古代日朝関係史から学ぶ教訓①

 対外的な神的超越性を創作
                                           堀込 純一

 
はじめに

 倭国―日本の対外関係は、その地政学的関係から中国大陸ならびに朝鮮半島を基本的かつ主要な対象とする歴史が続いてきた。
 だが、律令制定とともに行なわれた国史編纂事業の結果として成立した『日本書紀』は、対外関係の視点からみると、世界支配を運命付けた天皇制国家形成の神話と、史実とはかけ離れた朝鮮諸国への差別と偏見、属国視に満ち溢れている。当時の支配者たちが作った誤った国家イデオロギーは、古代のみならずその後も連綿とつづき、とりわけ幕末の尊皇攘夷運動で大々的に再評価され、やがて1910年の朝鮮併合による植民地支配へと至る。
 今日、安倍政権による戦争ができる国家へと日本を改造する策動においてもまた、尖閣諸島(中国名・釣魚台)をめぐる領土問題とともに、「朝鮮有事」が主要な口実となっている。
 以下では、主に『日本書紀』の作為性、中でも「神功皇后伝説」と「任那日本府」を取り上げ、朝鮮国と朝鮮人民に対する日本の歴史認識とイデオロギー的意図を検討対象とする。

  Ⅰ 史書で年代作為は致命的

〈『日本書紀』成立の経緯〉

 日本最初の「正史」である『日本書紀』は、720年に出来上がった。すなわち、「是(これ)より先(さき)、一品(いっぽん *四品ある親王の位階の第一階)舎人親王(とねりしんのう)、勅を奉じて日本紀(*『日本書紀』のこと)を修す〔*物事をととのえて完全にする〕。是(ここ)に至り、功なり奏上(そうじょう)す。紀三十巻、系図一巻。」(『続日本紀』養老四年五月癸酉〔みずのとのとり〕条)というのである。「系図一巻」は、今日には伝わらない。
 しかし、この『日本書紀』の編纂(へんさん)の開始時期は、『古事記』(天武天皇の時代)の場合と違って必ずしも明らかではない。ただ、『日本書紀』の天武紀10(681)年3月条に、川嶋皇子(かはしまのみこ)・忍壁皇子(おさかべのみこ)など12名に詔して、「帝紀(すめらみことのふみ)及び上古(いにしへ)の諸事(もろもろのこと)を記し定めしめたまふ。」と記述があり、これが開始時期ではないかと推定されている。
 だが、『日本書紀』の編纂は、必ずしも順調に進んだとは言えないようである。714(和銅7)年2月10日に、「従六位上紀朝臣清人(きのあそんきよひと)、正八位下三宅臣藤麻呂(みやけのおみふじまろ)に詔(みことのり)して、国史を撰(えら)ばしむ。」(元明天皇時代の和銅7年2月条)と、追加人事がなされている。論者によっては、『日本書紀』編纂の開始時期をこの時であるという説も主張されている。
 戦前の皇国史観から解放された戦後の古代史研究においては、「記紀」批判が飛躍的に進んだ。『日本書紀』に対する批判的研究は、最近もまた目覚しいものがある。
 その一つに、森博達氏の研究がある。それは『書紀』の漢文や音韻などの特徴から各巻の撰述者まで特定するようになっている。森氏は、「書紀三十巻は表記の性格によって、β群(巻一~一三・二二~二三・二八~二九)・α群(巻一四~二一・二四~二七)・巻三〇に截然と三分された。」(森博達著『日本書紀の謎を解く』中公新書 1999年 P.225)と分析した。その上で、α郡の撰述者は、正統な漢文を記した者で、中国生れの中国育ちの唐人であり、β郡の撰述者は中国語に習熟した倭人とした。
 結論的には、「持統朝に続守言と薩弘恪が書紀α群の撰述を始めた。続守言は巻一四から執筆し、巻二一の修了間際に倒れた。薩弘恪は巻二四~二七を述作した。文武朝になって山田史御方がβ群の述作を始めた。元明朝の和銅七年から紀朝臣清人が巻三〇を撰述した。同時に三宅臣藤麻呂は両群にわたって漢籍による潤色を加え、さらに若干の記事を加筆した。こうして、元正朝の養老四年(七二〇)に『日本書紀』三十巻が完成し撰上された。」(同前、P.228)というのである。
 では、『日本書紀』の製作者は、一体、誰か。言うまでもなく、編纂を命じたものである。すなわち、当時の「主権者」たる天皇たちである。とりわけ、唐風文化にならい専制国家と小中華建設を狙った天武天皇(在位672~686年)であろう。
 しかし、天武と持統の孫である文武天皇(在位697~707年)の代になると、その路線はやや修正され、天智大王の復権がはかられる。『日本書紀』は完成間近かにも追加修正され、その時の天皇は文武の母の元明天皇(在位708~715年)であり、実力者は藤原不比等であった。
 
   (1)史実を曲げ虚勢を張る

 『日本書紀』は、歴史とフィクションの混在がはなはだしい「正史」であり、史実の厳密性は極めて弱い。むしろ律令国家建設にともなう一大事業として、日本国家建設の正統性と諸外国に対する優位性を鼓舞するイデオロギーに満ち満ちた「大きな物語」(壮大なフィクション)でしかなかったのである。
 『日本書紀』の場合は、日本的小中華のための虚勢を張るために、誇張とか言い過ぎのレベルでなく、意図的に日本の優位性あるいは神的超越性を鼓吹するフィクションが随所に織り込まれており、史実性は極度に軽視されているのである。その思想的背景には、歴史に対する冒涜とでも言えるほどの歴史的教訓の軽視がある。
 
 辛酉革命説に基づく建国神話
 そもそも初代の神武天皇の即位の年が紀元前660年となっていること自身、史実ではないのである。なぜならば、この紀元前660年は、干支(えと)でいうと辛酉(しんゆう)の年であり、中国伝来の「辛酉革命説」によって、神武即位と定められたからである。
 中国古代の讖緯説(占いによる予言説)を説いた諸々の本の中で、『易緯』というものがあり、それによると、「辛酉(しんゆう)、革命を為し、甲子(かっし)、革令を為す」という考え方がある。干支3の組み合わせで、甲子(かっし)の年は、「甲子革令」で政令を革(あら)める年であり、辛酉の年は、「辛酉革命」で天命が革まる年、すなわち帝王が変わる年となるというのである。
 ただし、60年ごとに回ってくる辛酉の年や甲子の年のたびに、革命や革令が起こるというのではなく、後漢時代の儒者・鄭玄(ていげん)の『易緯』の注釈では、「七元に三変ありて、二十一元で一蔀(ぼう)を為す」という。一元とは、干支が一巡する60年であるから、7元=420年であり、この間に三つの大変革がある。そして、21元=1260年(1蔀)が辛酉の年として、さらに大革命の区切りとなる、というのである。
 神武即位が、讖緯思想の辛酉革命説にもとづく後世の作為に過ぎないということは、すでに江戸時代の国学者・本居宣長や伴信友などによってすら知られている。
 それが19世紀の東洋史家・那珂通世(なかみちよ)によって、さらに深く検討され、『上古年代考』、『日本上古年代考』、『上世年紀考』にまとめられる。
 それらによると、①まず記紀(古事記と日本書紀を指す)の天皇などの年齢が、百歳以上の長寿になっていることや、同じ人物の所伝にも年代的矛盾が多いことがあげられ、記紀の紀年(年数を数える方法)が信用できない。②日本には古くは暦などなく、確かなところでは6世紀の欽明朝のときに百済から暦博士が来たのが始めであること、7世紀の初め、推古朝になって初めて朝廷が天下に暦を示したのであり、1200年以上も昔の神武即位など後世の作為でしかない。③神武の即位は、『日本書紀』の編者が辛酉革命説に基づいて推古天皇の9(601)年から数えて1260年前の辛酉年に設定したのであろう、とした。
 実際、『日本書紀』をみると、歴代天皇の寿命は次のようになっている(カッコ内は『古事記』による)。
①神武―127歳(*137歳)、②綏靖―84歳(*45歳)、③安寧―57歳(*49歳)、④懿徳―77歳(*45歳)、⑤孝昭―113歳(*93歳)、⑥孝安―137歳(*123歳)、⑦孝霊―128歳(*106歳)、⑧孝元―116歳(*57歳)、⑨開化―111歳(*63歳)、⑩崇神―120歳(*168歳)、⑪垂仁―140歳(*153歳)、⑫景行―106歳(*137歳)、⑬成務―107歳(*95歳)、⑭仲哀―記紀ともに52歳、神功皇后―記紀ともに100歳、⑮応神―110歳(*130歳)、⑯仁徳―83歳(*95歳)、⑰履中―70歳(*64歳)、⑱反正―記紀ともに60歳、⑲允恭―記紀ともに78歳、⑳安康―記紀ともに56歳、?雄略―記紀ともに124歳。以下は省略するが、かなり没年の際の歳が不明となっている。
 これを見ると、不思議なことに、古い時代の天皇の寿命ははっきりとしているのに対し、むしろ『日本書紀』編さんにより近い時代のほうに不明が多いのである。しかも、応神以前の天皇(綏靖・安寧・懿徳を除く)が100歳以上で、その後の天皇で100歳以上は雄略だけである。今日の常識でいえば、到底理解できないことである。
 
   (2)神功皇后紀の二つの時間系列

 『日本書紀』で、神代が終わり人代に入ってから最も創作性の強いが、ヤマトタケルと神功皇后である。
 この神功皇后紀の説話は、大きくいって、A神託に基づく「新羅征討」―「三韓征伐」の部分と、B神功皇后が産んだとされる応神天皇即位の経過の部分とからなる。これを地名説話的な各地の神功皇后伝説で膨らませるとともに、他方で、中国や朝鮮の史料を利用して、神功皇后紀の客観性を演出している。
 しかし、外国史料による客観性の装いは裏目となり、逆に同紀の架空性をあばく論拠となっている。
 すなわち、同紀は、彼女が摂政になってその半ば頃に、突如、前後の脈絡もなく、次の文言を挿入する。
(神功皇后摂政の)三十九年。是歳(ことし)、太歳(注)己未(つちのとひつじ)。〔魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣(つかは)して、郡(*帯方郡)に詣(いた)りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣し将(ゐ)て送りて、京都(けいと)に詣らしむ。〕
四十年。〔魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉(たてまつ)りて、倭国を詣らしむ。〕
四十三年。〔魏志に云はく、正始の四年、倭王、復(また)使大夫伊声者掖那約等八人を遣して上献〕
 ここに引用された「景初三年」(神功皇后の摂政39年)は、西暦でいうと239年である。同じように「正始元年」(同摂政40年)は、西暦240年であり、「正始四年」(同摂政43年)は、西暦243年である。
 これらを基準とすると、神功皇后摂政期(元年~69年)は、西暦でいうと201年から269年である。
 ところが、神功皇后摂政55年から65年の記事には、次のような記述がなされている。
*五十五年に、百済の肖古王(しょうこおう)薨(みう)せぬ。
*五十六年に、百済の王子(せしむ)貴須(くゐす)、立ちて王(こきし)と為(な)る。
*六十四年に、百済国の貴須王薨(みまか)りぬ。王子枕流王(とむるおう)、立ちて王(こきし)と為る。
*六十五年に、百済の枕流王薨りぬ。王子阿花(あくゑ)年少(わか)し。叔父(おとをじ)辰斯(しんし)、奪ひて王と為る。
 だが、百済王の薨去の年を『三国史記』の百済紀でみると、次のようになっている。「*肖古王の49年、王薨。*仇首王(或云貴須)21年、王薨。*枕流王の2年冬10月、王薨。」と。
 しかし、これまでの先達の研究によると、肖古王は近肖古王の、仇首王は近仇首王の取り違えとされている。すると、近肖古王の薨去年は王の30(西暦375)年、近仇首王の薨去年は王の10(西暦384)年、枕流転王の薨去年は、先述したように王の2(西暦385)年である。
 これらを基準にすると、神功皇后摂政期は、西暦でいうと321年から389年である。
 つまり同じ神功皇后摂政期が、魏志倭人伝の基準でいうと西暦201~269年であり、『三国史記』の基準でいうと321~389年となる。両者の間には、120年間の差が生じるのである。ということは、『日本書紀』は、百済史の基準で見る場合よりも120年も古くさかのぼらせた(下世話に言えばサバを読んで)形で、倭史を古く見せかけたのである。

 近年、ごく一部の研究者が、『日本書紀』を擁護するために、その年代的矛盾を合理化する動きがある。たとえば、古い時代については、一年を二年に数える「春秋二倍暦説」とか、『日本書紀』のすべての「天皇」の存在を前提に、数多くの年代的矛盾を複数の時間系列の組み合わせで「合理化」する数字いじりに専念する方法である。
 これらは、時間概念が均質性・一貫性・普遍性を保持しなければ物事の尺度となりえないという初歩的なことが理解できていない。年代的矛盾だけを解決しようと数字いじりに没頭して、『日本書紀』のイデオロギー的意図の範囲内で踊っているのでしかすぎないのである。(つづく)

(注)太歳とは、12年で太陽の周りで一巡する歳星(木星)の運行と逆方向にむかう仮想の天体のこと。