原発震災から三年—安倍政権の大逆行
  エネ基本計画・再稼働阻止

 三月十一日で、あの東日本大震災・福島原発震災から丸三年となる。この三年間で何が見えているか。
 震災復興では、巨大防波堤など大規模土木工事が先行しているが、東北太平洋岸の地域経済・生活の再建は立ち遅れている。人口減少により、地域社会存続に危機的状況もあらわれている。この傾向は、民社党政権下でも見られたが、「人からコンクリートへ」へ国策を逆転させた国家主義政権・安倍政権の登場によって加速された。地方切捨て・大都市中心・海外移転の資本主義的政策ではなく、地域資源を有効活用し、住民自治を高めて地域経済を再生する政策が改めて問われている。
 原発震災では、いまだに放射能大量たれ流しが続いており、抜本対策が取られていない。4号機などの使用済み核燃料棒の危機が今も続き、また溶けた炉心がどうなっているのか、今も分からない。そして福島県民など十四万人が、今も避難生活を強いられている。被災者・子ども支援法の空文化が続いている。国は、福島第一や除染での被曝労働を東電・下請・ピンハネ業者にまかせ、国が直接責任を持とうとしていない。
 要するに三年たっても、官僚・大資本・大都市中心の「原発社会」は何ひとつ変わっておらず、むしろ悪化している。
 それを典型的に示すものが、二月二五日に決められた「第4次エネルギー基本計画」政府案である。安倍政権は三月中にも、これを閣議決定せんとしている。
 民主党政権時の12年九月には、「30年代に原発稼動ゼロ」というエネルギー戦略があいまいな形で決められ、一方では大飯原発再稼動が強行されたという経過がある。安倍政権の今回のエネ基本計画案は、民主党政権時のあいまいさを一掃し、原発堅持・推進を明確にするものである。それは、原子力発電を「重要なベースロード電源」とする。(昨年末の経産省案では「基盤となる~」であったが、二月都知事選対応で削るというペテンもあった)。またそれは再稼動推進、核燃サイクル続行、原子炉輸出推進である。
 このようなエネ基本計画がまかり通るなら、この三年間は一体何だったんだということになる。しかし、この三年間でもっとも変わったこと、最大の成果は、原発廃止の世論と運動の飛躍的な拡大である。この民衆の圧力によって、大飯再停止以降、日本の原発はすべて動かせないままになっている。去る都知事選での「細川・小泉」連合の登場によって、支配層の中にも、資本主義的立場からの原発撤退論が相当大きくなっていることが示された。
こうした脱原発世論の広がりの中、三月八日には福島県郡山市・福島市・いわき市で、「原発のない福島を!県民大集会」が行なわれる。
 三月九日には東京で、「原発ゼロ★大統一行動」が行なわれる。首都圏反原発連合、さようなら原発一千万人アクションなどの呼びかけで、午後一時から日比谷野外音楽堂で集会、その後国会へデモ。午後三時半から、国会前大集会と国会包囲行動。 
民意を行動で示して、安倍政権の「エネルギー基本計画」を撤回させ、再稼動を阻止しよう。(W)


東京都知事選
 宇都宮氏大健闘、細川氏ら反原発票前進
  保守反動の首都の変革へ

 二月九日、大雪の中で行なわれた首都東京の都知事選挙は、主要候補者で次の結果となった。
舛添要一211・3万票
宇都宮健児98・3万票
細川護煕 95・6万票
田母神俊雄61・1万票
このように相対多数の得票で、自民・公明支持の舛添要一(元自民、前新党改革)が当選した。連合東京も舛添を支持し、反動労働貴族ぶりを露呈した。保守反動勢力のほっと胸をなでおろし、内心の動揺を隠す様がありありと目に浮かぶ。
一方、細川護煕(民主、生活など支持)を推した「脱原発知事の実現をめざす市民の会」の人々の、「本気で当選させる」という思いで活動してきたがゆえの、がっくり感もまたよく分かる。
また一方で、田母神(維新一部など支持)の一定の突出に、これに期待する一部反動・軍国主義勢力もまた、その策動を強めるであろうことが予想される。
そして、投票率わずか46・1%(前回より140万票も棄権が増加した)という状況の中で、再出馬の宇都宮健児(社民、共産、新左翼の多くなどが支持)が、前回より得票数を若干増やすという大健闘振りを示し、闘う労働者人民の力を示した。また細川候補も同様に百万票近く得票し、「反原発イシュー」と言われながらも健闘したのであった。

この度の都知事選の総括は、冷静かつ歴史的に分析されることによって、未来へ向けて闘いの橋頭堡を築くものとなるであろう。
首都東京は戦後六十数年来、大げさに言えば明治以来百三十年間、保守・反動の牙城であった。1945~50年、1960~70年のほんの一時期を除いて…。東京は、ロンドン、パリ、ベルリンのように労働運動・市民運動の歴史的な運動の中心になったことのない大都市で、権力の中枢地ではあるが、その歴史の後進性は「ムラ」と表現されるべきものである。
首都東京における政治(生活)状況は概観すれば、旧都東部六区(労働者、下層商人地区)、都心に政治中枢、西部・三多摩に新住民と農民という構成の中で、西部(「山の手」と称される)・三多摩が一定の市民社会で、東部が「下町」といわれて商人と下層労働者(関東、東北出身の元農民)が混在していた。こうした概容で、明治期から戦後も政治中枢直下の首都として保守・反動の牙城であったといえる。
その首都社会を変革しようとして、大正デモクラシー、昭和戦前の労働運動・民主主義運動・社会主義運動が闘われてきた。戦後1945~50年には、帝国主義戦争敗北・軍国主義崩壊の中で、民主的・社会主義的闘いが東京都下で大いに闘われたが、戦後革命には及ばなかった。
そして1960~70年においては、東京オリンピック景気の破綻の中で、労働者・市民の闘いが、社会・共産・総評・新左翼・全学連各派・市民運動の連携(および論争)をもって担われ、安保反対、自民党打倒を闘った。67年には、いわゆる美濃部革新都政が誕生した。(これは地方に波及し、北海道、神奈川、福岡における社会党系知事、京都、大阪における共産党系知事が生まれた。これら地方政治の変動はいずれも、労働者の闘いを軸に市民・商人・学生・宗教者などが共同して闘ってきたことの反映であった)。
この時期の闘いは、今一歩中央政府の政権奪取には及ばず、以降は嵐のような保守・反動の巻き返しの前に、後退に次ぐ後退を重ね、社会党・総評が解体されて、都民・労働者市民にとって苦難の三十数年を経過した。
しかし二十一世紀に入ると、新しい社会矛盾の高まり、グローバルな情報社会化などを背景に、世界的にも全国的にも「格差拡大反対」「我々は99%」などを掲げた、労働者人民の新しい広範な決起が始まった。首都東京においても、反原発の闘い、改憲・秘密法との闘い、非正規労働者の生きるための闘いなどの形で、都民の闘いが広範に再興しつつある。
こうしたことから、保守・反動の東京に、戦後「第三の波」(1945~50年、1960~70年の政治流動に続いて)が寄せつつあり、二十一世紀の階級攻防が開始されたと筆者は観るのである。
さて今都知事選で舛添候補は、「世界一の東京」、「史上最高のオリンピック」をかかげ、原発問題にかんしては「即廃止ではなく段階的縮小と代替エネルギー」、「推進ではない」、「ぼくも脱原発」などと述べ、自民党と一定距離をおき、改革派(我々が言う「第二極」政治)を偽装して都民への浸透を図った。中央政治での自公の反動・軍国主義・原発推進と一線を画そうとしたのである。
彼は、かって東大闘争に敵対し、社会改革・変革と反戦に敵対した前歴があり、09年には「自民党は終った」と言って脱党した保守的プラグマチストであり、彼に何の期待も持てないことは言うまでもない。その変わり身は自民党からも嫌われ、今回、自民投票・保守票は細川や田母神に分散したとみられる。
こうした意味では、保守の分裂は利用はできるが、当てにはできないものである。今回、細川支持での脱原発一本化を呼びかけた人々にも見られたように、敵の内部矛盾に依拠して、票の数合わせで闘うような方針は、歴史的にも破産しているというべきである。依拠すべきは、ただ労働者・市民の運動である。
しかし今回の脱原発の分裂は、あくまで選挙対応であり、しこりを残すな、再結合せよ、が都民の要求である。結局都知事選で、保守にも広がった脱原発を、さらに広げる条件が促進されたと言うことができる。原発廃止が国民多数派であることを明確に政府に突きつけ、政府を屈服させるまで、この闘いに敗北はない。
反原発・改憲阻止・沖縄連帯・生活防衛の闘いを、社民・共産・新左翼・市民・労働者の広範な共闘で押しすすめよう。セクト主義を止揚し、二十一世紀の闘いへ!
安倍反動政権打倒! 新しい社会をめざす広範な「第三極」、統一戦線を形成しよう! 非正規労働者の権利確立、社会的労働運動を前進させよう! 舛添都政と対決し、都民・労働者市民は団結して、首都東京で変革の嵐を巻き起こそう!
(首都圏委員Y)

 2・10東京地裁
  第5回・経産省前テント裁判
   パブリックフォーラムを国は尊重せよ!

 

  「脱原発といのちを守る裁判」第五回口頭言論が、二月十日、東京地裁で行われた。
 午後一時から地裁前で前段集会を持ち、傍聴抽選へ。今回も約二百名が集まり、半数が傍聴となった。裁判の報告集会は、四時から参院議員会館講堂で開催された。
 最初に「被告」にされている正清太一、渕上太郎の両氏が、法廷での発言内容を紹介。
 正清さんは、汚染水垂れ流し問題など、何一つ解決していないのに、政府・経産省・東電は何一つ責任を取っていない。そんな国が、正清・渕上を提訴するとはとんでもないことだ。それに脱原発テントに多くの人が泊まり込み、座り込んでいる。二人だけではない、と発言。
 渕上さんは次のように発言。この法廷での争点は、国有地の問題やその占有の問題ではない。国にしてからが、原発推進政策を維持するために極めて政治的だ。われわれの方も、長野で抗議のテントを張るという訳にはいかない。経産省前でなければならないのだ。政治問題に踏み込んで判断をしていただきたい、と。
 続いて弁護団の吉田哲也弁護士が、弁護側の論点を報告。
 経産省前テントは三張あるが、それぞれ使っている主体が違う。第二テント、第三テントは正清、渕上は関係ない。第一テントも、みんなと共同して使用している。尚、他のテントの使用申請も経産省に出したが、不当にも受け取りさえ拒否という態度だ。
 経産省前脱原発テントの検証を行い、監視カメラの画像を提出することを求めた。テントは誰もが自由に意見交換する場としてのパブリックフォーラムであり、それは国として尊重すべきであるはずだ。監視カメラの画像を見れば、誰が使っているかわかる、と。
 そして「原発いらない福島の女たち」の黒田節子さんが発言。
 都知事選で脱原発派がなんで一つになれなかったのでしょうか。でも問題はこれから。経験に学んで、強くなっていきましょうと述べ、福島の現状について語る。被ばく、放射性廃棄物、汚染水…18歳以下の子どもたちの甲状腺がんが去年58人から今年75人に、子どもたちの目の異常・膿胞、私たちは疲れている。専門家は数値・グラフの解析ばかりだ、被ばく対策を!と訴えた。そして「3・11原発いらない!地球(いのち)のつどい」への参加を呼びかけた。また百年前の足尾鉱毒事件の現場・谷中村跡に行って来たことを話す。当時の東大教授の「少しの銅なら体に良い」の言など、全てが今の福島と同じだった。百年前と日本は変わっていないのかと思った、と。
 「伊方原発50㎞圏内住民有志の会」の堀秀樹さんが発言。
 原発の再稼働を止めていきましょう。東京から八木さんが応援に来ていて、励ましになっている。ぜひ伊方に来て、ゲート前座り込みを共に、と訴えた。そして反原発の歌を熱唱した。
 テント裁判弁護団団長の河合弘之さんが発言。
 裁判は、裁判官が聞きたがっている「占有どうなっているの」という所に入っていると指摘しつつ、都知事選について保守の中核部分から脱原発が出てきたのは大きい。保守と手を携えて闘う第二段階のスタートになったと総括。裁判の方も頑張っていきたいと決意表明。
 最後に「たんぽぽ舎」の柳田真さんが発言。
 原発の再稼働阻止こそ、緊急で最大課題。日本の歴史の分かれ道だと訴え、今後の方針を提起した。
 報告集会は、「原発やめろ」「再稼働を阻止するぞ」「子どもたちを守ろう」「国は提訴を取り下げろ」などのシュプレヒコールで締めくくられた。二百名が参加し、熱気ある集会となった。(東京・M通信員)