初期にかけて企画され編纂された『日本書記』は、史実を曲げてまで、最期の勝者である新羅への敵対意識の感情を3世紀にまで遡(さかのぼ)らせ、神功皇后紀を創作したのである。それが日本最初の正史であったが故に、その後の日本の歴史に大きな影響を与え、かつその進路を誤らせたのであった。(つづく)

(注)日本国号、天皇称号(従って、皇后も皇太子も)は、7世紀末から8世紀の初めになって称せられるのだが、『日本書紀』はすべて遡って使用している。本来は、倭国であり、大王(大后、王子)である。