「済州島4・3事件」65周年
  日韓民衆が追悼行事

 「済州島四・三事件」(注*)から六十五年目を迎えた四月二四日、東京・日暮里サニーホールにおいて「追悼の集い」が、済州島からの代表団を交えて開催され、会場から溢れかえるほどの参加者であった。主催は、済州島四・三事件を考える会・東京。
 オープニングは「追悼の舞」が演じられ、参加者全員による黙祷の後、済州4・3平和財団代表のキム・ヨンフン(金栄訓)さんから、日本の東京、大阪で65周年追悼集会が開催されたことへの感謝の挨拶が行なわれた。
 このあと記念講演が、東京大学大学院教授の高橋哲哉さんから、「危機の中の東アジア 現代日本の歴史認識を問う」との演題で行なわれた。
 高橋さんは、昨年対談収録のために済州島に渡った際、四・三平和記念館等を訪れ、島民虐殺の悲劇に触れることができたと語った上で、演題では、安倍政権による歴史を忘却し歴史認識を歪曲した発言・行動があり、その上での改憲策動であることへの警鐘を鳴らした。
 休憩後、合唱団ソレイユを中心とする「眠らざる南の島」をうたう会による、「朝露」などの混声合唱が行なわれた。最後には、済州島から来日した神房(シンバン)徐順実と済州クングッ保存会による民俗クッ「死者への祈り」が行なわれ、四・三事件による犠牲者八万名ともいわれる方々への追悼慰霊が行なわれた。
 いっぽう四月三日に行なわれた済州島での「四・三慰霊祭」には、済州島四・三事件を考える会・東京を中心とする首都圏の弔問団65名をはじめ、全国で100名近くが日本から参加した。
 慰霊祭には、当初参加を表明していたパク・クネ(朴・恵)大統領は参加せず、鄭国務院総理が代理出席し、被害者親族から批判の声があがった。しかし、パク・クネ大統領には、四月三日をチェジュ慰霊の日にするとの公約があり、その実現を迫られている。
 また日本からの弔問団は、慰霊祭参加のほか、韓国軍の海軍基地建設が強行的に進められているカンジョンを訪れ、建設阻止を闘う住民との交流を実現した。(Ku)
 (*済州島四・三事件とは、1948年4月3日、当時朝鮮半島南部に駐留していた米軍の力を背景として、李承晩が南側だけで単独選挙を強行することに反対し、南朝鮮労働党を中心として島民が蜂起し、全島を上げての大抗争となり、警察・右翼・青年団などによる虐殺が行なわれた事件。この虐殺は、蜂起した本人ばかりではなく、乳幼児や妊婦を含む家族にまで及び、捕虜として朝鮮半島に連行された人びとも、その後の朝鮮戦争の開始の中で大量に虐殺され、その犠牲者の実数は把握されないままであるが、推定八万人ともいわれている。この事件を契機として48年12月1日には現在も残る悪法、国家保安法が制定され、事件は南北分断の固定化と朝鮮戦争への導火線となった。)


「脱原発テント」といのちを守る闘いへ
  国家権力の撤去攻撃に反撃

 経産省前脱原発テントの強制撤去攻撃が、正面切って開始された。
 3月14日早朝東京地裁の執行官が、経産省の役人、制私服警官など約50名の案内・護衛付きで脱原発テントを訪れ、立ち退き民事訴訟の対象者を渕上太郎、正清太一の両名に特定する仮処分決定を張り出した。そして3月29日、民事訴訟そのものが提示された。合わせて、1100万円(一日2万円の計算)の損害賠償請求を出してきた。第一回口頭弁論は、5月23日(木)午前11時東京地裁526号法廷で行われる。
 経産省前脱原発テントは、2011年9月11日に建てられた。テントは、福島第一原発事故を起こした国と電力会社に対する怒りが、そして放射能汚染から子どもたちの命を守ろうとする思いが生み出したものであった。それは多くの人々に支えられ、雨の日も、台風の日も、雪の日も、猛暑の日も越えて、この5月2日で600日目となった。
 経産省前脱原発テントは、国策として原発建設を推進し、結局福島第一原発事故をもたらし、しかも放射能汚染の拡大をいまだに止めることができていない日本国家に対して、福島の人々をはじめとした民衆が、問題の隠ぺいを許さず抗議意思を表明し続けていることの象徴・現実的条件となっている。またそれは、安倍政権が「原子力ムラ」を復権させ、原発再稼働の本格化と原発輸出を促進し、民衆の声の圧殺に乗り出していることに対する、攻防の環にもなろうとしているのである。
 経産省前脱原発テントひろばに集う人々は、新たな局面の闘いを「脱原発テントといのちを守る闘い」と命名し、断固闘う意思を表明した。
 原発事故を引き起こした責任、人間と自然の生存を脅かし続けている責任を棚上げし、問題を空地の「所有権」問題にわい小化し、民衆の抗議の声を抑え込もうとするやり方は、認めるわけにはいかない。テントには「債務者」と特定できる人などそもそも存在しないにもかかわらず、裁判に持ち込む都合から勝手に「債務者」二名をでっち上げるという姑息なやり方は、認めるわけにはいかない、と。
 当面の日程は以下である。
 5月10日まで、「訴訟取り下げ」署名。
 5月10日、「訴訟取り下げ」を求める抗議集会・署名提出 経産省正門前。
 5月16日、「明け渡し請求訴訟」抗弁書提出。
 5月23日、「明け渡し請求訴訟」第一回公判。
 共に闘っていこう。(東京N通信員)
 

4・6青森
 「反核燃4・9全国集会」に1300人
  今こそ核燃サイクル撤退を

 未曾有の「フクシマ」原子力災害から2年、屈辱的な核燃料サイクル誘致決定から28年、これらへの煮えたぎる怒りを行動に現すために四月六日、青森市の「青い森公園」に全国から約1300名が集い、意思結集を図る「反核燃4・9全国集会」が開催された。まさしく全国集会と銘打つにふさわしく、北は北海道から、南は九州・宮崎から結集し、また海外ゲストとして台湾からも反原発活動家が参加し、熱烈なアピールがなされた。
 集会は午後二時から始まり、主催者である全国集会実行委員会の道田哲郎さんより、今こそ核燃サイクルからの撤退を求める本集会の意義のアピール、そして、いまだ放射能を垂れ流し、16万人もの避難者を出していることを忘れたかのように振舞う安倍自公政権と「原子力ムラ」への厳しい指弾とともに、「福島の事実と向き合い、事実の持つ力によって、青森を核のゴミ最終処分地にしないために闘おう」と力強い挨拶が行なわれた。
 ゲストの俳優・山本太郎さんからは、ドイツから帰ってきて間もない中での感想と決意がアピールされた。山本さんは、「核のゴミを処分する方法は、原発からの撤退を決めているドイツこそ進んだ技術をもって進めていると思っていたが、ただ地層処分のみで、モニターもしていなかった。」とドイツ当局を弾劾しつつ、「日本での地層処分は、活断層、および地下水のために、あり得ない方法だ」とドイツ放射線防護庁の幹部が主張していたことを紹介した。そして、「なにはともあれ原発をやめて、これ以上の核廃棄物を出さないこと、そのためには国会議事堂に処分場を!」と明解な決意を述べた。
 続いて、TPP交渉への政府の参加強行によって農業の先行きに不安を抱える農業者の発言としては、青森県農業者政治連盟の鳴海清彦委員長から、「原発の事故は農業の破壊をもたらした。我々は人体実験されているようなものだ」と政府・東電らの面々を痛烈に批判する連帯の挨拶がなされた。
 反原発弁護団の河合弘之団長からは、壇上に居並ぶ十名の、全国各地での原発廃炉訴訟を闘う弁護士を代表しての挨拶がなされた。河合弁護士は、「原発推進勢力が蠢いている。これらと闘い勝利するためには、反原発議員を獲得する政治闘争、このような集会とともに地域で闘う大衆的運動、そして裁判闘争、これらの三位一体となった取り組みが必要である。一日でも長く裁判闘争を闘い、原発の建設、再稼働を引き延ばしていきたい」と力強く挨拶した。
 台湾からは反原発活動家リ・ジュウヨウさんが、三月九日に台湾全域で闘われた反原発行動について、「台北10万人、全国で22万人が参加する反原発集会が催され、若者には反原発など無いという馬総統に対して、明確に反対の意思表示を行なった」と報告し、「フクシマ、青森と連帯して闘う」とアピールしてくれた。
 集会は共闘団体などの挨拶の後、青森市内へのデモ行進を貫徹した。デモは、全国の反原発の高まりに驚愕した権力によって、大阪、東京などで逮捕等弾圧が続いていることから、充分警戒を高めた中で最後まで果敢に闘われた。
 また、この全国集会の前段・後段で、各種の市民・労組の集会が持たれると共に、翌日には、労働組合の参加者によって六ヶ所再処理施設への抗議集会も行なわれた。こうして、28年目の「反核燃の日」は成功裏に終えることができた。(東北M通信員)


「主権回復の日」式典に沖縄・「本土」で抗議
    4・28沖縄大会に連帯し、「サンフランシスコ
    講和条約60+1年・式典糾弾!東京シンポ」


 四月二八日、対日講和条約が発効して六十一周年に当るこの日、安倍政権は「主権回復の日」式典なるものを強行した。
この日、沖縄では宜野湾市で、4・28「主権回復の日」式典に抗議する「屈辱の日」沖縄大会が開かれ、一万人以上が参加した。沖縄切り捨ての第二次琉球処分、この「屈辱の日」に平然と祝典を行なう日本政府への怒りが、現在における普天間基地県内移設の強硬策、オスプレイ強行配備への怒りと一体となり、構造的沖縄差別への沖縄民衆の怒りが燃え上がったのである。
東京でも、式典抗議の集会などが各所で行なわれた。「本土」民衆にとっては、対日講和条約第3条が沖縄、奄美などを米軍支配下に売り渡したことだけではなく、講和条約とセットで日米安保条約もこの日発効したこと、片面講和での「独立」が多くの懸案を生んだこと、が挙げられる。これらを考えると独立回復どころか、米国の占領下から統制下に日本を置き直し、戦後日本の基本コースを平和憲法から逸脱させた日であり、日本国民にとっても屈辱の日と言えるからだ。
東京での抗議行動の一つとして、夜の文京区民センターにおいては、「サンフランシスコ講和条約60+1年『主権回復の日』政府式典糾弾!4・28東京シンポジウム」が行なわれ、約200人が参加した。主催は、2013/4月東京・5月那覇シンポ実行委員会。
主催者挨拶の後、二木啓孝さん(元日刊ゲンダイ)をコーディネーターに、大田静男さん(八重山郷土史家)、安次富浩さん(名護ヘリ基地反対協)、武藤一羊さん(ピープルズプラン研究所)がパネル発言を行ない、また山城博治さん(沖縄平和運動センター、参院選比例予定候補)のビデオメッセージが上映された。
大田さんは、「尖閣」、自衛隊の与那国配備計画、教科書問題など「八重山の波涛」を報告し、「歴史的に見ても、日本政府が揺さぶり・分裂を仕掛けてくるのが先島」と述べ、八重山の人々への関心と連帯を訴えた。
安次富さんは、「沖縄の反基地・反沖縄差別運動の現状と展望」をレジュメ的に示しつつ、復帰闘争の今日的整理として、沖縄人が民族自決権を日本との統合として行使したものであり、現在は、その自決権の行使を、自決権をもった自治州の実現として構想すべきではないか、という注目すべき見解を表明した。
武藤さんは、六十一年前の4・28東大集会の回想から始めて、戦後日本国家の原理の一つである帝国継承原理が現在露出しているが、これは破綻せざるをえないと述べた。
討論後は、沖縄一坪反戦地主会関東ブロックから昼間の約400人の式典抗議集会・デモの報告、山シロ勝手連などから参院選のアピール、脱原発・経産省テントからテント防衛の支援アピール、日韓連帯運動による七月平和行進へのアピールなどが発言された。
集会は、政府式典に抗議するとともに、未来へ向けて日本・沖縄関係をどう変えるべきか、という課題を提起する意義ある集会であった。
なお、「東京シンポ」に連動し、「那覇シンポ」が五月十八日に開かれる(午後二時・自治会館)。(東京W通信員)